第35話 覚悟と名捨て(3)

アリーサが、顔を青くしてじっとこちらを見ている。

私はそれに構わず、深く深呼吸をしてペンを握り直した。

一体、どれほどこの行為を繰り返しているだろうか?自分でももうわからない。

ペンにインクをつけては、手の震えを抑えようとするうちにインクが垂れ、またつけ直す。それを、幾度となく繰り返しているのだ。

けれど、これで最後。今夜中に書かなければならないのだから。

覚悟を決め、私は用紙にペンを近付ける。

カタン。窓がひとつ鳴って、冷たい夜風が隙間から入り込んで来た。ゆらりと蝋燭の火が揺れる。

「――あぁ。駄目だ」

張っていた気がぷつりと切れ、私はペンを手放した。

「……ディウラート様」

涙の跡が残る顔で、アリーサは酷く心配そうに私の名を呼んだ。私は、どんな顔をして答えていいかわからず、そっぽを向く。

「名を捨てるのは生きるためだ。そう心配しなくていい。マリーは私の女神だと、そう言ったのはアリーサではないか。私はマリーを信じている。彼女の元に居たいんだ」

心からの、言葉。願い。

何を望んでも、何を思い描いても、生きるためにはその全てをひた隠さなければならなかった。でなければ、大切なものを失ってしまうから。

今までそうして強く押し殺して来た私の心を、マリーはいとも簡単に解放してくれた。

願いを。想いを。彼女のお陰で口にできるようになった。

「ええ、ええ。存じておりますとも。このままいつ殺されるともわからないこの離宮に居続けるより、余程良いでしょう。けれど、それが救いであるにしろ……ディウラート様が名を捨てなければならない事実が悲しいのです」

