最終幕 悪魔の囁きとNの喜劇(7)

 ただ歩く。疎水に沿って、進んで行く。

 この哲学の道を選んで良かった。少し疲れるが問題はない。七条君も気が利くことをしてくれる。何故なら、


 あの暗号の答え、鴨川デルタだからだ。


 京都大学が見えてきて、さらにまっすぐ道を進めばデルタには着く。鴨川デルタとは、高野川と賀茂川の合流地点にある逆三角のエリア。この場所から川が合わさり、南に行くと「鴨川」と呼ばれるようになる。

 鴨川デルタは二種類の場所で成り立っており、一つは樹木が植えてある芝生のエリア、もう一つは一面石畳の逆三角部分の領域。どちらかまでは不明だが、取り敢えずあの場所に行けば七条君に会えることは間違いない。京大生や勧学院生は大体、石畳の方のエリアで酒盛りをすることが多いので、おそらく後者だとは思うが……。



 何故、あの暗号の答えが「鴨川デルタ」になるのかはひとまず置いておこう。問題はさらにその先だ。

 何処かで会うだけなら、暗号などまどろっこしい手段を用いずに直接、場所を教えるべきだ。暗号という手段をわざわざ用いた理由が今まで分からなかった。

 だが、今なら分かる。暗号を解くことでんだ。

 事ここに至れば、俺がずっと疑問に思っていた事も分かる。頭の中で謎は次々に解けていく。提示された謎は全部で九つ。

 

 あの原稿用紙の中の話でも、俺が遭遇した事件でも、いつでも俺は「名探偵」だった。

 

 ―――何故、俺が推理をしなくてはならないのか。


 そして、和気白雪の台詞。


 ―――何故、俺は本当は推理をしてはいけないのか。何故、俺が存在してはいけないのか。


 そして、この現象。


 ―――何故、時は巻き戻ったのか。何故、俺が実際に遭遇した事件が原稿用紙の中で小説化されているのか。何故、小説と現実で多少の齟齬があるのか。


 そして、肝心の


 ―――七条君や八神会長、姉小路、その他のメンバーが突然、消えた訳とは。俺の見た悪夢や記憶の忘却とフラッシュバックは何を意味するのか。


 ―――七条葵は俺に会って何を伝えようとしているのか。




 いつの間にか、周囲は薄暗くなっていた。疎水や細い道の風景は既に無く、自身の周囲には京都大学の現代的な校舎が見えていた。スマホで位置情報を検索すると、「総合研究5号館」、「人文科学研究所」が道の左側に、右側には「理学研究科2号館」が見える位置に居る。まだ何人か学生が残って研究をしているのだろうか、幾つかの教室は明るい。

 慌てて時計を確認する。時刻は午後18時。俺は薄暗い街中を走り出す。

 恐らく、どれだけ時間が経っても、彼は待ってくれるだろう。それでも、俺は走りたかった。一刻も早くその場所に着かなければ気が済まなかった。



 ―――そういえば。もう一つ、思い出したことがある。


「N、あんた日本人作家の作品ばかり読んでるでしょう。駄目よ。視野が狭まるわ。外国人の推理作家の思考も把握しておく必要があるわね」

「だって英語とか外国の文化とか、ちょっと取っつきにくくて。いいじゃないですか。別に外国を知らなくても死ぬわけじゃなし」

「外国の優秀な作品を読まないのは人生を損してるわよ。あなた、最近、叙述トリックに興味があるって言ってたわね。だったら、手始めにコレを読みなさい。面白いから」

「『Yの悲劇』? エラリー・クイーンですか? 有名な作品ですけど。本当に面白いんですか?」

「物は試し。つまらなかったら、何でも一つ言う事聞いてあげるわ」

「いいでしょう。速攻で読ませてもらいます。つまらなかったら本当に何でも言う事聞いてもらいますよ!」

「……目が怖いわね。言っとくけど、公序良俗に反するお願いは無しだからね」


 そう、あの本「Yの悲劇」を読むように勧めてくれたのは八神さんだった。俺がまだ1年の時、彼女も同学年だったのだが、俺よりもミステリーの造詣が深い彼女が色々と勧めてくれたことを思い出した。

 そして、俺はあの本を読んだ時から、自分でも推理小説を書いてみたいと思ったんだ。確か、その時に書いた小説の名は―――










 僕は鴨川デルタの逆三角部分、石畳の上で佇んでいた。右手側を賀茂川が、左手側を高野川が流れる。そして、目の前で合流し鴨川という名称が付けられた一つの流れと化していく。

 京都の夏は暑い筈なのに、今日は何故か肌寒い。いつもは一人二人は河原に居るが、今日は人っ子一人存在しない。僕だけだ。

 川の流れがいつもより速く感じるのは僕の気のせいだろうか。


「ハァ……ハァ……」


 背後から聞こえる息切れ。聞き覚えのある息遣い。僕は期待を込めて後ろを振り向く。

 薄闇から姿を現したのは僕のよく知っている先輩だ。僕はこの場所でずっと彼を待っていた。

 

「ようやく来ましたね。遅いですよ。洛外からはるばるやって来たんですか?」


 口から自然に出る憎まれ口。先輩もいつも通り、それに応えた。


「ハァハァ……、人を呼びつけておいて随分な言い草だな……」


 全速力で駆けてきたのだろう。そこまで、急がなくてもちゃんと待っててあげたのに……と思い苦笑する。


「先輩、よく此処が分かりましたね」


「あぁ、結構、手こずったけどな」


そして、


 僕、七条葵の問いに彼、N先輩は不敵な笑みを浮かべた。そして、いつもと同じように自信満々にこの台詞を言う。




「じゃあ、謎解きを始めようか。まだ、説明できないこともあるが、ほぼ全ての謎は解けた自信がある。いつも通り、推理の悪魔が俺に囁いたからね」

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