第3話 先輩との出会い




僕と先輩の出会いは今から一年半前のこと。


高校一年生の初夏のことだった。





「………………」



砂浜で拾ったガラス片を、漫然と輝いていた太陽に透かしていた。青翠色になった光が僕の顔にポツリポツリと降ってかかる。


"シーグラス"と呼ぶにはあまりにも刺々しいそのガラス片は、まるで僕を見ているようでなんだか放っておけなかったのだ。


春というにはあまりに暑く、明らかな夏の訪れを僕は感じていた。額に浮かんだ汗を袖で拭い、シーグラスをポケットの中に乱暴に押し込んだ。



高校一年生の初夏のころ、学校に馴染めずにいた僕は近辺にあった浜辺で海を眺めていた。


堤防の上に寝そべってただ日が暮れるまで海を眺める。生産性はないがそれでも、学校で教室から空を眺めるよりも堤防の上から海と空を眺める方が幾分かマシだった。



その日も僕は堤防の上で海を見下ろしていた。




「あなた、こんなところで何をしているの?」


「あ?」



堤防の上でうとうとと微睡んでいた僕は眠気を覚ます外部からの声に少し荒げた声で返した。


(うちの制服……)


綺麗な人だと思った。長く手入れの行き届いた黒髪ま、白磁のような柔肌もそうだが、それ以前にその洗練された佇まいが綺麗だと思った。



僕は彼女から目を離し、また海を眺め始めた。


「…見てわからないんすか?」


「そうね。見たらわかることだったわ。」


「……………」


嫌味のつもりで言ったのに、帰ってきた言葉は僕を馬鹿にしているようだった。癪に触る話し方だと思った。


放っておけばすぐに立ち去ると思っていたが、彼女はなかなかその場から動かず、ずっと僕の斜め後ろに立ち続けていた。



遂に痺れを切らした僕は彼女の方を向いた。やはりと言うべきか、彼女は僕を見ていた。


「さっきから一体何の用ですか?」


「あなたのその珍しい髪色が気になっただけよ。」


「……は?」


「それ地毛?」


「いや……んなわけないでしょ。」


「そう。」


「そうだよ。」


変な因縁をつけられるかと思っていたが、彼女が僕を見ていた理由は確かに僕にも納得できるものだった。


いや、それにしても見過ぎではないか?


「そんなに見られると不愉快なんすけど。」


「…それもそうね、ごめんなさい。」


「謝って欲しかったわけじゃなくて…いつまでここにいるつもりすか?」


「その言葉、そのまま返すわ。」


「は?」


「あなた、いつまでここにいるつもりなの?」


「……僕は学校には行きませんよ。」


「学校の話はしてないわよ?」


「は?」



俺は少しだけ戸惑った。


『いつまでここにいるつもりなの?』というのは早く学校に戻れということではないのか?彼女と殺伐とした見つめ合っていると、彼女はゆっくりと僕の元へ近づいてきて、そして僕の隣に座った。



