第2話 再会

「更紗(さらさ)は今日、現地集合かい?」

 階下から、元気のよい老婆の声がした。

「ううん。一度ガッコ行くよーっ。ちょっと仕度に時間かかるから、市バスで行くだけー」

 ベッドに腰掛けて鞄を膝の上に置きながら、更紗はすました声で答えていた。

「遅刻しないようにね」

「はーい」

 機嫌よく答えている更紗を、傍らで立っている雪子(せつこ)は不思議そうに見ている。

【更紗、支度は既に終わっているのではありませんか?】

「ええ。とっくに」

【じゃあ、なぜ、あんな嘘を?】

「それは、ガッコに着けば解かります……」

 はぁ……、と更紗はかったるそうに溜息をつきながら、鞄につけている、キーホルダーにしてはかなり大きい飾りを触っていた。

【随分と大きな飾りですわね】

 直径八センチくらいの薔薇の飾りはとても珍しい細工のように見え、雪子も思わず真っ先に目がいっていた。

「変わってるでしょ?」

 更紗は嬉しそうに薔薇の飾りを手に取った。

「コレね、クラスメイトに作ってもらったんです。彼女たちのお父様、写真屋さんの駐在で、デジカメ普及により写真の現像だけじゃ経営が苦しいと困ってたんですけど、娘たちが起死回生の策を講じて、ソレが当たったんです。……可愛いでしょう? キーホルダーより気持ち大きめなところも斬新な、持ち歩ける写真入れなんです!」

【そうなの……】

 雪子はとても興味深そうなまなざしで更紗の手元を見ている。

「普通の家庭では、ワーキング・ビザ……っと、仕事する許可証なんですけど、その関係上、奥さんと子供は働いちゃダメなんです。でもその辺はうまくやってるらしくて……天羽(あもう)家は家族全員が器用だから、手分けしてこの写真入れ作ってるんですって。凝った細工なのにお手頃価格だし、手分けして作ってるから仕上がりも早いし。口コミで現地の人にも大人気になっちゃって、巷で凄い流行りなんです」

【一家総出で商売ができるのは、強いわね】

 元々、実家が商売をやっていてそこそこ裕福な家庭だった雪子(せつこ)は、幼い頃、両親、2人の兄たち、姉やお手伝いさんたちが楽しそうに働いていた光景を思い出していた。

 遠い遠い昔の思い出は、断片的な映像の記憶としてしか残ってなく、年齢も季節も曖昧で、それが現実だったのか、寂しさから生まれた夢想だったのかも既に判らなくなっている。

 それでも、無条件に愛され、何一つとして不自由なく生活ができ、全てにおいて満たされていた感覚は本物だと雪子は信じている。

 小さい頃、雪子は家を継ぎたかった。

 家を継いで、自分の采配で商売をしてみたかった。幸い、兄も姉も商売に興味なく、このまま大きくなれば後継ぎになれる、と思っていたのに……夢は夢のままで終わってしまった。

 身分違いの恋を厳しく咎められ、恋が発覚してからすぐに家柄にふさわしい相手と結婚させられそうになった姉が、家に火を放ったのだ。姉は恋人と共に焼死。お手伝いさんたちも大半が焼死。両親も焼死。兄たちは大火傷を負い、生活に支障をきたした。家は全焼し、商売の再建は……無理だった。

 奇跡的に軽い火傷で済んだ雪子が、兄たちを養っていかなければならない立場になり、生活は一転した。

 お嬢様育ちの雪子だったが、文句も恨み言も口にせず、慣れない工場での仕事に従事した。あぶく銭を稼いでは、実家に送金していた。極貧ゆえ、死と隣り合わせの生活に疲れきっていたある日、言葉巧みに騙され、見知らぬ異国の地で『からゆきさん』になった。

 皮肉にも、今、幸せだった幼いころの記憶が、百年以上の年月を超えた時代の人間

の話を円滑に理解させてくれていた。

 そこまで知ってか知らずか、いつの間にか更紗(さらさ)は友達と話すような感覚で話をしていた。

 小学生はともかく、中学生にもなれば、親の仕事内容を充分理解できるので、子供同士でも大人顔負けの井戸端会議をするのが日常だったりする。加えて、狭い日本人社会なので、嫌でも、どこそこの会社が、とか、どこそこの誰々さんが、という話が子供の耳にも入って来る……等々。

「……強いですよね。おじさんは普通に海外赴任を命じられた、いち会社員な立場なんですけど、責任者だから結構自由に仕事ができるらしくて。生き残りをかけて、社員ともどもいろんな案を試行錯誤してたらコレが当たっちゃったんで、任期が延びた……って友達が嘆いてました」

雪子は首を傾げた。

【……皆さん、ここに骨を埋める覚悟で商売をしているのではないの? 更紗の家は、代々この地で生涯を終えてるわよね?】

「全員じゃなく、一部ですけどね」

【あら? そうだったの?】

「そうですよ!いつの時代も誰かしら残ってますけど、別に強制されてるわけじゃないし、みんな世界中で自由に生きてますよ。ちなみに、長女はイギリスの大学、次女は日本の高校に通ってます」

【更紗って一人っ子じゃなかったの?】

「違いますよ~。墓守希望だから、おばーちゃんの家に入り浸ってるだけです」

 更紗は屈託なく笑った。

 そうだったの……、と雪子は部屋を見回して驚いている。どう見ても、居候の部屋じゃなかったからだ。

「ま、うちはともかく、永住してる日本人も少なくないけど、大半は、期限を設けて交代で商売を続けてます。三年から五年の滞在期間が一般的」

【そうなの……。そういう時代なのね、今は……】

 日本で言葉巧みに騙され、わけもわからずに長旅を強いられ、命からがら異国の地に辿り着いたと思ったら理不尽な高額の借金を背負わされ、死ぬまで意に染まぬ仕事をこなすのが当たり前だった時代を生きたからゆきさんの雪子(せつこ)にしてみれば、信じられないと同時に羨ましい限りだった。

「雪子サン……」

 しまった……と更紗(さらさ)は戸惑ったが、雪子は優しく微笑んだ。

【気を遣うことはないわ、更紗。昔と比べてしまうのは、仕方のないことだから……。比べたからといって、気落ちしているわけでもないのよ? 良い時代になったと、安心しているだけだから。……ほんと、幸せな時代になったわね……】

「雪子サン……」

【ほんとに素敵ね、その飾り】 

 やんわりと雪子は話を変えた。

「え?……ああ、はい」

 更紗も、流れに乗った。

 実体のない雪子はモノに触れない。触れないけれど、触ってみたそうな表情だったので、更紗は飾りを手に取って雪子に見やすくしてやった。

「この写真入れ、この下の花びらの所に、小さな鍵穴があるでしょう?」

【あら、気付かなかったわ】

「そう簡単には気付かれない細工なんです」

 更紗はまるで自分が作ったような得意満面で説明する。

「この目立たない小さな鍵穴に……」

 更紗は、薔薇の花びらの後ろに移動していて隠れた状態になっていた小さな鍵を手前に持ってきた。

「この鍵を取り外して差し込むと……」

【まぁ、開いたわ!】

 雪子は興奮して少女のようにはしゃいだ。

【遊び心が詰まったからくりなのね。素敵】

「今、大き目のキーホルダーを鞄につけるのが日本でも流行ってるみたいだし、あたしらも負けてられませんから」

【?】

 更紗(さらさ)は雪子(せつこ)に笑いかけた。

「端からみたらくっだらないことなんでしょうけど、どうしてもあたし達、見ず知らずの日本の子たちと張り合っちゃうんですよ」

【どうしてかしら?】

「先人たちが長い年月をかけて、日本とさほど変わらない生活ができる日本人社会を築き上げてくれたことには感謝ですけど、でも、ここは日本じゃないんです。日本の流行も情報も入ってくるけれど、ほんの一部しか入ってこない。出遅れたまま帰国すると、思いきり田舎者扱いされるそうなんです!」

【田舎者だとバカにする風習は、今でも残っているのね……】

「残念ながら……。でもあたしたち、そんな悔しさに負けたくないから、日本はそうかもしれないけれど、シンガポールだって悪くないのよ!って胸張れるようなモノとかコトを日々、探してるんです!」

【たくましいこと……】

「そりゃ、たくましくもなりますよ」

 更紗と雪子は苦笑した。

「たくましくなりながらも、遊び心を忘れないところが、ここで暮らすオンナの強さじゃありませんか?」

【その通りだわ。それはそうと……】

 雪子が話を変えた。

【これ、写真を入れて持ち歩くものでしょう?】

 あちゃー、と更紗は少々困った表情になった。

「ええ、そうです。好きな人の写真を入れて持ち歩くのが、ふつーですね」

 ははっ……と更紗は乾いた笑いを浮かべた。

【更紗は……好きな人がいないのに……持ち歩いているの?】

 ふつーはそう思っちゃうよね……と苦笑しながら、更紗は首を横に振った。

「いえ、好きな人、います。でもね、彼は親友の恋人なので……」

【――ごめんなさい】

「いえいえ!謝らないでください! 全然、大丈夫ですから! それに、もし、両想いだったとしても、あたし写真は持ち歩きませんから」

【何故?】

「単純に、恥ずかしいからですよ」

 更紗(さらさ)は照れ笑いを浮かべた。

「それに、いくら鍵付きでも、鞄につけてればあちこちにぶつけて壊れるのも時間の問題ですから、コレはただの飾りとして使用してるんです」

【なるほど……】

 雪子(せつこ)が納得していると、階下から再び祖母の声がした。

「更紗~! タクシーで行くのかい?」

「え?」

 更紗はびっくりして腕時計を見た。

「ヤバッ! 今、行く~!」

 行きますよ、と更紗は目で雪子に合図した。

 祖母に雪子の姿が視えるのかどうかは、まだ判らない。視えたところで何も問題は

なさそうだけれど、とりあえず、しばらくの間は黙っていることにしたので、雪子はそっと更紗の身体に入った。

 最初ほど違和感は感じなくなっていたが、それでも、『異物』が身体の中に入って来る感触はしっかりあるので、更紗は未だに妙さが抜けないでいた。

 雪子が身体の中に入ってくると、更紗は所構わず自分の姿を確認したくなる。

 どこまで本当かわからないが、憑依されていると、表情や仕種が自分じゃなくなる時があるという話をよく耳にするからだ。

 雪子が何者かということを知っているのは更紗だけだし、第三者には絶対に雪子の存在を知られたくない思いから、不自然さや違和感が滲み出ていないかが凄く気になる。

 更紗は姿見の前に立った。

 くるりと回ってみる。

 いつもの更紗だった。

更紗が通う日本人学校には、ほとんど校則がない。制服はないし髪型も自由なので、今日もそれなりに気合が入っている格好の更紗だ。

 ポニーテールの高さ、良し。

 ポニーテールにつけている、トレードマークのリボンも曲がってない。

 今日は日焼け止めもしっかり塗った。

 キャミワンピもおかしいところはない。

 がんばるぞ! と鼓舞した時、心配そうな祖母の声がした。

「更紗(さらさ)、タクシー代はあるのかい?」

「何言ってんのっ? 市バスに決まってるでしょーっ! 無駄遣いしたくないもーん!」 

 答えながら、更紗は階段を駆け下りた。

「行ってきます!すぐに戻ってくるけど」

「行ってらっしゃい。気をつけて」

「は~い!」

 更紗は元気よく家を出た。

 墓地公園に隣接している家なので、ぐるりと周るよりかは墓地を突っ切った方が早く大通りに出られる。夜中とは違い、朝はすがすがしい『墓地公園』の姿だ。そこを突っ切り、更紗は道路に出た。

