第3話 密会

「日本人ってホントパーティ好きよねぇ~」

 披露宴ですか? と思わず訊いてしまいたくなるような豪華な青いドレスに身を包んだ綾が、呆れたように感想を述べた。

「ゴルフ・カラオケ・お酒、に続く接待の定番になりつつあるわね。数年前ならまだしも、今は不景気だと嘆かれている時代なのに」

 あらかじめ綾はド派手なドレスで参加すると聞いていた更紗(さらさ)は、赤い振袖姿で対抗している。

「……」

 墓地清掃の日から五日経っても落ち込みっぱなしの里子(りこ)だが、緑を基調としたタイ・シルクであつらえたイブニング・ドレスで遜色ない。

 更紗たち三人は、あらかた空腹を満たしたのでロビーにて小休止中だ。

 綾が言うように、日本人は何かにつけて一流ホテルを借りた社交的な会合が好きだ。

 社交的な会合なので、仕事といえば仕事なのだが、子供達にはそう見えない。ただの楽しいお食事会だ。

 ほぼ全部の会が家族ぐるみでの参加になるし、どの会場でも複数の知り合いと鉢合わせをするので、滞在期間が長くなればなるほど、女性は着ていくドレスに困る。オンナの見栄もあって、会は違えど同じ格好では参加したくない気持ちから、オーダーメイド・ドレス合戦が静かに繰り広げられる。

 日頃はTシャツにGパンの同級生たちも、こんな夜には着飾ってくる。

 コドモはコドモなりに張り合ってしまうので、ふと気がつくと綾や更紗のような衣装になるのだった。

「……ちょっと失礼」

 何かを思いつめているから青白い顔になっているのか、普通に具合が悪くなって顔色が悪くなっているのか微妙な里子が、席を立った。

 泪が手首を切ってから、里子は一切その件について触れない。

 もちろん、更紗や綾もわざわざその話をしたりしない。里子(りこ)に対し、腫れ物を扱うように接することもしていない。いたっていつも通りなのだが、それでも、他愛ない話でさえ里子は上の空でいることが多い。

 なんでもいいから、里子が自分の気持ちを話してくれるまで待つ姿勢でいる更紗(さらさ)と綾は、さりげなく里子の言動を気にかけている。過労や心労から倒れたりしないか、何かの拍子に泪みたく自傷行為をしないかと心配なのだ。

「大丈夫?」

「食べ過ぎた?」

 更紗の言葉に、里子は力なく微笑を浮かべた。

「うん……。すぐに戻るわ」

 里子は足早に行ってしまった。

「あれ?トイレじゃないのかな?」

 里子がすぐそこの見えるトイレにではなく、反対側の、ホテルの内部へと向かった

ので、更紗は不思議に思った。

「だってそこ、パーティ会場に隣接してるから、混みまくりじゃない。待てるならいいけれど、待てないなら、勝手知ったるなんとやらで別のトイレ行った方が早い」

「……納得」

 ホテルのロビーのトイレだから結構な数の個室が用意されているのだが、確かに、見ていて婦人の出入りは途切れない。

「それはともかく、相当、思い悩んでるみたいね~。里子」

「無理もないでしょー? 泪、微妙だもん」 

「微妙よねぇ~。あれから隆、天羽姉妹にべったりだもんなぁ~。アタシですら隆と口きいてないんだから、一緒に行動してる里子も、同じように校内では隆と接触ないもんね~」

「代わりに、天羽姉妹と隆がべったりよね~。片時も離れてないんじゃない? それこそ、離れてるのはトイレの時だけじゃない?」

「更紗それ、笑えない」

「ごーめーん……」

「……っていうかぁ、今週の泪を見てると、手首切ったの作戦だった? としか思えないんだけど。……アタシがひねくれてるから?」

「ううん、実は密かにあたしもそう思ってたり~」

「でっしょぉ~?」

 語尾が必要以上にだらけてきているのは、ふたりとも食べすぎで苦しいからだ。

 ウエストを締めつけてメリハリある姿態を演出するドレスや、全身をきっちりと締めつける振袖だと解かっていても、色気より食い気のふたりはたらふく食べてしまったのだ。

 できることなら今すぐこんな窮屈な服は脱いでしまいたいと、ふたりは本気で思っていた。

「あ、タマゴ女!こんなトコに居たのかよ」

 理由は違えど、こちらも疲れきった表情の辰哉が、更紗たちを見つけて寄ってきた。

「……愛想もこそもない、オーソドックスなタキシードね、長谷川辰哉」

「……」

 苗字と名前を続けて呼ばれるのが嫌で仕方ない辰哉だったが、自分もついつい「タマゴ女」と呼んでしまうので文句は言えなかった。

「今夜はお招きありがとう」

 綾が立ち上がり、スカートの裾をつかんで恭しくおじぎをした。

「……オレが招いたわけじゃねーよ。つか、別にアイツもオマエを招いたわけじゃねーだろ?親御さん、病院関係者だっけ?」

「No! 診療所(クリニック)よ」

「似たようなモンだろ?」

「微妙に違うわよ」

「……。とにかく、礼を言いたいなら、アイツに言えよ」

「そんなの挨拶と共にとっくに済ませてるに決まってるじゃなーい! 言ってみただけよ」

「……」

 そぉいうオンナだよなオマエは、と辰哉は茶目っ気たっぷりな綾に対して溜息をこぼし、更紗(さらさ)の隣に腰をおろした。 

「不本意ながら、何度かアイツ絡みのパーティにも出席したことあるけどさ、ここもすげーよな。正直、ここまで派手で華やかなモンになるとは思ってなかったよ。つか、日本のパーティよかタチ悪ぃかも」

「社交辞令と歯の浮くようなおべっかの嵐で、何かしら仕事につなげようとするのが見え見えだから?」

 揶揄するような口調の綾に、辰哉は大きく頷いた。

「さすがのアイツも多勢に無勢で嫌になったらしく、磯野見つけて話し込んでたんだけど、今度は磯野が逃げ出しやがった。……ま、当然なんだけどさ。オレはオレで、アイツの息子だと色眼鏡で見られたくねーからさ、食うだけ食って逃げ出してきたってわけだ」

「おつかれ~」

 それより、と辰哉は周囲を見回しながら言った。

「あいつら、見かけなかった?」

「あいつら?」

「隆と双子」

 更紗と綾は苦虫を噛み潰したような表情で顔を見合わせた。

「いつから、隆と双子が一括りで認識されるようになったわけ?」

 棘のある綾の言い方に、辰哉はばつが悪くなった。

「……え、なに? 実は佐久間も……隆に恋してるひとりだった?」

「質問に質問で返さないでくれる?」

「……」

 その怒ったような口調は肯定なのか? オレはマズイ事を口走ったのか? と辰哉は誰が見てもはっきりわかるくらいに動揺して困惑していた。

 バカだこいつ……、と笑いたい衝動を必死に抑えながら、更紗は素知らぬ顔で綾と辰哉の会話を見守っている。

 逡巡しつつ、綾の顔色を伺いつつ、辰哉は歯切れの悪い口調で話し始めた。

「あの手首切った日からさ、双子が隆を離さないんだ。詳しくは知らねーけど、手首切った方、最近、情緒不安定なんだって? 片割れが言ったんだか本人が言ったんだか忘れたけど、落ち着くまで傍にいて欲しい……みたいなこと頼まれたからって、隆、何かにつけて気ぃ遣ってんだよ。今夜も、頼まれてるからか自発的かはわかんねーけど、隆、双子を迎えに行ってんだよ。会場に着いて一息ついたら話があるから聞いてくれって言われてっから待ってんだけど、一向に姿が見えねーからさ、散歩がてら探し始めたってわけだよ」