そう言うと、アリーサはまたしても静かに涙を流し始めた。マリーからの提案を話してから、アリーサはずっとそうして泣いている。

――私とて、不安でない訳ではない。名捨ては、死を越える苦しみを伴うのだから。

それでも名を捨てると決意したのは、マリーの側で、彼女のために生きたいと思ったからだ。

私は生まれてからずっと、この命を、魔力を、王弟一家に捧げてきた。

どうせ同じものを捧げるのなら、私に苦しみしか与えなかった憎い王弟一家ではなく、私に沢山のものを教え与えてくれた、唯一無二の愛しい人に捧げたい。

マリーになら、命を握られていても構わない。

「マリーは、私を助けたいのだと言ってくれた。アリーサの事も、どうにかして助け出すと約束してくれたんだ。何も怖れる事はない」

さめざめと泣きながら、アリーサは何度も頷いた。

「ディウラート様が少しでも救われるのであれば、わたくしはそれで良いのです」

わたしを抱き締めるアリーサの手は、ひどく震えていた。そっとその手を握る。

きっと大丈夫だ。上手くいく。

これからはマリーの元で生きて行くのだ。

私はアリーサの見守る中、ゆっくり、ゆっくりと、名を書いていった。


ディウラート・ヴィデーン


書き終われば、もうこの世界に存在しないも同然となる人物の名。

誰からも認識されなくなり、ただ一人、マリーのために生きる命となる者の名だ。

「……あぁ、神よ。ディウラート様をお守り下さい」

細い声が、天へ祈りを捧げている。

ペンが、最後の文字を書き終わり、紙から離れる。

いつの間にか止めていた息を吸い込み、私は身を固くして紙をじっと見詰める。

すると、じわりと吸い込まれるようにして、名前が消えた。まるでもともと何も書かれていなかったかのように、白紙に戻る。

「名が……」

私は、思わずそうこぼした。

己の名が消える瞬間を、こうもはっきりと目撃するとは思っていなかったのだ。

呆然とする中、突然紙が金色の光に包まれて宙に浮かび上がった。はっとする間もなく、紙は光の粒を撒き散らしながら、跡形もなく消え去っていった。

「何だ?」

状況が理解できないまま、私は自分の身体を見下ろした。

名を捨てた。

けれど、これといって変化が見られない。

「そう言えばマリーは、迎えを寄越すと言っていたか?ということは、しばらくはマリー以外にも認識されるということだろうか?」

「まだわたくしの目にも、しかとディウラート様が映っております。すぐに名捨て人になるという訳ではないのですね……」

ほっとした様子のアリーサに頷いて、私も身体の力を抜いた。

寝台へ倒れ込むと、アリーサが心配そうな顔で私の枕元に腰かけた。

「今夜はお側に居させて下さいね。夜が明ければ、ディウラート様のお姿を見ることが出来なくなっているかもしれない……今のうちに、目に焼き付けておきたいのですよ」

「……わかった。好きにするといい」

もう夜更けだ。

そしてこれが、『ディウラート・ヴィデーン』の最期の夜かもしれない。

突然この身を襲うかもしれない名捨ての変化に少しの恐怖を感じながら、夜を過ごす。

それでも一点の光が射したように、少しの希望と少しの穏やかさが、私の心を包んでいた。


翌朝、少しうとうととし始めた頃には、夜は明けきってしまっていた。

一睡もできやしなかったけれど、それでも名捨ての変化が訪れていないことに、胸を撫で下ろす。

「もしや、名捨ては失敗してしまったのだろうか?」

ふと、不安になってくる。

マリーは、昨晩中に名を捨てて欲しいと言った。今は話せないが、大切な理由があるのだと。もし失敗しているのだとしたら、もう間に合うはずがない。

急に不安になってきた私に、アリーサが顔色を変えて駆け寄ってきた。

「ディウラート様、大変です!馬車が、離宮の外に馬車が……!」

あまりの慌てように面食らった私だが、すぐに思い当たる節を見つけて気を取り直す。

「そう慌てるな。マリーは、迎えを寄越すと言っていたんだ」

「ち、違うのです!お、お、王家の家紋の入った馬車が、騎士団を連れて離宮の前に!」

「何!?」

私は鉄格子に飛び付いて外を見た。

咄嗟に鉄に触れてしまい火傷を負うが、気にしてはいられない。

何故なら、本当に王家の家紋入りの馬車が離宮の外に止まっているからだ。

いや、それだけではない。騎士たちが、離宮の中に押し入ってくる所だったのだ。

離宮には出入り口は一つのみ。全ての窓に鉄格子のあるこの離宮内では、もう逃げも隠れも出来ないのだ。

「何故こんな所に騎士が?アリーサ、結界を張って立て籠る!」

私はある可能性に気が付き、頭を抱えたくなった。

マリーからは失敗に終わったと聞いているセルバー襲撃事件だが、それでもやはり、王家の者の命を狙うことは重罪だ。そして、私はその重罪を犯した者と同じ一族なのだった。

「早く気付けていれば……」

事件に関わっていなくとも、一族全員が重罪人として扱われる。私も例外ではないということに、今始めて気が付いたのだ。

アリーサが寝台の陰に隠れたのを確認し、私は扉の前に立った。私とアリーサを囲う大きさの結界を張る。

「ディウラート様、一体何が起こっているのでしょう?」

使用人たちの騒ぎ声と、大人数が押し寄せる物音に怯えながら、アリーサが声を絞り出す。

私は首を振って扉を見据えた。

「私にもはっきりとはわからない。ただ、危険な状況に陥ったことは確かだろう」

どんどんと足音が近付いて来る。扉にもなにか魔法をかけて強化した方が良いだろうか?

そう思案している間にも、幾つかの足音が扉の前まで来てしまった。

まずい。そう思った時には、恰幅のいい騎士たちによって扉が蹴破られていた。

名を捨てさえすれば、マリーの元で穏やかに過ごせるのだと信じていた。

けれど、現実はそう甘くないようだ。

「それ以上近付くな!近付けば攻撃する」

私が杖を構えて怒鳴ると、騎士たちは鋭くこちらを睨み、剣を構えた。

しかし、彼らははっとしたように私を見やると、何故かすぐに剣を下ろし何やら言葉を交わした。数人のうち一人が何処かへ走ると、残りはその場に跪く。

「何だ……」

困惑しながらも隙無く杖を構える。何が起きているのだろう?