 目と鼻の先にあるバス停を目指して、更紗は全速力で走った。

 一般道路、しかも市バスだというのに、他の乗用車のように七十キロ~八十キロで走行しているバスは、客がしっかりとバス停で待っていないと素知らぬ顔で通過していくことが多々ある。客と運転手の目が合っていて、客が乗りたいという意思表示をしていても、笑顔で通過されたという話が日常茶飯事なので、乗りたければバス停で強気に手を上げて止めるしかない。

 そんなシンガポールのバス停には、時刻表がない。

 だから、急いでいる時は、いつ来るかわからない市バスを待つよりタクシーを拾った方が早い。

 タクシー代も、初乗りで三百円しないし、メーターも日本のように八十円ずつといった上がり方ではなく、10セント(六円~八円程度)ずつ上がるので、日本の感覚だととても安く感じて一石二鳥といったところだ。

 それでも、物価が安ければお小遣いも安い中学生にとって、タクシーは最終手段である。滅多に利用はしない。

 更紗(さらさ)も、遅刻確定の時間で市バスを拾った。

 幸い、ここから学校までは乗り換えなしの1本で行けるので、乗ってしまえば楽なのだ。

【更紗はいつもこんなに慌てて学校へ行きますの?】

 更紗の心……というか脳裏に直接雪子(せつこ)の声が聞こえてくる。

「いいえ。今日は特別です」

 二階建てバスの二階の一番後ろの窓際という、一番不便で人気の無い席を陣取った更紗は、外の景色を眺めているフリをしながら小声で答える。

 一応、怪しまれないように音楽を聴いている素振りもしている。音楽を聴きながら口ずさんでいる、なら、誰も気に留めないだろうという計算だ。

「いつもは、ちゃんとスクール・バス使ってます」

【いつもは……って、今日は何があるの?】

「……」

 ふぅ~、と更紗は重苦しい溜息をついた。

「学校に着けば、わかります」

 やる気のないうんざりした声に、雪子はそれ以上尋ねなかった。

 バス停に時刻表がない市バスは、乗ったら乗ったで車内アナウンスもない。

ないない尽くしだ。

 ついでに、道路自体が予告無しに変わるし、バス停の位置も微妙にズレたりなくなったり増えたり……とめまぐるしく変化するので、よく外を見ていないと自分が何処に居るのかわからなくなる。

「雪子サン、そろそろ、下に移動しますよ」

【はい……】 

 更紗は降車口まで移動したが、すぐには降車ブザーを押さなかった。

 二つ程バス停を通り越したので、雪子は不思議そうに尋ねた。

【更紗、どこで降りますの?】

「……次です」

【――? だったら、こんなに早く降りてこなくてもよかったのでは?】

「ええ……。そうなんですけど、運ちゃんもかなり適当だから、降車口で待機してないと、ブザー鳴らしてても平気で通過しちゃうんですよ。あたし達の座ってたトコ、二階の一番奥だったでしょ? あそこでブザー押して降りてくる頃には通過されてる可能性が高いから、早めに降りてきたんです。ちょっと道が空いてれば速度上げますからね、バスは」

【……そうなの?】

「そうなんです」 

 HDBと呼ばれる、シンガポーリアンのための高層マンション郡の一画で、更紗(さらさ)はバスを降りた。

 そのまま、幾つかのマンションを抜け、キャンティーンと呼ばれる大衆食堂も通り抜け、十分くらい田舎道を歩くと「シンガポール日本人学校中等部」に辿り着く。

 十二月は雨季の中期なのだが、今日は乾季のような晴天に恵まれていた。

 気乗りしない表情のまま、更紗は裏門へ辿り着いてしまった。



               2



【更紗……】

 雪子が緊張した声音で更紗の名を口にした。

「……」

 更紗は敢えて黙っていた。

【更紗……。ここは一体……?】

 雪子が、更紗の中で恐怖に震えている。

【この門から一歩入ったら……、くもの巣にかかった蝶のように身動きが取れなくなってしまいそうですわ……】

「……そのとーりです」

 更紗は、うんざりした態度で裏門に寄りかかった。

「このガッコ、結界が張られてるんですよ」

【結界?】

「ええ……。ほら、シンガポールって、幽霊、多いじゃないですか」

【……そうなの? わたくし、日本人墓地から出たことありませんから、外のことはよくわかりませんわ】

「あ、そっか……。ごめんなさい。……多いんです。何故か。で、このガッコ、元は、刑務所だったらしいんです。あくまで噂なのは、教員も生徒も入れ替わりが激しいから、噂が噂を呼んで、元ネタがはっきりしなくなっちゃったからなんですけど。――で、獄死した人も少なくなかったそうですし、人が集まる場所には霊も集まりやすいとか言い出すお節介なババアがおりまして、それがまた、現地では有名な霊能者だったりするものですから、学校側は絶対の信頼を置いてるんです。で、何故か、ババアは月イチで結界強化に来るのが恒例なんです。その他にも、要請があればほいほいお祓いにも来ちゃうし……」

 ヤだヤだ! と更紗は嫌悪感を露にした。

「今日は中3が日本人学校生活最後の課外授業の日なんで、ババアはそれに合わせたんだと思いますが、今日がその月イチの日なんです。この時間なら、既に正門側の中庭で結界強化の儀式が始まってるはずです」

【そうなの……】

 雪子は、よくわからない、といった表情だ。

「今日は特に、雪子サンの存在は隠して下さい。ババアはこの世をウロついている霊には情け容赦ためらいなく、問答無用でその魂を消滅させちゃう人なんです」

【! わ、わかりましたわ……】

 言い終えるや否や、雪子は更紗の中で気配を消した。感覚としては、布団にくるまって息を潜めているといったところか。

 更紗は深呼吸した。

 学校は『エ』の字に建設されていて、手前の右下が正門だ。更紗が今いるところは、奥の左上のところで、ここは裏門で職員の駐車場があり、職員専用区画なので生徒は立ち入り禁止になっている場所だ。

 今日はほとんどの職員が中庭に集まって結界強化の儀式に立ち会っているから、顔を合わさずに校舎に入ることができる。

 更紗は、教師には何かと便利だけれども、生徒が移動するには不便極まりない北側の階段を使って静かに三階の音楽室へと向かった。

 シンガポール日本人学校中等部は、日本の一般的な学校の造りと若干違うのが特徴だ。

 どこにでもあるマンションのような造りなので廊下は普通にコンクリートだし、雨が降れば容赦なく吹き込んできてびしょびしょになる。

 だから、普通の教室は土足でも構わないとされている。

 しかし、雨の日だけは土足だと教室が必要以上に汚れるので、室内履きが必要だ。大抵の生徒は、転入前に過ごした日本の学校での習慣もあって、普段から自然と室内履きに履き替えている。

 運良く今日は快晴なので、外履のままで何も問題ない。

なので、更紗(さらさ)は最初から中庭から丸見えの、学校の中心階段のところにある下駄箱には寄らず、たまり場としても活用している音楽室へと向かっていた。

 音楽室は中庭に面したところにあるので、裏門からだとものすごく遠いし、中央階段を過ぎた辺りからしゃがんで移動しなければ見つかってしまう。

 慣れたとはいえ、しゃがみながらの移動は疲れるので遠慮したいのが本音だ。いっそのこと匍匐前進をしてしまった方が楽な気がしないでもないのだが、さすがにそれは恥ずかしいので、更紗は実行に移さない。

 月イチ行事を忌まわしく思いつつ、更紗はそっと階段を上っていた。

「……?」

 階段を上り始めてすぐに、女子の話し声が聞こえた。

 サボリ組がここにもいる!と更紗は親近感を覚えながら階段を上がった。誰だろう? とわくわくしていた更紗だが、相手は、更紗の気配を感じ取った瞬間、脱兎の勢いでその場を後にした。

「?」

 複数の足音は、二階の廊下を全速力で走って行ったようだ。

「……先生と思われたのかな?」

 更紗は歩調を緩めずに階段を上がって二階の踊り場までやってきた。ちらっと廊下を覗いて見たが、誰もいなかった。

 ま、いいや……、と更紗はそのまま三階へ向かおうとして……立ち止まった。

 何かを踏んづけたからだ。

 何かと思って見てみると、小さな鍵だった。

「鍵?」

 拾い上げると、見たことのある鍵だった。更紗は、鍵を眺めながらしばし考え込んだ。

「どっかで見たことあるような……あっ!」

 更紗(さらさ)は肩から下げていた鞄を下ろし、膝で支えながら薔薇の飾りを手に取った。

 薔薇の後ろに回ってしまっている鍵を手前に持って来て、掌の上で拾った鍵と並べてみた。

「同じだ……」

 その鍵は、今、女子生徒の間で流行っているキーホルダー兼写真入れの鍵だった。

「どうしよう……」

 更紗は困ってしまった。

 鍵がないと開かないから、写真を入れている場合は入れ替えることができない。

 落とし主は気付いたらここへ戻ってくるだろうが、それまでに他の誰かがこの鍵を見つけたら、拾って持ち去るかもしれない。学年を問わずに、結構な数の女子が持っている鍵だから、落とし主を探すのは一苦労だろう。

「そういえば……鍵って、やっぱそれぞれ違う形なのかな?」

 ぱっと見ただけでは予備の鍵にしか思えない形なので、ふと更紗は疑問に思ったのだ。

 思ったら即行動に移す性格の更紗は、薔薇にその鍵を差し込んでみた。

 しかし、やはり、合わなかった。

「やっぱ、びみょーに違うのね。鍵なりに奥が深いんだ……」

 ヘンなところで感心してから、とりあえず更紗はこの鍵を預かることにした。

なるべく早く落し物として届ければいいだろうと判断したからだ。

 鍵を落とさないように薔薇に付けてから、更紗は目的地である音楽室へと向かった。




                 *



「モーニン! バティック!」

 中庭で結界強化の儀式が行われているのを聞きながら身を縮めて廊下を進み、そうっと音楽室へ入った更紗(さらさ)を、流暢な英語が迎えた。

「しぃ~っ! ただでさえ綾(あや)の声は大きいんだから、時と場所を考えてよね! それと、あたしは『バティック』じゃないってば! 意味としては『バティック』だけど、名前は日本語の『更紗』だから!」