「そう……。今夜の状況はわかったけど、まだ質問には答えてないよ?」

「え? 嘘? なんで?」

「いつから隆と双子が一括りで認識されるようになったの?ってアタシは訊いたの」

「あ……。だから、手首切った日からだよ。貧血で倒れたってことになってるけど、第一発見者が隆ってのは変わんねーし、介抱がきっかけで急接近、ひょっとしてつきあってたりして?ってのが、ここ最近の周囲の見方」

「ふ~ん……」

 綾と更紗は半ば怒りながら頷いた。

「あ……、オレ、隆、探しに行ってくるわ。隆見かけたら、オレが探してたって言っといてくれよ」

 じゃあな、と辰哉は更紗や綾の返事を待たずにそそくさと行ってしまった。

「……手首切ったの、わざとね?」

「……おそらく」

 ……信じらンない! と綾が憤慨した。

「冬休みを除いたら卒業式まで半月くらいの今なら、やったモン勝ちだもんね! 卒業しちゃったら、互いに帰国したって都道府県が違えばそう頻繁に会うこともないから尾も引かない! そりゃ、大胆なコトもできるわけよ! たとえとっくの昔に失恋してたって、オモテ向きカノジョなしの隆を独り占めできたら、同じように敗れ去って行ったオンナたちに対しても優越感に浸れるだろうしさ!」

「確かにそうだけど……。でも……」

「So What(でも、だから何)?」 

 判らなくもないが、怒り心頭の綾は、更紗に対しても噛みつかんばかりの勢いと口調だ。

 更紗は、自分が直接何かをしくじったりしたわけではないので、綾の怒りをなんとも感じずに受け流しながら自分の考えを口にする。

「……泪がそこまで計算できるようには……思えないな。あたし」

「Why(なんでよ)? 実際、やってるじゃない!」

「実際やってるけど、ちょっとした事ですぐに情緒不安定になってしまうくらいココロが弱い泪は……、自分の事だけでいっぱいいっぱいのような気がするのよね。自分しか見えてないっていうか……、そこまでいろいろ見据えて行動起こす余裕はないんじゃない?」

「自分しか見えてないから、あんな公衆の面前で手首を切るなんてクレイジィなコトができるんじゃん? 人間、追い詰められたら何しでかすかわかんないモンよ。……だから、里子(りこ)が心配」

「あ……そういえば、戻ってこないね、里子」

 胸騒ぎを覚えながら、更紗は腕時計を見た。

 里子が席を外してから、ゆうに十五分は過ぎている。

 普通にロビーではない場所のトイレに行ったものだと思っていたが、それにしても

ちょっと長いような気がする。トイレだとすれば、気分が悪くなって動けないでいるのかもしれない。

「アタシ、ちょっと探してくるわ」

「じゃあ、お願い。あたしは外の空気に触れたいから……、別館の中庭の噴水のところで落ち合わない?」

「OK! See you(後程)!」

「See you soon(またね)!」

 更紗は座ったままで手を振り、綾を見送った。

 ほんとに胃が苦しいなぁ~、と食べすぎを後悔しながら更紗が立ち上がろうとしたら、大慌てての隆が更紗の前を走りすぎようとした。

「あ! 更紗!」

 通りすがりに視界に入ったのが更紗だったので、隆は急停止をした。

「あ……隆……」

 意外なところで意外な人物と会い、噂をすればなんとやらだわ……と更紗は苦笑した。

 一人? と更紗が尋ねる前に、隆が安堵したような笑みを浮かべながら言った。

「振袖とは、また派手な衣装で……」

「狭い日本人社会内だと、オンナはドレス調達に困るのよ。今夜も見たところ、男子はみんなオーソドックスなタキシードね」

「単に楽だからさ」

「羨ましい……。それはそうと、長谷川辰哉が探してたわよ」

「ほんと? いつ頃?」

「さっき」

「待たせすぎで怒ってた?」

「ううん。心配してた」

「心配?」

「そ。泪のことで」

「……」

 泪、と聞いて隆は暗い表情になり、足元へと視線を落とした。その姿から、隆なりに苦労しているのが伺い知れる。

 隆も厄介なことに巻き込まれたもんね……、と内心では同情しつつ、更紗はなんでもない雰囲気で淡々と言った。

「伝言は、確かに伝えたから……あたしは行くわ」

「え? ……ああ」

 立ち上がった更紗を、隆はちらちら気にしている。

「じゃあね」

「……更紗!」

 歩き出した更紗を、切羽詰ったような声音で隆が呼び止めた。

 更紗は黙って立ち止まり、肩越しに隆を見た。

「……何も……訊かないんだ?」

「訊いて欲しいなら、訊くけど?」

「……」

 逡巡する隆の気持ちを楽にさせたい一心で、更紗は言った。

「少なくてもあたしは隆がバカじゃないことを知ってるし、多分だけど、里子(りこ)も綾も……あ、きっと、あのバカな長谷川辰哉も、隆の立場が微妙だってコト理解してると思うわ。だから、今までと変わらない態度で接してると思うし」

「……そっか。Thank you(ありがとな」」

 心なし、隆の表情が明るくなった。

「your welcome(どういたしまして)。……あ、そうそう」

 隆が多少はいつもの調子を取り戻したと解釈した更紗は、とびきりの笑顔を見せながら遠慮なく言った。

「今、里子、ぷち行方不明中だから、見かけたら、別館の中庭の噴水のとこで待ってると伝えておいてくれる?」

「……え? ぷち……行方不明?」

 透は自分の耳を疑い、更紗を凝視した。

 更紗は笑顔のままだったが、眼が笑っていなかった。どう見ても、怒っていた。

 ここ数日の里子の元気のなさは、隆も知っている。

知っているが、双子に流されるまま時間が取れなくて放置状態だ。里子は、何も言って来ない。彼女なりに、気を遣っているのだろう。それを間近で見ている更紗だから、更紗なりに釈然としないのだろうと隆は瞬時に理解した。

「あの、更紗……!」

 聞く耳は持たない、と更紗は全身で拒絶しながら、それでも今度は本物の笑顔で「じゃあね」と言って手を振り、気品のある歩き方でゆっくりとロビーを後にした。

「……更紗」

 隆は深い溜息をついた。

 いつまた雫に呼び出しを喰らうかわからない状態だが、少しでも自由に動ける時間があるのなら、里子と話をしてきちんと状況を説明すべきだな……。

 里子のことを忘れていたわけではないが、結果として長い間放置していた事実を突き付けられ、隆は滅入った。

 筋を通すのであれば、先約の辰哉との事を優先にすべきだが、状況が変わった。『ぷち行方不明中』だなんて穏やかじゃない事態の里子を探し出すのが先決だ。

 情緒不安定ゆえに手首を切った泪を目の当たりにしているだけに、隆は里子(りこ)がものすごく心配だった。聡明な里子が自傷行為などするわけないと思っていても、それは絶対じゃない。とにかく里子を探し出さないと……と胸騒ぎまで覚え始めていた。

 きちんと説明すれば辰哉もわかってくれるだろう、と隆は都合よく勝手に期待して里子を探し始めた。

 闇雲に探しても効率が悪いと思い、まずは、すぐそこのパーティ会場を探しがてら目撃情報を得ることにした。



                 2



【せっかくの晩餐会だというのに、ちょこまかと落ち着きがないなぼうずは!】

 急ぎ足で別館の中庭に向かっている辰哉に、おっさんが恨めしそうに言った。

「仕方ねーだろ? オレだってゆっくり飲み食いして、……飲み食いしながらでもいーんだけどさ、隆の話を聞く予定だったんだよ!」

【……隆とやらも、ぼうずに輪をかけてばたばたしてるな、最近は。あちこちに気が散ってるから、あんな醜態をさらすのだ。……まったく、せっかくの晩餐会だというのに……】

「あー、もー、いつまでもうっせぇな! 明治のオトコなら、寡黙でいやがれ!」

【……】

 辰哉に一喝され、ヘソを曲げたおっさんは、辰哉の心の奥底へとその気配を隠した。

「―ったく! どいつもこいつも!」

 血は争えないな……、と、一応用心している辰哉は、声に出さずにそう呟いた。

 作家という立場上、パーティに出席すれば、入れ替わり立ち代りで立ち話を余儀なくされる。それが億劫だと嘆いているくせに、辰郎は誘いがあると仕事を放り出してでも参加しようとする。なんのかんのといって、根はパーティ好きなのだ。

