第6話

 うちの社宅の近くに小学校が新しく建設される事になった。何もなかった広場に、どんどん完成に近づいていく学校を見ているのは楽しかった。

 母さんが言う。

「あんた、4年生からはこの学校に通うのよ」

 もうすぐ4年生。新築の学校に通うのは楽しみだった。


 そして待ちに待った春、新しい学校に通い始める。

 知っている子も少しはいたが、全然知らない子の方が多かった。子どもなりに緊張していたけど、新しい環境はやはり嬉しかった。

 良かった。あたしが授業中散々トイレに通った事を知らない子がたくさんいる。膀胱も落ち着いているし、新しい環境でやり直そう。

 小さな胸に決意がみなぎっていた。

 

 その春、姉ちゃんが中学生になった。セーラー服を着た姉ちゃんも緊張しているように見えた。

 母さんが誇らしげに言う。

「制服着ると、一層立派に見えるね」

 あたしが中学生になる時も同じ事を言ってくれるのかな?


 その頃、学校では男子と女子の違いを学ぶようになった。女子だけ集められスライドを見せられたりした。クラスでは生理の始まっている子も何人かいた。 

 教室に戻ると男子に

「女子だけ何のスライド見てたんだよ!」

とからかわれた。

 山城さんって女の子は

「何でもない」

と目を伏せて答えていた。納得しない男子たちはしつこく聞いてきた。

 着替える時、男子が教室の外に出され、女子は堂々と脱がず、もぞもぞと着替えた。カーテンの向こう側で着替える女子もいた。

 その子は言ったよ。

「畑のおじさんが見る」

 …お年頃だねえ。


 前の学校で一緒だった友達と遊んだ。

 その子は得意気な顔でこう言った。

「うちの親が、マリちゃんの通っている学校ってうちの学校の分校だって言っていた」

 何が言いたいのか分からない。

「だから?」

と聞いたら得意気な、自慢気な顔で、もう一度まったく同じ事を言う。

「だから、うちの親がマリちゃんの通っている学校はうちの学校の分校だって言っていた」

 絶句する。だから何なの?そっちの学校が偉くて、こっちの学校がレベル低いって言いたいの?

 この人、母さんみたい。


 家の電話が鳴る。最初に母さんが出て、姉ちゃんに代わった。

 姉ちゃんは最初楽し気に受話器を取ったが、急に表情が硬くなり

「はい、はい、はい」

しか言わない。電話を切ってからもむやみに深刻な顔をしている。

 …何だろう?

 その電話は頻繁にかかって来た。

 そのたびに姉ちゃんは

「はい、はい、はい」

しか言わず、切ってからも暗い顔でいる。

 時々

「すみませんでした」

と謝っている事もあった。

 …はて?なんじゃらほい?

 ほどなく学校の上級生に脅されているという事が分かった。原因は、端的に言うと「やきもちを焼かれた」と言う事らしい。

 油絵が好きな姉ちゃんは、部活に美術部を選んだ。最初は楽しく活動していたが、その部に素敵な3年生がいて、

「明夫先輩、明夫先輩」

と懐いていた。ついこの前まで小学生だった姉ちゃんから見れば、中学3年生ってーのは物凄く大人に見えた。明夫先輩も可愛がってくれたらしい。

 その明夫先輩っつーのはえらくモテるタイプで、他にもファンがいっぱいいた。そのファンの子たちが、自分らより年下の姉ちゃんに嫉妬して、わざわざ電話をかけてきてまで

「明夫に近づくな」

と脅していたのだ。

 へえ。中学校ってーのは恐ろしい場所だねえ。脅迫があるとは。

 姉ちゃんはしばらく悩んでいたらしいけど、当の明夫先輩がみんなに

「あの子はまだ子どもだから、僕はあんな子を相手にしないよ」

と言ったとかで、ファンの子たちは安心したのか、誰も姉ちゃんに電話してこなくなった。

 それを誰かから聞いた姉ちゃんは、自分は相手にされないのか、と傷ついたようだが、それより何より上級生の脅迫電話ほど怖いものはなかったらしく、電話が来なくなった事にほっとしていたよ。

 もしかして明夫先輩は姉ちゃんを守ろうとしたのかも知れないけど。

 おー、おっかねー!あたしはまだまだ小学生でいたい!


 新しい学校で、初の野外学習。バス遠足のお知らせが来た。

 持ってくるものを書いた用紙を母さんに見せ、用意をしてくれと頼んだ中に、子ども用の酔い止めの薬と嘔吐の為の袋を二枚、必ず「紙の袋の中にビニール袋を二重にセットするように」とあった。

 母さんは面倒臭そうに薬箱の中を漁り、古い大人用の酔い止めと、父さんが会社から持ってきた嘔吐用の袋をくれた。

 父さんの会社の袋は、紙の袋の内側がビニール加工されているものだった為、それでいいと思ったらしい。

 あたしは母さんに言った。

「紙の袋とビニール袋を二重にセットしてと書いてあるよ、そうして」

 母さんはもっと面倒くさそうに言った。

「だってこれ、中がビニール加工してあるもん、だから大丈夫よ」

「もし破れたら困るからちゃんとしてよ、ちゃんと用意して」

「いいよ、これで。これでいいよ、うるさいなあ」


 当日、大人用の酔い止めをどうしても飲めなかったあたしは案の定バスに酔い、その袋に吐く事になった。

 母さんから渡されたその袋は、内側がビニール加工されてあったとはいえ、あたしの嘔吐物の温度に耐え切れず(そりゃそうだ。たった今まであたしの胃の中に入っていたんだから、温かいに決まっている!)破れて中のゲロが飛び散り、みんなに本当に迷惑をかけ、大ひんしゅくをかった。

