第3話 再会

 たぶん調子に乗っていたのだ。だから天罰が下った。


 その日はメイクもバッチリ決まり天気も良かったから、いつもよりちょっと遠出しようと思い、足取りも軽やかに家を出た。


 わたしが街を歩くときは、目的を決めていないことがほとんどだった。

 入ったことのないお店に入り、お気に入りの服やバッグはないか見て回ることが多いけど、不登校の立場はわきまえているので買ったりはしない。完全なウィンドウショッピングだ。


 初めて来た場所だったこともあり、途中でコーヒーショップに寄って休憩しつつ、つい遅くまで街中を歩いてしまった。

 お祖母ちゃんが心配すると思い足早に駅に向かった直後、すぐ後ろから声を掛けられた。


「雨宮じゃない。何してるのこんなところで」


 相手の顔は見ていなかったが、声だけでそれが誰か思い至った。身体が一瞬で硬直し、冷たい汗が全身から溢れてくる。


 今すぐこの場から離れなきゃ。そう脳は命令を下すけど、足は一向に動いてくれない。すると右腕を強く掴まれる感触があった。鼓動が早くなる。


「やっぱり雨宮だ。雰囲気ずいぶん違うから、夏葉なつはに言われるまで気づかなかったよ」


 わたしの前に姿を見せたのは制服姿の女子高生二人組だった。

 腕を掴んできた方の、ほっそりした体型の女子は名前を藤見ふじみあずさといい、細長い狐のような目をわたしに向けて楽しそうに微笑んでいる。

 その傍らにいる背が低く体格の良い女子は梓の取り巻きの一人で、名前を市井いちい夏葉といった。こちらはニヤニヤした笑みを浮かべていた。


 二人に最後に会ったのは中二で不登校になったときだから、今から二年前ということになる。

 梓と夏葉の姿は、それぞれ体つきや髪型が多少変わっていたが、顔が当時のままで、それを見ていると否が応でも嫌な記憶が蘇ってくる。


「梓が声かけてんのに無視するから、てっきり人間違いでもしたかと思ったよ」


 夏葉がさっそく突っかかってきた。梓の意をくむ特攻隊長。その役目は中学のころと変わっていないようだ。


「友達から無視されるなんて、こんなショックなことないよな? 梓」


 掴んでいた手を離した梓は、長い髪をかき上げながらまあまあと夏葉をなだめた。


「雨宮も急に声かけられたから驚いたんでしょ。じゃなきゃ親友の声を聞いて無視するはずないもの」


 誰が親友なものか。誰のせいで外に出られなくなったと思っているんだ。頭に血が上るのを感じ、だんだん呼吸が荒くなってきた。やばい。過呼吸の前兆だ。


「それはそうと雨宮、体調不良でずっと休んでるって聞いてるけど大丈夫? 今も辛そうだね。そこのベンチで休もうか?」


 梓の芝居がかった台詞に夏葉がすぐ反応した。病人を介抱するかのように肩を組んできた夏葉は、嫌がるわたしを人通りの少ないベンチに無理矢理移動させた。耳元で夏葉がささやく。


「あたしたちが学校で勉強している間、似合わない化粧して遊び歩いてるやつのどこが体調不良だよ。お前、仮病で学校休んで楽しんでんだろ? 学校にチクんぞ」


 そう言うと夏葉はベンチに座ったわたしの太ももに指を当て、思い切り強くつねってきた。


「痛っ!」


 思わず声を上げたわたしに「うるさいブス。おとなしくしてろ」と夏葉がすごむ。


 わたしを挟んで夏葉とは反対側に梓が座った。


「懐かしくない? 中学のころは、遅くまでこうして三人で遊んだりしてたよね。雨宮が休むようになって、すっかり会わなくなっちゃったけどさ」


 梓の細長い目がこちらを向く。優しそうな、温かそうな目に見えるけれど、人を騙す狐のそれであることは身に染みて分かっている。


「ああそうだ」

 良いことを思いついたというように、梓が声を上げた。

「ねえ、雨宮。わたしたちさ、家に帰るお金がなくて困ってたのよね。少しばかり貸してくれないかな。親友のよしみでさ」


 きた、と思った。梓の台詞は二年前とまったく同じ調子だった。

 少しばかり貸してくれないかな? その声を聞き、呼吸が小刻みに早くなってきた。このままだと過呼吸になってしまうことは過去の経験で学んでいた。

 わたしは落ち着こうと深呼吸をした。


「帰りのタクシー代で二万円。すぐ返すからさ。前はすぐに貸してくれたじゃない。お祖母ちゃんからもらってきてくれたでしょ。何回もさ」


 首を振って抵抗する。やめて。心の中で叫ぶ。お祖母ちゃんの財布を探っているときの息苦しさを思い出す。忘れたかった嫌な記憶。ごめんなさい。ごめんなさい。呼吸がどんどん速くなる。


 わたしがずっと黙り込んでいるものだから、梓は微笑みを引っ込めて冷たい視線をよこしてきた。口調も急に素っ気なくなる。

「あ、そうそう。田崎たさき岩尾いわおって覚えてる? あの二人高校生になってから、中学のとき以上に性欲むきだしになっててね、なんかもうやりたくてしょうがないんだって。もし雨宮があの二人と個室で三人だけになったとしたら、どうなっちゃうんだろうね?」