 おっさんはその昔、副業で新聞社の特派員もやっていた事があるという。

 それで結構海外を渡り歩いたらしく、大小様々な晩餐会を経験し、気づけば晩餐会

会好きになっていたという話も聞かされた。久しぶりのシンガポールでの晩餐会をこの上なく楽しみにしていたおっさんだから、機嫌を損ねるのも頷ける辰哉だ。

 事前におっさんの晩餐会好きを聞いていた辰哉は、別行動ができないおっさんのために、自分がまんべんなく回ることで楽しんで貰おうと思っていた。

 ある程度はそれができていたのだが、合流した隆がそわそわと落ち着きなく、浅山雅代に泪が呼んでいたと言われて向かおうとした時に、うっかり見知らぬ女性にぶつかってしまい、彼女が持っていたグラスの中身をぶちまけてしまったのだ。女性は気にすることないと言ったが、律儀な隆は平謝りをし、染み抜きを手伝うとかなんとかで、泪に遅れることを伝言してくれと辰哉に頼んだのだ。

 たかだか数分のことなのだから、たまには待たせておけばいいと思う辰哉だったが、頼まれて引き受けてしまった以上、気が進まなくても速やかに遂行するしかない。

 最近、風の便りで、だいぶ昔に泪は隆に失恋したということを聞いた。

 情緒不安定が顕著になったのは、失恋してからだという。それまでの泪は、物静かで控えめな微笑みが印象的な、ごくごくふつうの女の子だったらしい。活発な妹の雫に頼りすぎな面がなきにしもあらずだったが、それでも、人前で号泣したり倒れたり欠席続きになったりはなかったという。

 それを聞いてから、辰哉の泪を見る目が変わった。

受験生だし、慣れない海外生活でストレスが溜まって情緒不安定になり、行き詰った挙句に手首を切ったんだ……と思って、辰哉は少なからず同情していたのだ。

 それが、思ったより悪くなかった日本人学校生活に馴染んでくるにつれて耳にした裏事情により、泪に対する気持ちは怒りに変わってしまった。

 泪が隆を好きなことは、見ていてよくわかる。

 特に今、泪はこの上なく幸せそうだ。

 四六時中と言っても過言ではないくらい、泪は隆の傍にいる。

 少しでも隆の姿が見えなくなれば、雫がすぐに探し出してくる。隆も雫も、泪が手首を切るくらいに情緒不安定で、今後、今度は何をしでかすかわからなくて怖いから目を離せないだけなのに、泪は勝ち誇った微笑と態度で当然のようにそれを受け入れている。

 隆は、本当にお人好しだ。

 ついでに、責任感も強いし誠実だし優しい。

 告白されても、好みじゃなかったらつきあわないのは当然のことだ。むしろ、その方が親切のような気がする。断られたから食事も喉を通りません、生きる気力を失くしました、プライドが傷つきました、……なんてことを言われても、そんなのは相手の勝手ではないだろうか? 交際を断った相手の未練につきあうこともないし、そんなことにいちいちつきあっていたらキリがないと辰哉は思う。

 隆もそれは重々承知だと言っていたが、泪に関しては、断わる時の言葉の選び方がマズかったのだろう、と気に病んでいる。その罪悪感から、泪のワガママにつきあっているのだ。

 泪が何を考え、周囲の態度をどう受け止めているのかがさっぱり見えてこないので、辰哉は泪が嫌いになった。

 泪を甘やかしている雫ともども、一発説教をかましてやりたい心境の今日この頃だ。

 そんなこんなで、辰哉の足取りは重かった。

 パーティ会場となっているこのホテルは、本館と別館がある。

 パーティは本館で行われているが、辰哉が向かっているのは別館だ。

別館は本館よりさらに奥にあって、閑静でゆったりとした空気が漂い、宿泊客しかいない。

 建物は『コ』の字になっていて、中庭の中心にはとても大きな噴水がある。夜は幻想的な雰囲気を醸し出す照明が美しく、風にあたりにくる客がちらほらとだが後を絶たないと、隆が教えてくれた。

「……たつ――」

 パーティ会場独特の空気に疲れた絵夢が、気分転換をしたくて別館にある名物の噴水へ向かっている途中、辰哉の姿を見かけた。

 なんでこんなところに一人でいるのだろう? と不思議に思って声をかけようとしたが、なんだか怒っているような感じの足取りだったので、絵夢は声をかけられなかった。

 辰哉も気付かない様子で、ずんずん行ってしまった。

 噴水のところでゆっくりしたかった絵夢だが、同じように辰哉が息抜きをしたいと思っていたら迷惑かな?と思って踵を返した。

 昔のように他愛のない話で盛り上がって楽しい時間を過ごしたい絵夢(えむ)だったが、それは既に叶わぬことだと自覚しているので、苦笑するしかなかった。

 なんだかなー、と思いつつ、一人になれる場所を求めて絵夢は周辺をうろつき始めた。

 すぐそこまで来ていた絵夢の気配に見事気付かなかった辰哉は、目的地の噴水のところまでやって来た。

 ――が、誰もいない。

 周囲を見回したが、異様にでかい噴水があるだけで、人っ子一人見当たらない。

 場所も時間も合ってるよなぁ?と辰哉は不安に思って腕時計をみた。

 まだ二十一時をちょっと回ったところだ。

約束の時間は二十一時だが、二~三分遅れたくらいで怒られたら、逆にこっちが怒るぞ!と辰哉は不機嫌さに磨きをかけていた。

 同時に、誰もいない噴水を見ながら、二十一時なら、大人にしてみればまだまだ宵の口なのか……と思い直した。

 多民族国家ならではのそれぞれの国民性の違いなので許容するしかないのだが、シンガポールでは、例えば、十九時から食事会を始めると招待状を出していても、全員が揃うのは一時間から二時間後、というのが普通だったりする。

 なんのための約束の時間なのかと疑問に思うのは、約束時間前に到着している日本人だけだ。

 だから、実際に食事にありつけるのは十九時から二時間経った二十一時ということも珍しくない。それまでの間に、お茶やらちょっとしたお菓子などを頂けたりする場合もあるので、食事会が始まる頃には既に満腹という笑えない話も多々ある。

 そんな話を思い出した辰哉は、気が楽になった。

 シンガポール生活が長い泪なら、多少はそういう時間にだらしない習慣に染まってしまっていても仕方ないだろうと思ったからだ。

 泪が来るまで噴水のところで座っていようかと辰哉が思った時だった。

 不意に、違和感を感じた。

 なんだかわからないけれど、何かが迫り来るような気配がしたのだ。

 何処から何が自分に向かってきているのか皆目検討がつかなかった辰哉は、なんとなく、何も考えずに顔を上げた。

 顔を上げて、思考回路が停止した。

 頭の中が、真っ白になった。

 有り得ない、とただそれだけを思った。

(嘘だろ? おい……)

 辰哉は、遥か頭上から落ちてくる泪(るい)を凝視しながら、ずっとそう思っていた。

 泪が、笑っているように見えた。

 満面の笑みを浮かべながら辰哉の胸へと飛び込んでくるように見えた。

 だがそれは、途中から驚きと拒絶の表情に豹変した。

 違う!

 泪は、全身で辰哉を否定していた。

 違う!

 違う!

 違う!

 隆くんじゃない!