 帰ってから母さんにそれを伝え、みんなに悪かったし、恥ずかしかったと訴えたが、やはり他人事という感じで

「そうお?んー?」

と首をかしげ、とぼけるばかりでゴメンの一言もなかった。


 その遠足でもうひとつ、つらい思い出がある。

 最初あたしはバス遠足に行きたくなかった。

 しょっちゅう顔やら体に痣を作っていたり、家族の事を話したがらず、つまりみんなと違うあたしはクラスで浮いた存在で、一緒にお弁当を食べる友達がいなかったからだ。

「あんた、バス遠足に行きたくないって言ったんだって?どうして?」

 母さんにしつこく聞かれ、しぶしぶ理由を話した。

「そう、なら先生に言ってあげる」

 母さんはそう言うと、すっくと立ち上がって電話機に向かった。あたしはまさかそんな答えが返ってくるとは思っていなかったし、慌てふためいた。

「やめて、そんなの恥ずかしいからやめて!やめてよう!!」

 母さんはその場で学校に電話をかけ、必死に阻止しようとするあたしを肘で押しやったり足で蹴ったりしながら担任の先生に伝えた。

 そして電話機を下ろしながら勝ち誇ったように言う。

「だって本当の事じゃない、何が悪いの?自分の撒いた種、自分で刈り取りなさいよ」

 呆然とする。

 …翌日、先生がクラスのみんなの前で

「沖本さんが一緒にお弁当を食べる人がいないので、遠足に行きたくないと言っているそうです。誰か沖本さんとお弁当を食べてあげて下さい」

と言いやがった。

 みんなが、馬鹿じゃない?という目であたしを見る。元々いたたまれなかったけど、更にいたたまれず、消えてなくなりたかった。

 ああ、なめくじみたいに溶けちまいたい。誰か塩でも振ってくれよ。母さんもひどいけど、先生も先生だよ。


 そして遠足の当日、

「あ、沖本さんとお弁当食べてあげなくちゃ」

と、聞こえよがしに言われた。仲間に入れてもらっても、ちっとも嬉しくなかった。

 その弁当も、彩りが悪い上に極端に小さく、

「本当にそれで満腹するの?」

だの

「ねえねえ、沖本さんのお弁当あんなに小さいよ!」

と、みんなが次々に見に来るような、惨めな弁当だった。

 みんなが色とりどりの、大きくてきれいなお弁当を楽しそうに広げている中、あたしは蓋で隠しながら必死に食べた。早く空っぽにしたかった。早く弁当の時間が終わって欲しかった。

 帰宅してから

「もっと大きくてきれいなお弁当作って、今日、恥ずかしかった」

と訴えたあたしに母さんは言ったよ。

「え?だって、あんたお弁当小さくていいって言ったじゃない」

「え?あたしそんなこと言ってないよ。お姉ちゃんじゃないの?」

と言ったら

「え?んん」

と、混乱しながらすっとぼけてやがる。

「とにかくもっと大きくてきれいなの作ってよう!」

と言ったら逆切れして

「じゃあ自分でやればいいじゃないっ」

と怒鳴り、本当に作ってくれなくなった。

 それからあたしは小学生にして、いつも自分で弁当を作る羽目になった。

 新設校ゆえ給食の設備がまだ整っておらず、毎日いちばん苦痛な時間は弁当の時間だった。

 ある時自分で作った弁当は、手提げの中で傾いて片側により、開けたら半分しか入っていない状態だった。みんなにどっと囃したてられ、その後もずっと悪口を言われ続けた。

「沖本さんの弁当っていつもいつも、すっごいみすぼらしいんだよ。この前なんて、半分しか入ってなかったんだよ」

 同じ班の女の子は、あたしに聞こえよがしにそう言っていた。

 3か月くらいして、ようやく給食がスタートした時、ああこれでもう弁当作らなくて済む、って誰より嬉しかったよ。


 その頃、あたしはよく貧血を起こし、朝礼や授業中に倒れる子どもだった。そのたびに保健室に運びこまれ、母さんが迎えに来るまでへなへなになりながら寝ていた。

「かわいそう、真っ青」

という保健室の先生の声を遠くに聞きながら。

 母さんはいつも

「まあ、申し訳ありません」

なんて言いながら保健室に入って来る。

 そしてさも心配そうに

「あんた、大丈夫?」

とか言いながら、あたしを連れて帰る。

 そして家に入った途端に

「あんた、寝てなさい。あたしは忙しいから」

と冷たい背中を向けられた。実は心配なんてしていないのがよく分かった。放置されたあたしは自分で布団を敷き、ひたすら寝た。

 また別の時、迎えに来てくれたのはいいが、家に入った途端にまだクラクラするあたしを

「倒れる前にしゃがみなさいよ」

と肘で小突いた。

 押されたあたしは気を失い、そのまま倒れたよ。

 母さんったら、自分の目の前であたしが白目をむいて倒れたもんだからびっくりして、ちょうど遅番でまだ家にいた父さんを呼んできて、二人がかりであたしをリビングまで運び、ユサユサ揺すって目を覚まさせたよ。

 はて?自分の身に何が起きているのかよく分からず、ふらふらと起き上ったあたしを見て、母さんはわざとらしく壁に向かって座り、ハーハー言いながら自分の胸を押さえていたよ。

 ったく、急に良い母親ぶるなよ、もううんざりだよ!原因はオマエだろ!


