8.「いや、なんか、ゴメン」


 昨日と変わらない景色。

 まっ平な青空と、無限に広がる灰色の地面と――


 がらんどうな学校の屋上、ポツンと佇むは二人の高校生。

 俺……、真手雷太がポリポリと頬をかき、

 背後ろ一メートルくらいの位置。チラリと目線を向けてみると、俺に黙ってついてきた五奏が地面に目を伏せている。


 ……どう切り出したもんかなー。

 少しばかり逡巡した俺は、とりあえずタバコでも吸うかと、ゴソゴソと上着のポケットをまさぐり始め――


 グイッと。

 身体を引っ張られたような感覚にハッとなる。


 思わず振り返ると、いつのまにか俺のすぐ背後に移動していた五奏が、相変わらず地面に目を伏せてはいるものの、迷子の小学生みてーに、俺のズボンのすそをギュっと握りこんでいて。


「何……、なんだよ?」


 14ミリグラムのセブンスターを口にくわえながら、彼女の行動の意味が俺はシンプルにわからなかった。しばらくそのまま沈黙が続いたかと思うと、意を決したように彼女がその顔をグッと上げて――


 切り揃えられた黒髪のおかっぱが、フワリと揺らぐ。

 彼女はスクールバッグからノートを取り出したかと思うと、破竹の勢いでペンを走らせ始め、その様子を、俺はポカンとひたすらに眺めていて――

 両手を使って、彼女が見開きのノートをいっぱいに広げる。

 でかでかと綴られたその文章が、俺の目に飛び込む


『小道具係、一緒にやってくれて、ありがとう』


 幾ばくかの静寂が流れて。

 見開かれたノートの奥、五奏が恐る恐る俺の顔を覗き込んでいる。

 上目遣いで、何か窺うようなその表情はガキそのもの、同い年の女子高生とはとても思えない。


「ああ……、いや、どういたしまして」


 なんだか、全身から毒気が抜かれちまったみてーに――

 どう反応していいのか全く以てわからなかった俺は、何かをごまかすように彼女から視線を逸らして、とりあえず14ミリグラムのセブンスターに火を付けた。



「下田とお前、昨日ココで何があったのかはあえて聞かねぇ。興味もねぇ。……それより、俺が聞きてぇことは、たった一つ」


 タバコの吸い殻を屋上の外へと乱暴に投げ捨てた俺は、真相を追求するべく、改めて五奏の顔を正面から捉える。ビクッ――、と彼女の肩がわずかばかり震えて。


「……昨日、学校の屋上から、とんでもねぇ唸り声が聴こえて、……かと思うと、下田が血相変えて飛び出してきた。何事かと思って、俺は階段駆け上がって、ココにいたのはお前ひとり」


 まっすぐと、俺の視線はまん丸い彼女の両目を捉えたまま。

 少しだけ息を吐いて、ゆっくりと、糸を紡ぐような口調で声を出す。


「……名探偵じゃなくたってわかるぜ、あの声、お前だろ? ゴソー」


 ザワリ。

 湿った夏風がそよいで、ふいに目を伏せた五奏が、

 フルフルと、力なく首を横に振っていて――


「――そんなワケねぇだろ! じゃああの唸り声の正体は何なんだよ!?」


 苛立ちを隠すこともせず、俺の口から怒声が吐き出される。

 再びギョッ――、と肩を強張らせた五奏が、あわあわと挙動不審に両手を振り出し――

 ――たかと思うと、何か閃いたような表情を浮かべながら、ピタリと静止した。

 さっきから不可解すぎる彼女の行動に、俺の眉間には八本くらいのシワが寄っており、五奏は片手に持っていたノートを再び広げて、必死の形相で再びペンを走らせ始めた。

 先ほど同様、両手いっぱいに見開かれたページを、俺の眼前に突きつけてきて――


『熊が出た』


 思わず、俺がその場にズッコケそうになったのは、言うまでもなく。


「――無理がありすぎんだろ! なんで学校の屋上に熊が出るんだよ! なんで俺が行った時にはいなくなってんだよッ!?」


『雷太くんが来る前に、鍋にして食べた』


「――ウソ、ド下手か! ツッコミドコロ増えてるじゃねぇかッ!?」


 何かに耐えられなくなった俺が、その場にズッコケたのは言うまでもなく。 



「……あのなぁ」


 五奏のド天然によって、全身という全身から血の気が抜かれちまった俺は、フラフラと軽い貧血さえ覚えており……、中々口の割らない五奏容疑者を前に、俺の口から観念したような台詞がこぼれでた。


