燎儀の投げた蛮刀が、靖央の胸を貫いていた。

 突然のことに唖然となった小幸は、数瞬の空隙を経て、少年の名を叫んだ。


「靖央ッ!!」


 当人も自分の身に何が起こったのか把握できていないようで、血相を変えた小幸の顔を呆然と見つめている。

 だがその直後、まるで糸が切れたかのように靖央の身体は地面へと倒れ伏した。


「あ……う、ぁ……?」

「靖央! 靖央ぁ!!」


 小刻みに身体が痙攣していた。

 染み出た鮮血が瞬く間に地面に血溜まりを作る。

 両手を後ろ手に縛られたまま、幼馴染のもとへ駆け寄ろうとしたそのとき、突然小幸の身体が何者かによって押さえつけられた。


「ッ……?」


 地面に組み伏せられながら辛うじて視線だけを巡らせれば、燎儀の側近二人が小幸にのし掛かっていた。

 かなり力が強く、もがけどもびくともしない。


「くっ……この、離れなさいッ!」


 鋭い言葉と共に、威を孕む視線を二人にぶつける。

 しかし先ほどとは異なり、その威圧に彼らが萎縮することはなかった。

 何故、と怪訝の色を浮かべた小幸の目は、だが直後に不可解なものを捉えた。


(……なに、あれ)


 それは彼らの両の瞳。

 小幸を見下ろすそれぞれの瞳が、まるで死人のそれであるかのように虚ろな色を宿していたのだ。

 先刻視線を合わせたときは、このようなうろを思わす目ではなかったはずだった。それが何故いまはここまで空虚な……まるで燎儀の双眸を鏡写しにしたかのような目に――

 そこまで考えたところで、思考を遮る声があった。


「あぁ、やめときなァ」


 燎儀である。

 小幸から数歩離れた位置に立つ彼は、砂利に頬を押し付けられている少女の姿を面白げに見下ろしながら、わざとらしく左目の《鬼の紋》に触れた。


「今の嬢ちゃんは神の力をちっとも使えねぇんだろォ? ハッタリまがいの見栄っ張りが、俺たち《鬼》の威に敵うわけねぇだろうが」


 燎儀の武骨な指が鬼の紋をなぞれば、鮮紅に染まる和彫りは脈動するかのようにドクンと明滅した。

 その脈動に呼応するかの如く、小幸の身体を押さえる男たちの力が更に強まる。

 鬼の紋には見た者に根源的な恐怖を植え付ける。その作用を使えば、他者の意識を支配下に置くことなど容易いのだろう。

 容赦のない強い力が加えられ、肺が圧迫される。

 咳き込む小幸の前で、燎儀は一歩一歩ゆっくりと靖央に近付いてゆく。


「にしても災難続きだなァ、靖央。お前の幼馴染がついた嘘で、またお前が傷付いた」


 地に蹲る少年の傍で立ち止まった燎儀は、その胸元に深々と刺さっている刀の柄をおもむろに掴む。

 そうして一切の遠慮容赦なく、その蛮刀を引き抜いた。


「がっ……あああぁぁぁ!!」


 苦悶に染まる叫び声が響き、小幸は己の痛みを堪えるかのように目を瞑った。

 刀身に付着した血液を払い鞘へと納めた燎儀が、激痛に苦しむ靖央を虚の目で以て見下ろす。その瞳には、どこか憐憫の色を含んだ嘲笑があった。


「悪ぃが、言葉を使うよりこういう・ ・ ・ ・やり方・ ・ ・の方が得意なんだよ。だから嘘は禁物だぜ、嬢ちゃん。でなきゃ次はうっかり足の一本くらい簡単に斬り落としちまいそうだ」

「くっ……」


 靖央を見る。

 刺された箇所は幸い右の胸部であり、心臓は貫いていないようだ。

 それでも肺をやられたのか、呼吸が浅く早い。早く処置しなければ取り返しのつかないことになる。

 だが、非力な彼女には大人の男二人を押し退ける力など無い。今も絶えず強い力で押さえつけてくる二人をねめつけてから、燎儀に向き直る。


「……儀のことを知らないのは、本当です。ですが、私の住む屋敷には、招聘の儀礼について記した書物があるはずです。それを見つければ……」

「なんだァ、俺たちで探せってか。のんびり本探しするほど暇じゃねぇんだがなァ」


「まぁいい」気だるげにそう口にした燎儀は、一つあくびを噛み殺してから小幸を押さえつけている男たちに声を飛ばした。


「おいテメェら、嬢ちゃんを放してやんな」


 その言葉に、二人は呆気なく小幸を解放した。


「そんじゃまァ、そのお屋敷とやらに案内してもらおうか。あぁちなみに嘘の場所を教えようとか思うんじゃねぇぞ? その都度、道ですれ違った無関係の連中から死人が出ることになる」

