エピローグ

契約

 四月十一日 日曜日 十三時五分――


 カランコロン。


 軽やかな鈴の音とともに、喫茶メアリの扉が開き、春の風が吹き込んでくる。店内には強いコーヒー豆の香りが満ちており、来訪者の鼻腔をくすぐった。


「いらっしゃい」


 磨りガラスのはめられた木製の扉に手を掛けた客とおぼしき女性に、店主はカウンターから声を掛ける。カウンターにはサイフォンが三つ、壁にはコーヒーカップとソーサーが並んでいる。火にかけられたステンレスのポットが、コツコツと小さな音を立てている。ポットはよく磨かれており、暗めの照明の下で光り輝いている。


 客の姿が一人もないガランとした、だが不思議と落ち着く店内を手のひらで指し示しながら、店主は女性に続けて声を掛ける。


「お好きな席へどうぞ」


 店主の言葉に、女性は店内を見回してから、入り口に一番近い一人席を選んだ。オリーブ色の年代物のヴィクトリアンチェアに腰掛けた女性に、店主はメニューとおしぼり、氷水をトレイに載せてきた。


 女性はそれをすべて不要だとジェスチャーして、深みのある声で言う。

「アッサムを」

「かしこまりました」


 女性は七十、八十くらいであろうか、シルバーに近い見事な白髪は、丁寧に後頭部にまとめられている。皺のしっかり刻まれた顔は、少し垂れているが、その奥にある鼻や上品な唇の形は、かつて多くの男性を虜にしたであろう片鱗を伺わせる。深い青色の瞳は、穏やかな光を湛えながら店主を観察している。


 店主は茶葉を入れた缶を取り出して、カウンターの壁をじっと眺める。


 花柄、ボタニカル、カラフル、エレガント、伝統的なアンティークから、和柄まで様々なテイストのカップが並んでいる。これから客に合うものを選ぶのが店主の楽しみの一つでもある。


「お待たせいたしました」

「悪くないね」


 ドイツの老舗ブランドのカップに注がれた紅茶を女性はじっくりと鼻から楽しみ、そしてゆっくりと口をつけた。


 カランコロン。


 小気味のいい音とともに、グレーのスーツに幾何学模様のネクタイを締めたいかつい男に続いて、ネイビーのスーツにストライプのネクタイを締めた優男風の若い男が入ってくる。


