第15話

 あたしは思ったよ。誰かあたしを愛してくれないかなって。

 だけど寄ってくるのは変な男ばかりだった。そしてどの人の事も、あんまり好きじゃなかった。

 誰かに愛して欲しかったんだけど。このままのあたしを無条件に愛して欲しかった。でも親も男も誰も、このままのあたしを愛してはくれなかった。

 誰かに支えて欲しいけど、相手にされないか、条件付きか、重いと突き放されるか、嘘つき呼ばわりか、いじめられるか、望まない事ばかりだしね。

 何の為に生まれてきたか、生きているのか、それさえ分からないよ。自信も自己肯定感も、何もないよ。さびしいからって誰かを相手にしても、愛情がなければもっとさびしくなるしね。どうすりゃいいんだろうね。

 ため息ばかりつく親を見て育ったけど、気が付いたらあたしもため息ばかりつくようになっていた。

 親は小さい頃からあたしの未来を悲観し続けていたけど、あたしも自分の未来を悲観せずにいらんないよ。本当にどうすりゃいいのか、どうすれば愛されるのか分かんないよ。愛し方も愛され方も、生き方も、どうして生まれたかも、なんにも分かんないよ。

 仕事だってこのままどんどん変わり続けていいとは思っていないよ。けど何をすればいいのか、自分に何が出来るのか、分からないんだよ。だからウエイトレスかホステス続けていくしかないんだよ。

 しょっちゅう転職するのはきついし、いい加減ひとところに落ち着きたいけど、何故かいつも辞めざるを得ない状況になっちまうしね。

 信じてくれる人も応援してくれる人もいないし、まわりに助けを求める事も、相談する事も出来ないし、本当にどうしたらいいんだろうね。どこにも居場所なんかないしさ。出口の見えないトンネルの中をずーっと歩いているような気持ちだよ。

 神様はどうしてあたしにこんな過酷な人生与えたんだろうな。

 …たまんねえよ。


 ある時、付き合ってもいいかなって思う人に電話番号を教えた。その人は翌日、目をまん丸くしてあたしにこう言った。

「夕べ、マリちゃんの家に電話したらお父さんが出て、おたく、うちの娘とどういう関係ですか?って聞かれたよ」

 絶句したぜ。

 昨夜、あたしが帰った時に、父さんはまるで「珍獣を見るような目」であたしを見ていた。あたしゃ珍獣じゃねえっつーの!男から電話があったからだったんだ。電話があった事さえ言わなかったしね。

