ダイヤの指輪

 三月三十日 火曜日 十二時二十分――


 猪瀬美由紀にせっかくだからお昼でもと言われたのを固辞して、小田原と牧瀬は駅前の中華チェーン店でラーメンを啜っていた。


 店に入って十分と経っていないが、大田原は、すでに食べ終わりそうだ。刑事の食事時間というのは短い。牧瀬は先輩に後れを取っているが、食べるのが遅いのではなくて、彼特有の優柔不断でまたもや注文を迷っていたからである。


 ちなみに同じ時間、安賀多は一軒家イタリアンレストランで、ランチコースの衝撃の価格に打ちひしがれていた。


「お前、彼女できた時に優柔不断じゃあ、すぐ振られるぞ?」

「止めてくださいよ、先輩。自分は結婚できたからってマウント取るのは」

「なんだマウントって」

「モラハラです」

「なにかっていうとハラスメントっていうお前の方が、モラハラだ」

「うまい」


 牧瀬はのんきにラーメンを啜る。


「彼女、欲しいっすわ」

「頑張れ若造」

「あの子かわいいですよね、あの子」

「ああ?」

「ほら、喫茶メアリにたまにいる女子高生の」

「真琴ちゃんか」

「口をニカッてして笑うじゃないですか、あの子」

「可愛いな、真琴ちゃんは」

「そう。ああいう、笑顔が素敵な子いいっすよね」

「まあ……真琴ちゃんは止めとけ」

「なんでですか」

「まず女子高生だ。それにあのリサさんの孫だし、安賀多が面倒見てる子だし」


 大田原の言葉に、牧瀬が手を止める。


「リサさんって、確か、喫茶メアリのオーナーでしたっけ」

「お前会ったことあったか?」

「いえ、自分がここに配属された時には、もう安賀多さんが店主やってました」

「そうか」

「でも噂は聞きます。うちの刑事はリサさんに育てられたって」

「今は誰も近づかねぇけど、『メアリ』は刑事のたまり場だったんだ」

「はい」

「煙草ふかして、会議室みたいにずっと事件の話ばっかりしてた」

 大田原は無意識に自分のスーツのポケットに手をあてる。煙草の箱に指を掛けながら、過去の記憶を探るように。

「話し合いが行き詰まると、急にリサさんが言うんだよな。ちょっと訛った日本語で『なっちゃいないねぇ、あんたたち』って――それから一言二言、事件のヒントを言うんだ。もう答えみたいなヒントで、難事件もたちどころに解決してた」

「すごい人ですね」

「ああ、すげぇ婆さんだったよ。幽霊とも話せるって言われてたくらいだ」

「ははは、名探偵で、霊能力者でもあるんですか」

「……あれからもう二年か」


 呟かれた大田原の言葉は小さすぎて、牧瀬には届かなかったようだ。


「え?」

「いや、なんでもねぇ。ほら、もう行くぞ。次は上田洋子うえだ ようこだ」

「あ、ちょっと……ちょ、待ってくださいよー」


 急に立ち上がった大田原を追いかけようと、牧瀬は残った数本のラーメンを一気にスープと一緒に飲み干した。そしてジャケットを持って店外へ出た。


「ひー。火傷した」

「とれぇなー」

「ひどい」

「おら、行くぞ」


 駅から先ほどまでいた住宅街まで再び歩く。牧瀬は飲み込んだばかりのラーメンが、コンニチハしそうな気がして、口元を押さえながらドンドン進んでいく先輩を追いかけた。駅から十五分ほど歩いたところに、上田洋子の家はある。一軒家ではなく、二階建てのアパートの一階だ。高級住宅街で有名な街にも、探せば木造二階建ての家というのは存在するものだ。


 鉄製の扉をゴンゴンとノックすると、中から若い女性が出てきた。

「上田洋子さんですね?」

 大田原は努めて優しい口調で続ける。

「先だってお電話していた大田原です。事件のことでお話を」

「あ、はい。どうぞ……」

 洋子に促されて、大田原と牧瀬が部屋に入って行く。アパートのワンルームは、外観よりはきれいで住み心地は良さそうだった。中に入ると小さな女の子が人形で遊んでいた。

「娘の美鈴です。美鈴、こんにちはは?」

「こんちわー」

 舌っ足らずな挨拶に自身も一児の父である大田原は、いかつい顔に柔和な笑顔を作ってみせた。

「こんにちは、美鈴ちゃん。何歳かな?」

「にさいー」

「二歳かあ」


「あ、いえ……三歳なんです。お誕生日迎えたばかりで分かってなくて……」

「そうですか」

 洋子の言葉に、大田原は笑顔で頷いた。

「では、さっそくで申し訳ないのですが、お話よろしいですか?」

「はい」

「思い出せる限り、詳細に気づいた経緯や盗まれたものについてお話してください」

「はい。三月十六日でした」

「火曜日ですね」

「火曜日です。その日は、保育園の入園オリエンテーションで朝十時に家を出て、十一時に帰ってきました。ドアが開いていて……部屋の中がグチャグチャで」

 話しながら、その時に感じた恐怖を思い出しているのか洋子の声が震える。

「落ち着いて、大丈夫ですよ」

 牧瀬が横から声を掛ける。

「はい……すみません」

 洋子は牧瀬の声に頷きながら、続けた。

「幸い、預金通帳とかは大丈夫だったんですけど、鏡台の宝石がなくなっていて」

「どのような宝石ですか?」

「別れた主人にもらった――婚約指輪です。ダイヤがついてました」

「被害は……それだけですね」


 心に負った傷を考えれば、『それだけ』ではないのだが、窃盗事件の被害として扱われるのは消えた『ダイヤの指輪』だけだ。大田原の言葉に洋子は頷いた。


 シングルマザーが家に帰ってきて、荒らされた部屋を見た時の恐怖は計り知れない。さらには、経済的余裕がないために引っ越しできず、その部屋に住み続けなければならないというのも相当のストレスだろう。大田原は顔をしかめた。


 一つだけ幸運であったのは、三月十六日が雨であったということ。犯人のものと思われるゲソ痕が玄関で発見されている。

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