第34話 覚悟と名捨て(2)
そして、今に至る。
ふぅ、と白い息を吐き出し、わたしは開けてきた景色を前に息を整えた。
こんなに寒いというのに、雪の間から覗く小川は凍りついていない。
そして、小川から向こう。あの大樹のある待ち合わせ場所は、霧に覆われ、すぐ近くだというのにディウラートの姿すら確認出来なかった。
「ディウラート!」
わたしは、急に不安になって大声で呼ばわる。
すると、どこか不安げなディウラートの声が帰ってきた。
「マリー……?」
駆け出すと、霧の中に人影を見つける。ずっと会いたかった人が、そこに居のだ。
話したいこと、見せたいものが沢山ある。心配なことも、聞きたいことも、数えきれない。
怪我は大丈夫か。寒さに震えてはいないか。王弟一家に何かされていないか。恐ろしいめにあっていないか。
次々に脳裏を駆け巡る想いが、今にも溢れだしそうだ。
後ろめたいことも、謝りたいことも、不安なこともあって、手放しに喜べる再会ではないけれど、それでも、彼がそこに居るというだけで、胸はいっぱいだった。
わたしは、泣き笑いのぐちゃぐちゃの顔で、その人影に向かって思い切り抱きついた。
「うぁっ……!?」
驚きの声とともによろけたディウラートは、けれどしっかりとわたしを抱き止めてくれた。
「久しぶりね、ディウラート。会いたかったわ」
ディウラートは目を大きく瞬いてわたしを見やると、けれどすぐに顔を伏せてしまった。
「あぁ……」
ディウラートの様子がおかしいことに気が付く。顔色が暗い。
「ディウラート、どうしたの?怪我がまだ痛む?」
わたしが不安になって顔を覗き込むと、ディウラートはさっと身を引いて距離を取る。
「いや、そうじゃない。ただ……」
「ただ?」
わたしは、何か悪い予感のようなものを感じて身構えた。ディウラートとの距離が、まるで出会ったばかりの頃のように遠くなっている気がした。
「マリーが何故私を呼び出したかわからない。だが私は、マリーに別れを告げるために、今日ここに来た」
頭を殴られたような強い衝撃が走る。
「今、何と言ったの?」
聞き違いであってほしい。そんな願いを込めて聞き返せば、小さなため息が返ってきた。
冷ややかな風に、ひとつ身震いをする。
「別れを告げに来た」
「どうして……!?」
何故、急にそんな事を言い出すのか。
すがるようにディウラートに手を伸ばすと、ディウラートは顔をくしゃりと歪めて一歩後ろに下がった。今にも泣きそうな表情だ。
張り裂けそうな胸を押さえ、わたしはぐっと唇を噛んだ。
「私は、人間じゃないんだ。化け物だったんだ……。だから、近付かない方がいい」
ディウラートの声は、震えていた。
「何を言っているの?そんなはずないわ」
わたしは首を振ってディウラートとの距離を詰める。
ディウラートは肩を跳ねさせ、わたしから離れた。
「近付かないでくれ!私は本当に化け物なんだ!光の印は、私が化け物である証拠なんだ……。頼む、お前を守るためだ。言うことを聞いてくれ!」
怯えたような、悲しみに暮れているような表情で、ディウラートは叫んだ。
ディウラートは、印の正体を勘違いしていのるだろうか?