 翌日、学校に行ったらみんなが集まってきて心配そうにこう言ってくれたよ。

「沖本さん、大丈夫?」

 嬉しかったね。親は迷惑がるけど、友達は心配してくれる。

「大丈夫だよ」

と答えると、片岡さんって子が不思議そうにこう言った。

「沖本さんて、どうしてしょっちゅう倒れるの?」

「貧血なの」

「貧血ってなあに?」

 んん、何て説明すればいいんだろう。迷ってからこう答えた。

「血が足りない病気」

「血が足りないの?」

「そう」

 これでみんな納得してくれるかと思ったが、別の意味で納得したらしい。

 その日からあたしのあだ名は「吸血鬼ドラキュラ」になった。

 …勿論、嫌だった。


 その何日後だったか、また朝礼で貧血になった。

 目の前がすっと暗くなる。頭の奥がしびれるような感覚。倒れてはいかん、としゃがみこむ。

「またあ?」

 高橋さんの声がする。しょうがないじゃん、て思った。

 先生が両側からあたしを支えて、保健室に連れて行ってくれる。ああ、助けてくれる。有り難いけど母さんには連絡しないでくれ。あたしの頭の中は、それでいっぱいだった。

 母さんに連絡しないで、どうか連絡しないで。

「先生、あたし大丈夫ですから、家には連絡しないでください」

 必死に頼み込む。

「沖本さん、どうして?お母さん心配するでしょう」

「いいえ、心配なんかしませんから。本当に大丈夫ですから、ひとりで帰れます」

 自分でも授業を受けられる状態ではないのは分かった。ヨタヨタしながら家に帰る。

 途中、林の中からカンガルーが出てくる幻覚まで見たよ。ああ、頑張れあたし、これは幻だよって自分に言い聞かせながら、ようやく家にたどり着く。

 母さんはいなかった。心底ほっとする。

 自分で布団を敷き、崩れ落ちる。その後の記憶なんてない。一瞬で眠り落ちた。

 …夕方になりやっと目を覚ます。ふらふらと部屋を出ると母さんが言った、

「何よ、あんた。学校から電話がかかってきて、あたしわざわざ迎えに行ってやったのに。行かなきゃ良かったわ。あんた、さっさと帰っちゃうんだもん」

 ああ、行き違いになったのか。先生はやはり母さんに電話をかけたんだ。あんなに電話しないでくれと頼んだのに。

 母さんは、自分に迷惑をかけまいと無理をして自力で帰ったあたしに、いたわりの一言もなかった。あたしはまだフラフラだったのにさ。毎日レバーばっかり食べさせられるし、もうレバーなんか飽きたよ!見るのも嫌だ!


 母さんはあたしがやってくれという事はしてくれず、やめてくれと言う事は強行し、自分に気を使ったり、自分を懸命にかばうあたしに「当たり前」という態度をとり続けた。そして傷つくあたしを嘲り笑い、更に針のむしろに座らせた。

「だって本当の事じゃない。何が悪いの?」

だの

「あたしはひとつも間違った事を言っていないし、してないわ。あたしに何のミスがあるの?」

だの

「自分の撒いた種は自分で刈り取りなさいよ」

だのと平気で言っていた。それが母さんの言い分だった。

 本当の事を言えばいいってもんじゃないし、じゅうぶん間違っているよ。

「あんたがあたしの思うような良い子になりさえすれば、可愛がってあげる」

ともしょっちゅう言っていた。

 こっちは

「母さんがあたしの思うような良い母親になりさえすれば、尊敬してあげる」

なんて言わないのに。

 こっちは「無条件」なのに「条件付きの愛情」しかもらえないなんてさ。

 そして

「あんたは幼稚園くらいで死んだものと思っているからね」

と言うようになっていた。

「小さいうち」が「幼稚園」になっていた。


 あたしは言われるたびに思ったよ。

 あたし、そんなに悪い子なのかな?疑問で疑問でたまらない。

 母さんの気に入るタイミングで気に入る事が出来ない事が、学校の成績が悪い事が、忘れ物が多い事が、母さんの言う「良い友達」と仲良く出来ない事が、そんなに悪い事なのかな?そんな凄い勢いで怒鳴られたり、ひっぱたかれたりするほどの事をしているのかな?死んでくれと言われるほどの酷い事をしているのかな?

