第一部・その1

 少し前に空を見上げた時は濃い夜の闇だった覚えがある。

 今は夜の闇がすっかり朝日に解けて空が白み、日の出を待つばかりのようであった。

 季節はもう春と言ってもいいのだが、尾根に吹きつける風は冷たく、強い。

 身が縮むような冷え込みだが、泥と疲労にまみれた体や心が、引き締まる。

 その強い風をさらに切り裂くように、ヘリコプターがエンジン音と風切り音を響かせて通り過ぎていく。

「こちらJGSDFレスキュー、指定の区域に捕虜を発見。ただちに救助にあたる」

 ヘリコプターの操縦士の無線がこちらにも聞こえてきた。

 役目は終わった……思いながらも周囲の尾根に視線を巡らせる。

……いや、まだ終わっていない。

 稜線に見えるおぼろけな人影。スコープを通せばはっきり見える。

 それは、昔の戦争映画のような軍服を雑多なもので……略奪品で、飾り付けている。

 兵士。兵士のようなもの。

 夜明け前の遠目には黒く見える軍服。しかしそれは、グレーの軍服が、血で赤黒く染まっているのだ。

 武器はMP。射程は短い。捕虜や救助部隊にはまだ届かない。

 しかし捕虜たちの方を指さし、尾根の向こうに声をかけている。

「ACR-32、捕虜と一緒じゃないのか?ただちに捕虜とともに救助部隊に合流せよ!」

 自衛隊の大隊長が無線で呼びかけている。

 尾根の向こうの人影が見える。三人一組で、何か重いものを運び上げている。

 おそらくあれは、

「こちらACR-32、救助地点の東南東およそ五百メートル、山の尾根にNT四名。MG一門を確認。このままでは捕虜が撃たれます」

「了解したACR-32。あとは我々が対応する。速やかに救助部隊に合流せよ」

「間に合いません」

 ここからの距離は三百メートルほど。奴らはMG……マシンガンを尾根に運び込み、三脚に据えつけている。

 作業中で動いていない機関銃手に狙いを定めるが、視界の端に護衛がこちらに気付いたのが見えた。

 ライフルを持っている。スコープはついていないが、射程は長い。こちらを攻撃できる。

 とはいえこちらも射程内だ……ボルトフォワードアシストを軽く押して、ボルトが閉鎖されているのを確かめる。

 確認する必要はないのだが、いつの間にか癖になってしまっている

 安全装置は解除してある。引き金に、指を添える。

 護衛の頭に照準を合わせた時、スカートをはためかせるほどの風が急に弱まり、セーラー服のスカーフを撫でていった。

 今だとささやきかけるように。

 狙いの修正は最小限。不思議と落ち着いた気持ちで、引き金を引き絞る感覚も滑らかだ。

 ライフルの三点射に跳ねる視界。

 こちらを睨んでいるがまた照準の定まっていない護衛の顔に、とととっと三つ、短い衝撃が走るのが見えた。

 次はまだ三脚の用意を終えたばかりの弾薬手。

 顔は見えないが、少なくても二発はヘルメットを貫通し、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。

 機関銃手が大慌てでMGを向ける。

 しかし捕虜に向けて三脚に据えつけられたMGは真横には向けられず、こちらをまだ見つけていない。

 風はまだ弱いままだ。弾が落ちる分、狼狽する顔の少し上にスコープの十字線を合わせる。

 たたたん、とととん。機関銃手とともに、MGの銃身も、力を失い、倒れ込む。

「よくやったACR-32。だがもういい、もういいんだ!早く帰ってこい!あとは我々がなんとかする!」

 風がまた強まった。

 最後の一人を撃つのに腰を落として銃を構え直そうとしたその上を、スズメバチのような轟音が駆け抜けていった。

 反射的に身を伏せるとその少し上を、電気ノコギリにも例えられる銃声とともにMGの銃弾が、頭上の空気を切り裂き、木を砕く。

 思った以上に近い……二百メートルも離れていない林の切れ目。

 開けた場所にMGを据えつけ、こちらを指差している。

 そしてMGに守られて、やつらは斜面を駆け上ってくる。

 登ってきた朝日に照らされ、装備のあちこちに飾り付けたアクセサリーやキーホルダーがキラキラと光っている。

 そしてライフルに装着された銃剣が、ギラリと光った。

 やつらは総崩れだ。しかしだからこそ、必死になっている。

 やつらが帰るには、捕虜が必要なのだ。

 捕虜の、生きた肉が。

 そして、

「ACR-32、合流を急げ!そこで踏みとどまっても無駄だ!わかっているだろう!」

 そう。わかっている。いやと言うほど。

……さっき撃ちそこねたMPの兵士が、護衛を引き起こしながらこちらを指さす。