 音楽室扉を閉めてから、更紗は半分本気で怒って親友の佐久間綾を睨みつけた。

「大丈夫よ~。中国語じゃないから、『おばば』にはわかんないって!」

 フィリピン人と日本人のハーフなだけあって、どこか日本人ではない感じの人目をひく綺麗な顔立ちの綾は、年齢の割には大人びた雰囲気の持ち主だ。

「おばば、日本語もぺラだったと思うけど?」

 手帳に何かを書き込みながら、粟生田(あおうだ)里子(りこ)が冷めているとも取られがちな冷静沈着さですかさず綾に突っ込んだ。

「リコ!」

 綾は里子をめっ!とねめつけた。

「黙ってればわからないこと、言わないの!」

「……別に里子に指摘されるまでもなく、あたしだってそれくらいそっこーで気付くわよーだっ!」

「朝から元気だよね、里子たち」

 朝は弱いのか、どこか眠たそうな表情で、勝見(かつみ)隆(たかし)は里子の肩に頭を預けている。

 隆と里子は、恋人同士だ。

 人当たりもよければ面倒見もよく、誰とでも気さくに仲良く楽しめる性格から、隆は男女問わずに人気者だ。特に女子からはモテる。

 年中無休で告白される姿が名物になっているにも拘わらず、隆はその誰ともつきあわなかった。

 特定の『彼女』と過ごすより、友達とスポーツに興じているか、男女問わずにわいわい過ごす方が好きだと公言していることを実行していたからだ。

 ところが、中3になってすぐ、隆は誰にも知られることなく里子(りこ)に告白をしていた。

 隆と里子はなんの接点もなかったことを知っている綾と更紗(さらさ)は、ふたりがつきあいだしたと聞いて、心の底から驚いた。

 綾は知らないが、更紗は、隆が転入してきた時から、ほのかな恋心を抱いていた。

 だけど、帰国する予定がないことを自覚している更紗は、いずれ帰国するであろう相手に告白する気はなかった。

 期間限定でもふたりだけの時間を過ごせたら幸せだと思うが、必ずしもそうなるとは限らない現実をたくさん目の当たりにしてきているのもある。

 隆と里子がつきあっていることをきちんと知っているのは、綾と更紗だけだ。

 付き合いだしたふたりを見ていたら、更紗の隆への恋心は自然と浄化していた。

 四人は同じ組だし、『更紗たち3人組と仲の良い隆』という図式が成立しているから、里子と隆の秘密を維持していられるのだ。

「そうそう聞いて!」

 更紗は興奮気味に口を開いた。

 なになに? と三人の注目を浴びながら更紗は鞄を膝の上に置き、薔薇を手に取りながら続けた。

「さっき、こっちに来る途中、北側の階段でこの鍵を拾ったの……って、ぎゃあ! どっちがあたしの鍵かわかんなくなったぁ~!」

 拾った小さな鍵を失わないようにと配慮したのが、見事裏目に出てしまったのだ。

「あはは!更紗、何やってんの? ちょっと考えたらすぐにわかるじゃない!

So funny yha(ドジねぇ)!」

 綾は大笑いしている。

「更紗、コレ、使う?」

 里子は手帳から小さなシールを取り出し、更紗に渡した。

「……Thanx(ありがと)」

 更紗(さらさ)は里子から貰ったシールを手の甲に貼り、ふたつの鍵を外した。

 適当に1個を選び、薔薇に差し込んでみた。カチッ小気味良い音がして、薔薇は開いた。

「OK。これが、あたしのだわ」

 更紗は鍵に手早くシールを貼ってから薔薇を閉じ、また鍵を鎖に付け直した。

「更紗、鍵、見せて」

「え? あ、うん。どうぞ」

 興味津々の隆に、更紗は鍵を手渡した。

「へぇ~、鍵単独だとこんなに軽いんだ~」

 隆は珍しそうに鍵で遊んでいる。

「あらやだ更紗! 更紗のって中、空っぽ(エンプティ)?」

 綾が大仰に驚いた。

「……いいじゃない。別に」

「いいけどね、別に」

 綾は笑った。

「何よ?」

「ううん。更紗らしいな、って思って」

「……何よ? それ」

「更紗って、妙なトコで用心深いっていうか慎重だから、彼氏や好きな人がいてもそう簡単に写真なんて入れないんだろうなーって思ってたから」

「……」

 図星だったので、更紗は反応に困った。

「そういう綾は?」

 里子が尋ねた。

「アタシ? 聞きたい?」

「ごめん……。愚問だったわ……」

 瞳を輝かせる綾を見て、里子は素直に引き下がった。

「遠慮しなくていいのにぃ~」

「……わかったわ。話したいのなら、話して」

 諦めた里子(りこ)が先を促すと、綾は嬉しそうに話した。

「アタシも、基本的には更紗と同じかな? 彼氏や好きな人がいても、軽々しく写真を持ち歩く真似はできない性格ね。どこで落とすかわかんないし、いつ交換持ちかけられるかわかんないし」

「交換?」

 更紗と里子は同時に聞き返していた。

「そ。交換(エクスチェンジ)。なんでそんなに不思議がるの?」

「え……」

「なんとなく……。そんな発想、なかったから……。ねぇ? 更紗」

「うん……。だって、用途はともかく、泪(るい)や雫(しずく)に直接説明して頼んで作ってもらったものじゃない? そりゃ、彼女たちが手がけた女子全員の飾りを覚えてるとは思わないけど、そう気軽に交換なんてかけられないよ。そんなこと知ったら、彼女たち、気を悪くするんじゃないかと思っちゃって……」

「ええ……そうね」

「それは神経質(ナーバス)になりすぎじゃない? ま、価値観は人それぞれだから尊重するけど、アタシの場合は、注文してできあがった品を受け取ったら、もうそれはアタシのモノだから、自由に扱っていいと思ってるわ。だからといって粗末には扱わないわよ? たまたま、つい最近、浅山が交換(エクスチェンジ)を持ちかけてきたからさ」

 内緒よ、と綾は念を押し、声を潜めて続きを話し始めた。

「アタシも詳しいことは知らないんだけど、浅山、ツルんでたグループから抜けたんだって。それで、浅山の飾りは、そのグループでの友情の証……みたいなカンジで作ったから皆でおそろらしいのよ。浅山としては、もう関係ないから捨ててしまいたいんだけど、捨てるとなると作ってくれた雫に申し訳なくなっちゃうから、捨てられない……と言うわけ」

「浅山さんのグループ……って、栗ちゃんとかだよね?」

 いつ友達をやめたのかは知らないが、昨日も楽しそうに教室で遊んでいた浅山雅代と栗山美樹を思い出し、更紗は問い返していた。

「そうだと思うでしょ? でも、違うみたい」

「仲良しグループはひとつだけ、って決まりがあるわけじゃないから、いろんな人と友達でも不思議はないってことよ、更紗」

「里子(りこ)の言う通り。だから、浅山が、栗山たち以外の誰と交流があったのかまでは判んないし別にどうでもいいんだけど、浅山、アタシ風味(テイスト)の勾玉がずっと気に入ってたんだって。そのうち、アタシの許可を得て同じのを作って貰うか、譲って貰うかを考えてたんだけど、ふと、ダメ元で交換(エクスチェンジ)ってのを思いついて実行したというわけよ」

「それで、綾はすんなり応じたわけ?」

「ええ、そうよ。別に愛着も執着もないし、そろそろ他の趣向(デザイン)が欲しくなってたしね。……浅山のって、彼女の雰囲気(イメージ)とはかけ離れていて、とてつもなく妙なヤツだったのよ! それがまた新鮮で、アタシは二つ返事で交換しちゃったんだけどね」

 綾は笑いながら鞄の中から交換した飾りを取り出した。

「ほんとは更紗みたく鞄の外側につけたいんだけど、浅山、元・メンバーとおそろだって言ってたから、いちお遠慮して鞄の中にこっそり入れてるの」

「え……?」

「おっ……?」

 里子と隆が同時に驚きの声を上げた。

 四人は顔を見合わせたが、「俺は後でいい」と隆が神妙な表情で言ったので、更紗(さらさ)と綾は里子に注目した。

「どうしたの? 里子(りこ)」

 すぐには返事ができないほど、里子は驚いて動揺していた。

 更紗も綾も里子を急かすことなく、里子が落ち着くのを待っていた。些細なことでも里子に何かあった時、隆は里子を放っておかないのだが、どういうわけか、隆は隆で物凄く真剣なまなざしで考え事をしていた。

 数分間沈黙が漂った後、ゆっくりと里子は自分の鞄の中から飾りを取り出し、震える声で言った。

「……どういうこと?」

「それは、こっちの台詞だと思うけど……」

「ねぇ……」

 更紗たち三人はこの事実をどう受け止めたらいいのか困って途方に暮れてしまった。

 大きさは微妙に違うのだが、綾と里子は同じ『凹』のカタチをした飾りを持っていた。

「別にいいんだけど、里子って、浅山と同じグループにも属してたの?」

「まさか……」

「そうよね……。どう見ても、系統、違うわよね……」

 里子は知的な才媛、浅山は、どこぞのアイドルかと思うような服装を好み、きゃぴきゃぴした言動でとにかく男好きだと認識されている。一緒に見かけることが多い栗山も、浅山と似たり寄ったりだ。

「……っていうか、あたし、里子がソレ持ってたって事実の方に驚いてるんだけど……」

「あ……、ごめん。驚かすつもりは……なかったのよ? 隠すつもりもなかったんだけど……、できるだけ公にしないでくれって……、珍しく隆が念を押してきたから……それに応えたいと思って……」

「え? なにそれ? 俺、知らないよ? そんなこと……」

「え?」

 里子(りこ)は驚愕に目を見開いた。

「な……に言ってるの? 隆、わたしにコレくれた時、そうメモ残してたじゃない……」

「里子こそ、なに言ってんだよ? 俺、そんなことしてないよ? 里子に贈り物なんてまだしてないよ? それより、俺に十字架(クロス)くれて、そっくりそのままの内容でメモくれたのは、里子だろ?」

「はぁ? ……わたしこそ、隆にはまだ何も贈ってないわよ……?」

 呆然とする里子に、隆は手にしていた十字架を見せた。

「コレ……、里子がくれたんじゃないの?」

「う、うん……。わたし……じゃない」

「……」

「……」

「……けど、メモ、里子の直筆だったよ?」

「……わたしのも、隆の直筆だったけど?」

 里子と隆は顔を見合わせ、更紗と綾もどう反応したらいいのか皆目検討つかずに黙ってしまっていた。

「……この件については今すぐには埒明かないからさ、ちょっと話変えていい?」

「あ、うん……。どうぞ……」

 隆の言葉に、更紗と綾も頷いた。

「さっき俺、更紗に鍵借りたじゃん?」

 うん、と更紗は頷いた。

「更紗たちの話に興味なかったからさ俺、なんの気なしに鍵で遊びながらとりとめもないこと思ってたんだ。……そういえば皆、予備の鍵なんて持ってるかな?って。俺、鍵持ってないから」