 あーもー、父さんと母さんは

「お前さえいなければ」

って言うけど、あたしは「この親さえいなければ」って思っているよ。


 また別の時、女友達と遊んでいるうちにその子が最終電車を逃した。

「マリちゃんちに泊めてよ」

そう言われ、見捨てる訳にもいかずに家に電話した。

「友達が電車逃したからうちに泊めてもいい?」

そう律儀に聞いたあたしに母さんが激高する。

「最終電車なくなるまで遊んでいるのが悪いんじゃない!」

 苦手な反論をする。

「逃したものはもうしょうがないじゃん。2時間くらい歩かなきゃいけなくなるんだよ」

 母さんが居丈高に言う。

「歩きゃいいじゃない」

 もう言っても無駄だ。黙って電話を切る。

 母さんは夫選びを失敗しただの、気の合わない夫とやっていくのは嫌だのと、散々言った。

 その時にあたしは決して

「よく考えずに結婚するのが悪いんじゃない」

だの

「やっていけばいいじゃない」

とは言わなかった。やってしまった事はもう仕方ない。大事なのはこれからだ、とかそういう考え方を母さんは一切してくれなかった。

 自分は結婚の被害者、可哀想な自分に同情して言う事を聞け。電車逃した友達が悪い、本人が加害者、2時間歩けって、…なんだかなあ。

 結局朝まで喫茶店でその子とくっちゃべって過ごしたよ。本当はこの子、わざと電車逃したのかな?この子も家に帰りたくなかっただけなのかな、って気もした。


 その頃、うちには不審な電話が何度もかかってくるようになっていた。あたしが出ると、知らない男の声で

「沖本マリさんですか?」

と聞く。

「そうです」

と答えると

「大村マチコって知っていますか?」

と言う。

「はい」

と答えると

「最近、大村マチコと会いましたか?」

とのたまう。…何だ、こいつって思った。

「誰ですか?」

と聞くと

「シミズです」

って言う。

「だから誰?」

って聞けばまた

「シミズです」

ってハンコで押したみたいに言う。

 絶句していると

「大村マチコと会ったのはいつですか?」

と聞いてきやがる。

「どうしてそんな事聞いてくるんですか?」

と聞いても

「だから最近会ったのいつですか?」

と馬鹿のひとつ覚えよろしく聞いてくる。

 …恐ろしくなって切ったよ。何か、マチコがとてつもなく恐ろしい事態に巻き込まれている気がした。

 何回もかかって来たけど、下手な事を言おうもんならマチコが酷い事されそうで、切るしかなかった。


 また、別の時に以前アルバイトしていた店で一緒だったチアキさんから電話があった。

「元気?」

だって。…はて?意地悪したくせに!何の用じゃい?

「元気ですよ」

と答えると

「うん、久しぶりに声聞きたくてさ」

ともじもじのたまう。何だか歯切れが悪いなあって思っていると、何とこう言い出した。

「ねえ、マリちゃん今いくら持ってる?」

 びっくりして

「どうして?」

と聞くと

「しばらく…貸しといてくれない?」

だって。ガーン!

「無い」

と言うと

「もらったばっかじゃん」

と言う。そう言えば今日は26日。昨日給料日だったって分かっていて電話して来たの?

「無い」

と言っても

「頼むよ」

と、恥ずかしさを堪えたように言う。

「無い」

と突っぱねても

「今一緒にいる男が働かねーであたしの金使っちったんだよ」

だと!そうじゃなくてチアキさんが優しい女と思われたくて、自分のお金を差し出したんだろ!その人から回収すればいいだろーが。どうしてあたしから借りようとすんだよ!

 苦手な反論を飲み込みもう一度言った。

「無い」

 そしたら不機嫌丸出しで

「分かったよ。もう頼まねえよ」

だって。

「もう電話しないで」

と切ったわ。

 あーあー、チアキさんたら変な男に引っかかっちゃって、さっさと断ち切ればいいのに断ち切れないんだろうなあ。アホだねえ。


 またしばらくして、サトコさんから電話が来た。サトコさんもあたしに意地悪したけどね!

「マリちゃん、良い話があるの。絶対儲かる話」

と、興奮してベラベラ話してくる。一応話聞いてやったけど、聞けば聞くほど怪しいってか、変な感じがした。当時、組織販売とかねずみ講って知らなかったんだけどさ。

「今サトコさんが言ったような事を、あたしも誰かに言う事になるんでしょう?」

と聞いたら

「そう。マリちゃんが1カ月に二人ずつ友達を紹介して、更にその友達が二人ずつ紹介すれば、それだけで毎月15万ずつ入って来るようになるよ。良い話でしょ?」

だと!

「え…。なんか話がうま過ぎない?怪しい感じするよ」

と言った所

「勿論最初に50万くらい払うんだけどね。でもすぐにモト取れるからいいじゃん」

とのたまう。50万!そんな大金ないし、あればアパート借りてらあ!

「そんな話、誰にすればいいの?友達から変って思われたらどうするの?」

と言ったら、急に素に戻り

「うん、だから大事な友達に言えないの」

だって!おーおー、サトコったらすぐボロ出しちゃって!