 隆くん隆くん隆くん…………

 泪の断末魔のココロの叫びは、「隆くん」だった。

 時間にすればほんの数秒だったはずだが、辰哉にとっては、とてもとても長い時間だったように感じた。

 一瞬の出来事のはずなのに、泪の表情の変化が見えた気がしたし、隆を呼び続けている声を聞いたような気もしたからだ。

 ―――どすっ

 辰哉の目の前で、鈍い音がした。

 泪は辰哉をめがけて落下してきたのだが、辰哉は無意識でその落下物を避けていた。

 赤い液体の中に、奇妙な格好をした泪が横たわっている……。

 辰哉は呆然とソレを見ていた。

「―――っ! 長谷川辰哉っ?」

 嫌な感じの物音を聞いた更紗が、慌てて現場へ走って来た。そして、そこに居た辰哉と泪を見て驚いた。

 偶然、更紗(さらさ)は辰哉とは反対側の噴水のところに座っていたのだ。何をしていたかといえば、綾と里子(りこ)を待っていたのだ。

 噴水は無駄に大きいし、噴き出している水の量も半端なく多くて派手なので、反対側に誰かいてもまず気付かない。

 更紗も、変わり果てた泪の姿を見て言葉を失った。

 更紗にとっても、その姿は悪夢以外なにものでもなかった。

 泪から目が離せずに呆然と立ち尽くす辰哉を、更紗は乱暴に揺さぶった。

「ちょっと! 長谷川辰哉! しっかりして! 大丈夫?」

「……」

「ちょっと!」

 尚も更紗が揺さぶると、辰哉はぐにゃりとその場に崩れ落ちた。

「長谷川辰哉っ!」

 血の海の中で座り込む辰哉の目の前で、泪が驚愕に目を見開いている。

 ……既に息はなかった。

 五階建てのホテルから飛び降りたのだ、即死でもおかしくない。

「な……んで? なんで、こんな……。本当なら、ここには、隆が……」

「――え?」

 辰哉の一言で、更紗の動揺は少し落ち着いた。

 泪が手首を切った時の第一発見者は、隆だった。そして、本来なら、この場に居たのも隆のはず……だった……?

 更紗は息を飲んだ。

 自傷行為を行ったり繰り返すのは、周囲へのその人間なりの精一杯なSOSだという話を聞いたことがある。

 泪の場合も、それが当てはまるだろう。泪は、隆に失恋したけれど、未練を断ち切れずにいた。情緒不安定になってしまうくらい、隆が忘れられなかった。思いつめすぎて手首を切ってしまい、結果、隆が傍にいてくれるようになった。

 泪は、隆が同情から傍にいてくれていることを……知っていたかもしれない……。   それでも、隆を繋ぎ止めたかったのだろうか……。

(でも、いくらなんでも……やりすぎ……)

 死んでしまったら、元も子もない。

 死んでしまったら、全てが水泡に帰す。

 死んでしまったら……取り返しがつかなければ、やり直しもきかない――。

(泪はこれからどうするつもりなんだろう?)

 焦点がズレたことを本気で考えてしまうくらいには、更紗も混乱していた。

 こういう場合、すぐに救急車を呼んだり警察を呼んだり、多少でも息があれば応急処置をしたりしなければならないのだが、そんな余裕はない更紗と辰哉だった。ただただ、「有り得ない」「信じられない」「嘘だ」……といった感情に支配されていた。

 見ているけれども見えていない、という妙な状態で、更紗と辰哉は泪と対峙している。

 どれくらい時間が経ったのか、わからない。

「辰……哉? ――る……い?」

 不意に、更紗と辰哉の背後で第三者の声がした。

 更紗がゆっくり視線を移動すると、なんとも表現しがたい表情の隆がいた。

「る……い?」

 隆が辰哉の肩に手をかけ、押し退けて泪に近づこうとした瞬間、辰哉が勢いよく立ちあがった。

「見るなっ!」

 見るな、と言うにはいささか時間が経ちすぎていたのだが、第三者に触れられることによって我に返った辰哉は、隆を力いっぱい抱きしめた。

「関係ない! 隆は関係ない! 隆の責任なんかじゃない!」

「る……い……なのか? 泪、だよ……な? なん……で? なんで……泪、ぐしゃって……潰れ――」

「見るな! 見るな、隆! これは事故だ! オマエは関係ない!」

「……俺、二十一時に、別館の、噴水のとこで、泪に、話があるって、呼び出されてた、よな?」

「隆っ!」

 辰哉に抱きしめられながらも、隆は空を見上げた。

 五階建てのホテルの上に、満天の星が見える。

「……待ち合わせ、噴水、じゃ……なかったの? 俺、屋上への行き方なんて……知らないよ? 俺、屋上だなんて、聞いてないよ?」

「隆……」

 辰哉は半泣き状態だった。

「長谷川辰哉……」

 やっとの思いで、更紗は辰哉の名を呼んだ。

「タマゴ……女?」

 助けを求めるようなまなざしで、辰哉は更紗を見ている。

「長谷川辰哉……、隆を連れて、誰か、大人を……、二葉亭辰郎センセイを……、いえ、センセイと一緒に居る誰かに頼んで、警察を……。救急車を……」

「わ……わかった……」

 隆、行くぞ……と声をかけても、隆は泪を凝視したままで茫然自失だった。

「……タマゴ女は?」

「あたしは……。……大人たちが来るまで、ここに居るわ……。宿泊客とかホテルの人間に対応するためにも……」

「わかった……」

 更紗と辰哉は互いに意味もなく頷きあった。そして、危なっかしい足取りでゆっくりと辰哉と隆は現場から離れた。

【更紗……】

 更紗と同じように衝撃に打ちひしがれている雪子(せつこ)が、更紗の傍らに姿を現した。

「……」

【……】

 雪子もすぐには言葉が出てこない。実体がないから無理なのに、雪子は更紗を支えようとしてぴったりと傍に寄り添っていた。

 しばらく無言のままだった更紗が、泪を見たままかすれた声で言った。

「泪……この近くに、います?」

 自分の領域である日本人墓地公園以外ではほとんど目が利かない更紗(さらさ)なので、同じ魂だけの存在の雪子に尋ねてみた。

【え?……そういえば、彼女の魂、見かけませんわね……】

 周囲を見回しながら、雪子(せつこ)は眉をひそめた。

【おかしいですわ……。普通、事故にしても自殺にしても、しばらくは恐慌状態に陥って、自分の肉体の周りをウロウロしたりするものなのですが……】

「……」

【……どう見ても、彼女は完全に亡くなってますわ。それなのに――】

 はっ! っと雪子は更紗を見た。

【精霊……、魂だけの存在になった者は、どこへでも自由に移動することが可能ですわ。ひょっとすると彼女は、肉体を捨てることによって、自由に動き回りたかったのでは……?】

「……あたしも、そう思ったんです。今の泪なら、やりかねない……」

 更紗は首を横に振った。

「もし、ほんとに、泪が隆の傍に居たくてこんな真似をしたのなら、…………」

 言葉にならない更紗に代わって、雪子が言った。

【時間が経てば経つほど、彼女は『悪霊』になっていくだけですわね……。自ら命を

絶った者の魂は、ただでさえ救済されにくいですから……。かつてのわたくしのからゆきさん仲間でも何人かが、首を括ったり海に身を投げたりしましたけれど、哀しみや嘆きや恨みつらみが強すぎて、なんの罪もない人を同じ目に遭わせようとしたり、幸せそうな人にちょっかいをかけたりして、堕落して悪霊と化していきましたもの……】

「隆しか見えていない泪なら、きっと、隆に自分の存在を知ってほしくて沢山ちょっかいかけるような気がします。けどそれは、隆にしてみたらタチの悪い『霊障』でしかないから、目に余るようだったら、然るべき所へ相談に行くと思います。多分、ババアの所へ……」