「あんた、あたしへの嫌がらせでやっているとしか思えない」

とかね。 

 あたしは母さんの意にそぐわない子どもであり、生きていてはいけない子どもだった。


 そして常に「生きていてはいけない子」と自覚しているあたしにもうひとつ、災難が降りかかった。

 父さんと母さんは、毛深い人だった。腕も足もフサフサと毛が生えている。母さんは気にして、腕や足や脇をしょっちゅう剃っていた。

 が、良い事もあった。二人とも睫毛が長い事。

 あたしと姉ちゃんも親に似て、毛深いけど睫毛も長かった。

 小さい頃から知らない人にもよく言われたよ。

「お嬢ちゃん、睫毛長いね」

って。

 あまりによく言われるので「睫毛長いって何の事だろう」くらいに思っていた。

 だが長い睫毛を気に入らない人たちがいた。学校の友達が何人も束になってきて、あたしに言う。

「睫毛切れ!」

 何でそんな事言うんだろう。

「別にいいじゃん」

 苦手な反論をする。みんなはむきになって言う。

「目障りだから!」

「関係ないじゃん」

「とにかく切れ!」

 みんな、あたしの顔を見るたびに言う。

「近くに来なきゃいいじゃん」

 そのうちクラス中の子が、つられたように言うようになった。

「目障りだから睫毛切れ!」

 女の子たちは聞こえよがしに悪口を言い、男の子たちはあたしに足払いをかけ、転ぶと笑った。

「お前、毛深いな。毛だくらもうじゃ!」

という声も飛んでくる。

 我慢しているのに、いじめは止まらない。


 学校に行くといじめられる。

 勉強も出来ないし、友達も少ないし、つまらなかった。

 毎日トイレ掃除を押し付けられる。当番制の筈なのに。

「あんたなんかトイレ掃除がお似合いよ!」

 罵詈雑言も漏れなく付いてくる。水かけられるし、もう嫌だ。

 家でも学校でも掃除ばかり、いじめられるばかり、本当にもう生きてるのがつらいよ。


 下校時間、ひとりで帰ろうとすると後ろから10人くらいで追いかけてくる。

「よーわむーしさーん!」

 高橋さんが笑いながら叫んでいる。走って逃げたが校庭内で追いつかれた。

「沖本、来いよ。可愛がってやっからよ!」

 男子が拳を振り回しながら言う。みんなの前であっという間に引き倒され、滅茶苦茶に蹴られた。

 下級生たちがびっくりした目で見ている。悔し泣きするあたしを尻目にみんな笑いながら行っちまった。

 教室の窓から先生が見ている。目が合うと、さっと背を向けて奥に消えちまった。そしてそのまま校庭に来てくれる訳でもなく放置された。

 あたしは下級生の前で恥をかかされた上に、先生にも見殺しにされた。この人たちはこういう目に遭わないんだろう。

 悔し涙にかきくれる。


 今日は母さんの機嫌がまあまあだ。もしかして助けてくれるかもしれないと思いながら、友達にいじめられるから、学校に行きたくないと相談してみた。

 母さんは即答した。

「あんたが悪いんじゃないの?」

 …話にならなかった。今から原因を言おうとしていたのに。以前、男子に突き飛ばされ怪我した時と同じだ。


 学校で受けているいじめについて、父さんに話した。いつかサトル君を怒鳴ったように、また学校に乗り込んでいじめっ子を怒鳴りつけたりするのは困るが、もしかしたらちゃんと対応してくれるかも知れないと、わずかな希望を抱きながら。

 父さんはあたしの方を見ようともせず、平気で言った。

「やり返せばいいだろう」

 そんな事したら、どんな事で返されるか分からないよ。

「水をかけられる」

「かけ返せばいいだろう。水なんて、蛇口をひねればいくらでも出てくるだろう」

 …そういう問題じゃないよ。大勢対あたしひとりでかなう訳ないじゃん。せめて共感してくれよ。


 テレビのニュースで、小学生がいじめを苦に自殺したと報じていた。あたしは命を絶った子の気持ちが分かったよ。あたしだって死にてーよ。

 だが父さんと母さんは平気で言う。

「馬鹿ね、その子。そういうの死に損っていうのよ」

「そうだ、やり返せばいいんだ」

 …さびしい気持ちになる。


 事故のニュースが流れていた。

「怖いね」

って母さんに言ったら

「あたしは事故なんて少しも怖くない。あたしは人がいちばん怖いわ」

という答えが返ってきた。

 …意味が分からない。


 災害のニュースが流れていた。

「逃げようがないから怖いね」

と母さんに言うと

「あたしは災害なんて何ともない。いちばん怖いのは人よ」

とまた言った。

 …また意味が分からない。


 テレビドラマで女の人が恋人にお金を渡しているシーンがあった。

 母さんが言う。

「馬鹿ね、この人。お金なんか貢いで。利用されているだけなのに」

 そしてあたしの方を見て言う。

「あんた、今のままじゃ、あの女の人みたいになるわよ」

 うるさかった。


 テレビドラマで、男の人が恋人にソフトクリームを買ってもらっているシーンがあった。

 母さんがまた言う。

「こうやって最初は安いものからねだるのよ」

 本当にうるさかった。


 テレビドラマで小学生の女の子が親を相手に、キーキーわめいているシーンがあった。

 母さんがまたまた言う。

「この子は親に反抗しているのね。あんたみたい」

 テレビくらい、黙って見られないのかよ。


 転校した友達に手紙を書いていたら母さんがまたまた言う。

「あんた、いつまでその友達に手紙書く気?」

 父さんも言う。

「そうだ、切手代の無駄だ」

 そして二人で仲良くせせら笑う。

「この調子で捨てられた男にも手紙を書き続けるのかねえ」

 そうなって欲しいのか?不幸になって欲しいのか?もう黙っていてくれ。


 20歳の息子が親をバットで殴り殺す事件があった。

 母さんがまたまたまた言う。

「子どもが親を殺すと罪が重いのよ。育ててもらったんだから」

 じゃあ他人を殺す分には罪が軽いのかよ。いい加減にしてくれ。


 テレビで歌手が「心が寒い」と、歌っていた。

 母さんが言う。

「あたしも心が寒いわ。あんたのせいで」

 どうか、その口を閉じてくれ。


「結婚するなら関白タイプの人が良い」

と言った。勿論、駄目なあたしをぐいぐい引っ張ってくれそうだから、という意味だ。

 母さんがすかさず言う。

「毎日殴られてるのがいいの?」

 それはあんただろ!関白タイプ、イコール暴力振るうとは限らないし、悪く悪く取って、人の神経をとことん逆撫でするんだよねえ。父さんはただの暴力亭主で、決して関白タイプでも何でもないし、その暴力も母さんが誘発しているし…。

 もう何も言えない!うんざりだ!


 夫が妻を日常的に殴り続け、ついに殺してしまったというニュースが流れていた。関白タイプだったのか、ただの暴力亭主だったのか、そこは知らないが。

 母さんが言う。

「かわいそうに、この奥さん。毎日殴られていたなんて」

 あたしは言った。

「警察に言えば良かったのに」

 母さんが憤然と反論してくる。

「警察は実際に殺されるまで何もしないのよ。どんな暴力受けていても、ただの夫婦喧嘩とみなされて何もしてくれないのよ」

「そうかなあ?どこかにその奥さんを助けて、かくまってくれる所あるんじゃないの?」

というと、居丈高に責めて来る。そう、いつか旦那さんの年収を知らない奥さんに詰め寄った時のように。

「そんなものある訳ないじゃない。だったらその奥さん、死ぬまで殴られている訳ないじゃない。あんた、何も分かっていないのよ!」

 そうかなあ?本当に何も分かっていないのは母さんじゃないのかなあ?