「えっ?」

 更紗と綾が大きな声で驚いた。

「え? なに?」

「何……って。……飾りと鍵で一式よ?」

「え……? そう……なの? わたしも、この『凹』の飾りしか貰ってないけど……」

「……」

「……」

 更紗(さらさ)と綾は顔を見合わせた。

「話、戻していい?」

「あ、ごめん……」

「それで、里子(りこ)には悪いかもだけど、俺、写真を持ち歩く趣味はないんだ。里子はそれを知ってるから、鍵なしの飾りを双子に作って貰って俺にくれたんだと思ってたんだ。ところが、更紗から借りた鍵を片手に十字架(クロス)見てたら、今まで気付かなかったけど、鍵穴があったんだ。だから鍵を差し込んでみたら――」

 言いながら、更紗が拾った鍵を、隆は自分の十字架の鍵穴に差し込んだ。

すると――。

「開いた……」

 更紗、綾、里子はぽかんとしながら、開いた十字架を穴が開くくらいにじぃーっと見つめている。

信じられないことは、それだけではなかった。

「……鍵?」

 更紗が眉を寄せた。

 隆の十字架の中では、この飾り専用の小さな鍵が、セロハンテープでしっかりと固定されていたのだ。

「なんのために……? どうして……?」

 本来なら写真を飾るべき場所なだけに、みんなで首を傾げている。

「……」

 綾が無言で十字架の中の鍵を取り出し、真っ先に自分の微妙にへこみ部分が深い『凹』の鍵穴に差し込んでみた。

「ダメだわ。アタシの……っていうか浅山のじゃないみたい。里子、試してみて」

「ええ……」

 里子(りこ)の『凹』にも、合わなかった。

「どういうこと……?」

 綾が愕然としながら呟いた。

「とりあえず、状況を整理しよう」

 更紗がそう言うと、里子がメモするために手帳を取り出した。

「まず、里子も隆も、互いに贈り物はしてないのよね?」

 ふたりは力強く頷いた。

「それなのに、贈り物に関する直筆メモを互いに持ってるのよね? それ、手元にある?」

「わたしは……家に帰ればあるわ」

「俺も……探せばあると思う」

「見つかったら、見せてくれる?」

「わかったわ」

「ああ……」

「浅山さんと交換した綾の飾りが、贈り主のわからない里子の飾りと微妙に凹みの部分が違うけどカタチは同じ……なのよね。ということは、普通に考えて、浅山さんとその謎の贈り主は、同じグループだと判断して間違いないと思わない?」

 うんうん……と三人は頷いた。

「まぁ、浅山さんの交換は偶然だとしても、里子と隆にちょっかいかけた人間は気味が悪いわね……」

「ほぼ間違いなく、里子と隆の関係を知った、隆に片思いしてるオンナの仕業だと思うけど? アタシは」

 う~ん、と隆は渋い顔で唸った。

 里子は不安そうな心配そうな表情で隆の横顔を見ている。

「俺と里子のことは、更紗と綾にしか言ってないんだ。なるべく人に知られないようにはしてる……つもり。自分で言うのもおこがましいけどさ、俺、モテるみたいだから、つまんない女の嫉妬とか逆恨みとかで里子に嫌な思いさせたくなくて……気をつけているつもり、なんだけどな……」

「誰がどこで何を見てるかわからない、ってことが証明されたわけね」

 歯に衣を着せない綾は、ずばずばと続ける。

「この気味悪いことはほんの発端(プロローグ)かもしれないし、何かあってからじゃ遅いんだから、この際、ふたりの関係を公(おおやけ)にしたらどう? あんたたちの懸念通り、隆に片思いしてる連中とか、既に玉砕してる連中が腹いせに何しでかすかわかんないけど、公(オープン)にしちゃえば、ふたりで行動してても自然だし、何かにつけて効率いいんじゃない? さすがに、隆の目の前で里子(りこ)に嫌がらせはしないだろうしさ」

「あたしも、綾の意見に賛成だな」

「……」

「……」

 綾と更紗に提案され、里子と隆は見つめあいながら考え込んでいる。

 深刻な表情のふたりに、更紗は補足した。

「そういうテもあるよ、ってことだから。ふたりにはふたりのやり方ってのがあるだろうし、あくまで参考程度の提案だから……。わかってると思うけど」

「……わかってるわ。ありがとう。更紗。綾」

「……Thank you(ありがと)な」

 里子と隆が力なく笑いかけながら更紗と綾に礼を言った時、外が騒がしくなった。

「……終わったのかしら?」

 綾が音楽室の後ろ扉へ向かい、そうっと扉を開けて外を覗いた。

「あ、終わったみたい。ぞろぞろ移動開始してる」

 綾は扉を閉めて更紗たちの所へ戻ってきた。

「どさくさに紛れて教室に戻らないとね」

 綾に揶揄された更紗は、苦笑した。

 今日はこれから日本人学校生活最後の課外授業なので、何があってもまっすぐ教室へ戻らないといけない。

ババアに遭遇して、嫌味を言われている暇はないのだ。

「おばばに遭遇しないことを祈るけど、万が一のときは、援護よろしくね!」

「Trust me(信じなさいよ)! Go(行くわよ)!」

 綾に促され、更紗(さらさ)たちはそっと音楽室から教室へと移動を開始した。



                 3



「て……めぇっっ!」

 何食わぬ顔をして教室へ潜り込んだ更紗、綾、里子(りこ)、隆の四人は、いつものようにさりげなく男女に別れて、それぞれの日常に戻っていたのだが――。

 聞き慣れない大声に、更紗たち三人の談笑も中断された。

 何事かと思って声のする方へ更紗たちも顔を向けると、ちょうど教室に入ってきたところの知らない男子生徒と目があった。

 一瞬、誰だか分からなかった更紗だが、彼の怒気を孕んだ一言で、思い出した。

「あ……」

「このタマゴ女! なんでテメェがこんなところに居るんだよっ! テメェ、『墓守』じゃなかったのかよっ!」

 いきなり戦闘態勢な転入生であろう見知らぬ男子生徒――辰哉――と、その視線の先にいる『墓守』の更紗に、教室中の視線が集まった。

「バカ」

 取り乱すこともなく、更紗は痛烈な一言を投げつけていた。

「バカだと? コラっ! だいたいテメェ昨日から――」

「昨日からバカよね、あんた」

「―――っ!」

「理由はともかく、夜中の墓地公園に忍び込んでくることもバカげてるし、タマゴひとつすら避けられない醜態もバカみたいだったし、『墓守』とはいえ、どう見ても学生なあたしがガッコに来てることを心底驚くところがバカの極致じゃない」

「こンのぉ……くそアマ!」

 カチンときた辰哉が更紗のところへ殴り込みに行こうとしたが、間一髪で、隆がそれを止めた。

「お前も更紗のタマゴ攻撃くらったんだ?」

 さわやかでいて親しみたっぷりな言い方に、辰哉は足を止め、声の主である隆へと視線を向けた。

「あ、ああ……」

 夜中の墓地公園なぞに出向いた理由を訊かれたらどう答えようかと焦り倒していた辰哉だったが、隆は違うことを口にした。

「俺も、コイツら悪友と肝試しがてらこっそり忍び込んだら更紗に遭遇してさ、情け容赦なくタマゴぶつけられたことがあるんだ」

「……へっ?」

 思いがけない話に、辰哉は我が耳を疑った。

「そうそう。あン時はマイッタよな~。俺らの悪ふざけだってわかっても、ガンガンぶつけてくるんだからさ~」

「いくら俺様の動体視力が凄いと大評判でも、さすがに闇の中では役立たずで、修行が足りんと痛感した夏の夜でした」

「結局、如月は籠の中のタマゴ、全部おれらに投げつけたんじゃね?」

 隆と仲の良い男子数人が苦笑しながら思い出話を始め、更紗も懐かしそうに笑った。

「ご名答。重たかったから、全部ぶつけさせてもらったわ」

「うわぁ~! やっぱりそうかよ! 如月、鬼すぎっ!」

「っていうか、あたしが夜な夜な見回りしてること知ってて『肝試し』なんてやるヤツには同情の余地なし」

「ばっかだなぁ~。如月が見回りしてるところに遭遇するかしないか、タマゴ攻撃を避けきれるかどうか……ってのが『肝試し』の内容なんじゃん」

「なー」

「そうそう」

「え? そうだったの?」

 それには驚いた更紗が、連中に顔を見回した。からかっているのかと思ったが、どうやら本気らしいことに眩暈がした。

「呆れた……。ヤめてよね、そういう悪趣味なことは。タマゴだって無料じゃないのよ?」

「そういや、あんだけのタマゴ、どっから調達してんの?」

「養鶏所から、ヒビが入ってるのとか傷ついたのとか見た目の悪いのを、安く譲ってもらってるの」

「ふつーそういうのって廃棄にしね?」

「Cake shop(ケーキ屋さん)やHoker Center(大衆食堂)が安く買い取るから、廃棄なんてもったいないことしないのよ」

「ポーリアンの商魂、ナメちゃダメよ」

 綾が茶々を入れた。

 すかさず、男子が言った。

「だから、買ったその場で食わねーと腹こわすのか!」

 納得~、と教室が笑いと共に沸いた。

 打てば響くような会話がぽんぽん飛び交うのが、更紗たちのクラスに限らず、学校全体の特色だ。

 転入生の辰哉を連れてきた担任もこの場に立ち会っているし、生徒の話も聞いているが、忙(せわ)しなく水をさすような真似はせず、流れを見ている。

 他愛のない雑談でも、担任はある程度は黙って見守る方針の人だ。

 最初はあちこちでばらばらな話に興じている生徒たちだが、そのうち、なんとなくでもひとつの話題に意識が集中するようになるから不思議だ。

 そしてそのまま討論になる時もあるので、今日のように一・二時間目が『国際』の授業の日は誰もが楽しそうに登校してくる。

「つーかさ、前から不思議だったんだけど、なんで如月はタマゴぶつけんの? とっとと警察に通報すりゃいーじゃん。俺らは純粋に悪ふざけだけで他意はなかったけど、本物の泥棒や賊だったら、多勢に無勢で、さすがの如月でもヤバイと思うぜ?」

