第7話

「ううう……ああぁ…………」


 誰かのうめき声が聴こえる。凄く辛そうだ。脳味噌を悪魔に引っ掻き回されている人間が出すような声。


 そのうめき声の主が他でもない僕自身であると認識した時、布団の中だった。昨日就寝した時と同じ布団の中。汗びっしょりの寝巻を身に纏う僕。


 薄暗い部屋の中、僕は目が覚めた。さっきの惨状は何だったのか。夢だったのか。恐る恐る布団から身を出して立ち上がり、電気を点ける。


 そこには昨日と変わらない、いつもの六畳間があった。やはり夢だったのだ。しかし嫌に現実感があった。生まれて初めてあんなリアルな夢を見たなと思う。

カーテンの隙間から爽やかな光が射し込んでいる。どうやら今は早朝のようだ。カーテンをぱっと広げ、夜中の悪夢を打ち消さんばかりと一心に朝の陽ざしを浴びる。


「…………」


 しばらくそうしていた。ある程度目が冴えて思考力が回復したところで悪夢の内容を振り返る。何故幽子があんな姿で出て来たんだろう。その理由をしばらく呆然と立ち尽くしながら考えた。すると一つの仮説が思い浮かんだ。


 もしかしてあれは幽子が自殺をした時の部屋の様子だったんじゃないか。彼女の言う、親との関係や勉強による多大なストレスが原因による自殺。昨日の件で怒った幽子が仕返しにその当時の様子を夢で見せてきたとか。まあ彼女にそんな能力があるのかは定かではないが。


 夢の中で出てきた机の上には身に覚えのない法学関連の参考書や六法全書が塔のように積み上げられていた。そして幽子はそれらに囲まれるように切れた手首から血を流しながら突っ伏していた。


 これまでを踏まえて僕の勝手な想像を述べさせてもらう。恐らく生前の幽子も僕みたいに、高収入エリートを目指していたのかもしれない。法律の本があったという事は、将来の志望は弁護士で、司法試験の勉強をする法学部生、あるいは法科大学院生だったのだろう。そのため日夜勉強に明け暮れていた。しかし何かの拍子に親からの期待とか試験へのプレッシャーとかに耐えられなくなりリストカット。そのまま出血多量で死に至ったという流れだろうか。


 もしそうならば彼女が僕の進路に色々口を出してくるのも合点がいく。きっと彼女は自分の趣味に興じる暇も無く、親の期待に応えるため好きでもない勉強に明け暮れていたのだろう。司法試験の難易度は東大入試を超えるとも聞くし。何回か落ちると受験資格が無くなるとも聞くし。毎日プレッシャーに押しつぶされそうになりながら嫌々こんな勉強をしていたら精神がおかしくなってしまうはずだ。それでいつの日か耐え切れなくなる時が来て自ら命を絶った。そして死んでから後悔した。こんな事になるくらいなら自分の好きなように生きれば良かったと。だからこそ、そんな自分と同じ道を歩んで欲しくないと思って僕に伝えたかったのかもしれない。「好き」な事で生きていくという事を。


 そんな事を悶々と考えていたものだから、日差しを浴びても心の中はなかなか浄化されてくれず、悪夢の余韻がまだ強くこびりついていた。外の爽やかな晴天と打って変わって、僕の心の中は気の重くなりそうな曇天だった。


 ふと六畳間に目をやる。何冊かの漫画本が床に転がっている。こういう時、嫌な事があって心の中が燻っている時、いつも僕は漫画を読む。いや漫画に逃げる。空想に浸る。ストーリーに引き込まれ、登場人物たちに感情移入していく中で、自然とこういう心のわだかまりは解消されていくのだ。そんな感覚が僕をこの行為にいつも誘う。


 床に転がっている漫画本の一つを拾い上げる。背表紙に「HUTTER×HUTTER」と書いてあった。一九九六年から連載が始まり現在まで続く人気作。これの作者がよく長期休載する話は有名で現在も休載中だ。僕が手に取ったのはそんな漫画の最新刊である三十五巻だった。