「ッ………嘘をつかないことは、約束します。ですから先に、靖央を街の診療所に……」

「あン? こんなんほっときゃあと半刻もしねぇで死ぬだろォ」


 地面へ蹲り呻き続ける靖央を冷めた双眸で見やった燎儀は、まるで路傍の石を扱うかの如く、少年の小さな身体を蹴飛ばした。

 軽いひと蹴りだったが、燎儀の膂力は並の人間のそれではない。靖央は毬玉のように簡単に吹き飛び、三間ほど離れた枯木の幹に思い切りぶつかった。


「靖央ッ!」


 ドサリと地面に転がった少年へ即座に駆け寄る。

 衝撃で意識を失ったようだが、息はあった。けれど尚も止まらない出血に彼の服が赤黒く染まってゆく様に、小幸は顔を青ざめさせた。


「それでも助けてぇなら、先に俺たちの用件を済ませてからだ。目当てのもんを見つけて、そっからまた戻ってくりゃいいだろォ」

「ふざけないでください! それほどの猶予などありま――」


 言葉は続かなかった。

 またも無音の中で接近した燎儀が、刀の切っ先を小幸の眼前数寸先に突き付けていたからだ。

 月光を受けて鈍く煌めくそれに身体が硬直する。

 僅かに苛立ちを含んだ声音を燎儀は発した。


「立場考えろや、嬢ちゃん。何なら今すぐにそいつの首をはねてやろうか? そうすりゃ後腐れもクソもなくなんだろ」

「……靖央は、貴方たちに素直に従っていたのでしょう……? なのに何故殺すようなこと……」

「アホか。いつ誰がガキの命も保証してるっつったよ」


 呆れた笑いが燎儀から溢れる。


「家族っつー人質がいたから都合のいい小間使いにしてただけだ。街のことに詳しい江鷹の人間がいりゃあ少しは神巫も見つけやすくなるからな。そんで目的を果たしたんならもう後は用済みだ。生かすも殺すもどっちだっていい。―――なら殺したって構わねぇだろォ」

「ッ……」

「まぁガキが死ねば、こいつの親どもも生かしとく意味はねぇわな。息子が死んで泣かれるより、とっとと殺しちまった方が何かと楽だ」


 あっさりとした口調で男は言う。

 彼は人の命を奪うことを厭わないのだろう。

 戦場に生きる武士のように大義の下で人を殺すのではなく、もっと浅い部分……さながら道端の雑草を踏みつけるのと同じ感覚で刃を振るっているのだ。

 人として破綻した性根を持つ燎儀を、小幸は僅かな戦慄と共に見上げる。


「おら、とっとと立て。何なら神輿みてぇに担がれながら通りを歩きてぇかァ?」


 燎儀の手が小幸の着物を掴み、無遠慮に引っ張られる。

 今度こそ余計な動きをさせないためか、側近の二人がほぼ密着するような位置で小幸を見張る。ぎり、と一つ歯軋りをしてから、足を引き摺るように歩み出す。

 後ろを付いてくる三人の男を、小幸は悔しげな面持ちで盗み見た。


 ――こういうときにこそ、あの力を使えたなら。


 そんな都合のいいことを考える。

 小幸の持つもう一つの側面である神の巫の人格は、まるで彼女の身を守るかのように、小幸の身体が危険に晒されたときに露になる。

 しかしそれは確実性のあるものではない。

 少女が危ない目に遭ったときに確実に顕現するものでもなければ、小幸自身の意思でどうこうできる類いの代物でもなく。

 すべては神の気まぐれ。

 彼の存在の気が向いたとき、まるで片手間に授けられる甘菓子のように。

 神が己の側女に与えたという神力は、けれど大事なときに小幸を救おうとはしてくれなかった。


(……なに、が……神の力よ……)


 緩慢な速度で歩きながら、少しずつ遠退いてゆく幼馴染の姿を流し見る。

 今この場を離れてしまえば、間違いなく靖央の命は救えない。

 だからといって今の非力な彼女に、燎儀たちをどうにか出来る術はなく。

 一歩を進めるごとに、まるで自分の手で靖央を死に追いやっているかのような感覚に陥り、少女は肩を震わせた。


(肝心なときになんの役にも立たない力なんて、そんなの奇跡なんかじゃない……)


 瞳が揺れ、うっすらと涙が滲む。


(いつも勝手に私のなかに入ってくるくせに……好き勝手させてあげてるんだから、少しは私の言うことを聞いてくれてもいいでしょ……!)


