出会い③

 ミサリィが差し出してきた普通預金通帳の名義には[ウキセ ミサリ]と印字されていた。


「何これ?」

「当面の制作費用です。先生は現在バイトをしてらっしゃるじゃないですか。その時間の一部を小説の執筆に充てていただきたいなと思いまして」


 通帳を開いて、口座履歴の最後の行に印字されていた桁数を数えると、1の後ろに0が六つも付いていた。


「……百万円? 嘘だろ……受け取れないよ!」

「ミサリィ大賞の賞金です。あっ、作品が完成した際には追加でもう百万円をご用意しておりますので」


 さらに差し出された通帳の方は、あまりにも恐ろしくて開けなかった。


「君、ひょっとして大富豪の家の娘さんなの?」

「奨学金を使わないで取っておいたら貯まってしまって。使い道もなかったので、先生に有効活用していただきたいんです。贈与というよりは投資のイメージで考えてもらえれば」


「いやいやいや、重すぎる。ごめん、その期待には応えられないわ!」

「作品完成の期限は設けません。五年後でも、十年後でも。先生が書けるときに書いていただくだけで結構ですので」


 殺し屋と対峙したときのように全身が硬直して、心臓だけがフル稼働していた。いや、殺し屋なんて、見たこともないんだけど。


「ミサリィさんに作品を認めてくれたことは嬉しかったよ。だけどもう、僕には小説が書けないんだ……」


 本音を明かそうとしたのが伝わったのか、僕が想いを言葉にしようと考えを巡らせている間、ミサリィは話を遮ろうとしなかった。憐憫の水滴で潤いつつあったその瞳は、僕の胸の中心に空いていた穴を見つめていた。


「長編小説を書くのは辛いんだ。書いても書いても終わる気がしないし、書けば書くほど設定やプロットの破綻が見つかって考え直し。そんなことを繰り返していくうちに、小説を書くこと自体にウンザリしていったんだ。『こんな先の見えない作業に、人生の大部分の時間を費やしていいのか?』って」


 僕は今までに、小説を一作しか完結させたことがなかった。それ以外の小説群は、連載中という表記のまま、全て未完のまま放置させていた。

 もちろんどの作品に対しても、完結させるために最大限の努力はした。でも僕には、小説の構想を大長編化する癖があって、プロットを作れば必ずと言っていいほど文庫本八冊以上、アニメ化するなら二クールは必要なボリュームになってしまうのだ。


 そんな大作の創作経験も、完結させる技量も無いのに、意識の高さだけはプロ顔負け。地に足の着いた考え方が出来ないから、いつまで経っても小説が完結しない。それは創作活動だけでなく、僕の人生全般に言えることでもあった。


「大学生の君には、まだまだ未来がある。でも僕には、もう時間が残されてないんだよ。三十代でフリーターなんて痛すぎるだろ? そうならないように、まともな職に就こうと思ったんだ」


「再就職後に小説を書くことは、お考えではないんですか?」


「たぶん……書けないと思う。もう第一稿を書く気も湧いてこないし、改稿もしたくない、設定もプロットも考えたくない。そういう気持ちに支配されていることに気付いたから、『限界だな』って悟ったんだ」


 小説家にとって本当の地獄は、自分で自分の作品を肯定できなくなったときに訪れる。

 続きを書くのが辛い。新鮮味が感じられなくて飽きてきた。この作品は何が面白いんだ。こんなものを書きたいんじゃない、僕はもっと素晴らしい世界を描けたはずなのに。いや、僕には元々、才能なんて無かったんだ。


 そんな苦悩や不安や恐怖の大群と戦いながら、とりあえずは生きていけるだけの貧困生活を続けることに、僕はもうウンザリしていた。


「せっかく好きになってくれた小説を、未完のまま放り投げてしまったことに対しては、本当に申し訳ないと思ってる。気持ちは嬉しいし、ありがたいんだけどさ。こればっかりはどうしようもないんだ。なんだったら、作品の著作権を君に譲渡するよ。アカウントもミサリィさんに引き継ぐから……」


 何を思ったのかミサリィが席を立ち、テーブルをクルリと回ってきて、僕の右隣に座った。

 そして僕の隣で、僕と同じように俯いた。


「こんなに思い詰めるまで放っておいてすみませんでした。本当はもっと前から、先生がスランプに嵌まっていたのではと気付いてたんです。一年ほど前から急激に更新ペースが落ちましたよね? その段階でご相談に乗っていれば良かった……」


 そうだったっけ? 入ったトンネルが長すぎて、いつ中に入ったのかさえ思い出せない。その暗闇には誘導灯も無ければ、対向車も現れなかったから。


「一人で創作することの辛さは……その一部は、私にもわかっているつもりです。私も、先生の作品に影響されて創作を始めた一人ですから。でも、結局は自分が納得できる作品を完成させることが出来ませんでした。十万文字にも満たない作品なのに……」


 テーブルの下で震えていた僕の右手に、細長い指をした左手が覆い被さってきた。その指は、人の指とは思えないほどに冷たかったが、僕の全身を温めてしまうほどの熱を帯びていた。


「先生の小説は、スケールがとっても大きいんです。ワクワクするギミックを緻密に練り込んだ世界観、人生の岐路に立たされた人間たちの葛藤を描いた熱いドラマ、各所に張り巡らされた謎と緊迫感を煽るストーリー展開。もしもアニメ化するなら、きっと何クールも必要でしょうね」


 このままだと恥ずかしさと甘ったるさで死ぬ。僕はミサリィに褒め殺される。


「情報量が多くて初見の読者さんにはとっつき辛いかもしれませんが、読めば読むほどに濃密な世界が構築されていて、完成度が高いんです。その分、執筆には苦労されているだろうなと思っていました……」


 僕は命からがら魔の指から逃れて、ビールのジョッキを握った。

 そして、今までに味わってきたありとあらゆる人生の苦みを思い出すために、その黄色い液体を呑み干した。

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