【あの方の霊力は、本物ですわ】

 雪子が怯えながら言う。

【あんなすごい眼力は、生まれて初めてでしたわ。わたくしも、もう絶対に見つかって消滅させられると覚悟しましたもの……】

「そんなに……すごかったんですか」

 更紗(さらさ)は今更ながらにババアの霊力に感心した。

【なんていうんでしょう……。彼女にとって、この世に彷徨う全ての魂は『悪』みたいですね。死者は死者の国から出てきてはいけない……という強い思いを感じましたわ】

「わかるような気がします……。だからあたしは、雪子(せつこ)サンの存在を知られたくないんです。……できることなら、泪も、ババアの目には触れて欲しくない……」

【更紗……】

「自殺しちゃったら、なかなか成仏(あが)れないっておばーちゃんも言ってます。けど、絶対に成仏れないわけじゃないし、輪廻転生の輪にも戻れるとも言ってます。宗教によって考え方は違うと思いますけど、あたしは、おばーちゃんの考えに同感なんです。だから、問答無用の力技で魂を消滅させちゃうババアがキライなんです」

 うんうん……と雪子は嬉しそうに頷いた。

 更紗は、『生者』や『死者』という区別はしないで接する。

 その姿勢が、この世に留まり続ける者にはとてもありがたい。時間がかかる場合もあるが、更紗は決して急かさない。それは、夜な夜な魂鎮めを兼ねた唄を歌いに来てくれることからも、信じられる。更紗の傍に居ると、気持ちが救われて自然と成仏(あが)れそうな気がしてくる。だから更紗には、その姿勢を崩さないでいてほしいと思う。

 理由はどうであれ、精霊になってしまったからには、泪にも彼女なりにきちんと納得した上で然るべきところへ行ってほしい雪子だ。

【そうね。無理矢理消滅させられちゃう前に、彼女の魂を探し出して説得してみましょう。一筋縄でいかないのは火を見るより明らかだけど、挑戦してみる価値はありますもの】

「雪子サン、協力してくれますか?」

【もちろんよ。――あら?】

 力強く微笑んだ雪子(せつこ)だったが、何かを確かめるかのように泪(るい)へと一歩近寄った。

「どうしたんですか?」

【更紗(さらさ)……アレ……】

「?」

 雪子が指差したのは、泪の左手だった。

 よくよく見ると、何かを握っている。

【アレ……、更紗のふたりのお友達が持っていた飾りと……似てません?】

「――え? あ、ほんとだ……」

 更紗も泪に近寄り、気持ち前屈みになりながら泪の左手を見ると、確かに、『凹』のカタチをした飾りを握っている。

 綾や里子が持っていたモノと同じだ。

「……どうして?」

 ごちゃごちゃと考える前に、更紗は泪の手から『凹』のカタチをした飾り――もちろん、鍵も一緒についていた――を失敬していた。  

 絶対にこんな真似をしてはいけないと頭ではわかっていたが、気になって仕方なかったのだ。見つかったら潔く謝罪して怒られる覚悟で、更紗はそれをそっと胸元に隠した。

【更紗……】

 心配する雪子に、更紗はぺこりと頭を下げた。

「ごめんなさい。悪いことだとは重々承知です。けど、今は見逃してください」

【わたくしは別に構わないんだけど……。くれぐれも、他の人には見つからないようにね。……ほら、人が来たわ】

 言い終えるや否や、雪子は更紗の体の中へと姿を消した。

 辰哉と隆の姿はなかったが、辰郎を筆頭に、たくさんの大人たちがやっとやってきた。遠くからはサイレンの音も聞こえてきた。

 駆け寄ってきた大人たちが更紗を心配したが、更紗はさほど取り乱さずに対応できた。


 

                 3



「だから私は見たのよ! 見たって言ってるでしょうっ? 私だけじゃないわ! 雅代……浅山さんだって見てるのよっ? だから、間違いないわっ! 粟生田(あおうだ)さんが泪を殺したのよ! 泪を返してよ! とっとと自首しなさいよっ!」

「雫……。いい加減、やめろよ。里子(りこ)……粟生田はそんなことしない。そんなヤツじゃないよ」

 泣き喚く雫の肩を抱き寄せ、隆は懸命に雫をなだめすかしている。

 雫は、隆の胸を叩きながら隆をなじった。

「隆くん! どうしていつも粟生田さんを庇うのっ? 何か粟生田さんに弱みでも握られてるの? 粟生田さんは人殺しなのよっ?」

「わたしは……殺してなんかいない!」

 里子は、血を吐くような思いでそれだけを強く主張する。言い訳も説明も何もしない。ただ、「殺していない」と強く繰り返す日々だ。

「嘘つきっ!」

 隆に肩を抱き寄せられているので身動きが取れないが雫だが、それでもなんとか身を乗り出して里子を殴ろうと足掻いている。

「いいかげんにしなよっ!」

 こちらも、もう、何度目かわからないくらい同じ内容で怒鳴りつけてる綾が、今日もまた里子の傍らで雫へ言い返している。

「里子はずっとアタシと居たって言ってるでしょっ! アタシらはあの時間、確かに別館に居たけれど、ずっと話し込んでいたんだって! 1階のロビーで。その証拠に、アタシも里子も事情聴取はされたけど、捕まってないじゃないっ!」

「まだ捕まっていないのは、シンガポールの警察が頼りなさすぎるからよ! ねえ、みんな! どう考えても不自然でオカシイと思わない?」

 雫は、いつもと変わりない朝の時間を過ごしているようでいてしっかりと聞き耳を立てている級友たちに向かって、問いかけた。

「粟生田(あおうだ)さんや佐久間さんはいつも如月さんと三人で行動しているくせに、あのパーティの日も途中までは三人一緒だったってことが判明しているのに、泪が死んだあの時間帯だけ、別行動だったのよ?」

 その話を知らない生徒はまずいないという今、無責任な野次馬たちの好奇心は、どうしても雫や隆や更紗たち三人から離れられない。

 食うか食われるかのギリギリで仕事をしている親を間近で見ているからか、まだ中学生だというのに、日本人学校の生徒の大半は、大人顔負けの損得勘定が自然とできるようになっている。

 だから、当事者でない限り、迂闊に口を挟む真似なんてしない。

 遠くから眺めて後でこっそりと陰口を叩くのが、お決まりの流れだ。

 骨身に染みてそれを知っている更紗たち三人だから、何かあってもなくても話をする時には徹底して教室な雫のしたたかさに苦い思いをしている。

 不特定多数の前だから、ある意味、言質を取られることになりかねないからだ。

「そのことについても、粟生田さんはもちろんのこと、佐久間さんでさえはっきりと説明してくれないし……。不自然だし、怪しいじゃない! 粟生田さんが泪を殺してないのなら、もっと堂々と身の潔白を証明すればいいじゃない! ただ「殺してない」を繰り返すんじゃなくて! そう思わない?」

 教室内を、肯定の空気が漂う。

 事件が起こってから時間が経てば経つほど、理由はともかく、里子(りこ)がはずみで泪を殺してしまったのではないかと思うようになってきているのが、はっきりと伝わってくる。

 ちらちらと里子を見る視線が、徐々に冷たく、軽蔑を含んだものになってきている。

 何故なら――、全員が全員ではなく、一部だが、彼ら彼女らはとある噂を耳にしているからだ。

 噂は事実無根なのか、それとも、事実なのか、それを里子の口から聞いてみたいというのが本音で耳を傾けている。

「わたしは、絶対に殺してなんかない」

 里子(りこ)は強いまなざしで雫を見据えながら繰り返した。

「……」

 雫は忌々しそうに里子を睨みつけている。

 綾は悔しそうに舌打ちをした。

 あの夜、里子は、人目のつかない場所で吐いていた。

 隆も『二葉亭辰郎来星記念晩餐会』に参加すると言っていたのに、全然その姿を見せないし双子も見当たらない。責任感が強くて優しいのが隆の性格だと知っていても、日々、ひょっとしたら心変わりしてしまったのではないかという不安が大きくなっていって……里子は独りで葛藤し続けていたのだ。

 そんな憔悴しきった里子をもう見てられなくなった綾は、半ば強引に里子の心の内を聞きだした。

 それが、あの夜の……空白の時間として雫が疑っている時の出来事だった。詳細は語らなかったが、警察でもその話をして信じてもらえたから、綾も里子も他の生徒たちと同様に事情聴取だけで済んだのだ。

