セカイレール

湊雲

最期の君は、とても晴れやかに笑ってた




「――ときどき、思うんだ。おれの代わりに生きてくれる〝おれ〟がいたら、おかあさんとおとうさんも、悲しまずにいられるのかなあ、って」

「なに言ってるんだよ。君の代わりなんて、いるわけないだろ」

「……そう、だよなあ。おれは一人しかいないから、だからがんばらなきゃいけないんだよな」

「――がんばるのは、苦しい?」

「そんな顔しないでくれよ。ただ……、うん。お前にはわからないだろうけど、やめたくなるくらい、苦しいよ」

「……ぼくは、君とはちがうから――」

「うん。それでいいよ。……なあ。友だちになってくれて、ありがとな」




 自分がいなくても、セカイは変わらず廻り続ける。


 大人になった僕は、それを寂しいと思う余裕さえなくて、ただ忙しい毎日に翻弄されるのだ。

 だけどこうして一人で海を眺めていると、知らないうちに押し殺していた感情が込み上げてくることがあった。蓄積された見えない傷は、一つひとつが浅く、でも確実に人の心に変化をもたらすものだ。


 疲れ果てて限界を感じたとき、僕は目を閉じて規則的な波の音に耳を傾ける。

 夕暮れ時は人が少なく、それに誰かが居ても同じ境遇の人間ばかりだから、互いに干渉することはない。つまり、この場所は安全地帯というわけだ。

 今日の砂浜に僕以外の人はいない。やさしい海を独占できるのだから、普段なら滅多に上がらない口角を上げてみせるところだが、今回は違った。この状況はまずいよなあと、苦笑が漏れたのも仕方ないだろう。



 だって僕は、これから目の前の美しく深いへきに、頭まで浸かろうとしているのだから。



 別に自殺願望があって来たわけではなかった。それでも、もういいかなと思ってしまったのは事実だし、その衝動に抗う理由を持ち合わせてもいなかった。


「お兄さん。それ以上進むと、帰ってこられなくなるよ」

「……っ!」


 耳もとで幼い男の子の声が聞こえた。

 冷えきった体が硬直する。振り向くと、想像よりもはるかに遠くに砂浜が見えた。穏やかな波の表面は顎の辺りまで迫ってきていて、一気に現実に引き戻される。

 冷静になった頭で考えたら、駄目だった。


 死にたくない。怖い。――苦しい!!


 バシャバシャと水しぶきを立てながらもがく僕を、海は嘲笑っているようだ。気力と体力が、どんどん奪われていくのが分かる。


(落ちつけ、暴れたって状況はもっと、)


 ……だいじょうぶ。目を開けて、ゆっくり上がっておいで。


 二度目の声は、心地よく僕の鼓膜を震わせた。柔らかな優しさをまとうそれが、今度は頼もしく感じる。

 瞼を上げた瞬間、海水が目に入ってきたが、それだけだった。痛みはさほど気にならない。

 もともと水泳は得意な方だったため、すぐに波打ち際まで戻ることができた。

 重くなったTシャツを脱いで絞りながら、声を張り上げる。


「いるんだろう。君が誰なのか、教えてくれてもいいんじゃないか」

「だめだよ。お兄さんが思い出したら、こうやって話すこともできないのにさ」


 現れた少年の身体は透けていた。


 ちいさい患者用のパジャマに着せられている彼は、僕を見て「仕方がない子どもだなあ」とでも言いたげに口元を歪め、困ったような笑顔を崩さない。

 生まれて初めて幽霊をみたというのに、僕は自分が陥った、なんとも不思議な感覚に戸惑っていた。

 そう、それはまるで久しい友だちと数年ぶりに再会したような。


「なんで死のうと思ったの?」


 子どもはいつだって直球だ。

 向けられた非難の目に小さく肩をすくめ、Tシャツを肩に掛けて腰を下ろす。


「なんでかな。たぶんさ、どうでもよくなっちゃったんだ。社会に出ると余計、ふとしたときに痛感するんだよ。僕の代わりはいくらでもいる。……いなくなってもセカイは変わらない。だったら、生きてても――」

「お前、それも忘れちゃったのか」


 冷ややかな声が僕に向けて発せられたのだと、理解するのに数秒かかった。


 忘れたって、何を。君のことじゃなく、他にも……?


 何か喋らなくては、と衝動的に立ち上がる。

 しかし言葉は出てこない。ここまで他人を怒らせたのは、皆が皆バカ正直にぶつかり合っていた、あの青い春以来だろう。

 僕が呆然と立ち尽くす様子に気づいたのか、少年は決まり悪そうに頬を掻いて、いくらか落ちついた口調で語りかけてきた。


「……そりゃあ、この広いセカイを変えられるのは、ほんの一握りの人間さ。でもおれたちは、ちっぽけな存在だから。ちっぽけなセカイなら、きっと変えられるんだよ」

「ちっぽけな、セカイ……」


 僕の呟きを拾った少年が、「そう!」と力強く頷いて微笑んだ。


「ひとつ教えてあげるなら、お兄さんのご両親。三十一年前の冬だっけか。元気に生まれてきてくれてありがとう、嬉しいな、今日は最高の日だなーって。思っただろうね。それってさあ、」


 ――その人たちのセカイを、確かに変えたってことだろ。


 そう囁き、僕の目を覗き込む少年。


(そのやさしいまなざしを、僕は知ってる)


 でも思い出したら、目の前の幽霊が消えてしまうから。この子が他人であるうちに、本音をぜんぶ吐露するべきだと思った。


「君の言いたいことはわかるよ。けど、結局は推量でしかないんだ。人の気持ちなんてわからないんだから。そんな曖昧なものは、僕はいらない」

「ふうん。じゃあお兄さんも曖昧だな。自分がいなくても代わりがいる……かもしれない、なんだから。ね?」


 ――やられた。


「ははっ、……うん。矛盾してるね」


 今まで考えていたことが、急に馬鹿らしくなってくる。自然とこぼれた笑みと共に涙もあふれてきたが、少年は気づかないふりをしてくれた。


 水平線を見つめる横顔に、僕は覚えがある。

 祖母が勤めていた病院で出会った、一人の友だち。

 体が弱く、外出許可が下りるのは稀だというのに、見舞いに来た僕と一緒によく海へ出かけていた。眺めるのがすきなんだ、と話す彼の家族は入院費のために多忙だったから、当然だ。だからと割りきって、さみしい本心を隠したがる、強いやつだった。

 あの頃の僕は、どれだけ力になれただろうか。


「そろそろお別れだ」


 少年は言った。


「お前が変えたセカイを、もうひとつ教えようか。自分の代わりがいるなら、そいつが死ねばいいのに、って……どうしようもない現実に絶望していた少年のお話だ」

「……もう知ってるよ。君なんだろう。僕の、大切な……、友だちだよ」


 誤魔化しようがないほどの涙を何度も拭いながら、僕はみっともなく声を引きつらせて座り込む。

 もっと伝えたいこともあったけれど。顔を俯かせたまま、なんとかこぼしたのは「ありがとう……」という一言だけ。

 ちゃんと届いただろうか。届いていたら、いいなと思う。



 ゆらゆらと滲む視界の端で、消えゆく彼がかすかに笑った気がした。

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セカイレール 湊雲 @moln

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