海が見える浜辺の堤防の上、僕たちは腰掛けていた。


「おい。」


「ここ……私の良いサボり場なの、一年の頃から。だからいつここが空くのか聞いたのだけれど…あなたはどかないみたいね。」


「…なんで学校行かないんだよ。」


「その言葉も、そのまま返すわ。」


「…………」


「…………」


気に入らない女だった。横顔も黒髪も瞳も嫌いだった。それでも……。


「あんた、名前は?」



それでも僕は彼女の名前を聞いた。ただの気まぐれかもしれない。しかし、こうして僕が始めなければ、きっと二人の関係が進展することもなかったのだ。



「人に名前を聞くときはまず自ぶ」


「わかったよ!………僕は羽賀和季。あんたは?」


「……一年生なのね、敬語使いなさいよ。」


「やだよ。名前は?」


「……2年、春沢澄歌。18歳よ。」


「18歳?」


「私留年してんの。」


「………あっそ。」



僕は彼女のことを気にするのをやめ、堤防の上で寝転び空を見上げた。春澤澄歌は僕の隣で堤防に腰掛け、そのまま動かずに海を眺めていた。


きっとお互いに少なからず意識していた。当然だ。いつもは一人だけの空間に今日はもう一人いるのだから。



「ねぇ。」


先に口を開いたのは彼女の方だった。


「あ?何だよ。」


「大抵、人に足を向けて寝るのは良くないものよ。」


「それが?」


「失礼だと言っているの。」


「じゃあどっか行けよ、ここで最初に寝ていたのは僕だろ?」


「私は一年前からここにいたわ。ここは私の場所よ。」


「屁理屈だろそんなの。」


「そっちこそ、それに先輩は尊重するべきよ。」


「………面倒くさいな、わかったよ。」



苛立ち混じりの返事をしながら僕は堤防から腰を上げた。


正直意地になっていた部分があったのだが、先輩後輩の上下関係を話に持ち出されたらどうしようもない。


しかし僕が立つと同時に隣で海を眺め続けていた春澤がちらりとこちらを見た。



「どこへ行くのよ?」


「あ?僕がいると嫌なんだろ?」


「別に嫌な訳じゃないわ、指摘しただけよ。」


「は?なんだよそ…」


「それに今あなたがどこかへ行ってしまうと私が追い出したみたいで後味が悪いでしょ。」


「……………」


正直に言うと、面倒くさいやつだと思った。


質問にはすんなりと答えず、人の揚げ足ばかりとる。そのくせくだらないことを気にするやつだった。


何食わぬ顔で僕が踵を返すとまたもや彼女が少しだけ焦ったような声をかけてきた。


「ちょっと、どこへ行くの?」


「いやだから…」


「先輩命令よ。ここにいなさい。」


「…………」



抵抗するのも面倒くさいので僕は大人しく彼女の隣に腰掛けた。彼女はそれを一瞥し、何を言うでもなくそのまま海を見続けていた。


凪と呼ぶには少しだけ強い潮風は、僕たちの頰や脇を通り過ぎていった。



「ねぇ。」


「なんだよ。」


「ピアスって開けるとき痛いの?」


「そうでもねぇよ…少なくとも僕は痛くはなかった。」


「そうなのね。私に似合うかしら?」


「知らないよ。」


「そう………それにしても今日は暑いわね。もうすぐ夏が来るのかしらね。」


「かもな。」


「私、髪が長いでしょ?夏になったら切ろうと思うのだけど、どう思う?でも私長髪が気に入っているのよね。」


「そうか。」


「あなた生意気ね。」


「……………」



どうやら顔に似合わず彼女はおしゃべりな性格らしい。能面のように生き物らしい動きのない顔の割に執拗に僕に話しかけてきた。


かくいう僕も彼女の会話に乗るのが少しばかり面白くなく、わざと愛想のない態度で彼女に返していた。



「…そんなにおしゃべりがしたいなら学校に行けよ。」


「嫌よ、私友達いないもの。」


「だろうな。」


「あなたもでしょう?」


「…余計なお世話だよ。」


「引き止めた手前、話題を振らないのもどうかと思って話しかけてあげてるのよ。ちゃんと喋って。」


「別に頼んでないだろ。」


「む」


無表情だった彼女の眉間にゆっくりと皺が寄って行ったのが僕でもわかった。彼女は先ほど僕がしたように立ち上がると踵を返した。


「私気分を害したわ。帰る。」


「は?学校行けよ。」


「行かないわよ。」



怒気混じりの声を僕に言い放ち、彼女はカバンを肩に下げ、堤防から降りようとした。



「きゃっ!」


「え」



しかし、やはり正気ではなかったであろう彼女は堤防から降りる直前足を踏み外してしまった。


僕は咄嗟に動き、彼女の腰を抱えた。


「「……っ…………」」




視界の端で彼女の美しい黒髪が揺れた。


僕と彼女の視線が交差した。




「ち、近いわ。」


「おい、大丈夫かよ。」


「…ごめんなさい。助かりました。」


「いいけど。それより怪我は?」


「ないわ、あなたは?」


「…大丈夫だ。」


「嘘よ、腕を擦りむいているわ。」



彼女に指摘されて初めて僕は右肘を怪我していることに気づいた。しかしこの程度の傷どうってことはないだろう。


「いいよ、これぐらい。唾つけとけば治るだろ。」


「だ、だめよ!ちょっと待ってて。」


「?」


「腕、出して。」


春澤澄歌がカバンから取り出したのは絆創膏だった。僕が腕を差し出すと彼女が丁寧に傷の具合を見始めた。


「ごめんなさいね、怪我までさせてしまって。」


「だからいいって。」


そうは言ったものの、彼女はその長い黒髪を垂れ下げ俯いたままだった。ロボットのような彼女が初めて見せた明確な感情だった。


彼女は少しだけ寂しそうだった。