 ただでさえ姉が突然あんな死に方をしてしまい、取り巻く状況も雫の心情も非常事態だと知っていて、実は中3になってからすぐに隆と里子は付き合っている……という隠し通してきた事実を、いくら雫が嫌いだからといって、口にできるほど綾の性格は悪くない。

 何を考えているのかは判らないけれど、里子も隆もその事実を公にするつもりは今のところなさそうなので、尚更、綾は何も言えない。

「だから、あの夜は、あたしの気分がすぐれなくて、あたしだけ風に当たっていたって言ってるでしょ」

 言葉に詰まる綾に代わって、更紗が落ち着いて答えた。

「せっかくのパーティだから、ふたりにはあたしに構うことないって言ってあったと、何度言えば納得するの? あたしが別館の中庭で休んでることを、綾や里子を見かけたら伝えておいてくれるよう隆にも頼んであったし、長谷川辰哉にも似たようなことを話してたことの裏づけが取れたから、綾たちのアリバイ証明になったんでしょ」

「……」

 鬼のような形相で、雫は更紗(さらさ)を睨みつけた。

「それは、あんたたちが仲間だから庇いあってるだけの話でしょ? 私も浅山さんも見たんだから。……ねぇ?」

 雫は、少し離れたところで栗山美樹たち数人に守られるような形で一緒に居る、暗く沈んだ表情の浅山雅代に話をふった。

「……う、うん」

 浅山雅代は、雫や更紗たちと顔を合わせないよう俯いたままで頷いた。

「浅山さんからも、言ってやってよ」

「……う、うん」

 雫に言われ、浅山雅代は非常に困った表情になった。

 みんなの視線が自分に集中していることが、嫌みたいだ。ややあって、浅山雅代はぽつりとぽつりと言った。

「……友達が……別館に宿泊してたから……、ちょっと、遊びに行ってたのね……。その帰りに……、……すっごく顔色の悪い粟生田さんが……屋上から駆け下りて来て行ってしまうとこを……見ちゃった……。一瞬だったけど……あれは粟生田(あおうだ)さん……だったと、思う」

「嘘よ! そんなの!」

 綾が怒鳴りつけた。

「嘘じゃないわ! 私、泪に、粟生田さんに呼び出されたんだけど……どうしよう、って困って相談持ちかけられたから、慌てて、隆くんに連絡したんだから! 私、泪から目が離せなかったから、浅山さんに伝言頼んだのよ! ね?」

「う、うん……」

「……」

 浅山雅代から伝言を受けたのは確かな隆は、複雑な気持ちで里子を見ている。

 里子も隆をまっすぐ見つめている。

 更紗は、ほとほとうんざりしていた。

 里子は見るからに疲労困憊で、綾は怒り心頭。隆も気の毒なくらいやつれてしまった。

 辰哉は……違った意味でげっそりしている。

 泪は、不慮の事故死として警察でも捜査を終了しているのに、雫は、里子が殺したと声を大にして言い張る毎日だ。

 最初は、泪が亡くなって気が動転しているだけだと思っていた級友たちだったが、日増しに、ひょっとすると雫の言うことは本当かもしれない……と思うようになってきていた。

 時期を同じくして流れ出した『噂』の内容も、雫の言葉を裏付けていたからだ。

「私、知ってるのよ」

 教室内の生徒の視線をいっせいに集めながら、雫は勝ち誇ったように言った。

「粟生田(あおうだ)さんも、隆くんが好きなんでしょ?」

 やっぱり……、とあちこちから合点のいった声があがった。

「―――っ」

 里子は目を見開いて色を失っている。

 更紗と綾も、息を飲んだままで固まっていた。

 隆は、ひきつった表情で否定するかのように小刻みに首を横に振っている。

「私、知ってるのよ」

 雫はニヤリとしながら繰り返した。

「―――」

 里子も更紗も綾も、言葉が出てこなかった。

「粟生田さんは隆くんが好き。でまかせなんかじゃないわよ! ねぇ? 亜生田さん」

「……」

 里子はまるで彫像のように微動だにしない。ただただ、信じられないと驚いている。その姿が、雫の言葉をしっかりと肯定していた。  

 教室内のざわめきが、熱を帯びてきた。

「みんなが知ってるように、泪も隆くんが好きだったわ。けど、失恋した」

「……」

 隆が、申し訳なさそうに唇を噛んだ。

「別に隆くんを責めてるわけじゃないわ。誰にだって好みがあるんだから、失恋する

のは仕方ないこと」

 気にしないで、と雫は隆に甘ったるい笑顔を向けた。

「失恋したけれど、それでも、泪は隆くんが好きで仕方なかったの。告白してフラれてるから、もう泪は隆くんの傍には居られないし、再度告白することもできない状態にいたわ。同じクラスなのは嬉しいけれど、同じクラスだからこそ、隆くんの姿を見るのが辛かったのよ、泪は」

 どこからか、女子のすすり泣きが聞こえてきた。

 みんな、ある日を境に泪が極度の情緒不安定になったことを知っているから、その理由が明らかになり、そうだったのか……と悲しくなったのだろう。

「隆くんは、モテる。学年を問わずに告白されてるもんね。同時に、水面下で女同士の卑劣な足の引っ張り合いも行われてる。水面下……って言っても、周知の事実だけどね」

 うんうん……、といつの間にか大半の女子が雫の周囲に移動してきて耳を傾け、同意している。

「それはそれで当然の帰結かな?って思うけど……。でも、だからって、なんで、失恋して傷心の泪が、告白に失敗して悶々としていた意気地なしの粟生田さんに、人目のつかないところでネチネチと嫌がらせされなきゃなんなかったの?」

 じろり、と何人かが非難を込めて里子を睨んだ。

「違うわ……」

「違う! それは嘘だ!」

 里子と隆が同時に否定した。

「……どうして隆くんが『違う』って、『嘘だ』って言い切れるの?」

 雫は勝者な態度を崩さない。

 隆は唇を噛み、怒りを込めたまなざしを雫に向けている。堪忍袋の緒が切れたようだった。

「俺と里子は――」

「泪が言ってたんだけどね」

 隆の言葉に自分の言葉を被せて遮り、雫は続けた。

「泪が隆くんに告白しようとした日、粟生田さんと鉢合わせしちゃったんだって。

粟生田(あおうだ)さんも告白しようとしてたみたいで。でも、粟生田さん、泪が告白するのを知ったら、告白やめちゃったんだって。だから、泪は失恋した上に目の仇にもされてるって悩んでた」

「違うわ! 違う! そんなの、嘘!」

 里子が悲痛な声で否定した。

「アンタね、いいかげんにしなさいよ! 泪が言ってたといえば何でもまかり通ると思ってんの?」

「綾」

 雫の胸倉を掴もうとした綾を、更紗(さらさ)は止めた。

「更紗!」

 苛立つ綾に、更紗は首を横に振った。

「先に手を出したら、ますます不利になる」

「……」

 綾は力任せに机を叩いた。

「だって、泪が言ってたんだから、仕方ないでしょ?」

 雫は平然としている。

「私は何かにつけて泪に粟生田さんのことを相談されてたから、あの夜も、泪と粟生田さんの間で何かあったんじゃないかと思ってるの。これって、普通の流れだと思わない? 理由なく、クラスメイトを殺人者扱いになんてしないわよ」

 なるほどね~、と無責任な野次馬たちは納得していた。

「違う……。そんなの、嘘……」

 里子は力なく否定し、隆は、里子を気にしつつも何も言えなかった。

 更紗は、級友たちに言った。

「雫がどれだけ『里子が泪を殺した』ともっともらしいことをでっちあげて喚いても、警察は既に『事故死』だと結論付けてる。泪と里子との間に何があったのかは、里子じゃないからわからないけど、あたしは里子を信じてる。いっつも一緒に過ごしてるから、里子が別行動とったことなんてなかったと言い切れるしね!」

