第7話 最悪なご対面


 草木も眠る深夜。セラフィナは一人こっそりと僧房そうぼうを出て礼拝所に入った。今朝は週に一度のミサが開かれる安息日で、大聖堂に集まったやんちゃな子達が礼拝所の天使像をペチペチ触っていたのを思い出したのだ。セラフィナは一般の信徒と異なり、礼拝所でミサを受けない。あくまで信者のための祭儀なので、彼女は目立たない場所で参加しているのだ。だからこそ、色んな点が目につく。

 あちこちに手垢てあかや唾液が付着していることだろうと、厨房から水をんできて清潔な雑巾で拭く。体の部分がある程度片づいたら、次は頭部を拭くために椅子を運んでくるつもりだ。

 同じ場所を何度も重ねてこすっていく。天使像の造りは細密なので大変だ。着衣に細かなひだが幾つも織られているから、折り目も念入りに拭かねばならない。


 丁寧に大理石の像を磨いていると、物音がかすかに耳を揺らした。聴覚を研ぎ澄まして翼廊よくろうの方向に意識を傾けると、それが人の声だと認識できた。人数は二、三ほどで、男性か。声色が異なっている。


 会話の中身は聞き取れないが、礼拝に来たわけではなさそうだ。だいたい草木も眠る深夜、わざわざ祈りに来る人などいない。聖職者だって寝静まっているのだから。

 壁に張りつき翼廊の通路を覗き見れば、夜陰と物影が折り重なってできた無明の闇の中で、火玉が怪しく揺れている。セラフィナは首筋がぞわりとざわめくのを感じた。


 ――――まさか‥‥‥‥。


 シックザール枢機卿に昔、教典にもしばしば語られる悪魔について教えてもらったことがある。神の聖なる御遣いでありながら邪心を肥やし、愚かにも謀反を企てて罰された者たちの残忍さを説明し尽くされて、震え上がったものだ。

 不気味な談笑、浮遊する焔、じわじわと大きさを増す足音。幼い日の恐怖が喉元まで込み上がる。


 ――――あれが‥‥‥‥悪魔‥‥?


 目を覚ましている人物はセラフィナのみ。つまり、彼らと真っ向から挑んで大聖堂を護れる唯一の人間だ。けれど彼女に悪魔祓いの資格はない。悪魔祓いを執行できるのは司教以上の聖職者なのだ。ならば、それに準ずる備えをしなくては。


 ――――主よ。お導きください。


 彼女はそそくさと天使像に戻って主の加護を願い、聖水が注がれた聖水盤に寄りかかった。白無垢の手から血の気が抜けるほどロザリオを握り締め、波立つ胸中を鎮める。

 悪魔と対峙する時は警戒を緩めてはならない。気を抜いたが最後、彼らはその隙に突き入って押し広げ、心身を侵食するのだ。

 いつになくセラフィナは神経を尖らせ、じき訪れる悪魔を待ち構えた。


 彼らの口調が次第に明瞭になってくる。高まる緊張。首に提げたロザリオを手繰り寄せる。

 焔が入り口で止まり、高々とかざされた。





「ん?」


 足場しか照らさない真っ暗闇でも、フロレンスとイグナーツは人影を感知した。ひどく小柄だ。年老いた聖職者かもしれない。


「誰かいらっしゃる――――」


 フロレンスの呼びかけを高らかな声が遮った。


「In Nomine Patris, et Filii, et Spiritus Sancti vobis iubeo. ――――Vadite retro, Diaboli! (父と子と聖霊の御名みなにおいて汝らに命ずる。――――悪魔よ、去れ!)」


 鈴の音のごとくだ。そう詩人は詠うに違いない。

 何を喋ったか――――そもそも言語であったのかすら――――聞き取れなかったものの、声色から察するにまだ少女だ。シックザールの修道女以外にも娘がいたのかとフロレンスは驚く。


 教会に従事する女性は少ない。女性は出産などで血を流し、それが『穢れ』に当たるとみなされ、長らく修道の道を閉ざされた時代が続いたせいだ。そんな妙な因習はだいぶ昔に改められ、廃れつつある一方、やはり男女差別の印象がいまだ根強く女性は修道女になりたがらない。聖職者でも修道士でもなければ、すべての教会情報を知るわけでもないので確たるところは不明だが、あまり修道女の存在は根づいていなさそうだ。


