旅人二人


 リックは部屋を出て、廊下の突き当りにある階段を降り、食堂に向かった。客室よりも大きい部屋の中央にテーブルが二つ並び、壁にある暖炉の火と、天井から吊られているシャンデリアで室内が照らされている。片方のテーブルの上には二人分の食事が用意され、もう片方のテーブルでは、二人組の別の客たちがすでに夕食を食べていた。

「ああ、お客さん、席の方へどうぞ。お連れの方はもう少しかかるようなので、先に食べておいてくれと」

 入り口の左手にある厨房から、おかみさんがひょっこりと顔を出してリックに言った。頭に三角巾を被った、主人と同い年くらいの女性だった。リックは笑顔で礼を言って、湯気を立てている料理の前に座った。今晩のメニューは、野菜のスープと鶏肉の香草焼き、サラダ、籠に積まれた白パンだった。料理はどれも出来たてで、とても美味しそうだ。ムラエナを出てからの食事は、荷台の上でパンを少し食べただけだったので、空腹だった彼は黙々と食事を口に運んだ。

 ものの十分ほどで食事を終えたリックは、ふと、もう一組の宿泊客の方が気になった。ちらりと視線を送ると、女性の二人連れのようだった。二人とも、フードの着いた外套を纏っている。一人は茶色がかった髪を後ろで一本に束ねた女性で、しきりに向かいに座った連れに話しかけている。リックよりも少し年齢が上くらいだろうか。話しかけられている方は、癖のあるブロンドの髪の少女だった。こちらは終始、澄ましたような表情で、女性の話を聞き流しているような態度だった。年はリックと同じくらいだ。二人とも、お揃いのネックレスを首から下げている。茶髪の女性は黄色の、ブロンドの少女は朱色の小さな宝石が、それぞれネックレスの先で光っていた。

「若い女の二人旅なんて、珍しいですよね。しかもなかなかのべっぴんさんだ」

 いきなり後ろから声がして、思わずリックは驚きの声を上げそうになった。いつの間にか宿の主人がリックの隣に来ていた。にやにやしながら、リックの耳元で囁いた。

「いやいや、目の保養とはこのことですな。お客さんが見入ってしまうのも分かります」

 主人の言葉に、リックの頬が一気に赤くなる。二人に聞こえてやしないかと、冷や冷やしながら、小声で否定する。

「い、いや、僕は別にそういうつもりで見ていたわけじゃ…」

 まあまあまあと、なおも主人はニヤニヤしていたが、いきなり耳を引っ張られて今度は悲鳴を上げる。

「くだらないことばっかり話してるんじゃないよ、このスケベ親父。さっさと食器を片付けな!」

 先ほどまで厨房にいたおかみさんが、冷たい視線を主人に向けながら、思い切り彼の耳を引っ張っていた。主人は涙を流しながら、はい、と返事をすると、そそくさとリックの食器を片付けて、食堂を後にした。苦笑いを浮かべるリック。二人組の方からクスクスと笑い声が聞こえ、彼は思わずそちらを見た。少女の方は相変わらずのすまし顔だったが、茶髪の女性は口元に手を当てて、こちらの様子に笑いをこらえている。しばらくして落ち着いたのか、彼女は、ごちそうさまでした、と席を立った。少女の方も、それに倣って立ち上がる。女性はリックの隣を通るときに、からかう様な笑みを浮かべて、少女と共に食堂を去って行った。リックとしては、彼女たちの容姿が気になったわけではないのだが、主人の話から、何か勘違いされてしまったようだ。気恥ずかしさで、思わずため息が漏れる。

 その時、入り口の扉が開き、外から冷気と雨粒が激しく地面を叩く音が飛び込んでくる。続いて、びしょ濡れになったムーギーが、食堂に顔を出した。

「いやはや、参りました。先ほどまではすっかり晴れていたのに、いきなり雨も風も出始めて…。申し訳ありませんが、拭くものをお借り出来ますか?」

 おかみさんが、慌ててタオルを持ってきてムーギーに渡した。髪を拭きながら、ムーギーがリックの向かいの席に着く。すみません、先に頂いちゃいました、というリックの言葉に、ムーギーがいやいやと手を振る。彼は、不安そうに窓の外を見た。打ち付ける雨粒は大きく、強い風がガタガタとガラスを揺らしている。

