【7】

 男は歩く、涅槃の底を、虚の末を。

 男の脳裏には、昨日人形と交わした会話の内容が、絶えること無く反芻されていた。頭の中で、人形の虚無の色をした声が、周囲の景色と同じ色に染まり、溶け出している。放っておけば、あの人形自身もこの闇に溶け出してしまうのではないか。そうなれば、俺はあの人形を再び見つけ出す事が出来るだろうか。男はそう、不安に思えてならなかった。

 曲がる事の無い路を、延々と歩いている最中、ふと男は、微かに流れる空気を、肌に感じ取った。この場所は時を止めており、風は吹かない。にも関わらず風を感じるとしたら、時間が流れている者が空気を掻いているのだ。丁度、人形のもとへと先を急ぐ、己のように。

 男は身構え、用心しながら進む。足が、この先に進むことを拒み始めたのか、一歩を踏み締める度に鉛を重ねていくように、重くなった。それでも、一心に前だけを見据え、引きずるように足を動かし続けて、男は人形のもとへと向かった。

 ふと、対面から、空気が一層濃く流れてくる。

 ふわり、と陽炎のように景色が揺らぎ、揺らいだ箇所が、淡い白色に浮かぶ。白色は、すっと闇を滑るようにして此方に向かってきて、男の目の前で軌道を横にずらすと、男を避けて、通り過ぎようとした。

 男は、その白色を視界に入れないよう、努めて眼球に力を入れ、まるでそれに気が付いていない事を示すように、ただただ前だけを見つめ、一切の減速を見せず、歩み続けた。

 どうか、気付かないでくれ。

 男が白色と擦れ違う際、そう強く念じる。

 すると、死界にぼんやりと滲む白色が、ほんの一瞬、形を持ったような気がした。靡く髪が柔く広がりを見せ、白磁の肌と、死装束を思わせる服装が、闇の中に沈んでいる。くすんだにおいが男の鼻腔に残り、通り過ぎた。

 完全に白色が背の向こうに過ぎたと思うや、男は眼球から力を抜き、俯いて、深々と息を吐き出した。いつの間にか心臓は煩いくらいに早鐘を打っており、喉から身体の中の物が出てきそうだと思う程、吐き気が酷い。

 もう少し、ここを過ぎればもう少しで、人形のいる空白へ辿り着く。

 男はそれだけを考え、真っ直ぐに、路を進んだ。



 其処へ辿り着いた男は、真っ先に、空間の中央に打ち捨てられている物に気が付いた。駆け寄ってみると、それは例の人形だった。

「おい」

 男の声は、驚くほど、焦燥に満ちていた。人形の傍へ向かいながら声を掛けるも、人形はぴくりとも動かない。まるで、本当に人形になってしまったかのようだと、男は思った。

 人形は、うつくしい黒髪を海月の足のように広げており、毛束はそれぞれに絡まり、普段の整った流れは見る影もない。横たえた身体は物のように転がり、身に纏っている衣服は乱れ、白磁の色をしたあえかな肢体を晒している。

 男は人形の傍に駆け寄ると、息を切らしながら、横たわる小さな身体を見下ろした。よくよく見れば、青紫色をした斑紋が幾つも肌の上に浮かんでおり、さらに近付くと、またあの時と同じ鉄錆のにおいが、男の鼻腔を掠めた。

 人形は、己の顔の前に足を据えて立つ男を、虚ろに見上げた。まるで寝起きのように、人形の表情は何処か安らかで、安堵しているかのようだった。

「なあ」

 男が問うと、人形は微笑んだ。小さな野花が陽に向けて面を上げるように、細やかで、弱々しい、花笑みだった。

「何笑ってるんだよ」

 男が苦虫を噛み潰したような表情で言うと、人形はゆるゆると透明な地を這うように腕を動かし、そうしてゆっくりとした手つきで、目前の男のズボンの裾を指先で摘まんだ。

「少し、遅かったね」

 人形はからりと、湿り気の無い笑みでそう言った。

「悪かった」

 謝る男に、人形はゆっくりと、息を吐く。

「別に、必ず何時に決めてこう、っていうわけじゃないからね。目論見より、少しずれることだってあるさ」

「何を、言っているんだ」

 人形の言うことを理解できない男は、その場で力が抜けるようにして、のろのろとしゃがみこんでしまった。そんな男を見て、人形は男のふくらはぎに手を伸ばすと、優しく、優しく、服越しにそこを撫でてやった。

