《20/36℃の愚かな獣が、人間になるためのトートロジー》

 わかったこと。

 わかってしまったこと。

 わかったような気がしたけど、明日にはもうその感覚を忘れてしまっていること。

 夜に感じた全能感が、朝になったら醒めてしまっているような。

 種市が、あの一瞬でおれの頭に流し込んだことだ。


 おれは自分の日常から、そして格好悪い自分自身から逃れ、いつか、新しい人生を手に入れたいと思っていた。

 だが、社会常識に逆らうことは難しい。

 社会は悪ではない。むしろ、大半の人間にとっては、従えば有利になるように作られているはずだ。

 だからこそ、おれも従ってしまっているのだから。空気を読んで人の顔色を窺い、内心どうあれ恋人を大切にする。それは常識であり良識だ。

 そんなおれにとって「堕落」とは、自分に有利なルールを自ら手放すことだろう。

 ときに、人生にとって不利益であってもだ。

 人生というからには、人の生に他ならない。

 だが、社会に(自然に)従うおれたちは種市が思うように人間ではない。

 では、自然に従う者たちはなにか。

 動物だ。

 おれは人間になり損ねた動物。別に動物だから人間に劣っているわけではない。

 ただ、人ではないというだけで。

 動物は生殖を求める。

 繁栄を渇望する。

 意味を集める者たち。

 ならば当然、トートロジーなんて意味を投げ捨てる行為は動物にはそぐわない。

 動物の日々にはトートロジーは存在しない。

 だからこそ、おれは一方的に種市に惹かれていたのだ。

 ――おれは、人間になりたかったのだろう。


 種市が車の間を縫った19秒。

 おれのネクタイをし、荻野柊羽になった種市は、おれを動物から人間へと変えてくれていた。

 でも、それは一瞬の魔法だ。すぐに種市は種市自身に、おれはおれ自身へと戻った。

 おれは「堕落」をしたいと願いながら、ことは果たせなかったのだ。

 彼女が救急車で運ばれていく途中、おれはすでに人間から、36℃の体温を持つ動物に逆戻りしていたのだ。

 ただの、好きな女の子のリボンタイをした男子高校生。

 シャツやネクタイには、種市の血が染みついている。鉄の匂いでうずうずとして、野性に戻っていくような気がした。

 人間に欲情している、愚かな獣。獣はきっと、明日も誰かに跨って吠えるのだ。

 日常は蘇り、唯との日々だって再開する。



 ……さて、唯になんて謝ろうか?(どのツラさげて?)

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