「馬を繋ぎとめている間に降り出して、少し歩いただけでこの様です。明日までには、晴れてくれるといいのですが―」

 食事を終え、二人は別々の部屋で床に就いた。バチバチと音を立てて雨が窓ガラスを打ち付け、風もゴウゴウとうなりを上げている。リックはベッドの中で、嵐の音に耳を澄ましていた。明日もこの調子だったら、町を出られそうにない。どうにか、雨だけでも止んでくれたらいいのだが、と、そんなことを考えているうちに、彼の意識はまどろみの中に消えていった。

「リック、リック―」

 誰かの呼び声に瞼を開けて、リックは身体を起こした。窓の外からは温かな日差しが差し込み、鳥の鳴き声が聞こえてくる。どうやら、眠ってしまった夜のうちに、嵐は過ぎ去ってくれたようだ。

 ふいに、机の上で何かが光り、リックはそちらに目を向けた。日差しを反射して光っているのは、あの短剣だ。あんなところに置いたかな、と疑問に思いながらも、彼はゆっくりと起き上がった。そこで、再び名前を呼ばれた。声は扉の向こうから聞こえている。どこか懐かしいのに、その声が誰のものなのか、思い出せない。胸の奥が詰まる様な、何とも言えない気持ち悪さを覚える。

 リックは扉の前に立つと、ノブを握り、そっと押し開けた。次の瞬間、目の前が眩い光で覆い尽くされる。彼は咄嗟に手を顔の前にかざし、扉の先に目を凝らした。光の向こうに、誰か―。

「リック、リック―」

 尚も自分を呼ぶ声に、リックは光の中へ一歩踏み出した。その時だった。

「—お前のせいだ」

 突然、別の声と共に光が消え、目の前が真っ暗になる。足元に床は無く、底の見えない暗闇に足が浮いていた。彼は驚いて仰け反ったが、背中を誰かに押し返され、振り返る間もなく、身体は底なしの暗闇へと投げ出される。叫び声も上げられずに、伸ばした手は空を掴んだ。目の端に映った扉が、遠ざかっていく。小さくなる扉の前で、黒い人影が彼の落ちる様をじっと見ていた。その顔は―。

「―っ‼」

 リックは、汗まみれでベッドから跳ね起きた。一瞬、自分がどこにいるのか分からなかったが、窓を打ち付ける雨音で、先ほどまでの光景が夢だったことに気付いた。

 嵐は過ぎ去ってはいないし、どうやらまだ夜も明けていない様だ。

 リックはしばらく黙って、ベッドの上に座り込み、荒くなった呼吸を整えようと深く息を吸った。

「まだ、こんな夢を見るなんて…」

 誰に言うともなくリックが呟く。窓の外でゴロゴロと低い音が鳴り、雷が空気を震わせていた。眠りにつく前よりも、天候は酷くなっているようだ。

 突然、ドンドンと、ドアを叩く音が鳴り響いた。驚いて息を潜めたリックだったが、ドアの向こうから聞こえてきたのは、慌てた様子のムーギーの声だった。

「起きてください、フォーデンス様!」

 リックが慌ててカギを開けると、再びずぶ濡れになったムーギーが廊下に立っていた。宿屋の主人とおかみさんも一緒だ。三人とも、不安そうな表情を浮かべている。

「一体、どうしたんですか?」

「今すぐ身支度を! この嵐で、フライ河が氾濫しそうなのです!」


 一同が食堂に向かうと、夕食の時の女性たちが先に待っていた。二人とも、入って来たリックを一瞥したが声は掛けず、すぐに視線を窓の方に向ける。ムーギ―は馬を逃がしてくるとリックに告げ、部屋を出て行った。

「街の人の避難は、大丈夫なんですか?」

 リックが、不安そうなおかみさんと一緒にいた主人に尋ねた。主人は、首を横に振りながら答えた。

「私たちも、ついさっき飛び起きたところで、何とも…。声を掛けに来た警吏の慌てようは、相当なものでしたが」

 リックは一瞬考えるような素振りを見せたが、すぐに、フライ河ってどこにあるんですか、と主人に尋ねた。主人は、町のすぐ南側ですが、と言った後で、困惑した表情を浮かべる。その目が、なんでそんなことを、と問いかけている。リックは無意識に腰の短剣に手を添え、緊張で少し上ずった声で言った。