すると、見るからに騎士ではない男が一人、部屋へ入って来た。先程の騎士が呼んできたのだろう。

男は杖を床に置くと、他がそうしているように跪き、そっと何かを差し出した。

「私は、リュークと申す者です。ある方の命により、お迎えにあがりました」

リュークという名に、私は聞き覚えがあった。マリーが昨日話していた名だ。

私は逡巡して、おそるおそる問いかけた。

「……それは、マリーか?」

その問いに、リュークと名乗った男は頷いた。

「お手紙を預かっております」

私は杖を振って手紙だけをこちらに引き寄せると、手紙を開いた。

そこには紛れもなくマリーの筆跡で、短い文章が綴られていた。



親愛なるディウラートへ


リュークは、わたしが信頼を置く人物よ

彼に従ってある場所まで来て欲しいの

そうすれば、またすぐに会えるわ

大丈夫よ、わたしを信じてディウラート


マリー



王家の馬車があるということは、目の前に居るのは恐らく王城の近衛騎士たちだ。リュークもまた、王家に仕える何者かだろう。

それが何故、マリーの手紙を持っているのだろうか?マリーは下流貴族の令嬢のはずだ。

さまざまな疑問が渦巻く中、それでも決意をする。マリーの言葉を信じてみようと。

どうせ名を捨てた身だ。もう何も怖くはない。

「私共と、来ていただけますか?」

リュークの言葉に、私は一度アリーサを振り返った。

アリーサは、両手をきつく握り合わせ、ゆっくりとひとつ頷いた。

「わかった」

私は結界を解き、リュークに向かって一歩踏み出した。もう、後戻りは出来ないだろう。

震える脚でリュークの側まで来ると、部屋を出るよう促される。

「あちらの方の保護もお願いします。王子殿下の側仕えであると、姫様から伺っていますから」

部屋を出る前、リュークがアリーサを示しながら、騎士の一人にそう言った。

私は首を傾げる。何か聞き間違えをしたようだ。今この国に王子は居ない。

「さあ、こちらです」

私は、大勢の騎士たちに囲まれながらリュークと共に離宮を出た。これでは、まるで護送される囚人だ。

まさか騙されたのだろうかという考えが過り、かぶりを振る。マリーがそんな事をするはずがなかった。

「どこへ向かうのです?」

杖を強く握りつつ馬車へと乗り込んだ私は、リュークにそう問いかけた。マリーは信じるが、このリュークという男を信じている訳ではない。

「王城にございます。そこであの方もお待ちです」

「マリーが王城に……?」

いよいよ訳がわからない。

「王子殿下の身の安全のため、騎士たちがこの馬車を護衛致します」

リュークの言葉に、まただ、と私は思う。また、『王子』という名が出てきた。

訝しんでいる間にも馬車は走り出し、私は杖を構え直す。密室の中ここまで至近距離だと、攻撃された時には反撃するのは難しいだろうか?

そんな取り留めもないことを考えながら、離宮からどんどんと離れていく様子を車窓から見る。

そしてふと、悪寒が全身を襲った。

腕輪の存在を忘れていた。名を捨てたら意味をなさなくなるとマリーは言っていたが、もしそうでなかったら?

ふるりと身震いをする。もうすぐ、あの痛みに襲われる距離まで来る。

ぎゅっ、と目を瞑って痛みに身構えていたが、何も起こらない。

「どうかなさいましたか?」

リュークに声をかけられ、私は顔を上げた。それと同時に、パンッと音が鳴る。

腕輪が砕け落ちていた。

これまで、あれだけ私を苦しめ縛り付けていたあの手枷が、いとも簡単に壊れて消え去った。

「あぁ……本当に、ディウラート・ヴィデーンはもう居ないのだな……」

早鐘を打つ胸を押さえて腕輪の残骸を見る。

これは、私が『ディウラート・ヴィデーン』でなくなった証拠だろう。

喜ばしい事であるはずなのに、私の心はどうしてかどこまでも空虚だった。

そしてはっと気が付き、私は自嘲ぎみに笑う。

いつかの占いに出ていた困難と決別とは、こういう意味かと――。

けれど、まだ不安な事だらけだ。マリーに会えていない上、王城へ向かうという、予想外の事態になっている。

まず、状況を把握しなくては。

「何故、名捨て人である私が王城へ向かう事になっているのか、マリーと王家は何の関係があるのか、教えて下さいませんか?そして何より、貴方が口にしている『王子』とは、一体誰の事なのか」

私の問いに、リュークが目を伏せる。

「全てをお答えする事はできませんが……」

そう前置きをして、リュークは語り出した。

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