第16話

 入園して2カ月を過ぎた頃、あたしはタカエ、マユミ、ノリコ、ミナコと共に「奥の院の奥」から「奥の院」に移された。奥の院にはかなり旧式であるものの、ストーブがある。

 それだけであたしたちは天国に来たような気持ちになった。ようやく寒冷地獄から解放された訳だ。

 シャバにいる頃はストーブなんぞあって当たり前だったが、光の園に来てからはないのが当たり前であり、ストーブを囲んだあたしたちはその温かさに笑顔を交わした。

 ちょうどその頃、同じ入園者のアサコに、父親からバースデーカードが届いた。アサコは封を切る前から涙ぐみ、読み終える頃には体を折って泣き崩れていた。あたしたちはアサコをいたわりながらそのカードを見せてもらい、同じように泣き崩れた。

 特別な事が書いてあった訳ではなかった。「アサコ、誕生日おめでとう」とだけ書かれたその小さなカードが、さびしくてたまらないあたしたちの心を強く打ったのである。

 アサコは自分のベッドにもぐりこんで、体を震わせて泣き続けていた。何も言わなかったが、心の中で父親に深く詫びている事は痛いほど分かった。

 父さん母さん、姉ちゃんはどうしているだろう。

 シャバにいる頃は殺してやりたいほど憎んでいた家族がたまらなく恋しかった。


 午前中のお経が終わって、あたしはベッドにもぐり込んでいた。タカエとノリコが心配げに具合でも悪いのかと聞いて来たが、そうではなかった。確かに顔色は悪かったのだろう。

 あたしは泣く事に飽き飽きしていた。泣いても泣いても泣ききれないし、どうしようもない。かと言って泣かずにいられない。ここには何もない。あたしの存在価値はゼロだ。

 シャバにいる頃、一緒になって遊び回っていた友達も男も、みんなあたしの事など忘れているだろう。誰もあたしの事なんか考えちゃいないだろう。社会と断絶されちまった鉄格子の中、言いようのないさびしさがあたしを支配し続ける。

 何故あたしの親は会いに来てくれないのだろう。何故手紙ひとつくれないのだろう。親さえあたしの事を忘れたのか。被害妄想は日増しに大きくなる。

 あたしなどいない方が良いのか。安泰なのか。だから何の連絡もよこさず放っているのか。一生ここで過ごせという事か。

 20歳になっても、40歳になっても、ここにいる自分を想像して気が狂いそうになる。たまらなく不安になる。こんな所にいたくない。

 一日に7回お経を上げる以外に何もする事がない生活。

 食べる以外に楽しみがない生活。がんじがらめに束縛され、拘束される事に慣れきってしまったあたしたち。普通一般では考えられない事ばかりがここでは起こる。ここでは考えられる。

 いっそ物凄く悪い事をして、大問題を起こして、施設側を怒らせれば追い出されるかとも思うが、よく考えたら「どうしようもない」上に「手に負えない」から「こんな所」にぶち込まれた訳だ。これ以上問題を起こしてもシャバに出られるとは考えにくいぜ。あはははははは。

 それにこれ以上悪い事をしても、これ以上問題を起こしても、反省室に叩き込まれるのがオチだろう。反省室よか奥之院の方がまだましだぜ。もう、笑いさえこみあげて来ない。

 あたし、前世で何か悪い事して少年院に入るべき所をバックレちまったのかな?だから今世で帳尻合わせする羽目になったのかな。ああもう分かんねーよ。何でこんなヒデー人生なんだろ?

 あたしはベッドに横になったまま、鉄格子の間から見える「小さな空」を見上げ、一体いつになればここから出られるのだろうと悔し涙にかきくれていた。


「シャバに出たい」

 あたしたちの頭の中はそれでいっぱいだった。他の事は何も考えられなかった。

「シャバに出たい」

「ここから出られさえすれば後は何とかなる」

 みんなそう思っていたし、そう言っていた。

「出られないなら、いっそ逃げたい。脱走したい」

「でもどこへ?」

 そう、逃げても行く所など、落ち着く所などなかった。連れ戻されるのは目に見えている。

 実際逃げて沖縄や鹿児島まで行ったが連れ戻され、丸坊主にされた上、酷いリンチを受け、反省室に半年も閉じ込められている脱走者は何人もいた。そうなるのは恐かった。 

 シャバに出たい一心で変な事する子もいたよ。落ちていた釘を飲んだり(よく飲んだねえ、便と一緒にその釘出てくれるといいねえ)、ガラス窓割ってその破片で手首切って病院へ担ぎ込まれようとしたり(ただ包帯ぐるぐる巻きにされて終わりだったよ)、気が狂ったふりしたり(下手な芝居だねえと思って見ていたさ)。