 言われてみれば、いつも一緒だよね……、と納得顔になる級友たちを見ながら、更紗は怒りが込み上げてきた。

 だけどその怒りを、感情に任せてではなく、きちんとした言葉で伝えようと先を続ける。

「不慮の事故死で姉を亡くした雫が動転してわけのわかんないことを口走るのは、しばらくの間は同情から多目に見てあげられるけど、雫以外の人が雫と同じように里子(りこ)の事をとやかく言うのは違から、やめて。警告したからね、今後、雫以外で里子のこと噂してるの見かけたら、綾ともども容赦しないから」

 しぃーん、と教室は静かになった。

 日頃は温厚な更紗(さらさ)だが、実は合気道の猛者だということを知っているので、これは脅しじゃないことを実感したからだ。

「そゆこと。我が身が大事なら、無責任なことは口走らない方がいいわよ」

 綾は脅したっぷりに口添えをした。

「し……失礼ね! でっちあげなんかじゃないわよっ! 事実よっ! 事実だから声を声を大にして言ってるんでしょっ!」

 雫がヒステリックに叫んだ。

「警察だって万能じゃないからミスしてるだけよ! 粟生田(あおうだ)さんが自首すれば済むだけの話じゃない!」

「……そろそろ、休み時間も終わるわね。席、戻ろう。里子(りこ)」

「そうね。一時間目は、国語だっけ?」

「……」

「ちょっと!」

 喚く雫を無視し、更紗たち三人は座席へと戻った。

「……あら?」

 里子が国語の教科書を出そうとして、手を止めた。

「どうしたの?」

 前の席の更紗が、振り返った。

「国際のレポート……。返却されたことは返却されたんだけど、その後、何故か行方不明だったのが、いきなり出てきたの」

「ふ~ん。変ね」

「あってもなくてもどっちでもいいんだけど……。あ、更紗(さらさ)、コレ……」

 里子(りこ)は思い出したように机の横にかけてあった鞄からクリアフィルを取り出し、一枚の紙を抜き出した。

「コレ、隆から貰った直筆のメモ。出てきたから、渡しておくわ」

 里子は寂しそうなまなざしで、メモを更紗に渡した。

「ありがと」

 手に取った更紗は、違和感を覚えた。

「何コレ……トレーシング・ペーパー?」

「トレーシング・ペーパー?」

「?」

 聞き慣れない単語に、里子が反応した。

「あ、うん。地図とか、図形とか写す時に使う、半透明な薄い紙のこと。あたし、この国際のレポートの時、昔のシンガポールの簡単な地図をトレースした時に使った」

「ふ~ん。便利なんだか不便だか、わかんないわね。写すなら、コピーすればいいのに」

「ま、好みの問題かな? 仕上がり具合、全然違うから。今度、試してみたら?」

「そうね。いつか試してみよう。その時は、お店に案内してね」

「一枚二枚くらいならあげるわ。余ってるし」

「じゃ、貰っちゃお」

 里子は元気のない表情のままだったが、少しだけ微笑んだ。微笑んでから、言った。

「更紗、さっきはありがとう」

「え? ……あ、あれ? 別にお礼言われるコトでもないよ。普通の反応だから」

「それでも……嬉しかったから」

「そっか……。そう思ってもらえたなら、よかった」

 更紗は里子の頭を「いい子いい子」した。

 里子は俯きながら、そっと涙をこぼした。



                 *


【すまない……ぼうず】

 おっさんが、心底申し訳なさそうに謝罪した。

(気にすンなよ。おっさんは守護霊じゃなくって、ただの便乗犯のご先祖だってことくらい最初からわかってンだからさ)

 声には出さず、辰哉は自分に憑いている霊と会話していた。

 辰哉の席は窓際の一番後ろで、一人席だ。転入生なので、お約束の場所だ。

 反対側の廊下側では、ヒステリーな雫の声が騒音を撒き散らしている。大半の生徒がそっちへ出張しているので、辰哉の周りは閑散としていた。

【この者の負の念は……凄まじすぎる……。ぼうずに近づけないよう、触れさせないよう、防護するだけで精一杯だ……。こんな時、文人は使えないな……】

(さすがのオレでも、こんなグロテスクなモンは正視できねーししたくもねーけど、実害を伴うちょっかいかけてこねーなら、今しばらく我慢できるからさ、あんま気に病むなよ。おっさんが護ってくれてんだろ? こればっかりはマジで感謝感激雨嵐だぜ)

【それを言うなら、感謝感激雨『霰』、だ。日本語は正しく使え】

(……)

 確かに、筋金入りの文人だ、と辰哉は苦笑した。

 それにしても、どうすりゃいいんだ……、と辰哉は滅入っていた。

 もう、一週間ほど経つのだろうか? 

 泪が辰哉の傍から離れないのだ。

 トイレに入っていようがシャワーを浴びていようが、ぴったりと傍に寄り添っているのだ。それも、憎悪に歪んだとても恐ろしい形相で……。

 明らかに、泪は辰哉を怨んでいた。

 殺してやる! 絶対に許さない! という思いがびしばし伝わってくる。

 辰哉にしてみれば、逆恨みも甚だしい。

 泪は死んでしまったから真相は闇に包まれたままだが、あの夜、アクシデントがなければ、泪が落ちてくるところに遭遇するのは隆だった。今となってはイマイチ自信のない辰哉だが、泪が落ちてくる時、辰哉を見て驚き、拒絶した表情が本当だったならば、泪は辰哉をものすごく怨んでいるだろう。

 泪は、隆を待っていたのだから……。

 泪が辰哉を怨む事情も判らないでもないが、辰哉にも理由があってあんな最悪な場に遭遇してしまったのだ。そこら辺も察しやがれ! と思えど、泪にはこれっぽっちも伝わらない。おっさんに言わせると、辰哉に対する怨みの念が強すぎて、それ以外は見えてないらしい。

 今も泪は、血まみれな上に首や腕や足が妙な方向へ曲がっている姿で、辰哉を睨みつけている。

 血走ったまなざしは、幽鬼そのものだ。

 辰哉に襲いかかりたいのにそれができず、もどかしさで気が狂わんばかりの咆哮をあげている。……とはいえ、声帯が破損しているのか、単に辰哉には聞き取れるだけの霊感がないだけなのかはっきりしないが、辰哉には「シューシュー」と空気が漏れる音しか聞こえない。

(ま、コレが、無防備&丸腰な隆のところへ行かなかったのは不幸中の幸いだったよな……)

 辰哉は、雫と里子(りこ)に挟まれて苦悩している隆を見ながら、複雑な心境だった。

 隆の煮え切らない態度に苛立ちは募るが、交際を断った女があんな死に方をし、こんな姿で彷徨ってるなんて知ったら、隆の方がどうかしてしまうだろう。ただでさえ、あんな風に訳がわからないことをさも事実のような口ぶりで主張する雫に手を焼いているのだから……。

(双子の片割れがあんな状態じゃ、粟生田(あおうだ)とのコトなんて口が裂けても言えねーよな……)

 隆から全てを教えて貰った辰哉は、しみじみと同情した。

(コレのことも、ぜってーに言えねーか……)

 ちらりと横目で泪の姿を確認し、辰哉はがっくりうなだれた。

(マジ、どうしよう……)