 週刊誌の見出しで、「高校生が集団リンチで死亡」と出ていた。

 感想の言いようがなく黙っていたら、母さんがまた言う。

「あんた、そういう時はさっさと逃げなさい。負けるが勝ちっていうのよ」

と言った。負けるが勝ちって、なんかおかしくないかなあ?負けは負けだろうって、不思議で不思議で、相変わらずあたしの頭の上には疑問符がいっぱいに並んでいた。


 テレビで女子刑務所の特集をやっていた。母さんが言う。

「悪い事したらこの人たちみたいに牢屋に入れられるのよ」

 だから何だよと思っていたら更に言う。

「こういう所に入ったらね、お尻の穴まで見せるのよ」

 それがあたしとどういう関係があるんだよ、と思っていたらもっと言う。

「あんた、こういう目に遭いたいの?」

 そんな訳ないじゃん。ただ黙っていた。

「あんた、赤の他人にお尻の穴まで見せるようになりたいの?刑務所に入りたいの?」

 悪い事をするとこういう目に遭うからしないでくれ、と言いたいならそう言えば良いのに。それか、良い事をすれば表彰されるよ、とか。

 得意気にあたしを見下ろし続ける母さん。その口にガムテープでも貼ってやろうか。

 どうしてそう人の神経を逆撫でするんだい?こんな母親いらない。


 母さんの顔なんか見たくない。

 いつもいつもあたしを駄目な子どもだと負の言葉を注ぎ込んで来て、一切自信持つな、自分を低く見ろとか言って、劣等感を持つように持つように洗脳して、もう嫌だ。

 目が合わないよう家の中で帽子を目深に被って過ごしていたら、母さんがまた言う。

「何?あんた、人に顔を見せられないくらい悪い事してるの?」

 違うよ、母さん。見せられないんじゃなくて、あんたの顔を見たくないんだよ。

「あんた、やましい事あるなら死ねば?そうよ、死んだらいい。死になさいよ、ほらほら」

 母さん、あんたこそ死んでよ。そんなにイライラさせるなら、いっそ死んでくれよ。ほらほら。


 うちの風呂が壊れ、銭湯に行った。

 体を洗っていたら、赤ちゃんを抱っこした女の人が、湯船につかろうとしているのが見えた。

 湯船のお湯は赤ちゃんには熱過ぎ、嫌がって凄い声で泣いている。そしたらそのお母さん、水道の蛇口をひねり、出てきた冷たい水を赤ちゃんにかけている。冷水をかけられ、もっと泣く赤ちゃん。今度はそのお母さん、温めようとしたのか、熱過ぎるお湯に赤ちゃんをジャブッとつける。熱くて死にそうな声で泣く赤ちゃん。今度は冷やそうとして、冷水をかけるお母さん。赤ちゃんは熱いお湯と冷水を交互にかけられ地獄だろう。

