24.「ありったけの」


 ザワザワと、たくさんの声と、音が混ざりあって。

 右耳に入っては、左耳から抜けていく。


 ハンドマイクを握りこんでいる両手に力が入る。……そうしていないと、耐えられない。

 私……、五奏杏が立っているのは、体育館のステージ檀上、そのド真ん中。

 私には無関係だった世界。いつもより少し高い位置から見るその景色。

 オーディションライブとはいえ、出番待ちの生徒の数も含めると、五十人くらいの人が同じ空間にひしめいている。私の視界に、無遠慮に入り込む。


 私のコトを見ている人がいる……、当たり前だ。これから、ステージで歌うんだから。

 私の顔を見ながら、ヒソヒソと隣の人に耳打ちしている生徒が目に入った。


『アイツ……、五奏杏じゃない? 喋れないクセに、歌なんて歌えるの?』


 例の、病気。どうしもうもない被害妄想。

 私が勝手につくりあげた、第三者の声が頭に響く。

 私のコトを、笑う声。

 私のコトを、蔑む目。

 目に見える景色が、歪んでいた。聴こえてくる音に、雑音が混ざる。

 きゅうっと。喉の管が細い糸で縛り上げられるような感覚。


 私は、声の出し方を、思い出せなくなっていた。



 変わったと思っていた。変われたと、感じていた。

 少しずつだけど、人と喋れるようになっていた。つっかえつっかえだけど、声を出せるようになっていた。人に「ありがとう」と、言えるようになっていた。


 ――でも、甘かったんだ。

 中学、高校……、私が声を封印していた五年半、その歳月はあまりにも長すぎた。その代償は、思ったよりも大きかったみたいだ。


 ついこの前まで、誰にも心を開くコトができなかった。

 自分の気持ちを、一ミリでも外の世界に出すのが、怖かった。

 そんな奴が、人前で、大勢の前で、

 歌を歌うなんて、自分を、さらけ出すなんて、

 冷静に考えて、誰がどの頭で考えたって、 

 ――できるワケ、なかったんだ。


 ……どう、しよう――

 思わず、目を伏せた。ギュッと目を瞑り、世界から自分の意識を遮断しようとした。


 何も見たくない、何も、聴きたくない。

 思わず私は、その場にしゃがみこもうとして――


「ゴソー」


 聞き慣れてしまったしゃがれ声は、喧騒がとどろく体育館の中でも、よく通る。


 目を向けると、雷太くんの呆れたような表情。

 私は思わず顔をひしゃげて、たぶん、今にも泣き出しそうな顔で、

 鼻頭がツンと痺れるような感覚が、涙腺を、刺激して――


「――えっ……?」


 次の瞬間、私の目が丸くなる。

 キョトンとした表情で、何事かと一点を見つめる私の眼前、

 どこに隠し持っていたのか、雷太くんが手に持っていたのは、一枚のお面。おどろおどろしい形相の般若面。そのゴム紐を、ピーンとひきのばして――


「顔、動かすなよ」


 両手を胸の前に、身構えるような姿勢の私はされるがまま、

 雷太くんが、手に持っていたそのお面を、私の頭にすぽんと被せた。


 何がなんだかわからないが、私の視界はとりあえず暗がりに包まれた。ガシッ――、と両肩を乱暴に掴まれた感覚に全身が震え、目の前で囁かれたのは、相変わらずのダミ声で――


「ゴソー、いいか、お前が今からやるコトは、たった一つだけだ。それ以外のコトは何も考えなくていい」


 聴覚だけが存在する私の世界。頭の奥で雷太くんの声がよく響く。


「ただ、音に集中しろ。城井のドラムと、シンのベース、俺のギター、それだけを聴いていればいい。あとは、曲に合わせて思いっきり叫べ。お前のデス声、喉が枯れるまでぶちまけてみろ。お前は何も見なくていいし、誰に見られているとか、どう思われているとか、そんなもん、一切気にしなくていい。……大丈夫だ。なんとか、なる」


 不思議な、心地だった。

 私が立っているのは、紛れもなく体育館のステージ檀上だし、

 この空間には、何十人もの人たちが存在している。

 さっきまで、目に見える景色が、聴こえてくる音が、私の頭の中になだれこんでいたのに。


 ――なのに、いっさいがっさいが、魔法みたいにパっと消えちゃったような、そんな感覚。

 私の世界に存在していたのは、少し野太くて、ちょっとしゃがれ気味な、よく通るダミ声。それだけ。


 私がコクンと遠慮がちにうなづくと、急に痺れるような痛み。

 たぶん雷太くんが私の背中を乱暴に叩いたんだろうけど、視界が暗がりに包まれている私はおよそ想像するコトしかできない。「気張れよ」と雷太くんの一言が耳に流れて、彼はきっと、子供みたいに無邪気な笑顔を見せている気がした。


 さっきまで震えていた足。気づいたら、力が抜けていた。……うん、動かせる。

 正面に向き直った私は、凛と姿勢を伸ばし、小柄な体を全力でさらけ出す。

 喧騒が徐々に静まっていく。雷太くんが演奏開始の合図を出したのだろう。


 ドラムスティックの4カウントが響いて、雪崩のような轟音が、背後ろから、ドンッ――

 頭をハンマーで殴られたような重低音が、私の全身を震わせて、

 ハンドマイクを口元に近づけた私が、お面の裏側、あんぐりと大口を開けて。


 いつの間にか、喉の管を縛っていた細い糸は、プッツリと切れてしまっていたみたい。

 身体をくの字に曲げた私の口から、ありったけの、声が――

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