 スマホを片手に顔を近づけてきた。


「今から呼んで、相手して貰ってもいいんだよ。あのカラオケボックス、まだあるんだから。懐かしいでしょ?」


 二年前、わたしは梓たちに連れて行かれたカラオケボックスの中で、梓の知り合いだという男子二人に身体を押さえつけられ服を脱がされそうになった。

 男子二人の力が強く、抵抗できなかった。お金持ってくるから、許して! 梓と夏葉に泣きながら懇願した。


 早くしろと夏葉に怒鳴られ、走って家に帰り、不在だったお祖母ちゃんの財布からお金を抜き出した。

 わたしはふらふらになりながら梓にお金を渡した。その後、何度か梓にお金を渡し、そしてわたしは倒れてしまった。


 あのときの、冷たい目をした梓が目の前にいる。


「これからカラオケ行こうよ。田崎と岩尾も呼んで楽しくね。あの二人、今の雨宮を見たらもうすんどめできないかもね。どうする?」


 手足がしびれ、意識が遠のいていく。このまま過呼吸の症状が進めば、本当に倒れてしまう。

 わたしは手提げバッグから自分の財布を取り出した。そして、とっさに千円札を何枚か掴み、ベンチ前の路上にばらまいた。


「何してんだてめえ」


 夏葉がわたしから手を離し、お札を拾いにベンチを立つ。その隙をついて、わたしは最後の力を振り絞って掛けだした。

 無我夢中だった。二人が追ってきているのかは分からない。振り返ったら捕まると思ったから、前だけを向いてひたすら走って、逃げた。


    ※


 どれくらい走っただろう。


 しばらくするとアーケード街に入った。商店街をぬける途中で力尽きてしまい、とある商業店舗の前でしゃがみ込んでしまったわたしは、バッグからビニール袋を取り出すと、口に当てゆっくりと深呼吸をした。


 過呼吸の対処法だけど、しばらくその状態をキープしても一向に症状が治まる様子がない。むしろ手足のしびれがひどくなっていく。


 救急車を呼ばなきゃと分かっていても、身体が思うように動かない。通行人は足早に通り過ぎていくだけで、苦しんでいるわたしに気づく人はいなかった。


 罰が当たったのだ。


 ひきこもりのゲーマー女子がわたしの本当の姿なのに、ユウナさんに会って、メイクを覚えて、普通の女子高生みたいになれたなんて勘違いしたから天罰が下った。


 梓と夏葉を前にして、わたしは生きた心地がしなかった。あの二人がいる現実の世界になんて一秒たりともいたくない。早くゲームの世界に、『レムリガルドオンライン』の世界に帰りたい。わたしはそこで、雨宮純佳ではなく『カスミ』として生きていくのだ。


 十七歳のわたしにはまだ時間がたくさんある。ひきこもりに戻ったとしても、現実の世界でこれほど苦しむわたしを見たら、お父さんもお祖母ちゃんも許してくれるに違いない。


 とうとう身体が動かなくなった。息ができず、意識が遠のいていく。


 現実の世界が暗転する、まさに直前だった。


 少し離れたところから、アコースティックギターの音色とともに懐かしい歌が聞こえてきた。幼稚園のころ好きだった女性アイドル『ショコラ』の歌だった。

 誰かが路上ライブでもしているのか、マイクを通さない生の歌声で、しかも男性の声だったから余計記憶が揺さぶられた。


 それはわたしにとって思い出の歌だった。タイトルは……、そう、確か『5年後までサヨナラ』だ。


 幼稚園のころ、お遊戯会の練習のときに幼なじみの彼と一緒に歌ったことは、今でもときどき思い出すことがある。わたしにとっては数少ない楽しい記憶――。


『僕は日本一のミュージシャンになるから、スミちゃんは日本一のアイドルになってね』


 その言葉とともに、彼の笑顔を思い浮かべる。そしていつもそうするように、高校生になった彼の姿を想像する。


 彼を思い出すとき、特別な感情が沸き起こり、胸が少し苦しくなる。その特別な感情が恋であることに、わたしは当然気づいている。


『約束だよ』


 高校生の彼の声が聞こえる。

 頷いた瞬間、右手の小指に温かい感触を感じた。


    ※

 

 結局、世界が暗転することはなかった。


 思い出の歌の影響か、はたまた楽しかったころの記憶の影響か。名も知らない誰かの路上ライブを聴いているうちに、だんだん精神が落ち着いてきて、それに比例して症状も治まってきた。


「……助かった」


 アーケードの薄汚れた天井を見上げながら、わたしは大きく深呼吸を繰り返した。


 しばらくそうしていると、小さな歓声が聞こえたのでそちらに視線を向けた。

 数人の観客が、アコースティックギターを弾いている高校生くらいの男子を取り囲んで拍手をしていた。先ほどから聞こえていたのは、やはり弾き語りによる路上ライブのようだった。


 わたしでも知っている有名な曲を歌っている。歌い方に高校生らしい素人っぽさがあるものの、すごく懐かしい感じがするその歌声が妙に気になった。


 壁に手を当てなんとか立ち上がり、彼のもとに近づく。

 観客が邪魔をして彼の顔を見えなくしている。少しずつ歩いて行くと、観客の一人がすっと横に動き、彼の顔がはっきりと見えた。


「うそ……」


 わたしの口から、無意識に言葉が漏れる。


 今日は朝からいろんなことが起きた。完璧なくらいメイクがうまくできた。知らない街を楽しく歩いた。二度と会いたくなかったあの二人に出会ってしまった。そして、必死に逃げた先のアーケードで倒れた。


 これらを全部ひっくるめても、弾き語りの彼の顔を見たときの衝撃を超えることはできない。


 彼が言う。

「あの、次に歌うのはオリジナルの曲なんで、みなさん知らないと思いますけど、最後まで聞いてくれると本当にうれしいです」


 恥ずかしそうにはにかむ顔に、初恋の男の子の面影を見た。


「聴いてください。『有限の未来』」


 高校生の姿をした柊瑞季くんが、力強くギターをかき鳴らした。

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