アートと猫と子ども

昨年 九月十八日 金曜日 十三時五十七分――


 依頼人である飯島優梨愛が外出した後、折原玲子は靴を脱いで、家事代行サービスのマニュアルにあった通り、新しい白い靴下と買ったばかりの花柄の折りたたみのスリッパを履いて室内へ入って行った。


 玄関正面の廊下を抜けた先には、片側の壁一面がガラスになっているサロンのようなリビングダイニングルームがあった。ガラス窓から見えるのは、芝生の美しい庭。部屋に入って右側には庭に向けられた一人用のソファとL字型のソファ、脚の短いテーブルにテレビ。部屋の左側にはダイニングテーブルのセットにアイランドキッチンがあった。玲子は入り口から、部屋を見回しながら中へと入った。インテリアはすべて白で統一されており、玲子は眩しそうに目を細めた。


 部屋のダイニングテーブルにバッグを置いて、エプロンを取り出す。これもマニュアルに書いてあった。仕事用に買ったばかりの花柄のエプロンを身に着けた後、優梨愛の言っていた愛翔を探そうと振り返った玲子は身体を一瞬強張らせた。


「びっくりした……」


 真っ白に塗られた壁にアートパネルが三枚飾られている。それが異様なほどに存在感を放っていたのだ。一枚目は、名もない画家のものか、独特な色遣いが特徴的な油絵だ。抽象画であろうか、風景画のようにも見える。二枚目は、ポップアートの巨匠と呼ばれるアーティストの作品だ。もちろん本物ではないが、異質な色彩感覚でありながら、鮮やかなのには変わりない。それが正しいのだと鑑賞している者を納得させる力がある。そして、三枚目のパネルに惹かれるように、玲子は思わず近くまで寄ってしまった。


 三枚目のパネルも独特な色遣いがされているが、なにかよく分からない絵ではない。写真なのだ。男と女、そして子どもの三人。おそらく本物の家族写真をアート風に加工したものなのだろう。


「変なの」


 ガラガラガラッ。


 玲子が呟くと、なにか軽いものが大量にプラスチックにぶつかるような音がした。玲子は身体を跳ねさせながら、すごい勢いで音がした方に振り返った。だが、そこには誰もいない。


 アイランドキッチンの方から音がしたのは間違いない。玲子は、息が浅くなるのを感じながら、静かにゆっくりとキッチンへと近づいて行った。


「猫……か」


 キッチンにいたのは一匹のロシアンブルーだった。キッチンにある機械のようなものに身体を摺り寄せている。そこには猫の餌が置いてあり、猫は大人しくそれを食べている様子だった。玲子は初めて見る自動給餌器をまじまじと見つめる。

 エプロンのポケットからスマートフォンを出して、現在時刻を確認すると十四時ちょうどであった。十三時五十分過ぎにインターホンを鳴らしてから、ようやく十分経ったということだ。契約では、ここから二時間――


「だあれ?」


 背後から突然、声を掛けられて、玲子は思わず、「きゃあ!?」と短く叫んだ。

 そこには、小さな男の子が立っていた。秋だが、Tシャツと短パン姿で、自分の半分くらいのクマのぬいぐるみを両手で抱いて、玲子を見ている。


 玲子は、男の子に近づいてから、しゃがんだ。目線の高さを同じにすると、男の子の顔が良く見えた。髪が少し眺めで顔に掛かっており、上からだと表情が分かりにくかったのだ。二歳児らしくぷくぷくのほっぺを揺らしながら男の子は、細い首を身体ごと傾げてもう一度聞く。


「だあれ?」

「れいこさん、だよ」

「れーこさん」

「マナトくんかな?」


 男の子は、玲子の質問に、「そうだよ」と大きく頷く。


「ママ、お出かけしたからね。ママが帰って来るまでお姉さんと遊ぼうか」

「うん」

「マナトくんは、なにかしたいことあるかな?」

「おえかき」

「おえかきね。クレヨンとかラクガキ帳はどこかにあるかな?」

「おへや」

「そっかあ、お姉さん。上のお部屋には行けないんだけど、マナトくん持ってきてくれる?」

「うん」


 そう言って、愛翔は右手でクマのぬいぐるみをブラブラさせながら、リビングダイニングを出ていき、音を立てながら階段を上って行った。玲子はそれを部屋の入口で見守った。なにかあったらすぐに駆け付けられるようになのか、玲子はじっと階段を凝視していた。

 やがて、愛翔が大きなラクガキ帳とクレヨンの箱を左手に、右手で手すりを掴みながら降りてくると、ようやく玲子は肩の力を抜いたように息を吐いた。


「ありがとう、マナトくん」

「うん」


 玲子は、愛翔をダイニングの椅子に座らせて、自分もその隣に座った。ラクガキ帳を開きながら、玲子は愛翔に聞く。

「じゃあ、なんの絵を描こうか?」

「あぽろ」

「あぽろ?」

 愛翔は椅子から少し身を起こして、キッチンに向かって指を指した。

「ああ、猫ちゃんのお名前ね?」

「うん」

「マナトくんはアポロが好きなのね」

「うん」


 愛翔はずっと短く返事を繰り返しながら、ロシアンブルーの猫と思しきマルの絵をたくさん描いた。それから十五時にはおやつを食べて、愛翔はソファでお昼寝をした。玲子は愛翔の隣でテレビを小さな音量で見ながら過ごした。


 結局、母親の優梨愛が帰宅したのは十七時を過ぎた頃だった。

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