 表紙をめくり本編に入る。ここ最近この漫画はかなりの数の新キャラクターを登場させている。しかし全員に強烈な個性があって皆良い感じにキャラが立っている。主人公をはじめとする既存のキャラクターたちも彼らと合流し、コミカルなやり取り、クールな心理戦、そして激しいバトルを見せてくれる。そしてこの巻の終盤で大どんでん返しが起き、次巻に続く事となった。そんな魅力的な話の展開に前にも読んだことがあるにもかかわらずぐいっと僕は引き込まれ、あっという間に読み終えてしまった。次の巻は現在作者が休載中のため当然無い。ちょっとがっかり。しかし後で、ふとある考えが浮かんできた。


 続きを自分で好き勝手妄想して描いてみようか。という考え。


「やってもいないのに才能が無いって何で言えるの?才能が無いだなんて、二十四時間、三百六十五日全て漫画描く事に捧げてから言いなさいよね!」


 幽子の台詞を思い出す。丁度良い。実際に漫画を描いて僕に才能が無い事を、身をもって証明してやろう。昨晩見せられた夢の仕返しも兼ねてな。


 僕は紙とシャープペンシルを机の引き出しから取り出し、また押入れから「HUTTER×HUTTER」全巻を持ち出してきて、それを参考に見よう見真似でコマ振りを考え、そこにキャラクター達を模写していく。小学生でも描けそうな下手な絵。けれどもそれで良い。幽子に才能の無さを突き付ける根拠になる。そう思いながら僕は思うがままにペンを走らせた。


 あっという間にA4の用紙が埋まった。よし次のページだ。描くという行為に慣れてきたせいか、ペンを走らせるペースはさらに上がった。

二ページ目終了。次、三ページ目。三ページ目はもっとは早く終了。四ページ目……。そんな感じでペースを上げつつ次々と漫画(のようなもの)は完成していった。もともとこの漫画がかなり好きで、個人的にこうなったら面白いなというifのストーリー展開のシミュレーションを日頃脳内でしていたのだ。そのため話を考える時間はあまり必要無く、溜まりに溜まった妄想を吐き出すかのように、するするとペンは動いて絵を完成させていった。


「…………」


 不思議な感覚だった。描くという行為に異常なまでに没頭している。この行為以外何も考えられない。深い海の底を泳いでいて、簡単には浮上できないような感覚。僕は今までこんな感覚を経験した事があっただろうか。人生で最も時間をかけた受験勉強ですらこんな風にはならなかった。昨日のテレビに出ていたスーパーキッズたちもこんな感覚で日々を過ごしているのだろうか。


 こんなに描く事に夢中になっちゃって、まるで漫画家みたいだなと自嘲気味に自分自身を俯瞰してみる。本来僕は漫画を描きたい欲求を持っていて、今ペンを持ち想像を具現化し始めたことで、それがこうして土石流の如く発露しているのかもしれない。多分僕は漫画家に夢を見ていなかったのではない。正確にはそれを夢に見る事を避けていたのだと思う。夢見たらそれが叶わなかった時きっと物凄く辛い。それなら最初から夢など見ずに現実だけ直視していれば傷つかない。だから夢に、正確に言うと自分の「好き」に嘘をつき、見て見ぬふりをしていたのかもしれない。

そのような思考がしばらく頭にあったが、しかしそれもすぐに掻き消え、再び描くという行為に吸い込まれていく僕。


 十八ページ目終了。やっと週刊誌一週分くらいの分量を描き終えた。キリの良いところだ。ここら辺でいったん休憩にするか。


 やり遂げた達成感をしみじみと噛みしめて床に寝ころんだ。今まで脇目も振らず紙と睨めっこしていたため、久々に視界に戻ってきた部屋の風景が少し新鮮に感じられた。そこに達成感が入り交る。何とも言えない不思議な気分だった。


 しかしそれもつかの間。そんな気分も一瞬にして吹き飛んだ。僕は突如として唖然とした。壁に掛かる時計が目に入ったのだ。そしてそれの針はもうすでに午後の三時半過ぎを指していた。

 まずい今日は合同企業説明会に参加する予定じゃなかったか。説明会は午後一時から。もうとっくに始まっている。終了時間は午後五時で、それまでの間は説明会場への入退場は自由だ。しかし僕が狙っているような一流企業のブースは、非常に人気のため一時間程度並ばなければ説明を聞けない事がザラにあるのだ。逃すわけにはいかない。急いで準備しなければ。そんな焦燥感に胸を支配されそうになった瞬間、僕はもう一つの事実に気が付く。