「じゃあサトコさんにとってあたしは大事じゃない、どうでも良い友達って事になるよね」

と苦手な反論をしたら

「そんな事…ないけど」

だってさ。たった今、大事な友達に言えないと言った口で何いうとんのや!嫌になって切ったさ。

 まったく、どいつもこいつも!あたしを大事にしてくれないんだねえ。


 チアキさんとサトコさんはともかく、マチコは心配だった。だがあたしはテメエの心配もしなくてはならなかった。家族のひでー仕打ちは続いていたしね。

 あたし宛の電話は一切取り次いでもらえなくなっていたしね。

「あんたはあたしを困らせてばかりいるから、あたしもあんたの困る事する!」

っておなじみのセリフが飛んでくるばかりだ。

 アルバイト先のシフトの変更等、何か用事の時でも、親は決して電話を取り次いでくれなくなった。 

 電話だけは、取り次いで欲しい。電話だけは…。

 ずっとそう思っていた。ずっと困っていた。


 家の電話が鳴る。

 あたしは母さんを押しのけ、すばやく奪うように受話器を取った。かけてきたのは父さんだった。

「母さんいる?」

「いねえよ!」

と叩き切ってやった。慌てる母さん。

「誰だった?」

と聞くが、あたしは答えない。すぐまた電話が鳴る。受話器を取ろうとする母さんを力づくで押しのけ、強引に奪う。

「母さんいる?」

 父さんの焦った声。

「いねえよ!」

 また叩き切ってやった。

「誰だった?」

 もっと慌てる母さん。答えずに怒鳴ってやった。

「電話を切られるってこういう事なんだよ!」

 あたしは外へ飛び出しながらこう思ったよ。

 電話の相手が父さんで良かったと思え!


 あたしはこれで、電話を切られるのがどんなに困るか分ったろうから、あたしにかかってきた電話を取り次ぐようになって欲しかった。そう言いたかったんだ。相手が父さんだからこそ、そういう対応したしね。

 だが、これが「決定打」になっちまったようだった。

 父さんと母さんは、その電話がたまたま父さんで良かったけど、ほかの人だったら困る。ましてや父さんの会社の上司や造花教室関係の人だったら、仕事に差し支える。

 もう限界だ。マリを施設に入れよう、という結論に達しちまったようだった。

 あたしに気付かれないよう、母さんは密かに施設選びを始めた。


 最初、父さんの言う通り、「精神病院への強制入院」をさせようとしたらしかった。だが、少年院と精神病院は、「調べられたら分かる」らしかった。そこでやはり施設にしようという事になったらしい。誰が調べるんだろうねえ。

「戸沢学園」も候補に挙がっていたらしい。だが、何人も死者が出ているから、という理由で見送られたらしい。へえ、一応あたしを生かしておきたいと思ったんだねえ。

 次に母さんの目に留まったのが「光の園」だった。母さんはわざわざ静岡まで足を運び、相談に来たらしい。そこでクミコと会い、話をしたそうだ。

 後々クミコはあたしが入園して来た時に

「ああ、あの時の人の娘だ」

とすぐ分かったと言っていた。

 クミコは母さんに

「どう?」

と聞かれ、答えようがなく黙ってしまったそうだ。

 娘を更生施設に入れるのに「どう」も「こう」もなかろう。ただ母さんなりに「ましな所」へ入れようとしてくれていたらしい。

 あたしが知らぬ間に、着々と準備は進められた。


 もうひとつ、当時の流行のひとつに「積み木落とし」というものがあった。有名な俳優が、非行に走った娘を妻と共に立ち直らせた日々を本にして、それが大ベストセラーになっていたのだ。映画化、ドラマ化もされ、積み木落としはその年のブームだった。

 その不良娘をあたしと重ね合わせたのか、本に影響されたのか知らないけど、単純な母さんはすっかり感化されちまった。門限を10時と決めたり、必要最低限の事しか言わないようにしたり(それまで干渉し過ぎたんだよ!)、積み木落としをなぞるようにしていた。

 そうすれば近い将来あたしを立ち直す事が出来て、またご満悦って顔するつもりだったんだろうねえ。

 だがオチがある!

 積み木落としの娘は施設に放り込まれていないぞ!!!