 可哀想に、このお母さん、気が利かなくて、うちの母さんみたい、…と思っていたら、知らないおばさんが見るに見かねて

「洗面器にちょうどいい温度のお湯を汲んで、そこに赤ちゃんつけてあげたらどうですか?」

と言った。

 そのお母さんは仕方なさそうに笑い、その通りにしたらやっと赤ちゃんは泣き止んだ。うん、おばさんが正しい!ただ、人の言う事を素直に聞くだけそのお母さんもまあまあだ。

 うちの母さんもちょうど良くしてくれないかなあ。だったら生きていてもいいんだけど。


 姉ちゃんが苦労して、オムライスを作った。

 4人でそれを食べる。

 まずくはないが、おいしくもない。可もなく不可もないって感じ。

 父さんがあたしに言う。

「お姉ちゃんが作ったから、後片付けはお前がしなさい」

 黙って皿を洗い、生ごみを片付ける。姉ちゃんは、ご苦労さんと言われ、当然って顔をしてる。

 こき使われるシンデレラと、えこひいきされる姉みたいと思った。


 あたしが苦労して、カレーライスを作った。

 4人でそれを食べる。まずかった。

 父さんが言う。

「お前が作ったんだから、お前が後片付けもしなさい」

 黙って皿を洗い、生ごみも片付ける。

「ああ、まずかった」

 姉ちゃんが聞こえよがしに言う。同じきょうだいでありながら、こんなに扱いが違うとは、なんて理不尽なんだ。


 母さんが苦労して、魚の煮つけを作った。

 4人でそれを食べる。激しくまずかった。

 父さんがあたしに言う。

「後片付けはお前の仕事だ」

 黙って皿を洗い、生ごみを片付ける。

 母さんが言う。

「風呂掃除とトイレ掃除も」

 黙って風呂とトイレを掃除する。

 本当に理不尽だ。腹が立って、腹が立って、悔しくて、悔しくて、地団太を踏みたい。


 食後に母さんは毎回言う。

「マリ、お茶淹れて」

そう言えば、自動的にお茶が出てくる。さぞかし便利だろうなあって思いながら、人数分のお茶を淹れる。

 父さんが言う。

「何で淹れる時に急須を少し持ち上げるの?」

 無意識にそうしただけだ。そんな事、どうだっていいだろうと取り合わなかった。

 洗った皿を拭いていたらまた言う。

「何で拭く時に布巾をパンって広げるの?」

 それも無意識だ。どうだっていいだろう。何でそんな細かい事をいちいち指摘するんだろう。気にしなきゃいいのに、もしくは見てなきゃいいのに。

 もう、嫌で嫌でたまらない。黙っていて欲しくてたまらない。


「お前は言葉がやくざだねえ」

 父さんが言う。

「女の子らしくきれいに喋れよ」

 誰がてめえの前できれいに喋るかよ。

 母さんが横からひょいと顔を出して言う。

「うちは堅気なんだからね」

 要するに、二人ともあたしのやる事なす事、気に入らないんだろう。


 帰宅した父さんが言う。

「腹減った」

 母さんはいないし、姉ちゃんは知らん顔しているし、あたしが面倒見るしかないんだろう。

 もたもたと食事の支度を始めたら、怒って言う。

「もういい!ご飯に卵ぶっかけて食べる!」

 ほんの少しも待てないのか、何て短気な人だろうと思ったらまた言う。

「仕事で疲れてお腹空かせた俺に、早く食べさせてやろうって思わないのかねえ」

 父さんや、ただ単に、卵かけご飯が食べたかっただけじゃないのかい?1分や2分で飯が出来るかよ。


 帰宅した父さんが言う。

「腹減った」

 母さんは仕事でいないし、姉ちゃんは相変わらず知らん顔だ。残り物でいいのかな。それとも卵かけご飯かいな。

「ご飯あっためる?」

と聞いたら

「当たり前だ」

と即答された。

「お前と一緒にするな」

 続けて

「冷や飯食わす気か」

とも。

 …父さんはひとつ言うとみっつ返してくる人だった。


 友達と電話で話していたら、父さんが急に来てフックを押し、強引に切りやがった。

「明日、学校で話せばいいだろう」

と、怒鳴りつける。

 電話代が気になるだけだろう。何てケチな人だ。


 友達から電話がかかって来た。しばらく話してから切り、別の友達にこっちから掛けた。いくら喋っていても、父さんは何も言わない。

 最初に向こうから掛かって来たから、電話代を払うのは向こうだと思っている様子だ。その後こっちから掛け直したことに気付かないアホな父さん。

 やっぱりただのケチだ!


 父さんが会社の人と電話で話している。こっちも勝手にフックを押して切ったろか!

「明日、会社で話せば良いだろう!」

と、怒鳴りつけてやろうか。

 電話代が気になりまっせ!


 ニュースを見ている父さんに何気なく聞いた。

「日本の警察って優秀なの?」

 父さんが即答する。

「そうだ、だからお前が悪い事したらすぐ捕まる」

 悪い事をしないでくれと言いたいならそう言えば良いのに、夫婦でマイナスの言い方ばかりするんだねえ。ってか、そこだけは価値観が合っているんだねえ。


 父さんはあたしのやる事なす事気に入らず、いつもいつも怒ってる。相変わらず「自分が今何故怒られているのか分からない」まま、怒鳴られるあたし。

「お前は絶対に不幸になる!親不幸だからだ!断言する!!」

 不幸になって欲しいのかねえ。


 学校のクラスで席の近い河野さんという女の子が、あたしに言った。

「ねえ、これやっといてくれない?」

 先生に頼まれた学級新聞を作る作業だ。

 黙って手伝ってあげたら、目をギラギラさせる。

「こいつ、嫌って言えない性格なんだ」って言わんばかり。

 その日から河野さんは、しょっちゅうしょっちゅうあたしに何かを押し付けてくるようになった。掃除当番やら、机と椅子の片付けやら、石鹸水の補充やら、黒板消し作業やら、図書室から借りた本を返しておいてくれだの、なんやらかんやら。毎回こう言う。

「ねえ、これやっといてくれない?」

 黙って手伝うたびに目をギラつかせる。

「こいつ、嫌って言えない性格なんだ」と、はっきり顔に書いてある。

「終わったよ」

と言うとニヤリとしてこう言う。

「あんがと、じゃ次、これやっといてくれない?」

 河野さんは次々に用事を押し付け、あたしの時間をどんどん奪う。給食を配る時だって、河野さんはあたしがおかずを取ろうと手を伸ばした瞬間に、さっと引っ込めて取れないようにするし、何て意地悪だ!

「こいつ、いじめてもいいんだ」って顔して見てる。

 あたしは何も頼まないし、気持ちよくやってあげるのをいい事に。

 調子に乗った河野さんがこう言いやがった。

「昨日片岡さんにジュース代100円借りたの。沖本さんのお金で返しといてくれない?」

 冗談じゃない。その質問には答えずこう言った。

「あたしも今度、河野さんになんか頼もうっと」

 河野さんの顔色がさっと変わる。「生意気な!」と言わんばかりだった。

 その日の給食の時間、河野さんはシチューをこぼして洋服を汚していた。

「あ」

と言ってあたしの顔を見ている。

 自分でやったんだろ!と知らん顔してやった。コノヤローって顔で河野さんがあたしを睨んでる。あたしがティッシュでもさっと差し出すとでも思ったのかね!誰がそんな事してやるかよ!

 調子こいて散々あたしを使い走りにしやがって!今までずっと我慢して来たなら、これからも我慢しろってか?冗談じゃない!

 更に放課後、河野さんは廊下で滑ってみっともなく転んだ。あたしはまた知らん顔で脇を通って帰った。

 翌日、河野さんは手の平にキャラメルを乗せ、黙ってあたしに差し出してきた。いかにも済まなそうな顔をしている。

「悪かった。でもあたしに用事を頼んで来ないで」って言わんばかり。あたしはそのキャラメルをつまみ、そのままごみ箱に捨ててやった。河野さんがドキリとした顔をする。すかさず言ってやった。

