家族

 昨年 九月十八日 金曜日 十三時五十七分――


 折原玲子は初めて入った飯島聡の愛の巣をゆっくりと嘗め回すように見ながら、奥へと入って行った。玄関正面の廊下を抜けた先には、片側の壁一面がガラスになっているリビングダイニングルームがあった。ガラス窓から見える美しい庭、ソファセット、大きなテレビ、ダイニングテーブルのセットにアイランドキッチン。玲子は入り口から、部屋を見回しながら中へと入った。インテリアはすべて白で統一されており、まるで主婦の夢を実現したような部屋だと、玲子は眩しそうに目を細めた。


 エプロンを身に着けた玲子は、愛翔を探そうと振り返って衝撃を受けた。


「びっくりした……」


 真っ白に塗られた壁にアートパネルが三枚飾られている。それが異様なほどに存在感を放っていたのだ。一枚目は、変な絵。二枚目は、ポップアート。そして、玲子の目を奪ったのは、三枚目のパネルだった。聡と優梨愛、愛翔の写真をアート風に加工した一枚。とても幸せそうに、オシャレぶっている一枚。


「変なの」


 玲子は胸にまたどす黒いものが渦巻くのを感じながら、吐き捨てるように言った。なぜこんな絵が堂々と飾られているのだろう。どうしてこの家族はこんなにも幸せそうなのだろう、と。


 ガラガラガラッ。


 玲子が呟くと、なにか軽いものが大量にプラスチックにぶつかるような音がした。玲子は誰かに聞かれたのかと、勢いよく振り返ったが、そこには誰もいない。


 アイランドキッチンに近づき、玲子は安堵した。


「猫……か」


 一匹のロシアンブルーだった。餌を食べている。先ほどの音は、自動給餌器だったようだ。玲子は初めて見る自動給餌器をまじまじと見つめる。面白い、と。


「だあれ?」


 背後から突然、声を掛けられて、玲子は思わず、「きゃあ!?」と短く叫んだ。

 そこには、愛翔が立っていた。秋だというのにTシャツと短パン姿であることに驚いた。玲子は、もう少しよく見ようと、愛翔の近くでしゃがんだ。長らく散髪していない髪が鬱陶しい。ろくなものを食べさせてもらっていないのか、少し顔色が悪く見えた。


「だあれ?」

「れいこさん、だよ」

「れーこさん」

「マナトくんかな?」


 変な名前。玲子は違和感を含みながら男の子の名前を呼ぶ。男の子は、玲子の質問に、「そうだよ」と大きく頷く。


「ママ、お出かけしたからね。ママが帰って来るまでお姉さんと遊ぼうか」

「うん」

「マナトくんは、なにかしたいことあるかな?」

「おえかき」

「おえかきね。クレヨンとかラクガキ帳はどこかにあるかな?」

「おへや」

「そっかあ、お姉さん。上のお部屋には行けないんだけど、マナトくん持ってきてくれる?」

「うん」


 そう言って、愛翔は右手でクマのぬいぐるみをブラブラさせながら、リビングダイニングを出ていき、音を立てながら階段を上って行った。玲子はそれを部屋の入口で見守った。玲子はじっと階段を凝視していた。まるで、母親のようだと。

 ――私も赤ちゃんを産んでいたら、これが私の日常だったはずなのに、と。


 やがて、愛翔が大きなラクガキ帳とクレヨンの箱を左手に、右手で手すりを掴みながら降りて来たところで、玲子は冷静を取り戻し、ゆっくり息を吐いた。


「ありがとう、マナトくん」

「うん」


 玲子は、愛翔をダイニングの椅子に座らせて、自分もその隣に座った。ラクガキ帳を開きながら、玲子は愛翔に聞く。

「じゃあ、なんの絵を描こうか?」

「あぽろ」

「あぽろ?」

 愛翔は椅子から少し身を起こして、キッチンに向かって指を指した。

「ああ、猫ちゃんのお名前ね?」

「うん」

「マナトくんはアポロが好きなのね」

「うん」


 愛翔はずっと短く返事を繰り返しながら、ロシアンブルーの猫と思しきマルの絵をたくさん描いた。それから十五時にはおやつを食べて、愛翔はソファでお昼寝をした。玲子は愛翔の隣でテレビを小さな音量で見ながら過ごした。


 十七時に優梨愛が帰って来るまで、玲子はたっぷり母親の気分を味わっていた。

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