 護衛は落としたライフルを手に取ると、近くの木に身を隠した。


 なぜなら


 MGの給弾カバーが開くのが見えた。

 弾薬手がMGと三脚に身を隠して、弾帯をセットし、ボルトハンドルを操作する。


 やつらは


 そして弾薬手は機関銃手とともに重いMGをこちらに向けた。


 不死兵。


 ヨハン・ブットゲライトSS准将。

 もし今も生きているのなら、百四十歳近くになる。

 彼の率いる、通称“不死旅団”は、崩壊する東部戦線において奮迅の活躍を見せたと言われている。

 その一方で、捕虜虐殺やユダヤ人収容者を使ったおぞましい人体実験の首謀者として、今なおイスラエル諜報機関が追い続けるA級戦犯でもある。

 そのブットゲライト准将と“不死旅団”は、ベルリン陥落の数週間前に、突如として姿を消した。

 約五千の兵、大量の武器弾薬、金品や美術品とともに、跡形もなく。

 戦史家の多くは、交戦記録や死体が見つからないだけで、“不死旅団”はソ連軍と交戦して壊滅したという見解に落ち着き、“不死旅団”は忌まわしき噂とともに夢物語となっていった。

 それがおよそ三十年前……東欧を皮切りに、ヨーロッパ、アフリカ、中東、アジア、そしてアメリカ。

 彼らは帰ってきたのだ。

 小規模ながら神出鬼没の不死身の兵士……それが世界中無差別に出現し、略奪と殺戮の限りを尽くしているのだ。

 それこそが不死兵ノスフェラトゥ・トループス。“不死旅団”の強さの秘密、ブットゲライト准将の狂気の研究の成果なのだ。



 木々を貫く電気ノコギリの咆哮が止んだ。

 不死兵の生命力は無尽蔵だが、弾薬には限りがある。それだけは救いだ。

 しかし弾薬に限りがあるのはこちらも同じ……ポーチから弾倉を取り出す。最後の一本。

「こちらACR-32、これより合流地点に向かいます」

 山道を降りればMGに狙い撃ちされる。山の斜面の、急すぎないところを探して降りていく。

 その脇を、大きなものが転がり落ちていく……つかみかかる手をかわすと、血走った視線を残してそのまま崖を転がり落ちていった。

 尾根の上では、士官と思われる不死兵がこちらを指さし怒鳴っている。

 転ぶことも、転がり落ちることもお構いなしに、不死兵たちが斜面を駈け降りてくる。

「ACR-32、待っているぞ!」

 大隊長の声。思えばどれだけ迷惑をかけただろう。

 しかし、それに応えられるかどうか。もうわからない。

 不死兵たちの勢いはすさまじい。かわしても、撃っても、斜面を転げ落ちれば逆に先回りされてしまう。

 飛び降りるように斜面を駈け降りる。勢いがつきすぎて、もう止まれない。

 木に体をぶつけて勢いを弱めるが、無傷というわけにはいかない。

 足場、段差、木々、不死兵。小さい崖を飛び越え、先に転げ落ちた不死兵の頭を狙う。狙いはぶれだが、一発は当たった。

 一機目のヘリコプターが飛び立っていく。電気ノコギリ。MGの銃火は、ヘリコプターに向けられている。

 尾根にたどり着いた二挺目のMG。士官は降下を始めた二機目のヘリコプターを指差している。

 真正面から木に体当たりする。肺の中の空気がたたき出され、意識がちぎれ飛びそうになる。

 ひどくぶつけた痛みで、左腕の感覚がほとんどない。

 だが銃を支えられれば、それでいい。

 機関銃手に、意識を向け、照準を合わせる。距離は遠くない、スコープの中に、頭をとらえる。

 三点射。機関銃手、士官、弾薬手。一挺目のMGの、機関銃手。

 弾薬手を撃とうとしたところで、弾が切れた事に気付く。

 ライフルを背負い、また駆け出す。

 その先にはもう、斜面を転がり落ちた不死兵が何人かいた。

 折れた手足で立ち上がり、ひしゃげた体で荒い息をつき、しかしそれらが血に汚れた服以外は元通りになって、銃を構える。

 不死兵のいないところ。小さな崖……というか、大きな段差。

 そこを超えれば、もしかしたら。

 勢いをつけたその後をMPの銃弾が追いかけてくる。

 このまま着地したら足が折れるな。飛び出してからそんな考えが頭をよぎる。

 教本のどこかに降下体勢が書いてあったっけ。

 思ったより高い。地面にぶつかればそのまま死ぬか、身動き取れずに不死兵に捕まるか。

 捕まればどうなるか。よく知っている。

 あの日、母と妹が。ああなるのか。

 迫ってくる地面から目が離せない。でもなんだっけ、降下体勢。

 思い出そうと、ふと目を閉じた。


 そのとき、こえがきこえたんだ。


 みつけた。


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