 だよなー、と男子たちは鷹揚に頷いた。

「タマゴを選んだ理由は、ふたつ。まず、タマゴなら怪我しないでしょ?」

 ぶつけられたことのある男子全員が、嫌な顔をした。

「怪我しねーけど、怪我よりタチ悪いと思うのは、俺だけか?」

「いや、俺も同感」

「俺も!」

「あの感触を思えば、普通に殴り合いしてる方が後味マシだよな……」

「まったくだ」

 しみじみする男子に対し、同情を含んだ失笑が起こった。

「ふたつめは、不謹慎を承知で受け売り……っていうか、使わせてもらったの」

「?」

「最近はそうでもないけど、ちょっと前までは、日本人がChaina Town(中華街)をウロついてると、お年を召した華僑の方々がタマゴをぶつけてたのよ」

「……」

「戦争の怨みつらみを口にして泣きながら……ね」

「……」

 やはり国際の授業で第二次世界大戦に関することを学んだことがあるクラスメイトたちは、気持ち沈んだ表情になった。

「宗教的なことも幽霊の世界のこともよく知らないしわかんないけど、単純に考えて、墓地っていう場所は、亡くなった人が眠ってると解釈されてるでしょ?」

 いつの間にか、クラスの全員が静かに更紗に注目していた。

「亡くなった人も生きてる人も、基本的には『人間』に変わりないと思うし、人間は夜に眠るもんでしょ? そこを、何の理由で見ず知らずの傍若無人に安眠妨害されなきゃなんないわけ? 墓地に眠る人々は抗議したくてもできないじゃない? ……やろうと思えばできるのかもだけど、やっちゃうと、やれ悪霊だのやれ呪いだのって曲解されるのがオチだから……少なくても、日本人墓地に眠る人々は行動起こさないのね。だから、あたしが代わりに―――」

「如月さんがどう思おうと勝手だしどうでもいいんだけど、少しは時と場所と場合を考えたらどうなのよ?」

 怒りと悪意たっぷりの物言いに、更紗と綾と里子(りこ)は迎撃態勢で同時に睨み返していた。

 更紗(さらさ)とはだいぶ離れた席から、自他とも認める霊感少女の磯野絵夢(えむ)が立ち上がって更紗を睨んでいた。

 ムカッときた更紗が言い返そうとしたその時、辰哉が息を飲んだのを感じ、そんな辰哉に気を取られていたら、絵夢が続けて攻撃的に言ってきた。

「如月さん、もう長いこと夜な夜な徘徊してるんだから――」

 綾が腹正しく舌打ちをしてから、絵夢の言葉を遮った。

「徘徊じゃないよ! 見回りだって言ってんでしょ! あんた、霊と戯れすぎて幻聴酷くなってんじゃない?」

「綾」

 お出かけ前にクラスの空気が嫌な感じになるのは避けたかった更紗は、綾を制した。

 更紗の声の調子で彼女の言わんとすることを瞬時に悟った綾は、不本意ながらも口を挟むのをやめることにした。

 ところが――。

「ちょっと、人の話の腰を折らないでくれる? これだから、フィリピーノは嫌なのよ」

「……あんたねぇ!」

 ハーフを蔑むような言い方をする絵夢に、綾は本気で腹を立てた。

 クラスメイトたちは固唾を飲みながら、このやりとりを見守っている。

 乱暴に立ち上がった綾を、今度は里子(りこ)が静かに制した。

「綾。霊界の人間に、人間界の常識は通じないわ。相手を見て話をした方が労力は少なくて済むわよ」

「里子……」

 里子らしくない、悪意たっぷり、棘だらけの言い方に、更紗は苦笑した。

 今日これからの課外授業に限って、里子は隆と同じ班になれなかったのだ。

 物凄い倍率だった隆を見事得たのが、絵夢と双子の天羽泪(あもうるい)・雫(しずく)の班だったので、ささやかな八つ当たりだと一目でわかる。

 そんな裏事情があるなどとは夢にも思っていない絵夢(えむ)は、里子(りこ)は更紗(さらさ)の親友だから突っかかってくるのだと思っているだろう。

 収拾方法を考えなきゃ……と頭を悩ます更紗などお構いなしで、絵夢が真剣に怒った。

「粟生田(あおうだ)さんっ!」

「なんだぁ? 喧嘩かぁ?」

「―――っ!」

 のんびりとした担任の声に絵夢はハッとし、助かった……と更紗は胸を撫で下ろした。

 担任が介入してくると、大抵の場合、話は打ち切られる。

 言いたいことを言う前に打ち切られるのは勘弁して欲しい絵夢は、ぐっと怒りを抑えた。

 深呼吸をして気持ちを落ち着けてから、絵夢は言った。

「如月さんは、タマゴをぶつける前に相手を確認しないの?」

「……するわよ」

 絵夢とは口もききたくないのが本音の更紗だったが、担任立ち会いの下、クラスの雰囲気が討論のカタチになってきている以上、無視するわけにはいかなかったので、言葉少なめに最小限のことだけを答えることにした。

「だったら何故、辰哉くんにタマゴぶつけたりしたのよ?」

「―――え?」

 更紗は怪訝そうに絵夢を見た。

 確かに、父親の二葉亭辰郎はこのオトコを「辰哉くん」と呼んでいたが……。

 知り合い……?と更紗は辰哉に視線を移した。

辰哉も辰哉で、厳しいまなざしで絵夢を見ていた。

「辰哉くんが単独で夜に墓地に行くわけがないから、おじさまと一緒だったんでしょ?辰哉くんとおじさま、どう見たって泥棒や賊には見えないはずよ。それなのに、タマゴをぶつけたって? 信じられない!」

 更紗(さらさ)は辰哉と絵夢を視界に入れながら、言葉を選んで答える。

「泥棒や賊に見えようと見えまいと、夜中の墓地公園に侵入してくる輩は容赦しないだけの話。理由はどうであれ、無断で忍び込んでるのよ? 何されても文句は言えないでしょっ!」

「きちんとした理由があるんだから、考慮してあげなさいよ! どうせまた、おじさまの取材で――」

「磯野っ!」

 怒気を孕んだ辰哉の一喝に、教室中がびくっとした。

「……性懲りもなく、余計なことべらべら喋ってんじゃねーよ」

「辰哉くん……」

 絵夢は唇を噛んで悲しそうに瞳を伏せた。

 教室に内に気まずい空気が漂う。

「……おし。一段落ついたようだな」

 気まずい空気などどこ吹く風の担任が、辰哉を促しながら教卓へと移動した。出張していた生徒達も、ばらばらと自分の席へ戻った。

「おはよう」

 担任が挨拶をすると、生徒たちも適当に挨拶をした。

「さて。だいぶ一時間目に食い込んだが、出発は二時間目からなので慌てることなく紹介しよう。はい、転入生!」

 改めて『転入生』と紹介され、教室内は騒然とした。卒業式まで一ヶ月を切ったこの時期に転入してくるとは、俄かに信じられないことだったからだ。

「だったら、直で現地校いった方が気楽じゃね?」

「でも、そうすると、中卒の資格貰えねーじゃん。中3でも現地校じゃ高1じゃなかったっけ? よくしらねーけど」

「日本人学校は一月卒業だけど、普通に三月卒業の学校だったとしても、十二月に転校はしないよね~」

「どこの会社かな? なんか親から聞いてた?」

「ううん。不景気で日本に帰される会社の話なら結構聞いてるけど、その逆なんて聞いてないよ~。こんな半端な時期から赴任なんてねぇ」

 あちこちで辰哉を値踏みするような視線が投げかけられ、いろんな憶測が囁かれている。

「ほらほら! まずは自己紹介してもらうから、静かにしろ~。その後で二時間目の出発までたっぷり時間とるから、質問ほかはちょい待て!」

 担任がそう言うと、クラスは静かになった。

「じゃ、自己紹介、頼むね」

 辰哉は素直に頷きながらも、かったるそうに口を開いた。

「長谷川辰哉。…………よろしく」

 それだけ言うと、ぺこりと頭を下げた。

 担任は、黒板にでかでかと「長谷川辰哉」と書いた。

「辰哉、だって!かっこいいじゃん!」

「なにおまえ、辰年生まれ?……なわけねーか」

 教室中が辰哉の名前の由来を聞きたがる空気になっていた。

 平成生まれだと、当て字満載の、俗に言う『キラキラ・ネーム』が決して少なくない。

 『キラキラ・ネーム』でなくても、女子は『子』がつかない名前が増えたし、男子もおしゃれな感じの名前が多い。だから余計に、『辰哉』という漢字は人目を引くらしく、どこに行っても遅かれ早かれ名前の由来を訊かれる。

「ウチは先祖代々男は『辰』って字を使うんだと」

「なんでなんで?」

「文豪、として歴史に名を残したけれど、蓋を開ければ、失敗と不運続きで苦労した先祖がいて、長い人生、苦しいことがあったらその先祖を思い出して頑張れ、ってことらしい。頑張れば、先祖のように悔いのない人生を送れる、らしい」

「歴史に名を残した先祖、って誰だよ?」

「辰、の字が付く有名人なんて、いた?」

 クラスメイトたちは、辰哉の先祖が誰なのかで盛り上がり始めた。

「長谷川辰之助」

【長谷川辰之助……?】

 辰哉と雪子(せつこ)が同時に口にした。

「え? 雪子……さん?」

 更紗の驚きは、辰哉の声に掻き消された。

「ヒントは、その名前。興味あるなら、がんばって検索しな」

 辰哉は茶目っけたっぷりにそう締めくくった。

(雪子サン?)

 もう一度、更紗は心の中で雪子に問いかけたが、雪子には聞こえていなかった。

【長谷川……辰哉。長谷川……辰之助……。そんな……。まさか……】

(雪子サン?)