「俺は別に、お前のあの声を、皆に言いふらそうとか、笑ってやろうとか、そういうコトを考えてるワケじゃねぇんだよ……」


 眼前に佇む、黒髪おかっぱ少女。

 五奏杏が、キョトン。

 声変わり前の小学生みたいな表情で、俺をジッ――、と見つめていて。


「……俺はさ、ただ、お前と――」


 その瞬間。


 ――えっ……?


 何が起こったのか、わからない。

 ……いや、『何が起こった』のかは、わかるんだけど。

 『なんでそんなコトが起きた』のかが、てんでわからねぇ。


 明らかなキャパオーバー、俺の脳は目の前の状況を整理するのに必死だ。

 ……ええと、とりあえず、起こったコトを、ありのままに伝えるぞ。


 急に、信じられないくらいの『強風』が、俺と五奏の間を駆け抜けて。

 五奏の制服のスカートが、派手にまくれあがって。

 ……その、彼女の、クマちゃんプリントのパンツが、

 丸見えに、なって―― 


 静寂が、がらんどうの屋上を包み込む。

 誇張無く、俺の目は点になっていて、

 同じく、ポカンと口を開いて、フリーズしている五奏の顔が、

 次第に、震え、みるみるうちに、真っ赤に染め上がっていって―― 


「……あ、いや……、なんか、ゴメン」


 俺は、とりあえず、謝った。



「――い……」

 ――い……?


 耳を、疑った。

 でも、確かに、聴こえた。

 その一文字のテキストは、一切口を開くことがなかった彼女。

 五奏杏の口から発された声で。


「……い――」


 ゆでダコみてーな真っ赤な顔のゴソーが、

 相変わらず、プルプルと、小刻みに全身を震わせており、

 次の、瞬間。


「゛イ゛ヤ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛アッ!」


 意識が、トビかけた。


 この世のものとは思えねー……、およそ人間の所業とは思えない、『唸り声』。

毛穴という毛穴から汗が噴き出て、全神経が恐怖の感情に支配される。俺は自分の腰が抜けている事実にさえ気づけず、その膝はガクガクと震えが止まらない。

 ――同時に、俺の全身を、抑えるコトのできない興奮が駆け巡って――


 ……コレだよ。

 ……コレなんだよ、俺が求めていた声。

 ……聴いた者の感情を心から震わせて、死の恐怖させ感じさせる。

 ――本物の、『デス声』って奴――


「オイッ! お前、やっぱり……」


 ムクっ、と立ち上がり、恍惚とした表情で俺がフラフラと五奏に近づくと、彼女はハッ――、と我に返ったような表情を浮かべた。さっきまでのゆでダコ面はどこへやら、今度はみるみる内にその顔が青ざめていく。


「あっ……、あっ――」


 どこか焦ったように、キョロキョロと忙しなく目を動かしている彼女の口から、不安定なあえぎ声が漏れ出て――

 次の瞬間、脱兎の如く駆け出した五奏の小柄な体が、俺の脇を猛スピードで抜けていった。


「ちょっ……、待っ――」


 ――引き留めようとしたときには既に遅く。バタンッ――、と鉄の扉が乱暴に開かれる音が俺の耳に飛び込み、急いで後ろを振り返るも、彼女の姿は視界から既に消えていた。


 ……今度は、逃がすかよッ――

 ギリッ――、と歯をくいしばり、

足をバネに、弾けるように。

 全身全霊の猛ダッシュ、俺と五奏の、地獄のような鬼ごっこが幕開された。

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