「その…間をもたせようとしたのだけれど逆効果だったみたいね。あなたをイラつかせてしまったわ。」


「いや、僕だって悪かったよ。」


「…いつもそうなの。私はどこか人と違うらしくて、いつも人を怒らせてしまうのよ。だから友達がいないの。」


「それは…」



春澤澄歌は不思議な人だった。


その凛とした雰囲気にはそぐわず、子供っぽいところがあった。自分の情報を相手に伝えるのが好きで、相手からの返答がないと不安になってしまうような人だった。


僕とは違う。それでもおそらく似ている部分があった。


そう、僕と彼女は似ていたのだ。



春澤澄歌は不思議な人だった。



ツーと、彼女の首筋に汗が流れた。白くて滑らかな肌をすべり落ち、そして彼女の制服の中に滲み入っていく。


「…そんなにジロジロ見ないで、少し恥ずかしいわ。」


「え、ああ…悪い。」


「別にかまわないわよ。それよりやっぱりちょっと暑いわね。ねぇ、海へ行かない?」


「なんだよ、随分とフレンドリーだな。」


「すこぶる機嫌がいいのよ私。見て分からない?」


「残念ながら全く分からないよ。あんたは表情が変わらないから。」


「それは残念ね。こっちよ、ついてきて。」


「…………」


「ダメかしら?」


「いや…行くよ。」



こんなことは初めてだった。もっと話してみたいと思える人に出会ったのは初めてだったんだ。







二人で眺めていた海は思っていたよりも冷たくはなかった。足をまくり、海の中を歩く。



「和季。」


「え」


「和季はよく浜まで来るの?」


いきなり名前で、しかも呼び捨てで呼んできた彼女に僕は少しだけ動揺した。


「…たまに来るよ、今日も来た。」 


「そう。」


「僕が行ってたところはここほど綺麗じゃないけどな。」


「じゃあ今度からはここに来ていいわよ、特別よ。」


「……ありがとな。」


お前の場所でもないけどなというのは言わないでおいた。また機嫌を損ねるといけないし、突っ込むのも野暮だと思ったからだ。


「あら。」


何気なく彼女の姿を目で追っていると、彼女が何かを見つけたのか素っ頓狂な声を上げた。


「見て和季、"シーグラス"。」


彼女が青翠色の歪な丸いガラスを摘んで掲げた。太陽に透かし、ポツポツと光をうつしている。


「好きなのか?」


「ええ、素敵じゃない。」


「…綺麗じゃないけどやるよ。」

 

僕はしばらく考えたのち、ポケットに仕舞い込んだ"シーグラス"を彼女に渡した。渡すことに躊躇してしまったのは、僕の拾ったそれが"シーグラス"と呼ぶにはあまりにも刺々しいものだったからだ。


「大切にしなきゃね。」


彼女はそれを握ると平坦な声で告げた。なんだか申し訳ないなと思った。どんなものでも貰った手前彼女はそう言うだろう。気を遣わせてしまったと思ったのだ。


「いいよ、気を遣わなくて。気に入らないなら捨てればいい。」


「だから大切にするのよ。」


「……好きにしろよ。」


「大切にするわ。」


「……………」


彼女はそう言って僕のあげた"シーグラス"をころころと掌で回した。僕は照れ臭くなり、頰を掻いた。


「不思議ね、私あなたとなら喋れる。普通じゃないかもしれないけれど、いつもならもっと酷いのよ、私。」


「え?」


そう言われてみれば僕も、決して会話とは言えないようなものでもこんなに長く人と話したのは久しぶりだった。




「なんでかしらね。」




それから、日が沈むのを見たのち僕たちはそれぞれの帰路についた。彼女はさよならもまたねも言わなかった。


それがどうということはない。ただそれが彼女らしいのかもなと初対面ながらに感じた。



「……………」



雲一つない初夏の星空。街灯の少ない海街であるここでは星がよく見えた。


僕のポケットにはもう"シーグラス"はなく、僕の脳裏には春澤澄歌がいた。







初夏の校舎は真っ白で僕の緑色の髪がよく映えた。きっと遠くからでも僕という存在はすぐにわかるのだろう。


だから僕の近くに他者がいることはない。皆遠くから僕を見つけたときには踵を返すからだ。


しかし一つだけ、否応なしに皆が僕に近づく時がある。それが授業だ。皆が僕をいないものとして扱うなかで、僕は自席にポツンと座っていた。



僕は空気だった。緑色の頭をした空気。



最初は刃物だった。何かを傷つける恐れがある凶器。しかし、害を与えなければなにもしないことがわかると爆弾になった。やがて、害を与えないことが当たり前になると僕は正真正銘の空気になったのだ。


「……………」


つまらない授業から目を背けるために、僕は今日も教室の窓から景色を見る。多分そのうち眠る。



『なんでかしらね。』



しかし今日の僕は春澤澄歌のことを考えていた。まだ好きというわけではなかったと思う。ただ、昨日の彼女の横顔がどうしても忘れられないだけなのだ。


だからだろうか?彼女が教室の窓から見える景色に現れたとき、僕はとうとう幻覚を見てしまうようにまでなったのかとひどく動揺した。


しかし、それは本物の春澤澄歌だった。真っ黒な髪をたなびかせ校庭を渡る彼女の顔はひどく青白いように見える。


「……………」



「なぁ、あれって。」


「ああ、例の先輩だろ?」


「美人なのに怖いよな、いきなり教室で暴れ出すなんてな。」



「………………」


いつもは聞こえないはずのクラスメイトの会話を聞きながら、僕はつまらない授業から逃げ出すために目を閉じた。

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