 辰哉が机に突っ伏した時だった。

「――っ! きゃっ!」

 絵夢の悲鳴に、辰哉は飛び起きた。

 どしん、としりもちをつく音と共に、絵夢は机2個分の距離を吹っ飛ばされていた。

「磯野……」

「こンのぉ~!」

 ムカついている絵夢が口の中で何かを呟き、一文字に空を切った。思わず辰哉は傍らの泪を見たが、彼女は変わらず辰哉しか見ておらず、絵夢の攻撃は届いていなかった。

「辰哉くん……これ、どういう……こと?」

 絵夢が泪を指差した。

 ちっ! と辰哉は忌々しく舌打ちした。

「一体――」

「構うな!」

 鋭い辰哉の一喝に、絵夢は身を竦めた。

「た、辰哉くん……?」

「いいから、コレのことは誰にも言うな。絶対に言うな。騒ぎがでかくなる」

「なに……言ってるの?」

 絵夢は、逡巡しながらも強い口調で言った。

「コレ……辰哉くんの手に負えるモノじゃない。それくらいもわかんないの?」

「ンなこと、お前に指摘されるまでもなく、わかってンよ! 今は膠着状態だけど、それも時間の問題だ。今保たれてる妙な均衡が崩れたら、オレはアウトだろうな」

「わかってるなら、絵夢に……まかせてよ! 今度こそ!」

「断る」

「どうして!」

「……お前の手に負えるヤツだとも思えないからだ」

 自尊心を傷つけられた絵夢が、ムキになった。

「そんなの、やってみなくちゃわかんない!」

「やってみてダメだったら、どーすんだよ!」

「その時は……、その時で仕方ないよ。絵夢が未熟だったってことだから」

「そうなった時、オレは責任取れねぇ」

「そんな! 別に辰哉くんに責任取って貰いたいとか思ってないよ!」

「お前はそうでも、オレが困るんだよ!」

「……」

 絵夢は、俯いた。

 悔しさに、唇を噛む。

 これでも、以前よりかなり霊感は磨かれたし、攻撃力も防護力も数段強くなったのだ。

 一流の霊能力者である『おばば』のやり方を盗み見て、自分なりに工夫して霊力を高めてきたのだから。

 いつ再会できるかなど目途はなかったが、辰哉に謝って認めてもらうために……。

 それなのに、予期せぬ再会を果たした辰哉ににべもなくダメ出しを喰らってしまった。これを悔しがらずに何に悔しがるというのだ。

 努力の末にここまでやってこれた自負があるから悔しくて仕方ないけれど、背に腹は代えられないし緊急事態なので、絵夢はしぶしぶだが言った。

「絵夢が頼りないって思うなら、……おばばに頼むから。おばばなら、余裕で退治してくれるから」

 ギロリ、と辰哉は絵夢を睨みつけた。

「……退治、ってなんだよ?」

「え?」

 絵夢はきょとんとした。

「だって……、彼女はもう『彼女』じゃないよ? 完全に理性失ってるよ? 死の間際に彼女の全てを支配してしまった憎悪に突き動かされてるだけだよ? 生前の姿かたちだけど、もう、別人だから……。ううん、『人』なんかじゃない。悪意の塊……。人の世で禍しかもたらさない存在だから……退治……しないと……。現に、辰哉くん、迷惑被ってるじゃない!」

「……」 

絵夢の言うことには一理あるかもしれない。だけど辰哉は、絶対に同意できなかった。

「確かにコレは『悪霊』の類だろうよ。オレも迷惑しまくりだよ。すっげーうぜーよ。けど、死んだのに、そっこーで成仏できねーってのは、それなりに理由があるからじゃねーの?」

 辰哉は、おっさんのことを思っていた。

「この世に居残ってるヤツ全員が『悪霊』かよ? ちげーだろ? 悪霊には関わりたくねーけど、けど、だからって、いきなり『退治』はやりすぎじゃね? そんな権利、なんでお前とか一部の人間にあるっていえるんだよ? 思えるんだよ? それって、ただの思い上がりじゃね? オレだって、こんな状態のヤツが話し合いに応じるとは最初から思っちゃいねーけど、なんか、もうちょっと、別のやり方もあるんじゃねーの? オレ、そっちの世界詳しくないから、あんま強く言えねーけど」

「……」

 絵夢は唇を尖らせた。

「それ、如月さんの受け売りね……」

「あ? タマゴ女?」

 なんでアイツが出てくるんだ? と辰哉は首を傾げた。

「辰哉くん、如月さんと仲いいもんね」

 嫉妬以外なにものでもない口調で、絵夢は言う。

「けど、如月さんは如月さんだよ! 彼女は墓守っていう特殊な環境で生まれ育ってるから、霊感があるんだかないんだかわかんない微妙な状況でも、何かとうまく切り抜けられてるだけの話……。多分だけど、墓地公園に眠る人々が守護してるんだろうね……」

「……」

「でも、辰哉くんは、母親すら感知できず、彼女の言葉も聞こえないくらい普通の――」

 言いながら、絵夢とハッとした。

 恐る恐る辰哉を見ると、背筋がぞっとするくらいの冷たいまなざしで辰哉は絵夢を見ていた。

「ご、ごめん……」

「……」

「……とにかく、ヤバくなったら、おばばに相談した方がいいよ……。おばばに相談があるって担任に言えば、連絡してくれるから……」

「……」

「……ごめん」

 絵夢はしょんぼりしながら自分の席に戻っって行った。

【あの娘に、悪気があったとは思えないぞ。いつどこで何があったのかは、知らないがな】 

 辰哉の周りに誰もいなくなったのを見計らって、おっさんが辰哉のココロへ話しかけてきた。

「……わかってる」

 辰哉は憮然としたまま声に出して答えた。

【だったらなぜ、怒っている素振りで彼女を言外に責める?】

「……わかんねー」

【そうか。じゃあ、仕方ないな】

 辰哉を責めるているわけではなく、おっさんは素直に納得したようだった。

「……嘘」

【嘘? 何がだ?】

「……わかんねーって言ったの」

【……】

「悔しぃんだよ。なんで、遠縁とはいえ、赤の他人のアイツには写真じゃねー母親が視えるのに、実の息子のオレは何も感じなくて視えなくて聞こえねーんだろ?って思うとさ」

【……】

「オレ、別に霊感なんてなくていいんだけど、母親だけは視てみてーんだよ。声も、聞いてみてーんだよ」

【……】

「中3も終わりだってのに、何ガキみてーなこと言ってんだよ?って笑ってもいいぜ。……オレ、幽霊でもなんでもいいからさ、写真じゃねー母親に会ってみたいんだよ。母親の存在を、感じてみてーんだよ。声だって聞いてみたい。一言、名前呼んでほしーよ。オレの名前、生まれる前から男だってわかってたから、母親が決めたんだってさ」

【そうだったのか……】

 頷きながら、辰哉は机に突っ伏した。

 長谷川撫子(なでしこ)、享年二十四。

 彼女は、長男の辰哉を出産すると同時に他界した。

 おっさんが知ってるのは、それだけだ。

(母親の死因、週刊誌で知った……。なんで親父はちゃんと教えてくれなかったんだろう?って考えた。アイツ、今もすっげー母親のこと愛してんだ。写真とか肌身離さないし。……オレの前では一切母親の話しねーし、寂しい素振りも見せねーけどさ、けどそれって、裏を返せば、母親の命と引き換えに生まれた来たオレを憎んでるんじゃねーかと思ってさ……。母親の忘れ形見だしまだ未成年(こども)だから仕方なしに世話してるだけで、ほんとは、オレのこと……)

 辰哉は溜息をついた。

【なぜそれを父親にぶつけない?】

(……肯定された時のことを思うと、無理)

【もうずっと長い間悩んできたんだろう? そろそろ本人にその思いをぶつけてもいい頃じゃないか?】

(それが怖いから、幽霊の母親に会いたいんだよ。自分の命と引き換えにオレを産んだ母親から聞いた言葉なら、どんな内容でもきちんと受け止められるような気がするからさ……。ただの逃げかもだけど)

【そうか……】

 おっさんはやさしく言った。

【逢いたいと願ってれば、いつか必ず逢えるさ。焦ることはないぞ。儂とこんな関係になれたのも、母親に逢うための精神(こころ)と肉体(からだ)の予行練習だったのかもしれないな】

(そっか……。そうだと……いいな)

 ココロが軽くなった辰哉は、泣き出したいのを堪えながらいつまでも突っ伏していた。



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