「ねえ、これやっといてくれない?」

 先生に頼まれた、みんなが書いた図画の絵の整理だ。河野さんはあたしの顔色をチラチラ見ながら手伝ってくれた。

「終わったよ」

そう言った河野さんにあたしは言ってやった。

「あんがと、じゃ次、これやっといてくれない?」

 河野さんが唖然とする。あたしは次から次へと河野さんに用事を言いつけ、その日丸1日どんどん時間を奪い、散々振り回してやった。

 河野さんがぐっと堪えているのが分かる。あたしもあんたにはずっと我慢していたよ!もう二度と我慢しないけどね!あははははは。

 河野さんは二度とあたしに用事を押し付けて来なくなった。

「耐えているといじめは続くが、反撃すればいじめられなくなる」と学んだ瞬間だった。


 喘息の治療の為に専門医へ行く。

 二時間近く待たされ、もしかして順番に入っていないのかも知れないと思い

「沖本ですけど、後どのくらい待ちますか?」

と受付の女の人に聞いた。

 その人は何故かどもりながら

「せ、先生に、な、何か、お、お考えが、あ、あるのかと」

と言う。それでは答えになっていない。

「もう二時間近く待っているんです。いつになりますか?」

と言ったが

「で、ですから、せ、先生に、な、何か、お、お、お考えがあるのかと」

とまた言う。

「順番に入っていますか?抜けていませんか?」

 イライラしながら聞いたら、またどもりながら言う。

「し、ししょ、少々、お、お待ち、く、く、ください」

「少々どころか、物凄く待っているんですけど」

「で、で、です、ですから、しょしょ、少々、お、お、お待ち、くだ、くだ、くだ、さい」

と、吃音みたいになっている。

 …そしたらすぐ呼ばれた。なあんだ、もっと早く言えば良かった。

 河野さんと同じで、我慢しているとそれでいいんだって思われるんだな、そう思いながら治療を受け、さっさと帰ったよ。

 父さんと母さんにも得意満面で話したさ。


 父さんが自分の喘息の治療の為に、同じ専門医に行った。二時間半くらい待たされ、ようやく治療してもらえたらしい。

 帰ってから凄い勢いであたしをなじる父さん。

「お前がこの前文句なんか言うから、だから俺は今日凄い待たされた。お前が余計な事言うからだ。お前のせいで、俺は意地悪されているんだよ。お前のせいで意地悪されてる」

 …呆れて言葉を失う。父さんが何度も言う。

「お前のせいで俺は意地悪されている。お前のせいで俺は意地悪されてる。お前のせいで」

 この人、年はいくつなのかなあ。こういう考え方しか出来ないのかなあ。どもらないだけいいのかなあ。


 友達と遊ぶのにうちのカメラを持ち出し、どこかに置き忘れ失くしちまった。一生懸命探したが、ついに見つからなかった。勿論わざとじゃない。

 謝っているのに、父さんがテレビを見ながら滅茶苦茶に怒る。

「お前は何でも失くす!」

 苦手な反論をする。

「何でもって事はないでしょう」

 父さんがテレビから目を離す事無く言う。

「何でも!」

 どんな時もテレビから目を離さないんだねえ。

「他に何を失くした?」

と聞いたら

「何でも!」

と不満で不満で張り裂けそうな顔で言う。

 カメラが勿体ないだけだろう。

「例えば?」

「カメラ!」

「他には?」

「何でも!」

「例えば?」

「カメラ!」

「他には?」

「何でも!」

「例えば?」

「カメラ!」

「カメラ以外に何失くしたか言ってみて」

「何でも!」

「カメラだけじゃん」

「何でも!」

 …これでよくJELに勤められるなあ。

 別の意味で感心する。


 春先は花粉の影響でくしゃみと鼻水が止まらず、ティッシュを何枚も使わざるを得ない。

 父さんがまた言う。

「お前、何でそんなに鼻かむんだよ」

 何でって、鼻水を垂らしている訳にいかねーだろ。

「お前、ちょっと我慢してみろ。治るから」

 治らねーから、鼻かんでんだろ!ただティッシュが勿体ないから使わせたくないだけだろ!オイルショックを引きずってんのか何だか知らないけど。あたしはティッシュさえ使わせてもらえない身分なのかい?花粉アレルギーだっちゅーに。娘よりティッシュが大事なのかい?

「お前はティッシュキチガイだ」

 あーあー、色々なキチガイがあるねえ。


 姉ちゃんが痔になって、尻が痛いと言っている。

 父さんが言った。

「お前、そこにうつ伏せになれ。俺がさすってやるから」

 お前がさすって痔が治るかよ。ただ尻が触りてーだけだろう。痴漢かよ。


 父さんのスケベ伝説はまだあるよ。あるよ。いくらでもあるよ。


 姉ちゃんが昼寝をしている。ズボン姿で寝ればいいものを、スカート姿で寝ている。

 スカートはまくりあがり、掛布団をかけていない姉ちゃんのパンツは丸見えで、しかもパンツまでずれていて、陰部が見え、陰毛も見えた。顔だけは気持ち良さげに寝ているみっともない姉ちゃん。

 その姿を父さんが呆けた顔でじっと見ている。本当に呆けた顔で、いつまでもいつまでも立ちすくんで見ている。

 あたしは黙って姉ちゃんの部屋の襖を閉めた。父さんはさぞかし残念だろうが、姉ちゃんを守りたかった。

 …姉ちゃんが起きてからその事を言ったら、滅茶苦茶に怒った。

「何でそんな事言うのよ!」

 スカートで寝るのをやめなよって言いたかったのに。あたしは見たくない姉ちゃんの陰毛も見たし、父さんの変態顔も見る羽目になったし、注意喚起した姉ちゃんからも怒鳴られて散々だった。


 ソファに座っていると、隣に父さんが来てテレビを付けた。何で隣にわざわざ座るんだろう、いつものようにテレビの前の座椅子にその形通りに座ればいいものを、と思っていたら、あたしの太ももを嫌らしい手付きで何度も何度も撫でる。

 漠然とだけど、キャバレー通いするスケベオヤジのようだと思った。気持ち悪くて、吐き気がしそうで、自分の部屋に行く。


 後年、ホステスのアルバイトを経験したが、その時に隣に座った中年の客があたしの足を、太ももを、何度も何度も撫でるのが嫌だった。

 そう、それは幼い頃に父さんがあたしの太ももを撫でるのと、寸分変わらない触り方だったからだ。あまりに嫌で鳥肌が立った。


 11歳のあたしは言った。

「母さん、父さんがあたしの足を触るんだよ。すごく嫌らしい触り方なんだよ」

 母さんはあたしの気持ちをまったく考えず、平気で言う。

「大きくなったなあと思って触っているのよ」

「違うよ、そんな触り方じゃないよ。まっぴらごめんだよ」

 苦手な反論をしているのに、母さんは知らん顔だ。

「とにかくもう嫌なんだよ。やめさせてよ」

 母さんは知らん顔で仕事を始める。どうにもしてくれないのは、自分には関係ないと言わんばかりの冷たい背中で分かった。 

 本当に身の毛がよだつ。嫌で嫌でたまらない。


 体育の時間に履くブルマーは、あたしの体の一部だった。体育でなくても、普段からあたしはブルマーを履いていた。取るに足らない事の筈だったが、父さんはそれが気に入らなかった。