「僕は、風の魔法が使えます。濁流は止められなくても、避難のための時間稼ぎくらいなら、協力出来ると思うんで―」

「やっぱり君、魔法使いだったんだ!」

 突然、場違いな明るい声がリックの話を遮った。口を開いたのは、今まで黙っていた茶髪の女性だった。リックは驚いて、思わずまじまじと女性の顔を見てしまった。その表情は、面白いものを見つけた子どものように、楽しそうだった。一方で、もう一人の少女は窘めるように女性を肘で軽く小突き、咳ばらいする。しかし当の女性は、それをあしらうように右手を軽く振った。そして、リックの方に向き直ると、わざとらしく小首をかしげて尋ねた。

「もしかして、魔法使いの部隊ソル・セルの入隊試験を受ける予定?」

 どうして分かったのだろう、と混乱している表情で頷くリック。彼女は品定めするような視線を向け、立て続けに尋ねた。

「相当、腕に自信があるんだろうけど、本当に大丈夫? 大事な試験の前なのに? 住民の避難は警吏に任せて、私たちはすぐに逃げたほうがいいんじゃない?」

 リックの表情が、困惑から警戒に変わる。こんな状況で、やけに落ち着いた質問。自分に向けられた瞳も、ふざけているような態度に反して、まるで笑っていない。見透かそうとでもするかのような、油断ならない印象を受ける。

 だが、事態は一刻を争う。あれこれ考えて時間を無駄にするよりは、自分の素直な気持ちを伝えることにした。

「正直、自信なんてありません。でも、ここで何もせずに逃げるなら、試験を受ける意味すらないって思っただけです。僕は、誰かを助けるために魔法を学んできたので」

 そう言って、リックが女性の視線を真っ直ぐに見つめ返す。しかし、すぐに何故か気恥ずかしそうに視線を逸らし、それに、と言葉を続けた。

「困っている人を見捨てたなんて師匠に知られたらと思うと、そっちの方が怖いですし」

 先ほどまでのはっきりした物言いから打って変わり、彼は心底怖そうにそう呟いた。どっちも本音なのだろうが、怒られたくないから、というのは子供のようだ。女性は、一瞬言葉を失くしていたが、次の瞬間には大声で笑いだした。

「そっか、そんなに怖い師匠なんだ! じゃあ仕方ないね。―エレナ!」

 女性が少女の方を振り返って言った。

「私たちも、協力してあげようよ! この子、なんだか面白いし!」

 仏頂面だった少女は眉間の皺を更に深めて、あからさまに嫌だという表情を浮かべた。

「冗談でしょ、マキナ⁉ 面倒ごとは避けろって、あれほど言われて―」

 しかし、少女の抗議の言葉を女性が強引に遮った。

「言わなきゃバレないし、大丈夫だって! この子の言うように、人助けよ、人助け!」

 女性が、ねっ、とリックの方を見てニッコリと笑った。

「協力って、あなたたちは一体…」

 急な展開に戸惑うリック。女性は得意げな表情を浮かべ、自分と少女を手で示した。

「私はマキナ。あっちはエレナ。土と火の魔法使いよ」

 その言葉に、リックは驚いて二人を交互に見る。まさか、彼女たちも魔法使いだったとは、微塵も気が付かなかった。エレナは険しい視線をマキナ、リックと順に向けたが、急に諦めたように、大きなため息を吐いた。そして、あなた名前は、とぶっきらぼうな口調でリックに問いかける。その態度の威圧感に、リックは慌てて居住まいを正した。

「リ、リックです! 風の魔法使い」

 エレナは、さっき聞いた、とだけ返し、そっぽを向いてしまった。マキナの方は終始友好的で、よろしくね、と軽く右手など振って見せる。

 こうして、奇妙な協力関係が出来上がった訳だが、主人もおかみさんも、話の流れについていけず、何も言えずに三人のやり取りを見ていた。ちょうどその時、出入り口の扉が開いてムーギーが食堂に入ってきた。

「お待たせしました! 通りは避難の人で溢れかえっています! 我々もすぐに、リッキンドル様?」

 驚くムーギーの前を横切って、リック、マキナ、エレナの三人は扉の方に歩き出した。

「すみません、ムーギーさん。先にご主人たちと避難してください。僕らは、濁流が町に流れるまでの時間を稼ぎます」

  

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