 いかつい男――大田原は、先客に目を向けた。

「リサさん」

「え!? リサさんって生きてるんですか?」

 優男――牧瀬の言葉に、大田原は慌てて牧瀬の口を塞ぐ。

「ほんとに、なっちゃいないねぇ、あんたたちは」

 笑いながら、老婆――メアリ・クラリッサ・ミラーは、片眉を上げる。

「探偵とその助手に空き巣事件の犯人捕まえてもらったって?」

「なっ。誰からそれを」

「『幽霊』さ」

 牧瀬が、ひっ、と自分の身体を抱きしめる。この老婆なら本当に話しそうだ。


「で、あの人たちはどうなったの?」

「ひっ!?」

 背後から突然聞こえた声に、牧瀬がさらに情けない声を上げる。店の奥には、いつの間にか真琴が座っていた。大田原はカウンター席に座りながら質問に答える。

「立花恵里と染倉寛子は四件の窃盗罪で起訴された。飯島聡と優梨愛は被害届を取り下げた。今、離婚調停中だそうだ」

「ふーん」

「愛翔くんは……親が二人とも拒否している。優梨愛には認知症の父親だけ、聡は親族と疎遠でな。折原玲子が引き取るかもしれん」

「そんなことできるの?」

「養子縁組ができればな。幸い、折原玲子には貯蓄もあるし、聡が養育費だけは払ってもいいと言っている」

「おや、折原玲子と飯島聡は」

 安賀多がサンドイッチとカレーライスをカウンターに置きながら大田原に聞く。

「きっぱり別れたみたいだな」

「飯島聡には、他にも愛人がいたらしいですよ」

「はぁ……世知辛いねぇ」

 牧瀬の言葉に大田原は、大仰にため息を吐き、胸ポケットをまさぐる。

「「「禁煙」」」


 安賀多、真琴、そしてクラリッサの言葉が重なった。大田原は項垂れる。

「それにしても、折原玲子も災難だったな。自分で依頼しておいて、とんだミスで発覚しちまって」

「それは違うよ。大田原さん」

真琴が言う。

「折原玲子はわざと聞かせたんじゃないかな、九ちゃんに」

「自動給餌器の音をか?」

「あれ以上いってたら誰か傷ついてたかも。止めて欲しかったんじゃないかな」

「……そうか」


「そうだ、大田原、これ」

 安賀多が鳥かごのようなものを出す。しかし、そこには鳥でもスイーツでもなく、猫が入っていた。ロシアンブルーだ。

「これは?」

「アポロだ。ご主人様に返してあげてくれ」

「飯島家のペットか?」

「そう。真琴があの後見つけたよ」

 アポロはあの時と同じように駐車場にいた。が来るまでちゃんと隠れていようと思っていたのだろう。とても賢い猫だ。

 真琴はカウンターの鳥かごに近づいて、中のアポロに話しかけた。

「愛翔くんによろしくね、アポロ」


 三月二十七日 土曜日 十五時――


 ボーンボーンボーン。


 喫茶メアリの壁に掛けられたアンティークのゼンマイ式の時計が、古ぼけた音とともに、十五時を知らせた。刑事二人はすでに帰り、店内にはカウンター内で店主が立てる音しか聞こえない。


 ずっと教科書らしきものを眺めていた真琴が、すっと立ち上がる。


「おやつの時間だよ、九ちゃん」

「はいよ」


 クラリッサは、夢中で編み物をしていたが、二人のやり取りに静かに笑った。

「約束をちゃんと守っているんだね。二人とも」


「九ちゃんのおやつ美味しいもん」

「こいつ、すごい食べますよ」

「でももっと生クリームいっぱいのお菓子出して欲しいんだけど」

「そもそもそれだけで食費が馬鹿にならんというか」

 真琴と安賀多が各々好きに話している。笑顔で聞きながら、クラリッサが言う。

「愛翔くんという子は、あなたとそっくりだったのね、真琴」

 真琴はその言葉にニカッと笑った。

「うん。私にリサがいたように、愛翔くんに折原玲子がいる。きっと大丈夫」

「それにアポロもな」

 安賀多が優しく真琴に言う。

「じゃあ、九ちゃんが私のアポロ?」

「誰が猫だよ」

「アポロじゃないか。アポロと愛翔くんは結婚できないもんね」

「ばっ! それは」


 安賀多は慌ててクラリッサを見る。クラリッサは編み物を鞄に仕舞いながら言う。

「そろそろお邪魔虫は帰ろうかしら」

「リサ」

「九助、あなたたちの『契約』に口を出すつもりはないわ。あなたはずっと『幽霊』みたいだった真琴に生きる意味を教えてくれたんだもの」

「リサ……」

「でも、あなたにこの店を譲った私の気持ちは忘れないでちょうだい」


 カランコロン。


 鈴の音とともに、店内には安賀多と真琴だけになる。


 真琴は、ずっと昔から喫茶メアリで謎を解いて来た。ここを会議室のように使う刑事たちにクラリッサを通じて、ヒントを与えた。急に誰かと話し、ひらめいたようにヒントを言うクラリッサを「幽霊と話している」と言う人間もいたが、安賀多九助だけが気づいていた。西真琴の存在と、その頭脳に。


 そして、彼女が生きる目的を探していたことに。生きる目的を提供すること、それが安賀多と真琴の契約であった。


「ねえねえ、九ちゃん、おやつ」

「へえへえ」


 安賀多は気を取り直して、もう一つの鳥かごを真琴の前に置いた。お手製スイーツがたくさん詰まった鳥かごだ。


 カランコロン。


 その時、一人の男性が入ってきた。悩みを抱えているような顔でゆっくりと臙脂色のソファに腰掛けて、『季節のブレンド』と『本日のスイーツ』を頼む。


 安賀多は真琴からメッセージを受け取る。


 可愛い『OK』スタンプ。


 喫茶メアリの店主は、探偵の顔になり――女子高生と契約を交わす。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

探偵は女子高生と契約を交わす くまで企画 @BearHandsPJT

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