わたしは焦燥感にかられた。ディウラートを助け出すには、今日しかないのだ。
「あれがアールヴの印だと、知っているの?」
そう問えば、ディウラートは目を真ん丸にして口をはくはくと動かした。
「マリー……知っていたのか?」
「ええ。魔術学院で関連の書物を見付けたのよ。けれどディウラート、貴方は化け物ではないわ。妖精であるアールヴ一族の末裔でしょう?」
「化け物だ!人ではないんだぞ!?」
ディウラートの瞳にはっきりと浮かぶ拒絶の色に、わたしは溢れてくる涙を必死に堪える。
「だからどうしたの?ディウラートはディウラート。他の何者でもないわ」
努めて優しい声音を出す。震えそうになるのを抑え、語りかけるように問う。
表情を固くしてこちらを見ていたディウラートは、力なく頭を振った。
「怖くないのか……?人ではない得体の知れない者の血が流れているというのに?」
「全く怖くないわ。だってディウラートだもの。わたしは貴方を怖がったり、拒絶したりしないわ。それから、わたしの話を聞いて欲しいの。こっちへ来て」
ディウラートは怯えた小動物のように震えながらこちらへ来た。
わたしが動く度に後退り、触れられるほど近付くにはとても時間がかかった。
触れられる距離までくると、わたしは強引にディウラートを引き寄せ、自分の着ているローブを広げ、その中に彼を包み込んだ。
「防寒具も渡しておくべきだったわね」
「マリー?」
少し抵抗をみせたディウラートだったが、寒さには勝てないとばかりに大人しくなる。
見ているこちらが凍えてしまいそうな薄着なのだから、仕方あるまい。
わたしたちは、しばらくそうして体温を分かち合った。
互いに何も言わない沈黙が、不思議と心地好い。
ドクン、ドクン。
互いの鼓動が共鳴しあう。
ドク、ドク……ドッドッドッドッドッ……。
どんどんと鼓動が速まり、寒かったはずが、身体が火照りはじめた。
わたしはそっと、沈黙を破る。
「ディウラート、いい?貴方は貴方よ。人でも妖精でもいいの。そんなこと関係ないんだから。わたしはね、貴方を助けるためにここに来たの」
ディウラートはきょとんとしている。
いつもは青白い頬や首もとを、仄かに薄紅が染めているのは、果たして寒さだけのせいだろうか?
「離宮から出られるのよ」
わたしの言葉に、やっとディウラートが反応する。
「……それは無理だと、知っているだろう?」
ディウラートは腕輪を見せて言った。諦めきった表情に、胸がズキリと痛んだ。
「私は人ではない。故にここに閉じ込められていたんだ」
わたしは頭を抱えた。
どうすればこの後ろ向きな思考を止められるだろうか?これでは、助けるどころではない。
「ディウラート」
わたしは彼をこちらに向かせると、真剣にその瞳を見詰めた。
「わたし、貴方が好きよ。たとえ、本当に化け物だったとしても、それは変わらない。だから、わたしと一緒に生きる道を選んで欲しいの。腕輪を外す方法を見付けたのよ」
じわり、とディウラートの瞳が見開かれる。
「わたしと共に生きていくのは、嫌?」
今はまだ王弟一家であることに変わりないディウラートには、全てを話すことは出来ない。
けれど、今言える全ての言葉を尽くして訴えかける。
貴方が好きだから、救いたいし共にありたい。
貴方が死ぬのを黙って見てなどいられないし、地獄のような離宮から救い出したい。
できることなら、ずっと同じ時を共にしたい。
「人でなくとも、化け物でも……受け入れてくれるのか?」
冷めきった声だった。
死を生きた老賢者のような、悟りきった声音。何もかもを寄せ付けない氷のような視線が、わたしを真っ直ぐに射抜く。
「勿論よ」
わたしは、確信を持って答えた。
ディウラート心が、恐怖に囚われないように。孤独に凍り付いてしまわないように。
見詰めあう瞳に、温もりを。優しさを。愛情を――。
目一杯の想いを込めて、ディウラートの瞳を覗く。
大丈夫よ。怖がらないで、この手を取って。わたしはいつでも貴方の味方よ。
ゆらり、と瞳が揺れる。ディウラートの目は次第に潤んでいき、青の瞳が宝石のごとく光る。
睫毛に伝う涙の雫は、花弁を濡らす朝露のようだ。
涙が頬を流れ、ディウラートははっとしたようにそれを拭った。
