相場

 三月三十日 火曜日 十二時四十分――


「花ちゃんの件、残念でしたね」


 安賀多の言葉に対して、春の木漏れ日が差し込む明るい店内に、立花恵里の豪快な笑い声が響く。

「そう! もう、本当にごめんなさいねーわざわざ来ていただいたのに」

「いえいえ、こちらこそ無理言って……ありがとうございます」

「そんな! 先生! 染倉さんはもうねーああいう人なんでねー」

 家政婦として仕事をしているときの恵里は、地味だけど頼りがいのある母親のような人間であるが、プライベートの時は反動なのかおしゃべりが止まらない井戸端会議の主婦のようであった。


「あなたもね、本当にごめんなさいね」

 恵里は気圧されて黙っていた真琴に言った。

「花ちゃんのこと、一番気に掛けて、一番落ち込んでいたでしょ」

「……いえ」

 肩をポンッと叩かれて、真琴は口を尖らせながら、俯いた。泣いていたところを見られたのはないかとバツが悪かったのか、あるいは照れただけなのか。どちらにせよ、真琴はこういう母親や父親のようなタイプの人間が苦手だ。

「花ちゃんのお世話はね、ずっと私がやっていたんだけど、餌やりの時に蓋を開けっ放しにしてしまって……あの子には悪いことをしたわ」

 恵里は首を振る。

「見つかってよかった。お墓が作ってあげられたから。ありがとうね」

「……」

 返事をしない真琴に、恵里は特に気にした風もなく、安賀多に向き直った。

「先生も! 本当にありがとうございました。さすが先生です」

「ああ、いえ……立花さん。私は『先生』と呼ばれるのはちょっと……」

「何を仰ってるんですか、先生。聞きましたよ、ペット以外にも得意な分野があるんですって? さすが元警察の方は違うわあ」

「ああ、いえ……ペット専門外なんです」

 安賀多の言葉に、真琴が小さく吹いた。『ペット探偵』扱いされている安賀多がよほどツボのようだ。


 恵里は人の話を聞いているようで聞いてない。大きく頷いた。

「ところで空き巣事件のことですけど。噂では、もう五軒以上のお宅が被害にあってるみたいで」

「えっ。そんなに」

「ええ……詳しいことをお伝えできるのは、私がお邪魔している三軒だけなんですけれど、それでもよろしいですか?」

「もちろんですよ。私は警察ではないので、聞き込みも難しいですから。それに依頼があってようやく動く人間です」

「さすが、先生! もう空き巣事件の依頼が?」

「え、いえ……確か染倉さんが」


『では、花ちゃんの捜索と空き巣事件の解決もしていただけたら、こんなに嬉しいことはありませんわ』

 そう言っていたことを安賀多は思い出していた。恵里は気まずそうな表情をする。


「ああ……それは、奥様は世間話のつもりだったのかもしれません」

「えっ」

「だって、私が言うのもなんなんですが、花ちゃんのご依頼の報酬もお支払いするのも……厳しいんではないかと」

「まさか!」


 染倉家は思った以上に、苦しい生活をしているようだ。


「もちろん、ほんの少額ならお出しできると思いますが、いわゆる『ペット探偵』の相場とはいかないかと」

「そうですか」


 安賀多は脱力した。報酬の件は前もって確認するべきであったということ。自分が先走ったせいで、『ランチ代が一人分無駄に増えてしまった』ということ――いろいろなことが安賀多を襲っているようであった。


 さらに先ほど『甲斐性なし』と真琴に言われてしまったばかりだというのに。


 安賀多の目に見える落胆ぶりに、恵里も掛ける言葉がなくなってしまったのか、両手を重ねたま、すまなそうな顔をして黙っている。真琴は無表情で大人をじっと見ていた。


 重苦しい沈黙を破ったのは、折原玲子であった。

「あの、私からお願いしてもいいですか?」

「本気ですか? 玲子さん」

 いち早く反応したのは真琴だった。動揺にも似た表情で、隣に座る玲子に身体を向ける。それに対して、玲子は笑顔で答えた。

「もちろん」

「相場知ってるんですか?」

「もし、アポロを探していただいた時にお支払いした額でしたらなんとか」

「あれ、かける、稼働日数、です」

「なら問題ないです」

 玲子は背筋をピンと伸ばして、美しい姿勢のまま、真琴に言う。

「安賀多さんなら、きっとすぐに解決してくださるから」

「……」

 真琴は玲子のキッパリとした口調に気圧されたのか無言のまま、自分の椅子に沈み込んでいった。安賀多はというと、目力を強めて、玲子を見つめている。


「玲子さん」

「それに、安賀多さんにはお世話になっていますし」

 テレビ電話のことであろうか。玲子は少し恥ずかしそうに、はにかんだ。

「空き巣だって、どのような事件につながってしまうかわかりません。不幸にも居合わせてしまったら、取り返しのつかないことにだってなるかも」

 そう話す玲子の顔は至極真面目だ。

「マナトくんが心配なんです」

「玲子さん……あなたって人は、人が良すぎる」

「いいえ、そんな」

 玲子は首を静かに振ってから、安賀多の目を見て、言った。


「安賀多さん、どうかお願いします。空き巣犯を捕まえてください」

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