「逃げたい」

「どこへ?」

 誰も答える人などいない。

 それでもみんな吠える。

「出たい、出たい、ここから出たい」

 吠えながら、みんなで悔し涙にかきくれる。

 ノリコだけはそうでもなかったけど、ほかのみんなはシュプレヒコールのように

「出たい、出たい、シャバに出たい」

と、誰が聞いていてもいなくても、年がら年中吠えていた。しかし親はなかなか出してくれない。イライラは募るばかりだ。

 そしてその苛立ちは、弱い者に向かった。非行少女の中でも比較的おとなしい子や、病人さんに対するいじめが始まっていた。

 ミナコは「喋れない病人さん」を選んで殴ったり蹴ったりしていた。

 借金地獄から逃げてきたカナエさんの娘、3歳のミホちゃんもターゲットにされた。ミホちゃん、ではなく、アホちゃんとあだ名を付けられ、

「アホちゃん、飴あげる。げんこつ飴」

とヤスエにげんこつを食らったり、チカコとアサコに手足を掴まれ

「ブランコ~」

とゆさゆさ揺らされたりしていた。嫌がってギャーギャー泣くミホちゃんをカナエさんが必死にかばっていたが、少女たちは面白がってやめなかった。

 クミコは

「お世話してあげる」

と言いながら病人さんを風呂に入れ、わざと冷水をかけて寒がる病人さんを嗤っていた。

 フサエは身体障害者の真似をして嗤いを取っていた。

「エへ、エヘ」

と言いながら、首を変な角度に曲げたフサエが部屋の中を跳ね回るのを、みんな嘲って見ていた。タカエとマユミだけは笑わず、ただ黙って見ていた。あたしも笑わなかったよ。あたしの母さんは確かに酷い母親だったけど、障害のある人を嗤ってはいかん、と言っていた(そこはまともだった!)。

 フサエは今日も、身体障害者の真似をして跳ねている。みんなは、嘲笑い続ける。

 みんな、みんな、どんどんすさんでいった。


 あたしはフサエの変な芸を笑いはしなかったし、ミホちゃんをいじめもしなかったが、イライラを堪えきれずにヨウコという子をいじめた。

 ヨウコはあたしを慕ってくれていた。

「マリちゃんが好き」

って言ってくれた。

 ヨウコはシャバにいた時、エッチなお店で働いていたそうだ。


 母さんに言われた言葉を思い出す。

「あんたみたいな汚らしい娼婦を家に置いておくだけで、あたしは恥ずかしくてしょうがない」


 あたしはヨウコに言ったよ。

「あんたみたいな汚らしい娼婦、近寄らないでほしいもんだね!」

 ヨウコが、何かの間違い?って顔をする。ヨウコはいじめが度重なると、悲しそうなつらそうな顔であたしを見た。そう、小学生の時と一緒だ。あの時も友達はあたしを恨む目をしながら耐えてくれた。

 あたしはまだ小学生レベルのままだった。


 母さんに言われて嫌だった言葉を、そっくりヨウコにぶつける。

「あんたは娼婦だよ、娼婦!」

 罵詈雑言を浴びせても、ヨウコはあたしを慕ってくれた。こんなにいじめているのに、何で許すんだよ!

 きっとヨウコはあたしの中に自分を見たのだろう。だがあたしもヨウコの中に自分を見ていた。だからヨウコを見るとイラつく。つまらない事でいちゃもんをつけ、ヨウコを殴ったり蹴ったりしたよ。

 ヨウコをずたずたにいじめながら、何とか精神のバランスを取ろうとした。ヨウコに申し訳ないなんて全然思わなかったよ。

 ヨウコ!あんたが悪いんだよ!我慢強いから!いじめるあたしを許すから!反撃して来ないから!はっきりやめてと言わず、ただ目で訴えるだけだから!

