初めまして

 昨年 九月十八日 金曜日 十七時十分――


「マナトくん、とてもいい子でした」

「そう? よかった」

 玲子の言葉に、優梨愛はまったく関心がないようだった。それよりも晩御飯を作って欲しいという優梨愛の提案に、玲子は心の中で毒づく。母親どころか妻の仕事すら放棄するつもりなのかと。

 玲子は、かわいそうな人、と心の中で哀れみ、そして承諾した。


「先ほど愛翔くんのオヤツで冷蔵庫を確認させてもらいました。作れるのは、キノコとベーコンのパスタと、玉ねぎのスープくらいですがいいですか?」

「いい、いい。じゅーぶん! 三人分お願い」


 玲子の答えに優梨愛は口をめいっぱい広げて笑顔を作って立ち上がった。その時、優梨愛から石鹸の香りがした。おや、と思ったが玲子は表情を変えなかった。


 玲子は『三人分』と聞いて、聡の分も作っているのだと思った。優梨愛の存在さえ消し去れば、なんて幸せなワンシーンなのだろう。仕事から帰って来る愛する旦那様のために温かい料理を用意しているのだ。玲子は思わず鼻歌を口ずさみそうだった。


 ワンピースに白いモコモコのカーディガンを着て、優梨愛がソファで愛翔と一緒にテレビを見ている。二人とも子どもみたいだ。できた、と玲子が声を掛けると、優梨愛は「はーい」と軽く返事をして、テレビを消した。


「美味しそー」

 屈託なく笑う優梨愛に、玲子は本当に子どもみたいな人だな、思わず微笑んだ。愛翔が椅子に座るのを手伝ってから、聡はいつ帰るのだろうと思いながら帰り支度を始める。すると、優梨愛は少女のようなあどけない笑顔で玲子を引き留めた。もともと、玲子と食べるための三人前だったのだ。

 会ったばかりの人間に素直に好意を向けられる優梨愛が眩しくて、玲子はため息を吐いた。人がいないとダメだ、話す優梨愛はとても愛らしい人だった。


「良かったー。私、本当、人がいないとダメでー」

 そう言いながら優梨愛は、ずっと玲子に話しかけながら食事をした。愛翔は、たまに母親に零すななどと叱責されながら、終始無言で食べ続けた。玲子は、優梨愛の言葉に短く返事をしながら、食事を終えた。


 ガラガラガラッ。


 二十時ちょうどに自動給餌器が再び稼働する。二歳の子どもにテレビを見せたまま、ソファでくつろぐ優梨愛に聞こえるようにため息を吐いてみるが、彼女には聞こえないらしい。玲子は本当にため息を吐く。


「それでは、私はこれで失礼します」

「あ、もう帰るの?」

「はい」

「そっか。折原さん、今日はありがとうねー。またお願い」

 優梨愛は子どものように玲子に言う。それにつられたように愛翔もソファから、ヒョコッと顔を出して、「ばいばい」と言った。それを見ながら優梨愛は言う。

「本当、こんなに愛翔が懐く人初めて。本当、折原さん、またお願い」


 そんな優梨愛を見て、どこか虚しさを感じた玲子は曖昧に微笑んだだけだった。お辞儀をしたところで、玄関ドアが開いた。


「お客さんかな? 初めまして」


 初めて会った振りをしようと事前に話し合っていた。聡は言われた通りに、他人の振りをして爽やかに微笑む。玲子は二年前の春、初めて彼に会った時のことを思い出していた。眼鏡の奥の優しい瞳が、玲子の身も心も熱く痺れさせる。


 この人が好きだ――玲子は、どうしようもなく焦がれた。


 それから玲子は、月水金、飯島優梨愛と愛翔に会いに行った。そして、残りの火木土は、自分の部屋で聡と逢瀬を繰り返した。日曜日だけは、聡を家族に返してあげた。半年の間に、玲子は優梨愛に対して、母性愛のようなものを感じるようになっていたが、二人が仲良くなることに不安を抱いたのは聡の方であったらしい。彼は、多いくらいの報酬を玲子に払い続けた。

「口止め料みたいね」

 玲子は、冗談めかして聡に言ったことがあったが、聡はなにも言わなかった。それから、有料の講座や資格取得につぎ込んだり、ブランドものを買い漁ったり、ネイルやヘアサロンに通うようになった。優梨愛のように、幸せに見えるんじゃないかと錯覚していた。だが、現実は、気分が晴れることはなかった。


 いびつな家族ごっこは続き、やがて玲子の中に抱えきれない負の感情が生まれた。


 カウンセラーと不倫している女。その女に完全に見放された息子。誰にも関心を抱かれない飼い猫。外で女を作っている男。そして、その男に執着する女。


その時、連続して空き巣事件が起きていると聞いて、玲子は考えた。空き巣のふりをして、家をぐちゃぐちゃに壊してしまおうと。物を壊すことで、壊れていく心をどうにか取り戻したかった。ただ人間に戻りたかった。


 ――そう、玲子は話す。

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