わたしは、そっとディウラートを抱き締める。
彼は、肩を震わせながら静かに泣いた。
「それなら……私はマリーと生きたい」
微かに震えるその声音には、強い意思が宿っているように思えた。
「私も、マリーが好きだ」
そして、聞き逃してしまいそうな小さな小さな声で、ディウラートはぽつりとそう言った。
ぎこちなく背中に腕がまわされ、ぎゅっと抱き締められる。
こんなのは、狡い。
愛しさと嬉しさが込み上げてくる。
堪らなく嬉しいのに、堪らなく幸せなのに、身体は誤作動を起こしたように大量の涙を流していた。
「わたしと生きてくれるのね?」
「あぁ」
そうしてディウラートと心を通わせたわたしは、本来の目的であったことをはじめる。
まず、少し驚く内容だと断って、『名捨て』について話す。
ディウラートは『名捨て』を知っていた。
ぐっと眉根を寄せる。そこには、少しの恐怖も入り混じっている。
「思いつかなかった。腕輪は名で縛るのだから、『名捨て』をすればよかったのか」
「ええ。でも、嫌……よね?名を捨てるだなんて」
わたしは消え入りそうな声で言った。
今さらだが、何も知らないディウラートにとっては、とてつもなく酷だ。死ねと脅しているより酷い。
「マリーと共に生きられるなら私は……。いや、怖くないと言えば、嘘になる。けれど、何もしなければ一生このままだ。虐げられ、魔力を奪われ、道具のように一生を終えるくらいならば、私はマリーと共にありたい。それが死より辛いとしても」
「ディウラート……貴方」
「もう、あの人達に利用されるだけの人生はうんざりなんだ。どうせなら、自分の意思で未来を選びたい。私は幾度となく死にかけた。全身に傷を受けた。痛みにも、毒にも慣れてしまった。これ以上の苦しみは、きっとない。それに、名を捨てれば、何処へだって行けるんだ!ずっと、ずっとずっと憧れていた外の世界だ!同じように苦しむなら、マリーと共に、自由な世界を生きたい。名など、いくらでも捨ててやる」
何かが吹っ切れたような顔で、ディウラートは言った。
遠くを見詰める瞳は、わたしの知らない壮絶な痛みと苦しみを宿して、僅かな希望を見据えていた。
気が付けば涙が流れ、わたしの頬を、幾筋も幾筋も涙が流れていく。
「ま、マリー!?どうしたんだ?」
ディウラートは驚いた様子でわたしの涙を拭ってくれる。けれど、それでも間に合わないほど涙は流れた。
本当に泣きたいのは、きっとディウラートなのに。
けれど、ディウラートは泣かないから。
痛みに、苦しみに、悲しみに慣れてしまって、麻痺してしまって、本当の心すら、見えなくなってしまっているから。
わたしはそれが悲しいのだ。
「泣かないでくれ。慣れているから『名捨て』だってきっと平気だ」
励まそうとするディウラートの言葉が、わたしの心に刺さって抜けない。
大丈夫なんかではないのに。誰よりも苦しんでいるのに。
それにさえ気付けないほど、ディウラートは追い詰められていたのだ。
「ごめんなさい……ごめんなさいディウラート。わたしが、貴方を守るから」
「マリー?何故謝る?」
「きっと、大丈夫よ。必ず貴方を助けるから……!」
泣きじゃくりながら、わたしはディウラートをきつく抱き締めた。
今は、そうすることしか出来ないから。
ディウラートは何が何だかわからない様子で、困ったようにわたしの涙を拭い続けてくれる。
その顔には、悲しみなど一欠片も浮かんでいない。
ぼろぼろで、それでも必死にもがいて前へ進もうとするディウラートの姿が、何よりも尊いものに感じた。
しばらくしてやっと泣き止んだわたしは、ディウラートにある紙を渡す。
『名捨て』のために名を書く紙だと教えてあるが、実は養子縁組の用紙に名を書くための魔術道具だ。
「今夜中に、この紙に名前を書いてね。わたしは来られないけれど、明日迎えを送るから」
「わかった」
ディウラートを騙しているという罪悪感と、作戦が成功した安堵の中、わたしはディウラートと別れた。
明日の朝には貴族裁判が開かれる。
裁判とは言っても、王の判決を公にする場にすぎないので被告人は不在だ。
祈るような気持ちで、わたしは王城へ帰った。
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