【……】

 驚いたまま、雪子はまた更紗の中で静かに気配を消した。

「……?」

 釈然としない更紗だったが、雪子が気配を消してしまってはどうしようもないので、一旦この件からは離れることにした。

「一段落ついたところで、長谷川」

 担任が辰哉に話しかけた。

「はい?」

「今日は、三年生全員で、二時間目からお昼まで、年に一度の恒例行事・日本人墓地公園清掃へ出向くんだな」

「……は?」

 日本人墓地公園、と聞いて辰哉は思いきり嫌な顔をした。

「毎週月曜日の朝二時間は『国際』の時間といって、国際交流を含むシンガポールの歴史を学ぶ時間なんだ。今日はその一環で、墓地清掃。しかも、中学生活最後の課外授業。微妙に泣けてくるだろ?」

 教室に入るや否ややりあった、辰哉と更紗の会話の内容から事情を察した担任は、豪快に笑った。

「……勘弁してくれよ」

 辰哉は頭を抱えて座り込んでしまった。

「せんせー! 長谷川、俺らのグループに入れてくださいよー!」

 隆だった。

「更紗にタマゴをぶつけられた者同士、因縁の場所で語り合いたいっす!」

 隆のおどけた口調に、身に覚えのある悪ガキどもが爆笑しながら自分も混ぜろと主張し始めた。

「よ~し。じゃあ、如月にタマゴをぶつけられたことのある男ども!」

 いぇ~い! と隆を含む五人が挙手した。

「じゃ、おまえらと長谷川の六人で新しく班を作ってよし。長谷川の転入記念だからな、他の者も許してやってくれや」

 はぁ~い! とクラスの大半は了承した。自分に直接被害がなければなんでもアリというノリなので、結構いいかげんだ。

「じゃ、男どもが抜けた班も微妙に調整するかぁ~」

 担任はクラスを見回した。

「如月のとこ三人と、天羽の双子、磯野で組めば、ちょうどいいのかな?」

 えぇ~っ! と更紗(さらさ)・綾・里子(りこ)と絵夢は全身で拒絶したが、男どもが抜けてしまった以上、それしか班編成はできなかった。

「おし。問題ないな。じゃ、休み時間になったら、バス乗り場まで速やかに移動すること。遅れるなよ。……という訳で、残り時間は静かに自由時間。開始!」

 ぽん、と手を打って担任が合図した途端、天羽の双子……と呼ばれていた天羽泪が激しく泣き出した。

 妹の天羽雫や絵夢がすかさずなだめたが、泪は泣きじゃくっている。

「ど、どうした? 天羽姉! 先生、何かマズイこと言ったか? それか、まだ具合悪いのか? さっきはさっきで保健室で休んでたんだろ? 墓地清掃も無理しなくていいぞ」

 慌てる担任を、妹の雫が睨みつけた。

「先生、無責任すぎ! 不公平! 強制的に班を変えられたわたし達の気持ちは考えてないじゃないですか! 日本人学校生活最後の課外授業だから好きに組んでいいって言ったから、わたし達なりにいろいろ交渉して、下調べして、結束固めて今日まで来たのに……。それを……」

 雫は視線を辰哉に移した。

「時期はともかく、転入生なんて珍しくもなんともないのに、どうして、今回に限ってそんなに気を遣ってるんですか? 彼のお父さん、どっかのVIPなんですか? それとも、彼自身がひきこもりとか不登校とか……そんなんだから気を遣ってるんですかっ?」

 怖いわね……、と綾が素知らぬ顔でそっと呟いた。

「怖いし酷いわよ。雫ってあんなんじゃなかったよね?」

 更紗は雫たちから目を離さず、そっと綾に寄り添って小声で言った。

「気弱で、ちょっとしたことですぐ情緒不安定になってしまう姉を手助けする姿勢はいつも通りなんだけど、本人目の前にして、『ひきこもり』だとか『不登校』とか……言っちゃイケナイこと言う人じゃなかったよね?」

「……そう言えば、最近あの双子、余裕なくなったと思わない? なんかどこかカリカリしてるっていうか……ピリピリしてない?」

「現地校行くのか帰国受験するのか知らないけど、受験絡みのストレスじゃない?」

「……違うと思う」

 浮かない表情の里子(りこ)が、ぼそっと更紗の言葉を否定した。

「え?」

「Why(なんで)?」

 里子は俯いたまま、とてもとても小さな声で答えた。

「……正確な時期は忘れちゃったけど、限りなく最近に近いちょっと前に、……泪、告白……したのよ」

「!」

「!」

 更紗と綾は驚き、次の瞬間には嫌そうな顔になって互いを見た。

 日頃の泪を知っているだけに、告白後の展開が容易に想像できてしまったのだ。

「隆は彼女の性格を知っているから、とにかく慎重に言葉を選んで、説明して……断ったの。勿論、わたしのことは言わずに、現状のまま卒業したいんだって言って……。けど、彼女は、ほんの数日でもいいからつきあいたいって引かなかったらしいの。彼も、どうしていいのかわかんなくなって、ほとほと困ったってこぼしてた……。後にも先にも隆から自分に告白してきたコの話聞いたのはこれだけだから、相当キツかったんだと思う……」

「……それって、泪が一週間ほど欠席した時の話じゃない? 欠席理由、はっきりしなかった時、あったよね? 欠席する前からなんか思いつめたような表情だったから、ヤバイんじゃない?って言ってた記憶が……」

「あー、あったあった、そんな時。帰国受験する予定だったのが、おじさんの仕事が

当たっちゃったから現地校に変更させられるとかさせられたとかで、泪、この世の終わりみたく落ち込んだって話、聞いたけど?」

「そうなんだー? じゃ、違うのかな?」

「どっちにしても、そんなコトがあったら、泪はとことん落ち込むでしょうね……。気をつけて見てないと……危険ね」

「ある意味、雫って大変かも……」 

 なんか納得……、と更紗と綾は苦笑しながら頷いた。

「泪が告白した後……だわ。墓地清掃の班分けがあって、雫、なりふり構わずに隆に交渉してたでしょ?」

「……あれはすさまじかったわ」

「他の女子、引いてたもんね……」

「直接本人からは何も聞いてないけど、多分、泪の件があったから、隆はすんなり双子の班に入ったんだと思う……」

「だから……か」

 合点がいった更紗と綾は、視点を変えて騒ぎへと目を向け直した。

 雫の剣幕に、担任は焦っていた。

「あ……。……ごめんな、天羽妹。別に、先生は何も特別に気を遣ってるわけじゃないんだ。……言ってしまえば、ノリだったんだな」

 さて困ったぞ。どう説明すれば納得してくれるんだろう?時間もあまりないし……と、担任が頭を悩まし始めた隣で、辰哉がバンッと黒板を力任せに叩いて舌打ちをした。

「おい、双子の片割れっ――」

「雫。謝れよ」

 怒り心頭の辰哉を制し、隆が雫を見据えた。

「失礼にも程があるだろ? 言い過ぎだ」

「な……なによ、偉そうに! 確かに言い過ぎたかもしれないけれど、誰がこんなことを言わせたのよ? 隆くんが勝手なことを言わなければ、私だって何も言わなかった。……隆くんこそ、謝りなさいよ。泪に。泣かせたんだから!」

「!」

 里子(りこ)が、誰とも視線を合わせないまま身体を強張らせた。

 更紗がそっと里子の手に触れると、里子は「わかってる」と小さく頷いた。

「……それはお門違いだろう? 俺は泪に何もしていない」

 泪は息を飲み、再び激しく泣きじゃくり始めた。

「ひどい……。隆くん、酷すぎるわ! どの面下げてそんなことを……!」

「いい! もういいから! 雫ちゃん!」

 泪は雫の服を掴みながら、雫を止めた。

「もういいよ……雫ちゃん。うん……そうだよね。隆くんはわたしに何もしてないよ……。わたしが勝手に……」

 その後は言葉にならず、泪は雫にしがみつくようにして声を殺しながら泣き続けた。

 誰も何も言わずにいたが、隆を巡る色恋沙汰のもつれだろうな、と普通に解釈していた。程度の差はあれど、よく見かける光景だからだ。

 興味もないし鬱陶しいなぁ~、という空気が徐々に濃厚になって来た時、一時間目終了のチャイムが鳴った。一斉にほっとしたのが感じ取れる中、担任が言った。

「あ……。チャイム鳴ったから……、移動開始。遅れるな!」

 はぁ~い、という返事がばらばらとあがり、生徒たちは鞄を持って移動を始めた。

 更紗(さらさ)、綾、里子(りこ)はすぐには動かず、見るとはなしに渦中の連中を見ていた。

 担任が頭を下げた。

「長谷川、転入早々、気ぃ悪くさせて悪かったな」

「あ、いや別に……」

 辰哉は憮然としたままだ。

「天羽姉妹……ごめんな。先生も軽はずみすぎた。でも、今日は、勘弁してくれるか?」

「……」

「……」

 泪と雫は返事をしなかった。

 担任は困り果てた表情で苦笑した。

「天羽姉、泣いたら頭痛くなったり気持ち悪くなったりするだろう? 無理しなくていいぞ。墓地清掃、行っても行かなくても大差ないからな」

「ええ。日頃から手入れはばっちりですから、抜く雑草もないくらいですしね~」

「墓地清掃なんて大義名分で、実際は遊びだしね~」

「おぉ? き、如月、佐久間、粟生田(あおうだ)、まだ居たのかっ?」

 しまったぁ~! と慌てる担任を、更紗たちは笑いながら見ている。結構なにをやっても裏目に出てしまうところが憎めなくて、更紗たちは担任が好きだった。

「……大丈夫です。墓地清掃、参加します」

「え? あ、そ、そうか? 無理すんなよ?」

「……」

「……」

 泪と雫は黙って立ち上がった。

「ほら、如月たちも急げ!」

「はぁ~い!」

 机に置いてあった鞄を取った綾が立ち上がった時、歩いてきた雫とぶつかった。ぶつかったはずみに鞄が綾の手から落ちて、中身がばらけた。

「あ……ごめん」

 雫は素直に謝ってかがみ、中身を拾い集め始めた。

「あ、いいよ。大丈夫」

 綾も同じようにしゃがみこんだ。

「えっ?」

 雫が驚いた。

「ん? What(なに)?」

「あ……、佐久間さんの飾りって……コレだったんだ?」

 雫は『凹』のカタチをした飾りを手に取りながら、尋ねた。

「No。それ、浅山と交換(エクスチェンジ)したのよ」

「交換……? 雅代と? なんで?」

「さぁ? 浅山が、アタシの勾玉気に入ってるから、交換(エクスチェンジ)して欲しいって。ダメなら、同じものを雫たちに作ってもらいたいから、許可頂戴……って言うから」

「……そう、だったの」

 雫は躊躇してから言った。

「……佐久間さんは――、いえ、佐久間さんも、その中には写真を入れてるの?」

「え? ううん。そんな少女趣味的なこと、アタシはしないわ。ただの飾りとして持ち歩いてるだけ」

「そう……なんだ」

 ふ~ん、とどこかぎこちなく頷きながら、雫は『凹』の飾りを鞄の中に入れた。

「ほ~らほら、急げ~。置いてくぞ~」

 担任が更紗たち五人を急かした。

「はぁ~い!」

 五人は慌てて教室を出た。


                  4



「最後に、くれぐれも、見知らぬ人や奇妙な出で立ちの人を見かけても、話しかけたり、逆に話しかけられたりしても、返事しないでください。いろんな意味でついてきますからっ! それと、今日、あたし達が学校に戻るまでは日本人観光客(ジャパかん)……いえ、失礼しました、観光客の方々はここへやって来ませんので、それも覚えておいてください。繰り返しますけれど、今日は、私たち、日本人学校の生徒しかこの墓地公園にはいませんから!……以上です」

 更紗は拡声器を学年主任に返した。

「何か質問はないか? なければ、墓地清掃開始。集合時間には遅れるな!」

「はぁ~い!」

 返事をしながら、四クラス分の生徒たちが三々五々に散った。

 墓地清掃は雑草抜きとゴミ拾いを意味するが、この日本人墓地公園は日頃から丁寧に手入れがされているし、一年生や二年生も時期をずらして訪れているので、実はほとんどすることがない。