 僕は今まで八時間以上漫画を描いていたのだ。僕が描き始めたのは確か午前六時半頃。ノンストップで八時間も同じ行為を続けていた。こんな事未だかつてあっただろうか。受験勉強だって、休日に休憩を入れながらやっとの事で一日八時間出来ていたのに。我ながら何てクレイジーな事をやってしまったんだと思った。時間を忘れてただひたすら没頭していた。


 机の上に無造作に散らばる、下手くそな絵と適当なコマ割りの漫画もどきたちに目をやる。十八ページ分。週刊誌一週分。漫画の描き方なんかちっとも分かっていない僕でも一応、ここまでやり通す事が出来た。こんな事未だかつて無かった。ひょっとして僕は……。


「漫画家に一番必要なもの持ってんじゃーん!」


「うわっ!」


 唐突に肩を叩かれ体勢を崩す僕。びっくりして心臓もバクッとなる。


「幽子……」


 幽子がそこにいた。満面の笑みで僕を見つめる。


「漫画家に必要なもの。それは画力でもなく、構成力でもなく、ましてや才能でもなく、本当に必要なのは……今あなたが見せてくれた『没頭』する力よ!」


 笑顔を通り越したドヤ顔する幽子。さらに彼女は続ける。


「今あなたは確かに正直者だった。『好き』な事に正直になった結果がさっきの『没頭』だったんじゃないの?」


 言われてみれば確かに不思議な感覚だった。「没頭」とはこういう事を言うのかと始めて認識出来た気がする。だがしかし。


「でもさ……僕の描いた絵、見てみろよ。こんなの中学生、いや下手すりゃ小学生でも描けるぞ。こんな僕に漫画家をやっていける才能は無い」


「絵なんて後から練習すれば良いじゃ~ん。さっきみたいに没頭して練習しているうちに必ず上手くなるよ。それにさ、あなたの描いた漫画の最初のページと最後のページを見比べてみなよ」


 そう言うと幽子は僕に机に散乱した漫画もどきの最初と最後のページをばっ!と見せつけてきた。おいおいそんな乱暴にしたら破れるだろ。


「描き始めよりも、最後のページの絵の方が上手になっていると思うの、私の気のせいかな?ここら辺とか、あとこの辺とか」


 幽子は指さしてその上達が見られると思しき箇所を指摘する。言われてみると、その違いは何となく自分でも分かった。最後のページの方がキャラクターの輪郭がはっきりし、背景の立体感が増している。ほんの少しだが。それでもそんな上達が見て取れた。自分には才能が無いと思っていただけに、非常に嬉しい変化だった。


 やろうと思えばきっとあと十時間以上は描けるかもしれない。漫画を描く楽しさと上達の喜びによって僕の気分は舞い上がってしまっていた。もっと描きたい。もっと上手くなりたい。


「もういっそ就活やめちゃおうよ!今日の合説サボろう!」


「ズルいぞ幽子。それを今言うのは」


「自分の『好き』に正直になれば良いと思うよ。嘘つきより正直者の方が報われるって私、信じているから」


 屈託のない笑みでそう笑いかけてくる幽子。彼女の言葉に後押しされ、もっと描いていたい気持ちが強まったが、まあ流石に急に合説をサボるほどの気持ちにはなれなかった。しかしそれの帰りに文具店でも寄って画材を買って、もっと本格的なやつを描いてみようかなとは思った。


 「好き」な事で生きていくのに才能が必要だという認識は今も変わらない。だが「好き」に正直に生きればそんな残酷な現実も、もしかしたら覆せるのだろうか。まあ今回の件を通して、就活と並行してそんな生き方を垣間見てみるのも面白そうだなと思ったし、そして何より自分の「好き」の中にこそ、本当の自分があるような気がした。就活サイトの自己分析なんかでは絶対に見えてこない、正真正銘本当の自分だ。

 そんな事を考えながら窓の外へ視線を向ける。

 

 目に映る景色と同じく、この時僕の心の中も幾分か晴れやかだったのではなかろうか。

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幽霊少女と同居中の僕が人生について真剣に考えてみた てぃるぴっつ @savage_zealot

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