 心のなかで、己の内側に潜むもう一人の自分に感情をぶつける。しかしそんな八つ当たりまがいのことで上手く事が通るほど、融通のきくものではないと分かっていた。


 ――いつだったか、衛正に聞かされたことがあった。

 小幸が巫としての神力を自由に扱えないのは、いまだ彼女が、神巫として完成していないからではないかと。

 当時の彼女は、衛正の言葉の意味がよく分からなかった。

 巫として完成していなくとも、神供として捧げれば神は招聘に応じる。

 にも関わらず、巫にそういった概念があるとするならば、それは一体どういった意味を持つのか。小幸は頭の片隅でずっと考え続けてきた。


 確かに不可解ではあった。

 神巫とは、神が己の孤独を埋めるための側女。

 純粋で無垢で、どこまでも穢れのない心根が巫の素質とされている。その少女を常世の羞悪から護るために神が与えたのが、巫の持つ神秘の力だ。

 であれば、そこに "神巫の二面性" が生まれる意味はない筈である。

 かつて似たようなことを鴛花に訊ねてみたときは、人ならざる力を乱用されないために神が植え付けた制約ではなかろうか、と彼女は推察していた。

 しかしその答えを聞いても、小幸にはどこか釈然としない部分があった。

 巫の神性が顕れるたび、まるで自分の人間性が喪われてゆく感覚も、その懸念に拍車をかけていた。


 こんなときに考えることではないのかもしれない。

 それでも小幸の頭には、長年積み重ねてきた自らへの違和感が、止めどなく浮かび上がる。

 不思議な感覚だった。

 まるで何かに思考を侵食されているかのような感覚が、自然と少女の顔を上げ、夜空に浮かぶ月を仰がせた。

 ほんの僅かに欠けた紫銀の円が、小幸の双眸にありのまま写る。

 ―――射干玉の瞳にの光が揺らめいた、その直後であった。


「ッ………李弩りど、伏せろ!」


 刹那のうちに何かを感じ取ったらしい燎儀が、側近の一人に声を飛ばす。

 男が言葉に応じるより早く、しかし彼の頭部に一本の矢が突き刺さった。

 音も無く飛来したそれは一瞬で男の命を刈り取る。巨躯が地面に転がったのと同時、二本目の矢が燎儀の眼前に迫っていた。


「チッ……」


 凄まじい反応速度が彼の腕を霞ませる。直下から斬り上げられた刀は目標を射抜く寸前だった矢を的確に捕らえ、粉々に砕け散らせた。


「面倒が増えやがんなァ、クソが。おい府岳ふがく、嬢ちゃんしっかり捕まえとけよ」


 その指示に、府岳と呼ばれた男は小幸の腕を乱暴に掴んで少し距離を取った。

 粗雑な扱いを受けた少女は、けれど顔を俯かせ、一切抵抗する素振りを見せない。顔を覆うように垂れる艶やかな黒髪が、まるで紗幕のように小幸の貌を包み隠していた。

 更に二本、立て続けに放たれた矢を難なく斬り飛ばした燎儀の目は、闇に紛れるように動く複数の人影を逃さなかった。飛来する矢を半身になって避けると同時に、懐から取り出した短刀を素早く投げた。

 薄闇の向こうで微かなうめき声が上がり―――だが直後、自らめがけて振り下ろされる刀の鋭い光に、燎儀は不覚にも戦慄した。


「………ッ!」


 咄嗟に刀を振り抜く。不安定な体勢でありながら力負けしなかったのは、彼の並外れた膂力ゆえか。火花と共に降りかかった袈裟懸けを弾いた燎儀は、そのまま後方に大きく飛び退いた。


「……完全に死角からの一撃。その首斬り落とすつもりだったのだが」


 その身に深緑の羽織を纏う衛正は、手にした刀を油断無く構えながら、そう溢した。

 冷ややかで鋭い視線が燎儀を見据える。

 決して崩れぬ意思を潜めたその瞳に、燎の男は乾いた笑みを浮かべた。


「そんな安い首なんざ……引っ提げてねぇなァ!」


 そうして次の瞬間には、燎儀は自らの間合いに衛正を捉えていた。

 鋭い突きが地面から伸びるように衛正の喉元を喰らう。だが寸前で膝を折り、後ろに倒れる形で回避した彼は、僅かな隙間を縫って再び燎儀の首筋へ刃を振るった。

 飛び散る火花。激しい音の飛沫が二人の間を縫い、束の間の静寂をもたらす。

 無理やり身体を捻って迎撃した燎儀は、だがその謐然の空戟を破るかの如く、二度目の突きを放つ。鋭い一撃を衛正が刀の腹で受け止めたとき、初めて両者は至近で顔を突き合わせた。