 男は人形の意図がわからず、途方に暮れていた。

「ねえ」

 人形はぽんと一つ、男のふくらはぎを手のひらで打つ。酷く、弱い力の入れ方だった。

「何だ」

「女の子にバレないように、連れていってくれるんだろう? 何処に連れていってくれるのかな。君の家かい?」

 男は、全てを理解した。

 やはり、あの問いは、人形の話をしていたのだ。話してくれと己が言ったから、人形は話してくれた、それだけの簡単な話だったのだ。それに対する答えを俺は、この人形に与えたのだ。

 良いだろう。あれは確かに、俺の本心だった、本当にそうするつもりだった。ならば、有言実行に移そうじゃないか。

 男はそう思い、決意に満ちた明瞭な声を上げた。

「わかった、俺と一緒に行こう」

 男は人形の背に手を差し込み、上体を起こすと、乱れた髪を簡単ではあるが手櫛で整えてやった。人形は弄ばれた後を思わせる見た目をしているにも関わらず、始終穏やかな顔つきをしていた。男はそれが、少し不気味だった。

「向こうに着いたら、生活のいろはを学んで貰うぞ」

「君なりに僕を直すのだから、それはそうだね、努力するよ」

「俺の傍では、好きな事をして貰うぞ」

「人に見られながら好きな事をするのは苦手なのだけどね、努力しよう」

 男は人形の着衣を整え、身体を支えてやりながら、立ち上がらせた。男は恐らくこのとき初めて、人形が自分の足で地に足をつけて、立ち上がった瞬間を見た。二本の足でしっかりとその場に立つ人形は、男の胸元程の背丈であり、本当に未だ小柄な子供であることを、男は再度思い知らされた。

 呆けたように人形は、自分が男に支えられながら立ち上がった事を、感慨深そうな面持ちで、己の心の中で咀嚼している様子を見せている。

 男は、人形が歩けるようになるまで様子を見ながら、ふと思い立ち、問い掛けた。

「なあ」

「何だい」

「名前は、あるのか」

 人形はゆっくりと、男を見上げた。その瞳の色は、銀鼠色に透き通っていた。

 人形は一言小さく、己の名前と思わしき単語を、ほとりと一つ、口から溢した。耳を澄まさなければ聞こえない程の、小さな声だった。

「いいな。意味は、あるのか」

「遥かに裏側が続く、という意味だよ」

「この場所みたいじゃないか」

「この場所が、僕だからね」

「違いない」

 男は人形の手を取った。人形は男の手をそっと握り、引かれるがままに身を委ねた。

 過去の記憶ががらくたとして停滞し、積み上がったその路を、男は人形と共に歩いていく。自分のいつもの居場所へと、この人形を持ち帰る為に。数多のがらくたの中で、見つけ出した掘り出し物は、人の心を持った、人の身体をした、人形だった。

 墨を溢した鬱蒼とした世界に、ぼんやりとした光明が差し込む。あの場所が、俺がいつも居る場所だと男が語ると、人形は無表情にその光を見詰めた。

「ねえ」

「どうした」

「君の名前は、何て云うんだい?」

 人形は新たな居場所を前にして、男に問い掛けた。男は間髪入れずに、直ぐ様名前を口にした。

 人形は、受け取った言葉を丁寧に嚥下し、心に刻む。

「意味は」

 問う人形に、男は意味の代わりに名前の字を教えてやった。思ったよりも解りやすい漢字を用いており、人形は容易く意味を理解した。

「この先みたいじゃないか」

「名前負けしないように頑張るよ」

 男が肩を竦めて笑うと、人形も人らしい笑みを浮かべた。


 一人の人間が、無機物に命を与えた。放っておけばそのまま朽ちて干からびる筈だった、運命を狂わされた人形は、己の足で、人間として、これからを生きていく。

 人形に待ち受けているのは、人生だった。

 長い産道を進み、過去の記憶に埋もれた胎児は、今度は己が、それら過去の産物となるべく、現在を紡ぎ、産まれる。


 傍らには、男がいた。

 貴方は、広く耀く世界を、手を引きながら、魅せてくれるだろうか。

 人形は、安心していた。

 きっと大丈夫、きっと上手くいく。だって今、こんなにも、満ち足りているのだから。


 彼は一人の人間として、己の人生を、歩み出した。

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白磁の人形 花房 @HanaBusaxxx

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