 あたしの心はもっと荒れていった。


 尼さんたちが、ヨウコに対するいじめをやめさせようとしたのか何なのかよく分からないが、「事務所」で働く事になった。光の園に入園して、すでに3カ月が過ぎようとしていた。

 光の園の入り口には、仰々しいまでにバカデカい玄関があり、そこに事務所というものがあった。

 ウエイトレスやホステスなど、水商売しか経験のないあたしにとって(16歳にして、そんな仕事ばかりするな)初めての事務作業である。

 光の園では入園してしばらくたった者を「向上心を養う」あるいは「社会復帰してからの為」または「仕事の有り難みを理解する」という名目において、園内で働かせるのだった。それに男子も女子もない。

 多くの者は食堂や喫茶店(これは来客用のものだった)で、皿洗い、清掃、調理などの仕事を与えられていた。

 もしくは反省室の管理人、車の掃除、お上人さんの身の回りの世話、病人さんの世話、入園者のお迎え(これは「お迎え」なんてなまっちょろいものではなく、ある日突然人の家に押しかけ、嫌がる者を殴る蹴るの暴行を加えてまで車に乗せて、光の園まで連行するという恐ろしい仕事だ。あたしもその被害者のひとりである)、などである。

 しかし何もする事がなく退屈し、無気力になっていた入園者にとっては大変有り難く、みんな喜々として働いていた。

 みんな働いている時の表情は明るく懸命である。とても良い顔をしている。シャバでろくな仕事をして来なかった、という事もさながら「人の役に立つ」のが嬉しいのだ。

 無論あたしも例外ではなかった。事務所内の清掃も雑用も一心にこなした。

 労働。これがこんなに楽しいものだなんて。

 あたしは毎朝身支度を整えると、奥の院から事務所まで元気に「出勤」して行った。

 あたしは社会復帰してからもきっと人の役に立てるだろう。そんな確信を持ちつつ。

 勿論、あたしはもうヨウコをいじめなくなっていた。

 そして仕事を与えられるようになったミナコ、ヤスエ、チカコ、クミコ、アサコも誰もいじめなくなったし、フサエも身体障害者の真似をしなくなった。


「この子、お願いね」

という尼さんの声と共に、誰かが奥之院に入って来る。そのまま「奥之院の奥」に直行する場合も多かった。

 室内にいるみんなはじろりと見て、その新入園者が非行なのか病人なのか判別した。

 あたしみたいにこてんぱんに殴られて、ヘロヘロになって投げ込まれてくる奴、

 ショックで放心状態の奴、

 ふてくされた奴、

 ギャーギャー泣き散らかしている奴、

 キョロキョロしてる奴、

 真っ青な奴、

 動揺した奴、

 真っ暗な反省室から引っ張り出されたばかりで眩し気に瞬きをしてる奴、

 何故か「笑顔」の奴(これだけは分からなかった。後はみんな分かった!)、色々な奴がいたさ。

 その頃から確実に病人より非行の子が入ってくる割合が増えた。またかいなって感じでみんな受け入れてた。まあ受け入れるしかないんだけどね。

 でね、新入園者に共通して言える事がひとつあったんだよ。特に非行の場合。

 それはみんな「肌がえらく汚い」って事!若いのにさ。

 シャバで汚い空気(煙草の煙が充満したスナック等で働いていた奴が多い)の中で、厚化粧やら酒やらシンナーやら寝不足で荒れていたってーのがあった。手に根性焼き(煙草の火を押し当てた跡)がある奴も多かったし。

 で、ホントみんなに共通して言えたんだけど、しばらく光の園で過ごすと確実に肌が綺麗になるんだよ。ずっと紫外線の当たらない室内にいるし、すっぴんだし、煙草や酒やシンナーとも縁が切れる。何より睡眠時間がたっぷり取れるというのが大きかった。みんな暇こいて、寝てばっかりいるしね。

 光の園効果ってーか、みるみる肌が綺麗になっていくんだよ。これが非行少女の肌かってーくらい。

 それだけは、嬉しかったね。勿論あたしの肌もピカピカになったよ!