 前任の総轄長が『天使』を招くのも、そうした話題性を呼び込む目的があったのだろう。それを何に繋げたいのかは見当もつかないが。

 それほど珍しい少女の修道士は、フロレンスとイグナーツを顧みることなくポカンとロザリオの十字架を見下ろした。


「え、あっ、あれっ? 違ったですか? でも合っています‥‥よね?」

『‥‥‥‥‥‥』


 そんなこと、フロレンス達に確かめられても知るはずがない。

 さらに二人が寄ってみると、少女は小さく悲鳴を上げて後ずさった。この距離では薄暗く、いまいち視認できない。


 少女が突如背を向けた。暗色のヴェールがさらさらと華奢な背後を撫でる。

 忙しない足音が失せたかと思うと、直後、得体の知れない液体が激しい水音を立ててイグナーツにぶっかかった。足首がぐっしょりとずぶ濡れになる。


「おわ!!」


 さすがの彼も狼狽し、出かけた足を引っ込める。

 反射的にランプを庇ったおかげで、幸いにもガラスや内部の焔には冷水がかからず済んだ。再度灯りを先方へ向けると、娘は怯えながらもミサで葡萄酒を注ぐのに使う聖爵せいしゃくを携え、聖水盤に張った聖水を掬おうとしていた。

 イグナーツの怒りがついに限界を突破する。


「‥‥‥‥! のアマ!!」


 盛大に悪態をつき、友人の制止も聞かずに娘の懐へ突進した。聖爵を取り落とした少女は、最後のあがきとばかりに胸元で踊るロザリオを男の顎へ突き出す。

 イグナーツは娘の腕を掴んだ。修道服越しからも感じ取れる、しなやかで、か細い腕だった。

 彼女が息を呑んだ気配がする。構わずに彼は急接近した。ランプの灯火を上げ、娘の顔面へ強引に近づける。


「な‥‥」


 暖かい柑子こうじ色の光に照らされ、おぼろげに浮かびくる真っ白な相貌そうぼうを見て、彼ははっとした。


 ――――ヴェールを彷彿ほうふつとさせる、黒々とした髪。乱れながらも淫らな様子はなく清冽に流れ、星々が零れそうに散る夜の瞳は凍てついている。

 花弁を閉ざしたまま成長を終えた蕾の唇は薄く、わずかな隙間から張り詰めた息遣いが漏れる。


 一言で表すならば、そう、まさしく天使の愛らしさを備えた娘だった。


 不覚にも見惚れてしまい、細い腕首を掴む力が緩む。それを娘は振り払った。


「Noli‥‥noli me tangere!! (さ、触らないで!!)」

「イグ!」


 娘の荒い抗議とフロレンスの大声が重なる。フロレンスが二人を引き離し、穏やかな口調で彼女に話しかけた。


「申し訳御座いません。いきなり危害を加えてしまって。お怪我はありませんか?」


 肩で息をする娘の瞼が極限まで持ち上げられる。少女は背伸びをしてフロレンスの顔をまじまじ眺め回した。


「‥‥悪魔じゃ、ない? 貴方達、は‥‥?」


 会話が成り立っていない。

 フロレンスが眉をひそめて悩みあぐねていると、自分たちが通った翼廊からカツカツと何者かが歩いてきた。持っていたランプより一回り大きい灯火が、その人達を照らす。

 金縁眼鏡を鷲鼻にかけた低身長の老人と、灰色の髪を撫でつけたいかつい老人。射殺さんばかりの目つきでフロレンス達を睨み据えていた。


「Cardinalis, Pater! (爺様、パードレ!)」


 娘の口から母国語と異なる、少々巻き舌気味な言語が飛び出た。安堵した表情で老人に駆け寄る。


「Quid est? (どうしたのじゃ)」


 金縁眼鏡の老人が彼女の頭に手を置いた。


「Qui sunt? (あやつらは誰じゃ)」

「Nescio (分かりません)」


 ラテン語か、とフロレンスは悟る。ミサの説教中にうたた寝をしていた時、このような言葉がつらつらと抑揚をつけて語られていたように思う。


「おい、何を喋ってるか分かるか?」


 小声でイグナーツが問いかけてくる。フロレンスは首を横に振った。ラテン語は聖職者が学ぶ宗教言語なのに、彼ら以外の人間が知っているわけがない。

 金縁眼鏡の老人と少女が話し込んでいる間、長身の老人がカツカツと青年たちの許へ歩み寄った。灰色の眼光は炯々けいけいと、二人を外そうともしない。


「どいつだか分からんが、なにゆえ侵入したか。申せ」

「あ! そういえばこの人!」


 長身の老人の詰問きつもんを自分の声で覆い、娘は思い出したようにフロレンスを指差した。


「時々礼拝所にいらっしゃっては最後列の席について、居眠りする方です!」

『‥‥‥‥‥‥』


 礼拝所の空気が一気に低下した。


「覚えられてんぞ。光栄だなフロー」

慙愧ざんきに耐えません‥‥」


 フロレンスは赤ら顔を押さえ、うつむいた。


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黒い剣のノクターン イオリ @7rinsho6

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