 それを承知で訪れるのは、日本人墓地公園について色々調べたことを実際にその目で見て確かめることに重きを置いているからだ。

【墓地公園に眠る方々はいつも通りおとなしくしていると思いますけれど、若干、外界から紛れ込んでしまった霊がそわそわしている感じがしますわ。更紗】

墓地公園に戻ってきた雪子(せつこ)が、のびのびとした雰囲気だけれども懸念した声音で更紗(さらさ)に話しかけてきた。

「それはあたしも感じてます。やっぱ、四クラス分の人間がやってくれば、何割かは何か連れてますね……」

 学校に居る時はほとんどそんなことは感じない更紗だが、自分の領域だととても敏感になってしまうらしい。

 憑いている霊がはっきりと視えるのだから、驚きだ。

【雑多な霊ばかりですけど、万一に備えて、悪さをしないよう、見回りに行きたいと思うのですが……よろしいかしら?】

「え? そんなこと、可能なんですか? 髪の毛で繋がってるんじゃ……」

【基本的にはそうよ。でも、ここは、わたくしにとっても更紗にとっても特別で特殊な場所でしょう? だから、墓地公園内限定なら、別行動は可能なの】

「そう……なんですか」

 やはりここは異世界なんだなぁ~、と更紗は今更ながらに感心してしまった。

「あたしは構いません」

【じゃあ、ちょっと見回りに行ってきますわ。何かあったら、呼んでくださいね】

「わかりました。気をつけて……」

【ありがとう】

 雪子(せつこ)は笑顔で礼を言うと消えた。

 更紗は、綾と里子(りこ)と合流するために待ち合わせ場所へと向かった。

「お待たせ!」

 更紗に気付いた綾と里子に手を振りながら合流した時だった。

「お嬢さん」

 どこかで聞いたことのある男性の声に更紗は振り返り、綾と里子もつられてそちらへ視線を移動した。

「あ……え?」

 更紗は我が目を疑った。

 振り返った先はマンゴ林で、そこから出ててきた人物は、昨日の夜中に遭遇した二葉亭辰郎センセイその人だった。昨日の今日だから、きっと出直して取材に来たのだろうと自然に思った更紗だったが、彼のそのびしっときめた喪服姿に唖然としたのだ。

 辰郎は相変わらず柔和な物腰だった。

「こんにちは、お嬢さん」

「あ……こんにちは」

「昨夜は申し訳ありませんでした」

「あ、……」

 ええ、ほんとに……とは思っていても言いづらくて、更紗(さらさ)は言葉を濁した。

「ん? どうかしましたか? 具合でも悪いんですか? 昨夜、張り切りすぎて疲れちゃったんですか?」

「いえ、そうではなく……」

 アナタのテンションにどっと疲れるんですけど……とも言えない更紗だった。

「?」

 辰郎は更紗に視線を合わせるようにかがんだ。更紗の額に手を当て、「熱はなさそうですね」と安心したように言う。悪い人ではないのだが、どこかズレているような気がしてならない更紗だ。

「あのぉ……」

「どうしました?」

「お身内に不幸でもあったんですか?」

「え? 妻が息子を出産した時に他界しましたが、最近は……ないですね。なぜ? 辰哉くんが何か言ったんですか?」

 ――辰哉くん? 辰哉くんってあの転入生よね? 確か、長谷川辰哉……よね?

 ――……ってことは、この人、お父さん?

 ――若いわね……。

 ――けど、奇妙(ストレンジ)……。

 綾と里子(りこ)が、更紗の背後で耳打ちしている。

「いえ……。彼は別に何も言ってませんでしたけど……、あの、その喪服は……?」

「あぁ……これですか。おかしいですか? 墓地公園とはいえ墓地ですから、喪服で正装してみたんですが……」

 ぷっ、と綾と里子が吹き出した。

 更紗は肩越しにふたりを睨みつけたが、ふたりは爆笑するのをこらえるのに必死だった。

「あ……そうだったんですか」

 なるほど……、と更紗は判ったような判らないような曖昧な反応をして頷いておいた。

「ところでお嬢さん」

 言いながら、辰郎は封筒を取り出した。

「昨日のお詫びになるかどうかはわかりませんが、これを差し上げます」

「……なんですか?」

 糊がついていない封筒を開く更紗に、辰郎が言う。

「招待状です」

「これ……」

 どこかで見たことあるぞ?と更紗は記憶を手繰り寄せた。

「今週末、土曜日ですけど、日本人会始め、いろんな企業が私の来星記念パーティを

して下さるんですよ」

「あー、はいはい」

 思い出した更紗は、すっきりした表情になった。

「どうされました?」

「二葉亭辰郎センセイだったんですか。日本の有名な作家さんって」

「面と向かって言われると、照れますね……」

 辰郎は赤面した。

 ――天然? わざと? 

 ――天然でしょう?

 ――だよね……。

「親宛に招待状、来てました。けどうち、『二葉亭』っていう老舗の日本料理屋でして、今回はビッフェだから少しだけですけど,料理を出すので、招待状貰ってもなぁ~って言ってたんです」

「……『二葉亭』?」

 辰郎の顔つきが変わった。柔和な表情から、しゃきっとした表情になった。多分、仕事の顔だ。

「何故そのような名を?」

「……それはうちが――」

「おじさまっ?」

 ただでさえ甲高い声を驚きで更に高くした絵夢が、ものすごい勢いで走りこんできた。

「ちょっ、ちょっと!」

 わざとなのか成り行きなのか判断しにくい状況で突き飛ばされた更紗が抗議の声をあげたが、絵夢は辰郎しか見えておらず、興奮状態で話しかけていた。

「お久しぶりです!」

「おぉ! 絵夢ちゃんか。奇遇だね、こんなところで再会するなんて。……だけど、どうしてこんなところにいるんだい?」

「もちろん、父親の赴任で……ですよぉ。おじさまって相変わらずお茶目さんですね~」

 ――知り合い?

 ――知り合いでしょう?この状況は。

 ――作家と霊感少女? 接点は?

 ――作品のモデル……かしら?

 ――息子の友達でしょ?

 ――I see(だよね)……。

 更紗の言葉に、綾たちは頷いた。

「あ、そうか。そうだよね。あ、絵夢ちゃん、元気?」

「元気です。おじさまは?」

「元気だよ」

「それはなによりですねー」 

 他人の再会話を聞いても仕方ないので、更紗たちはこの場を立ち去ることにした。

「そうそうおじさま!」

「なんだい?」

「辰哉くんから撫子(なでしこ)さん……離れちゃったみたいですよ?」

「え?」

【更紗、ちょっと待って】

(え? 雪子(せつこ)さん?)

 いきなり雪子に鋭く呼び止められ、更紗は焦って立ち止まった。

「更紗?」

「あ、ごめん。ちょっと先行ってて……」

 そうは言われても……、と中途半端な場所で立ち止まられ、綾も里子(りこ)も心配そうな表情で歩みを止めてしまった。

(せ、雪子サン? 見回り中……じゃなかったんですか?)

【ええ。見回り中だったんですが、二葉亭辰郎さんの気配を感じたので、慌てて追ってきたんですの】

(はぁ……)

 そういうこと……、と更紗は納得した。 

 絵夢と辰郎は、妙な所で立ち止まっている更紗たちに構うことなく立ち話を続けていた。

「撫子さん、成仏しちゃったのかもだけど、今、辰哉くんの背後、なんかヘンですよ」

「ヘン……って?」

「誰もいないんです。ふつー、守護してるヒトがひとりくらいはハッキリ視えるのに……。日本に居た頃は、そのはっきり視えたのが撫子さんだったから……、あぁ、お母さんが護ってるんだなって思ってたんですけどぉ」

「撫子さん、成仏しちゃったんだ……?」

 辰郎はしゅんとした。

「あ、断定できませんよ。ぱっと見だったから……。ただ……、辰哉くんの後ろには誰も視えないし、誰もいないようなのに、物凄い『力』を感じたんです。辰哉くんの体内から溢れ出てるみたいだったなー。有り得ない話なんですけど、辰哉くんの身体の中に別の誰かが居る?みたいなカンジで……。ちょっと心配してるんですけど……。辰哉くん、結構、拾いやすいから……」

「……それ、辰哉くんには?」

 ううん、と絵夢は悲しそうに首を横に振った。

「言えるわけないですよ~。たぶん、もう、辰哉くんは口きいてくれないと思いますし……。その前にあたし、辰哉くんにはきちんと謝らないと……」

「絵夢ちゃん、そんなに気に病むことないよ。絵夢ちゃんに悪気がなかったことくらい、辰哉くんだってわかってるよ。ただ彼は意地っ張りだから――」

「意地っ張りと言えば……、辰哉くんとおじさま、わだかまりは解けたんですか?」

「いや……」

 辰郎は悲しそうに首を横に振った。

「細心の注意を払って、撫子さんが亡くなったいきさつは秘密にしていたのになぁ~。ほんと、マスコミは嫌いです……」

「辰哉くんが気に病んでるの知ってたから、おじさまと辰哉くんの仲直りに一役買えたらいいなーって思って、絵夢……」

「ありがとうね、絵夢ちゃん。辰哉くんだって、それはきっとわかってるから――」

 辰郎と絵夢の立ち話は続いているが、雪子が溜息と共に呟いた。

【身体の中に別の誰かが居るみたい……】

(雪子サン?)

【ありがとう……更紗。もういいわ。わたくし、見回りに戻ります……】

(雪子サン……?)