 あたしは新入園者の荒れた肌を見るたびに思った。まあ待ってな。あんたの肌も綺麗になるからさ。


「沖本さん、ちょっと」

 お上人さんの奥さんに呼ばれ、本道に連れて行かれた。途中すれ違う坊さんや尼さんが、にこにこと笑いかける。中には

「沖本さん良かったね」

と声をかけていく人もいる。何が良かったんだろう?訳も分からず奥さんに連れられて延々と歩いた。

 光の園の内部は結構広い。

「どうしたんですか?」

と訪ねてみたが、奥さんはただにこにこしているだけだ。長い廊下を歩き(廊下の脇にはいくつもの反省室がある)、お道を通り抜け(本道以外にもお道はたくさんあった)、階段をトコトコと上がり、やっと本道に入った。本道には巨大な祭壇が設置され、大きな仏像や生花や菓子などが祭られてあ(見慣れないうちは仏像の般若面が怖かった)。

 その祭壇の前に、見覚えのある人が正座して合掌している。はっと息を飲む。

「沖本さん、娘さんを連れて来ましたよ」

 奥さんの声に「母さん」が振り返る。

 その途端、情けない事にあたしはビイビイと声を張り上げて泣き出してしまったのだ。

 無理もない。あたしは何だかんだと偉そうな事を言っても、まだたった16才の子どもだったのだから。

 突然施設に叩き込まれ、どこが天井でどこが床かも分からない場所(滅茶苦茶に殴られ、放置された時は本当に分からなかった)で見知らぬ人々と過ごし、あげた事もないお経をあげ、説教され、臭いメシを食わされ(慣れたが)、飢えに飢え(足りなくて)、どうして良いものか、何が何だかさっぱり分からないような、分かったような気持ちで5カ月近くも過ごして来たのだ。

 母さんが言った。

「この前、父さんと離婚しようか考えている時に、おばあちゃまの声が聞こえたの」

「…なんて?」

「許すお稽古よって」

「…良かったね」

 後はお互い、ただ泣くだけで終わってしまった。これも「許すお稽古」なのか?

 帰りに母さんはタクシーの中から身を乗り出すようにして、元気でと一言いった。そしていつまでも手を振り続けていた。あたしは言葉もなく、ただ泣きながら母さんが見えなくなるまで手を振り続けた。

 良かった。あたしたちはまだ親子だったんだ。

 良かった。あたしの心はまだ涸れていなかったんだ。

 良かった、良かった、本当に良かった。ああなんて幸せなんだろう。

 その夜、あたしは生まれて初めて自分の親に手紙を書いた。


 母さんが面会に来た翌日から、あたしは希望を持って過ごせるようになった。それは「自分はいつか必ずここから出られる。親が出してくれる」という希望だった。

 母さんがあたしの存在を忘れずに、気にかけていてくれた事が、無上の喜びだったのである。それは普通に考えれば当たり前の事であろうが、猜疑心の固まりになっていたあたしにとっては奇跡だった。


 あたしは働いた。事務所の仕事も勿論、病人さんや新入園者の面倒も一心に見た。

 新入園者は日々、続々と入って来る。早朝といわず、深夜といわず、いつどこからどんな人が入ってくるか分からなかった。

 新入園者の気持ちは、文字通り言葉通り、痛いほど、苦しいほど分かる。泣きわめき、動揺し、自分の身に何が起こったのか理解に苦しみながら途方に暮れている。それはほんの少し前までのあたし自身の姿だった。