 ある朝、母さんは仕事に行こうとするあたしにこう言った。

「マリ、今日はまっすぐ帰ってきなさい。今日だけは」

 今日、ちゃんと帰ってきたら、施設行きは勘弁してやる、そう言いたかったんだろう。だがあたしは無断外泊した。それも「致命傷」になったようだ。


 そして「その日」は来た。

 真夜中、何も知らないあたしは新しい男とのんきに酒を飲み、気持ちよく酔い、のんきに帰宅した。

 そして、光の園の幹部たちに拉致された。


 光の園を含む、あらゆる更生施設には法律も本人の意思もない。訳が分からないのは本人だけで、ほかの人は分かっている。腑に落ちていないのは本人だけで、周囲は腑に落ちている。


 ただ、今、

 たった、今、

 鉄格子の中にいる、この瞬間、

 あたしはシャバにいた時以上にさびしいんだよ。


 父さんに、母さんに、姉ちゃんに、時々優しくしてもらった記憶が鮮やかに蘇り、

 身を切り刻まれるような思いに浸るんだよ。


 おむつを替えてもらっている時の光景(あたしはそれを覚えている)。

 その時の母さんの忙し気な表情。

 家族で手をつなぎ出かけた事。

 父さんに抱っこされてイルカを見た事。

 知らない人に会い、母さんのスカートの陰にさっと隠れた事。

 みんなでパンダを見に上野動物園へ行った事。

 七五三のお祝いをしてくれた事。

 名作と呼ばれる映画を観に映画館へ連れて行ってくれた事。

 何度も海外旅行へ連れて行ってくれた事。

 そこで宮殿や、芸術品、有名な画家の作品を観せてくれた事。

 「本物」をたくさん観せてくれた事。

 4人でバースデーケーキを囲み、笑顔で過ごした事。

 こたつに入り、トランプや人生ゲームを楽しんだ事。

 クリスマスに、サンタさんからだとプレゼントを用意してくれた事。

 名前をちゃん付けで呼んでもらった事。

 父さんの膝の上で一緒にテレビを見た事。

 母さんとおはぎやマドレーヌを一緒に作った事。

 頭を撫でてもらった事。

 笑いかけてくれた事。

 歌を歌いながら母さんの周りをスキップして、何周でも何周でも回った事。


 涙があふれて止まらない。

 あんな日もあったのに。

 幼い頃、父さんと母さんはあたしのすべてだった。

 親は世界と一緒だった。

 親に否定される事、無視される事、ないがしろにされる事、暴力を振るわれる事、締め出される事、いじめられる事は、世界に否定され、無視され、ないがしろにされ、暴力を振るわれ、締め出され、いじめられる事と同じだった。

 苦しんでいるあたしを助けてくれる人は、誰もいなかった。当の親でさえ、虐待しているという認識はなかったんだろう。

 あたしは親に疎まれていると感じることは多々あったが、愛されていると感じた事はほとんどなかった。


 人は例え、貧しくても家族の仲が良い、とか、その仕事は大変だけど給料も良いしやりがいもある、とか、ひとつ失ったけど、ひとつ得た、とか、厳しくても根底に愛情がある、等々、バランスが取れている状態なら何とか頑張れる。

 だがあたしの生まれ育った家庭は、いかんせんバランスが悪過ぎ、まったく愛情がなかった。何にどう救いを求めていいのか、どうしても分からなかった。

 あたしにできたのは「荒れ狂う事でバランスを取る」事だけだった。派手な格好をしたり、何かやらかす事で、誰か助けてくれとサインを出す事だけだった。

 あたしは本来安らげるはずの家で、家族である父さんからも、母さんからも、姉ちゃんからも、滅茶苦茶にいじめられた。

 家の中でいちばん小さくて弱い存在だったあたしを、家族は滅茶苦茶にいじめた。

 それはどうなの?

 ねえ、どうなの?

 それは間違っていなくて、苦し紛れに道を踏み外したあたしが悪いの?


 あたしはずっと、ずっと、ずうっと、早く大人になりたかった。早く大人になって、早く働いて、早くアパートを借りて、早くひとり暮らしをしたかった。

 この家を、この家族を、捨てたくてたまらなかった。もう誰からも、暴力や暴言を受けなくて済むようになりたかった。誰からもいじめられないように、どこかへ逃げたくてたまらなかった。

 そう思わざるを得ない家庭環境を与えたのは誰?