「……小幸を攫って何をするつもりだ。卑しい蛮族が、今さら神への信仰心にでも目覚めたか」

「くはは、気持ち悪ぃ冗談言ってんじゃねぇよ。たたっ斬るぞ」


 言葉を交わす二人を余所に、黒の装束と羽織を身に付けた人影が二つ、荒れ地を駆ける。

 衛正の下で情報収集や裏の仕事の後始末などを専門に請け負う彼らは、主の指示で小幸の救出へと動いていた。


「まぁ、貴様らの思惑などどうでもいい。小幸は私達のものだ。返してもらう」

「だったら筆で手前の名前でも書いとけ。今は俺達のもんだ。使い終わったらちゃんと返してやるよ」


 その言葉に、衛正は嫌悪を抱いたかのように片眉を潜めた。

 柄を握る腕に力を込め、拮抗状態にあった刀を弾く。すかさず燎儀が追撃してきたが、それを大きく後ろに飛ぶことで回避した。

 距離が空いた隙に小幸の方へと視線を振る。少女を捕らえていた男は既に無力化できたようで、地面には大柄な体躯が転がっていた。

 黒装束の一人が、その場に踞る小幸に羽織を掛けてやっているところまで確認してから、今度は数間離れた場所で倒れ伏す人影を見やる。

 一見して無事ではないと分かるが、まだ微かに胸や口許が動いている。知り合いの医師に診せればまだ助かる余地はあるだろう。


 ――毎夜の如く小幸へ逢いに屋敷を訪れる靖央を、衛正は確かに疎んではいたが、それでもこの場で軽々に見捨てる選択肢を浮かび上がらせるほど腐った性根はしていない。

 すぐさま視線を転じた衛正は、医学の心得を持つ黒装束の仲間に声を飛ばした。


蔵吉くらよし、少年の容態を診ろ! 処置が難しいならすぐにこの場を離れて――」


 しかし言葉は続かなかった。

 ひと呼吸の内に衛正へと肉薄した燎儀が、逆袈裟の一太刀を振るってきたからだ。

 地を抉るような斬り上げに対し、半ば本能に任せて横合いから刃をぶつける。息つく暇もなく振るわれた二の太刀を、咄嗟のことに体勢を崩しながらも最低限の動きで迎撃する。

 そのまま数合刀を交わし合うなかで、燎儀が卑しげな笑みをわざとらしく浮かべた。


「余所見しても平気とか思ってんなら、その気取った顔、首から斬り飛ばしてやろうかァ!?」

「くっ……」


 刹那の間に四度振るわれた刃がそれぞれ別々の方向から衛正を狙う。明らかに達人の域に達した業を、衛正もまた並外れた剣捌きで迎え撃つ。

 警邏や衛士とは違い、どこまでも型破りで乱暴な動きは、しかしだからこそ相対する者の調子を狂わせる。

 それでも持ち前の腕で何とか猛攻を凌いでいた衛正は、だが直後、腹部に激痛を感じて顔を顰めた。見れば燎儀の膝が衛正の鳩尾にめり込んでいる。漏れ出そうになる体内の空気を何とか押し留め、脚ごと斬り飛ばそうと刀を振るう。しかし数瞬早く燎儀が身を退く。風のように素早く振り上げられた刀が、降り注ぐ月光を浴びて衛正の瞳を照らした。


 ――間に合わない。


 己の身体を叩き切られる嫌な想像が脳裏を掠め、同時に彼は、最も深く愛する女のことを思い浮かべる。

 その想念が、竦みかけた腕を反射的に動かした。

 刺し違える覚悟で己の刀を振るう。それでも数瞬早く振り下ろされた燎儀の得物は、容赦なく衛正の肩口へと吸い込まれる。

 