 訳が分からず、わめき散らしている人を見るたび、暴れている人を見るたびにこう思った。

 ああ、あの人は、もうひとりのあたしだ。


 廊下の脇には反省室がズラリと設置されてある。そこには常に誰かが監禁されている。

 暴れる新入園者は、たいていそこにまずぶち込まれる。または脱走しようとして捕まった奴、喧嘩した奴、悪さした奴。女でも髪を丸坊主にされて叩き込まれる。

 この光の園自体が刑務所みたいなもんだけど、反省室は更に過酷だ。

 窓がなく真っ暗で空気も悪い上に、アルミ缶に大小便がされ、酷い臭いが常に充満しており、そこでわずかな水と臭い飯をあてがわれ、動物以下の扱いに耐えながら命をつなぐ。

 人間としての尊厳など木っ端みじんにされる。

 ガチャリ、というドアの音を聞くたびに、いちばん最初にぶち込まれた張り裂けそうな悔しさを思い出す。

 あたしはその頃から、かなり自由に園内を歩き回れるようになっていたので、何かの用事でそこを通る事は少なくなかった。

 中から誰かのうめき声が聞こえる。

 ここから出せと怒り狂っている。

 すすり泣き続ける声が、重いドアの隙間から静かに流れて来る。

 母親を呼ぶ声がする。

 父親に詫びる独り言が聞こえる。

 恋人の名を叫び続ける声がこだまする。

 壁に張り付いて、廊下の様子を窺っているであろう気配が感じ取られる。

 長い廊下を渡り終えるまでに、延々と誰かの悲痛な叫び声が響き続けるのだった。

 次第にあたしはたまらなくなり、耳をふさぎ走るようにしてそこを通るようになっていった。


 幹部僧侶に連れられて「お迎え」に行く事になった。遂に来ちまった。あたしにとっていちばんやりたくなかった仕事が。

 もう7カ月以上ここに「お勤め」しており、お迎えにも何度か行った事のあるヤスエとミナコから、お迎えの様子を聞いた事がある(相手が女の子の場合は、大体において女が迎えに行く。幹部連中だけで行くよりも、その方が相手を怖がらせないという事だ。と言ってもあたしの時は幹部の男ばかりで来たではないか。何だ、この差は!)。

 ヤスエたちの話によると、連行しようとした女の子に殴られて鼻血を吹いた上、逆に追い回されてボコボコにやられてしまっただの、手ごわそうな子だと身構えていたら、なよなよと父親にすがりついてどうかやめさせてくれと泣き出し、ついついこっちまでもらい泣きしてしまっただの、急に気が変わった母親が(変わってくれるな)ヤスエや幹部たちを相手に鉄パイプを振り回して(しかし鉄パイプなどというものが、よく一般家庭に置いてあったものだ)大暴れを始め、あまりの怖さに決死の思いで逃げ出したはいいが、すぐに気を取り直してその家に戻り、非行娘をふんづかまえて車に押し込んだなど、なかなか苦労が多そうな仕事である。しかも場所は、あたしが中学生まで住んでいた東京だ。

 やりたかない。本当に嫌だ。殴られたりその家庭の内情を見たり、泣かれるのがつらいから嫌だというのではない。こんな所に(慣れたとはいえ、やはりこんな所はこんな所だ!)放り込まれるなんて、同情すべき事ではないか。

 被害者の立場だったあたしが、加害者になるような気持ちだった。そう、学校でいじめの被害者から加害者に転じた時と同じ。

 まあやるしかないだろう。あたしは意を決した。


 本祥(ほんしょう)さん(この人はあたしを“お迎え”に来て、散々殴ってくれたひとりである。しかし園内ではお上人さん、奥さんに次ぐ立場にある人だ)と、石川さんという僧侶と、タカエの4人で夜の8時に園を出た。

 本祥さんは運転席に、石川さんは助手席に、あたしとタカエは後部座席に座り、出発してしばらくはとりとめもない雑談をしていた。

 車が静岡を抜けた頃、石川さんとタカエは眠りこけてしまった。本祥さんは無言のまま運転している。あたしは寄りかかってくるタカエに肩を貸したまま、窓の外を眺めていた。そしてあり得ない偶然を期待していた。

 誰かに会いたい。誰でもいい。友達でも昔の男でも。東京なら誰かに会えるのではないか?

 しかし会ってどうするのだろう。こんなみっともない姿(多少伸びたとはいえ、髪はザンギリの「光の園カット」で、身にまとうは紺色のジャージだ。しかも胸には白いマジックで「沖本」と大きく書いてある)を見られたくないという気もする。


 車は次第に東京に近付いて行く。そして見覚えのある懐かしい風景が飛び込んで来た。

 覚えている。覚えている。この高速道路も、夜景も、橋も、ネオンも、何もかも。

 車は高速を降り、街中を走り始める。窓の外を流れる、すべてのものがたまらなく懐かしい。

 ああ、こここそがシャバなんだ、と実感する。

 あの電話ボックスから友達に電話した。受話器を通して流れて来たあいつの温かい声。

 あのバーガーショップで仲間とたむろした。あの日のみんなの笑顔がそこに蘇る。

 あすこの角を曲がった所に古い木造アパートがある筈だ。同い年の友達が部屋を借り、引っ越し祝いと称して仲間が集まり、シンナーパーティーを開いた。

 あの日見た幻覚。火花が散り、壁に張られたポスターの中のアイドル歌手が歌い踊り、あたしたちはそれが幻覚だと分かっていながらも、分かるまいと意識を背け、親や世間から除外された悲しみを似た者同士との連帯感でごまかしながら酔いしれていた。