 本当の加害者はどっち?

 そして本当の被害者は誰?

 答えてよ!


 それに、光の園に入れる以外にも道はあった筈。

 学校は定時制や通信制ならもしかして続いたかも知れない。無理矢理全日制に入れておいて、耐えられなくて中退したあたしが100%悪くて加害者、自分らはれっきとした被害者と言い切った父さんと母さん。

 そんなにあたしを追い出したければ、どこかにアパートを借りてそこに住めという追い出し方もあった筈だし、寮のある職場を見つけて追い出すとか、本当に死んだものと諦めて黙るとか、いかようにもやりようはあった筈。


 光の園へ入れるには、まず保証金を50万円支払い、毎月養育費という名目で10万円ずつ払う。その金を別の事に使う事も出来た筈。それこそアパート借りるとか。

 更生施設へ入れるしかない、一択のみ!他の選択肢は一切ない!頭に思い浮かばないなんて、そうするしかなかったなんてあまりにも極端じゃん!

 監禁なんて、たいていの人がいちばん嫌がる事だしね。父さんと母さんはこういう目に遭わないんだろうけど。

 まあ極端なのも今に始まったこっちゃないけどね。福岡のばあちゃんの家から着物を送って来た時も、家にあった桐の箪笥に入りきらないからって

「新しく桐の箪笥買っても置く場所ないしねえ、着物を段ボールに入れて置いたら虫が付くしねえ。どうしたもんかねえ」

とか言っていたし。桐の箪笥か段ボールどっちかしか頭に浮かばないってアホだろ!プラスチックの衣装ケース買って押し入れにしまえばいいだろ!防虫剤を山ほど入れて!!!

 料理の味付けだって、まったく何の味もしないか、滅茶苦茶濃いかどっちかだったし、米だって炊飯器使って炊いてるっつーのに、ごわごわか、べちゃべちゃどっちかだし、魚焼いても生焼けか、真っ黒こげかどっちかで、食えたもんじゃなかったし、あたしに対しても、無視したり放置し過ぎるかと思えば干渉し過ぎるし、ちょうどいいって所がなかった。あたしはちょうどよくして欲しかった。ちょうどよく! 

 毎日、毎時間、毎分、毎秒、あまりに極端で、振り回されるあたしの気持ちを一切考えてくれない、それがうちの親だった。


 光の園に来て、はや一カ月が経とうとしていた。

 あたしは次第にそこに慣れ始め、少女たちとも友達になっていった。臭い飯にも慣れ、うまいとさえ思うようになっていた。

 しかしさびしさに慣れる事は出来なかった。この張り裂けそうな孤独感を、何でどうまぎらわせれば良いのか、思案に暮れていた。それこそバランスの取り方が分からなかった。

 食欲はない、眠れない、考えても堂々巡りになる事ばかり考え続ける。すべてに無気力であり続ける。あたしはまさに病人になりつつあった。


 そしてもう、これ以上痩せられない、というほど痩せ細ったある日、突然爆発的な食欲があたしを襲った。

 あたしは食べた。漬物ひとつ、米粒ひとつ、お茶ひとしずく、何ひとつ残す事なく猛烈に胃に送り込んだ。

 …と言ってもそれほど量が多い訳ではない。どうしても食べ足りなかった。食事の後すぐに空腹を感じ、みんなで食べ物の話ばかりに明け暮れていた。

「あげパンが食べたい」

 誰かが言えば、すかさず誰かが応じた。

「食べたか」

「ハンバーグ食べたい」

「食べてー」

「何か、何でもいいから食べたい」

「食いだぇ」

 こんな調子だった。

 あたしたちは飢えに飢えていた。

 満たされぬ胃に、満たされぬ心に。

 あの頃なら本当にどんなものでも喜んで食べただろう。


 何でもいいから、どんな料理でもいいから、

 腹を満たしたくて、心を満たしたくて、

 食べたくて、食べたくて、食べたくて、

 ああ、食べたくて、もう、たまらなかった。

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