 抑揚のない沈んだ声の雪子が心配な更紗だが、同じように更紗を心配そうに見ている綾と里子の手前、気持ちを切り替えてこの場をなんとかしなければならなかった。

「あ……ごめん。もう大丈夫。ちょっと軽い金縛りだったから……。ほら、今日は、いろんな人が墓地に来てるでしょ? 中にはよろしくないモノを連れて来てる人もいるから、それに捕まっちゃった」

 咄嗟に更紗はそう誤魔化した。

「……びっくりしたぁ。何事かと思ったじゃない!」

「そう言えば、更紗(さらさ)も霊感少女なのよね。磯野さんほど派手じゃないから目立たないだけで」

「たいしたコトないんだけどね……」 

 更紗たちが談笑しながら再び歩き出した時だった。

「あ! 居た居た! タマゴ女!」

 辰哉が血相を変えて走りこんできた。

「――げっ! なんだアイツがこんなとこにいるんだよっ! しかも、なんてカッコ……!」

 辰哉は更紗の肩越しに絵夢と立ち話をしている辰郎に気付き、頭を抱えた。

「泣きたくなる気持ちは、よくわかるわ」

 綾がしみじみと同情した。

「どうかしたの?」

 里子(りこ)が訝しそうに尋ねた。

「そうそう! タマゴ女!」

「……」

「おいコラ! タマゴ女!」

「……」

「テメェ……!」

 ぐいっ、と辰哉はそっぽを向いている更紗の肩を掴んで自分の方へ向かせた。

「あら? あたしを呼んでたの?」

「テメェ以外に誰がいるんだ?」

 辰哉は焦りから殺気立っていた。

 更紗は乱暴に辰哉の手を払った。

「あたしは如月更紗。タマゴ女なんて知らないわ」

「……」

 ちっ、と辰哉は舌打ちした。

 言いたいことは沢山あったが、今は一刻を争うのでぐっと飲み込んで用件を告げた。

「大変だ! あの泣いてた双子の片割れが手首切った」

「はぁ~?」

 更紗(さらさ)たちはすっとんきょうな声をあげた。

「急に姿が見えなくなったらしく、気の強い双子の片割れが、騒ぎにならないよう隆やオレにさりげなく探してくれって言うから探してたら、……手首切ってやがった!」

「どこ?」

 更紗も真剣な表情になった。

「タカさんの墓の近くのからゆきさんの墓、って言えば、タマゴ女ならわかるって隆が言ってた」

「わかった」

 更紗は走り出し、綾に里子(りこ)に辰哉もそれに続いた。

 タカさんの墓というのは、天理教初代会長だった板倉タカの墓のことだ。

 行商をしながら熱心に布教し、からゆきさんのよき相談相手だったという。

 場所は、正面入り口から入って右手に進んで行くとおのずと目に入る。とても立派な墓なので、目印には持ってこいだ。

 泪は、タカさんの墓の周りにある、中規模なからゆきさんの墓の隅っこで倒れていた。

 傍には青ざめた表情の雫と隆がいた。

 タカさんの墓は人目につきやすいが、からゆきのさんの墓の隅っこの方は、セイタカフトモモというマレー半島原産の高木に人の目が集まりやすいので結構視界に入らない。

 隆に抱かれている泪は、ぐったりしていた。

 非常事態だから……と頭で理解していても、里子の胸中は穏やかではなかった。

 隆が交際を断っても食い下がった泪。

 それだけ本気で隆が好きなんだろうが、……だから、怖くなるのだ。

 隆を手に入れるためならばどんなことでもしそうな気がして……。

 里子(りこ)は、泪の流した鮮血を見ながら身震いしていた。

「先生には連絡したの?」

 更紗(さらさ)が緊張した面持ちで雫に尋ねた。

「まだ……」

 雫は動揺した表情のまま即答した。

「なんで?」

「騒ぎになるから」

「はぁ? なに言ってんの? ……綾、里子と一緒に先生に連絡して」

 里子の心情を察した更紗の配慮に、即座に綾も気付いて頷いた。

「行こう、里子。大丈夫だから」

「……」

 とても不安そうな表情で隆から目が離せない里子を、綾は半ば強引に引っ張った。

「待って!」

 さっと立ち上がった雫が、綾と宝の前に立ちはだかった。

「What(なんなのよ)?」

 一刻を争うのに! と綾が苛立った表情で尋ねた。

「先生に知らせないで」

「……What(は?)?」

「知らせないでって言ってるのっ!」

 雫はヒステリー状態だった。

「泪、手首切ったのよ? それくらい思いつめてたのよ? それが公になったりしたら、皆に知られておもしろ可笑しく噂話にでもされたら、恥ずかしくて今度こそほんとに死んじゃうかもしれないじゃない! 泪が死んだら、どうしてくれるのよ? 佐久間さんたち、責任とってくれるの? 取れないでしょ? だったら、軽々しく先生に知らせるなんて言わないでよっ!」

「What a nuisance(うるさいっっ)!」

 カチンときた綾が一喝した。

「英語なんて使わないでよ!私たちは現地校なんて行きたくないんだからっ! 英語なんて聞きたくないっ!やめてよっ!」

 雫は錯乱状態になりつつあった。

「Shut up(おだまり)!」

「いやぁ~っ!」

 耳を押さえて座り込んだ雫を呆れたまなざしで見ながら、綾は更紗(さらさ)に言った。

「……更紗、どうする?」

「……仕方ないから、おばーちゃんとこに運ぼう。おばーちゃんにお医者呼んでもらう。綾は先生たちにうまく言っておいて」

「まかせて!」

「里子(りこ)は……どうする? あたしたちについて来る? 綾と行く?」

 里子は隆と見詰め合ったまま辛そうに答えた。

「……綾と行くわ」

 里子が後ろ髪引かれる思いでたまらないことに同情しつつ、更紗はさくさく仕切る。

「わかった。じゃ、隆は悪いけど、泪をおばーちゃん家まで運んで。……そこのアンタは」

「オレは長谷川辰哉。そこのアンタじゃねぇ」

「……」

 こンのぉ~……、と更紗は腹立たしく思いながら、ぐっと堪えた。

「じゃ、そこの長谷川辰哉」

「そこでフルネームで呼ぶか?」

「いいから、長谷川辰哉。アンタは雫をお願い」

「……わかった」

 不承不承といった感じで辰哉も承諾した。

「さ、急ぐわよ!」

 更紗たちは緊張しながら行動に移した。



                  5



「……疲れたわね」

「ほんとに……」

「……」

 墓地清掃からの帰り道、更紗(さらさ)たち三人は、クラスごとに借り切ったバスの一番後ろに座りながらぐったりしていた。

 結局、貧血で倒れていた泪の第一発見者が隆で、連絡を受けた更紗が祖母宅へ運ぶことを指示し、雫ともども隆は泪の介抱をするために別行動を取ることになった……ということで落ち着いた。

「あんな状況、生まれて初めて見たから、かなりショックだわ、アタシ」

「証拠隠滅も兼ねて大慌ててで後始末したあたしも、力いっぱいへこんだわよ……」

「……」

「幸か不幸かわかんないけど、泪が貧血で倒れたって報告されてさ、これっぽっちも疑わない先生たちっていうのもねぇ~」

「佐藤先生は担任だからおばーちゃんとこへ様子見行ったけど、まったく気付いてないし。おばーちゃんも気付かせないように気を遣ったんだと思うけど……それでも、ねぇ~」

「……」

 里子は、ずっと無言で俯いたままだ。

「……」

「……」

 里子を挟み、更紗と綾は目で会話をしていた。

 ゲスの勘繰り以外何物でもないのだろうが、泪が隆に告白していた話を聞いてしまってから、いちいち泪のすることが計算されてるのでは?と思わずにいられないのだ。

 今日だって、結果的には、傍に隆が居てくれることになったわけだし……。

 隆を巡る熾烈なオンナの戦いは、更紗(さらさ)も綾も数多く目撃している。さすがに手首を切るようなオンナはいなかったが、思わず眉をひそめてしまうようなことをするオンナは決して少なくない。

 里子(りこ)もそれを知っているから、いろいろ思い悩んでいるのだろう。

 そんな気がするから、他のクラスメイトに知られないよう小声で話すにしても、泪の件については口に出せずにいた。

 三人三様で気が滅入っているうちに、バスは学校に到着した。前に座っている人から順に降車するのが暗黙の了解なので、更紗たちはのんびりと待っていた。

 綾、里子、反対側の窓際に座っていた絵夢、辰哉と続き、一番最後に更紗がバスを降りるために立ち上がった。

 お昼だけど食欲ないなぁ~、などと思いながらバスを降りた更紗だったが――。

「唯(はい)。止歩(止まって)、更紗」

「――げっ! ババア!」

 中国を話す老婆に驚いて顔を上げた更紗は、「最悪~」とげんなりした。

 ババア、と聞いて、更紗の中で身を潜めていた雪子(せつこ)は更に小さくなって息を殺した。

 無視して行こうとした更紗の腕をしっかり掴んだ日本人学校お抱えの霊能者は、何故か辰哉の腕までも掴んでいた。

「わっ! な、なんだよ? オレ、中国語話せねぇ!」

「No Problem(問題なし)! 彼女はきちんと日本語理解できるし、流暢な日本語話すから、がんがん日本語で文句つけちゃいなさい!」

 ぎろり、とおばばに睨まれ、綾は肩を竦めた。

「更紗と男儿(男子学生)。おまえたち、何をした?」

「……え?」

 更紗と辰哉は顔を見合わせた。

 更紗は雪子と完全同化のフリをしているので、第一線で活動している霊能者に感づかれても不思議はないが、辰哉と並びに見られるのはわけがわからなかった。

 辰哉は辰哉で、おばばの言っていることがさっぱり理解できずにいた。

「二人揃って、なんだい?」

 おばばは更紗(さらさ)と辰哉を凝視している。専門用語で言う『霊視』だろう。

 更紗は内心冷や汗ものだったが、必死で平静を保っていた。

 ちょうど辰哉の前を歩いて降車していた絵夢も、この場に留まって怖いくらい真剣なまなざしで成り行きを見守っている。

「何故、二人揃って守護している者が一人も視(み)えない?」

「……は?」

「何故、二人揃って似たような〈気〉を纏っている?」

「?」

「何故、二人揃って何者かと同調しているような波動を放つ?」 

「……」

「……」

 どういうこと? と更紗と辰哉は互いに困惑したまなざしで見つめあってしまった。

「何故――」

「すみませーん! おばばさーん!」

 中庭の方から、担任が手を振って走ってきながら大声でおばばを呼んだ。

 辰哉を除く全員が、失笑した。

 担任に悪気がないのはよくわかるのだが、おばばの本名がすごく発音しづらいので呼びたくないのもわかるが、だからといって、笑顔で本人に向かって「おばばさん」と呼ぶのはどうかといつも思う更紗たちだ。

「おばばさんがチェックした生徒、全員、中庭に集まってるんで、手短に徐霊だか浄霊だかお祓いをお願いします。ランチなもんで」

 さ、どうぞ……、と走ってきた担任はおばばをエスコートした。

「ババアもマメよね」

 更紗はうんざりしたように言った。

「行事があるたびに、何か拾ってきた生徒はいないかとチェックして、ご丁寧にお祓いまでするんだから」

「なんだそれ?」

 辰哉だけが事情を飲み込めずにきょとんとしている。

 里子(りこ)はずっと俯いて考え込んでいるので、更紗(さらさ)は綾と顔を見合わせて頷いた。綾がおちゃらけた口調で辰哉に言った。

「後は、霊感少女でありおばばを崇拝してやまない絵夢に訊くといいわ。懇切丁寧に教えてくれるわよ? あなたの知らない世界を!」

「……佐久間さんのその性格の悪さ、絶対、診療所(クリニック)に巣食う病魔や生霊や死霊の影響よねっ! 魅入られてるんだわ。――ふんっ」

 絵夢は腹立たしそうにそう言い返した。

「残念でした~! アタシの性格の悪さは、生まれつきよっ!」

 あっかんべ! と綾は舌を出した。

「ほら、綾。行こ。お昼の時間、なくなっちゃう」

 更紗に引っ張られ、三人は校舎へと姿を消した。













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