 あのアパートは今も変わらずあの位置にこぢんまりと建っているだろうか。寄って戸を叩きたい。

 このゲームセンター。ここに来れば必ず誰かに会えた。みんな今でもここにたむろしているのかな。

 この小さな橋、シンナーでイカレた仲間が飛び込んで骨折した。もう治ったかな。

 このスナック、友達が年を3つも上に言ってバイトしていた。でももう辞めただろう。彼女は今どこで何をしているのだろう…。


「おい、石川。確かこの辺だよな」

 本祥さんの声で我に返った。石川さんが地図をめくっている。

「ええ、そうです。この角を左です」

 二人の声に、タカエも寝ぼけ眼で起き上がる。そしてあたしと目が合うと照れたようにほほ笑んだ。こちらもつられてふっと笑い返す。

 いつかタカエの事を懐かしく思い出す日が来るのだろうか。そしてタカエがあたしを思い出してくれる日があるのか。

「ここだ、この家だ」

 本祥さんが車を止めた。


 今日あたしたちが連行するのは、15才のヤク中娘だ。

 明けても暮れてもクスリをやるか、家にヤクザのような男を引っ張り込んでヤルかどちらかで、しかも家庭内暴力も酷いのでまるで手に負えない。何とかしたいので新聞で見た光の園に入れる決意をした。

 一週間前に、そのジャンキー娘の母親が光の園にやって来て、涙ながらに語った内容だ。

 その前日に電話を受けたのはあたしだった。とても暗い声を出す人だなと思いつつ、お上人さんの奥さんに取り次いだ。

「ええ、ええ。それでは明日にでもお待ちしております。はい、失礼します」

 奥さんは電話を切った後、事務所内にある大きなボードの翌日の欄に「午後2時、東京から川島さん相談、非行」と書きとめた。

 そのボードには、相談や入園の予定がびっしりと書きこまれてある。それだけ困っている人が大勢いる訳だ。彼らは様々な対策をもくろんだ後、疲れはてて我が子を手放す決意をする。

「死んでも文句は言わない」と戸沢学園の門を叩く親もあれば、精神病院に放り込む親もいる。

 子どもを鎖でつなぎ、ウサギ小屋に監禁する親もいる。

 子どもを逮捕させるべく警察に願い出る親もいる。

 いよいよ追いつめられた場合、子どもを殺す親もいる。

 そんな親もいる事を考えれば、この光の園を頼って訪れて来る親は、まだマシという事なのだろうか。


 そして翌日の午後2時、その人は現れた。あたしは彼女が名乗る前に、前日の電話の川島さんである事に気づいた。

 その人は言った。

「あの…」

 それだけでじゅうぶんだった。あたしは反射的に笑顔をつくり、素早く立ち上がった。

 あたしが奥さんを呼びに言っている間、川島さんは何を考えていたのだろう。暗くうつむいたままのその姿勢は、まるで老婆のようだった。


 明るい蛍光灯の下で、奥さんと向かい合ってソファに腰を下ろした川島さんは、やはり驚くほど老けた顔をしている上に、やましくてたまらないように身を縮めている。

 しばらくして奥さんに呼ばれた。

「沖本さん、ちょっといらっしゃい」

 あたしは二人に近付き、会釈をしてから腰掛けた(この会釈してから腰掛けるっつーのは、光の園に来てから身に付けた技だ。シャバではできなかった)。

「まあ、かわいい方ねえ」

 川島さんは感心したように言う。

「この子も最初はみんなと同じように、親御さんに強制的に入れられた子なんですよ」

 奥さんが言う。

「呼ばれてすぐに来るなんて、素直なのねえ。うちの娘なんていくら呼んだって来やしないのに」

 川島さんは、あたしをいとおしむように見つめる(そりゃあ来るしかないんだけどね)。

「この子も本当にどうしようもなかったんですよ。でも今はこの事務所で一生懸命働いてくれていますし、将来はきちんと社会に適応できると私もお上人も信じているんです」

 奥さんが誇らしげに言う。

「ですから川島さん、お宅の娘さんもきっと」

 川島さんは、ハンカチで顔を押えて泣き崩れている。

「娘が、こちらのお嬢さんのように、良い子になってくれたらと、そう、思います。どうか、どうか、よろ…しく、お…願いしま…す」

 途切れ途切れのその言葉に、あたしは非行に走った子どもを持つ親の、深すぎる悲しみを見た。あたしの母さんもここに相談に来て、こうして泣いていたのだろうか。


 そして今日、あたしたちは川島家にヤク中娘をひっ捕える為にやって来た。事前に娘の両親とは打ち合わせしてある。知らぬは連行される本人のみである。

 そんなの酷い、そう思うのが普通だ。しかし一般常識や法律が通用しないのが光の園である。それに本人が知っていたら逃げられてしまうではないか!