 音はなかった。

 静寂のなか、鮮烈な赤が視界を覆う。

 月明かりを受けて妖しく染まる鮮血は、神と人の業を表しているかのようだった。


 刀が落ちる。

 僅かに歯こぼれした平刀は燎儀のものだ。だが彼はそれを拾おうとはしない。

 小さく呻き声をあげながら右の肩口を押さえる。そこより先にあるべき腕は無かった。


「衛正さま、ご無事ですか!」


 少し離れた位置から黒装束の一人が叫ぶ。

 彼が短刀を投げて一瞬の隙を生んでくれなければ、今ごろ衛正の胴は真っ二つになっていたところだ。

 視線だけで応じつつ立ち上がり、刀に付いた血を払い落とす。

 燎儀の刀を蹴って遠くに転がしてから、衛正は隻腕となった男を見下ろした。


「……もう勝負はついた。これ以上やりあっても何の意味もない。大人しく自らの街へと帰れ」

「………くはっ。ぬるい性根してやがんなァ、おい」


 おそらくかなりの激痛が走っているはずだが、燎儀は変わらぬ卑しい笑みを見せる。


「武人がいっぺん刀抜いたら、どっちかが死ぬまでおさめちゃなんねぇだろ。腕一本斬り飛ばしたくれぇでなに勝った気でいやがんだ、あァ!?」


 左手で強く押さえている肩口からは、けれど尋常でない量の血が今も流れ続けている。早急に処置をしなければ、瞬く間に失血死に至るほどだ。

 このまま放っておいても、決着は目に見えている。

 しかし尚も鮮紅の和彫りを脈打たせ、獰猛な姿勢を見せる燎儀に、衛正はひとつ呼吸を置いてから再び刀の柄を握り直した。


「――――、」


 言葉はない。霞むように閃いた刀が返答だ。

 弧を描いて振り下ろされたそれが刹那の後に燎儀の首を斬り飛ばそうとした、まさにその瞬間。

 横合いから何かが直撃し、衛正の刀の動きを止めた。


「ッ…………!?」


 衛正は瞠目する。

 何かがぶつかったのではなかった。剣閃よりも素早く動いた燎儀の左手が、今まさに己の首を飛ばそうとしていた刀を掴んでいたのだ。

 咄嗟に刀を引く。が、掴んだ手から伝わるありえないほどの膂力が、衛正と刀をその場に縫い付けた。


(……なん、だ……これは……)


 言い知れぬ不可解な違和感が衛正の肌を撫でる。

 先ほどまでの燎儀からは感じられなかった異様な圧とも言うべき雰囲気が、可視化されて立ち上るかのように見えた。そしてその "威" は、衛正の足を鉛よりも重いものへと変える。

 全身の肌が粟立つ感覚があった。人ならざる者と対峙しているかのような緊張に、衛正は自身が無意識に畏れのようなものを抱いていることを自覚した。

 手首を返し、刃を掴むその左手ごと首を切り落とそうと力を込める。

 だが、全ては遅かった。



「………ふむ。従僕の一人が世話になったな」



 不意に紡がれた声音は、燎儀のものと変わらぬ筈であるのに、なぜか底知れぬおぞましさを孕んでいた。

 尚も掴まれている刀がミシリと嫌な音を立てる。衛正は咄嗟に柄から手を離すと、そのまま後方に大きく飛び退いた。

 俯き気味だった燎儀の顔がゆっくりと持ち上がる。

 その容貌を改めて視認した瞬間、衛正は息を呑むと同時に大きく目を見開いた。

 左の目元にのみ彫られていた鬼の紋が、いつの間にか顔の半分を覆うほどに広がっている。それだけでなく、紋様は燎儀の首から身体にかけても連なっているようで、曝け出されている左腕までもが鮮紅の和彫りで埋め尽くされていた。

 そしてその紋が脈動した瞬間、衛正は己の精神が何かに深く侵食されてゆく感覚に陥った。


「ッ………」

「ほう。依代を介しているとは言え、私の呪に耐えるか。なかなか見所のある男だ、お前は」


 歯を食い縛り、今にも震えに犯されそうになる身体を抑え込む衛正に、燎儀は………否、燎儀の身を借りた何者かは感心した様子で薄く目を細めた。 


「……貴様は、いったい何者だ……?」


 そう誰何した衛正の瞳が、男のそれと交わる。

 双眸の奥に揺蕩う虚無。それ自体は燎儀の瞳にも見た。だがその揺らぎはどこまでも深いものへと変じており、見た者の意識に根源的な畏怖を植え付ける呪いそのもののように思えた。

 そんな虚無の眼を持ちながら、しかし男は柔和で優しげな笑みを口許に乗せた。


「―――


 やがて放たれた短い言葉は、無形の波紋となって場を支配した。

 衛正だけでなく、離れた位置に立っていた三人の黒装束たちまでもが、不可視の鋼糸に縛られたかの如く、僅かをも身を動かせないでいる。

 柔和な微笑は、だが圧倒的な威となってこの場全ての人間を睥睨した。その中心に立つ男は張り詰めた静寂を伴い静かに続けた。


「お前たちが鬼と呼び、忌み嫌う――――神を喰らう一族の長だ」

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