 本祥さんは玄関に通じる庭の入り口の陰に隠れる(これは娘が飛び出して来た時にひっつかまえる為である)。石川さんは裏に回る(娘が裏に飛び降りて逃げるかも知れんからだ)。タカエは車の前に立つ。そしてあたしが川島家のチャイムを鳴らす。なかなか用意周到だ。チャイムの音が、響き渡る。

 待っていたかのように、ドアはすぐに開かれた。顔を出したのは川島さんの旦那さんらしかった。すぐ後ろに相談に来た奥さんが立っている。奥さんはあたしと面識があったので、緊迫した表情の夫に小声でささやいた。

「あ、この子よ。光の園の子」

 安心させようと軽く会釈する。

 旦那さんの表情が、わずかに緩む。

 奥さんは決意したように言う。

「娘を呼んできます。ちょっと待っててね」

 そして階段の下から、二階に向かって張りつめた声で娘を呼んだ。

「アユミ、お友達が来てるわよ」

 アユミっていうのか。降りて来る娘を待ちながら、張り裂けそうに緊張していた。

「え、友達?誰よ」

 どたどたとジャンキー娘は降りて来た。かなり体格の良い大柄な娘だ。とっ組み合いしたしたくねーなと内心ビビる。あたしは顔をはっきり見せないまま、玄関から外に出た。

 アユミは不審げに

「誰?誰?」

と言いながら、門の外に出て来た。手招きをしながら車の方へ誘導する。このまま素直に車に乗ってくれれば、あんたに乱暴したくない、そんな思いだった。

 だが車にたどり着く前に、アユミは街灯に照らされたあたしの顔を見た。

「誰だ、てめえ」

 身をひるがえして家の中へ逃げ込もうとした瞬間、ドアは内側からバンと閉められてしまった。娘は青ざめドアノブにしがみつく。家の中から川島さん夫婦が、鍵をかけた上にノブを握りしめ、アユミが入ってこられないようにしているであろう事が、はっきりと分かる。

 アユミ、もうあんたに行き場はないよ、光の園以外には。

「こっち来て」

 あたしはアユミの背後からつかみかかる。人につかみかかっておきながら、こっち来て、とは我ながらマヌケである。しかし他に何と言いようがあろうか。

「何だ、てめえはっ。おめえなんか知らねえぞっ」

 随分と言葉の荒い奴だ。まあ、あたしも人の事は言えないが。

 ばたばたと本祥さんたちが走って来た。あたしを含め、4人の怪しい奴に力づくで引きずられたジャンキー娘は必死だ。

「お父さーんっ、お父さーん」

 あらん限りの声を張り上げ、死にもの狂いで暴れる。お嬢ちゃん、こんな時ばかりお父さんを頼るのかい?

 しかしこっちだって必死だ。早いとこ車に乗せちまわない事には、通報されかねない。現に隣家の窓がいくつかパタパタと開いて、こちらを驚いたように見ている。

 それにしてもこいつの腕力は物凄い。まさに百万馬力。とにかく暴れる、暴れる。石川さんは弁慶を蹴られ、タカエは顔を引っ掻かれ、本祥さんは顔面パンチをくらって鼻血を出しているぜ(本祥さんはあたしを連行しに来た時は、遠慮会釈なく殴ってくれたくせに、何だよ。チキショー、もっと殴れっ)。

 しかしさすがのアユミも、本祥さんが本気でおみまいしたみずおちパンチには勝てなかった。  

 ぐう…。うめき声と共に一瞬ひるんだアユミを、あたしたちは申し合わせたように素早く手足を一本ずつ持って車まで走り、中に押し込んだ。四方八方から声が飛んで来る。

「誘拐だっ」

「誰かさらわれていく」

「警察っ警察っ」

 全員がその声に押されつつ車に飛び乗り、まるで暴走族のような勢いで東京を後にした。交通事故を起こさなかったのは奇跡だった。


 その川島アユミという、おしとやかな名を持つ凶暴なヤク中娘は、後部座席で石川さんとタカエに両側からがっちりと押え込まれていた(実を言うとあたしは威勢が良いだけで非力なのである。タカエの方がまだ力持ちという暗黙の了解によって速やかに「席替え」は行われた)。

「何なんだーっ、てめえらーっ」

 アユミの問いに(これが質問あるいは問いかけと言えようか)、助手席にいたあたしは振り返ってニタッと笑った。

「アンタ香港に売られるんだよ」

 アユミを始め、全員が汗だくで、しかもまだ溶けきらない緊張にぶるぶると震えていた為に、リラックスさせてやろうと気配りしたつもりだった。案の定、石川さんやタカエはワッハッハと高笑いしたが、アユミに通じる冗談ではなかったようだ。

「何だとーっ、ふざけるなーっ」

 アユミは両腕を取られている為に全身では無理があったらしく、顔だけであたしにつめ寄って来る。

「このアマッ。ダチヅラしやがって、ただで済むと思ってんのかっ」

「ダチが聞いて呆れる。あんたねえ、不良っつーのは常にオシャレをしているもんだよ。それがセンスいいかどうかは別にしてね。不良のダチは不良って昔から相場は決まってんの。それがこのジャージっつーのは情けない。アンタ、あたしのこのジャージ姿を見た瞬間に異変を察知しなきゃ駄目よ、駄目。まあったく甘いわねー」

 …確かにアユミの神経を逆撫でしたあたしも悪かった。次の瞬間、あたしはアユミの足蹴りをまともに受けてひっくり返り、そのまま昇天した。

 そして更に次の瞬間、アユミはタカエの顔面パンチをくらって失神した。

 タカエ、ありがとよ。アンタはダチ思いの優しい子だよ。


 光の園に戻ったのは、夜中の3時過ぎだった。そしてそれからが、むしろいちばん大変だった。

 気絶したままでいてくれりゃいいのに、アユミは少し前から意識を取り戻し、車内で再び大暴れを始めていたのだった。

「とにかく反省室へ放りこめ!」

 本祥さんの言葉に、あたしたちは決死の覚悟でアユミに挑んでいた。

「人殺し!人殺し!」

 アユミが何度もわめく。座席のシートカバーにしがみつき、びりびりと破く。破れた布を手にしたままのアユミを石川さんが反省室に引きずって行く。

「人殺し!人殺し!!」

 酷く殺伐とした気持ちになる。だが今のアユミに何を言っても通じない。石川さんが必死に反省室のドアを閉め、鍵をかける。

 ガチャリ。無情な音に全員ほっとする。もう誰も何も言わなかった。言葉も出ないほど疲労困憊していながら、それぞれの部屋に引き上げようとする。

 ガスン!ガスン!アユミが、凄まじい勢いでドアに体当たりしている。

 最後に聞こえたのは、およそ少女と思えない唸り声だった。

「六法全書おおおおおおおおおおおおおっ」

 あたしとタカエは奥の院に戻ったものの、後味の悪さと奇妙な興奮の中、朝まで一睡もできなかった。


 翌日、アユミは髪を刈られ、ひどいブスである事が判明した(長髪の時はまだイイ女に見えたが)。ジャージに着替えさせられ、イナカッペになった。そしてすべてを諦めたような顔になり、メシも食わなければ、口も利かないようになった。

 しかし最初はみんながみんなそうなのだ。アンタも例外じゃないって事なのよ、アユミ。

 あたしはアユミがどんなにふてくされようとも、決して突き放す事なく、特に目をかけて細々と気を配り、可愛がった。自分が連れて来たという、負い目にも似た気持ちがそうさせたのだ。

 ふてくされていたアユミも次第に心を開き、ほかの誰よりもあたしを頼ってくれるようになった。

 人に頼られるって嬉しい事だね。アユミから学んだよ。

 あたしはさびしがり屋だけに、人一倍仲間思いだったし面倒見も良かった。

 そうしてあたしはこの仕事以来、一気に園内で信望を厚くしていったのである。


 その頃とても嬉しい、そしてとても不思議な出来事があった。

 右手のいぼが、何故かきれいに治っていたのだ。それも気づかぬ間に。

 ああ、加山さんのいぼもきっと治っていますように。

 あたしは何度も右手の甲を撫で、加山さんを想った。

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