「お前、何でいつもいつもブルマー履いているんだよ」

そう憎々しげに言った。いいじゃん、と思っていたら

「力づくで脱がしてやろうか?」

と真顔で言う。本当にやりかねない様子だった。


 父さんはあたしの長風呂が気に食わなかった。冷え性だからしょがないってーのに。

 風呂から上がり、脱衣所でもたもた体や髪を拭いていると、ドアの前で大声を張り上げる。

「マリ!早く出ろ!」

 ボディローションを塗りながら答える。

「ちょっと待ってよ、開けないで」

 10秒もたっていないのに、父さんが怒鳴る。

「マリ!早くしろ!」

 何か別の事をやっていればいいものを、何でそんなにせかすんだろうと思っていたら、また怒鳴り声がする。

「もう我慢ならん!」

 ドアが盛大に開かれる。

 しかも、父さんの目線はあたしの股間にあてられていた。

 まして、凝視している。

 きっかり3秒間、父さんは唖然とするあたしの股間を凝視し、そして胸元へさっと視線を移す。胸も制限時間いっぱいと言わんばかりに凝視している。

「冗談じゃないよ!」

 慌てて閉めたが、裸を、しかも股間と胸を見られた恥ずかしさと悔しさに張り裂けそうだった。

 11歳のあたしの体は勿論「変化」していた。膨らむものは膨らみ、生えるものだって生えていた。それを父親に見られたくなかった。どうしても、どうしても、見られたくなかった。そんな恥ずかしい話はなかった。

 なのに父さんは強引に見た。股間を、胸を、見た。こんなチャンスは滅多にないとばかりに凝視しやがった。

 何て嫌らしい父親だろう。テレビで裸の女の人のダンスをにやにやしながら見たり、太ももを嫌らしい手付きで触ったかと思えば、今度は娘の裸を見たがるとは。

「お前が遅いのが悪い」

って平気で言ってるし。

 それでいて「マリの裸を見た見た、シメシメ」って興奮気味な顔もしてた。

 変質者かよ。そんな事したら娘にどんなに嫌われるか、考えもしないんだろう。今この瞬間良ければ後はどうでもいいんだろう。

 母さんに言ってもろくに聞いてくれないし。もう嫌だ、本当に本当にもう嫌だ。こんな父親、本当にいらない。

 誰かまともな父親と替えてくれ!


 父さんが家にいないとほっとする。とにかく触られないように、裸を見られないように、いると気が張って、苛立って、たまらない。

 母さんは平気で言っている。

「在職中に死んでくれれば1億円になるんだけどねえ」

 生命保険の事を言っているらしかった。

 なんちゅう女房だろうと、言葉も出なかった。


 夕飯に焼き肉を食べた。

 母さんが3分に1回の割合で、父さんに言う。

「タレを付け過ぎないで。体に悪いよ」

 母さん、父さんを憎んでいるなら早死にしたって構わないんじゃないのかい?1億円、欲しいんでしょ!

 父さんは肉を毎回タレにじゃぶじゃぶ付ける。

「ほら、付け過ぎ」

 母さんがまた言う。

「ほら、干渉し過ぎ」

って、母さんには言ってやりたかった。

 そして父さんには

「ほら、早死に」

って言ってやりたい。


 夕飯にすき焼きを食べた。父さんが肉を取ろうとするたびに

「その肉まだ焼けていない」

と、母さんが止める。色盲の父さんには、焼けた肉と生肉の区別がつかないからだ。

「これ、焼けてる」

と、母さんが差した肉を父さんが黙って食べる。

「お姉ちゃんかマリ、どっちか男の子生んだら、その子は色盲かも知れないよ」

と、余計な一言も付いてくる。

 …なんのこっちゃ。そんな先の事考えられないし、隔世遺伝なんて言葉も知らない子どもに言ってもしょうがない言葉だった。


 夕飯に寿司を食べた。父さんが寿司を醤油につける時に控えていた。

 そして笑いながら母さんに、こう言う。

「ちょっとしか付けていないよ」

 へえ、父さんって一応母さんの事を好きなんだって意外だった。


 日曜の朝、ゆっくり寝ていたら母さんがパジャマ姿のままあたしの部屋の襖を凄い勢いで開けた。

「父さんが眩暈するって言ってる!お医者さん呼んで来てよう!」

 寝ぼけて頭が働かず、よろよろ起き上がったらまた言う。

「早くお医者さん呼んで来てよう!」

「救急車呼んだ方が早いんじゃない?」

と言ったら

「いいからお医者さん呼んで来てよう!」

そればかり言う。

 母さんって一応父さんを好きなの?それこそ意外だ。それとも夫思いの妻を演じているのかな?これはパフォーマンスかい?

 …その後父さんは普通に起き上がり、ご飯を食べたりテレビを見たりしていた。さっきのは何だったのか?家族の愛情を確かめたかったのか?それこそパフォーマンスだったか?

 パフォーマンス夫婦だった。


 母さんが玄関で、新聞の勧誘に来た男の人と格闘している。

「奥さん、うちの新聞を取って下さい」

「いいえ、もう決まっていますから」

 父さんがステテコ姿のまま玄関に突進する。

「いらんっ!いらんっ!帰れ!!!」

 勧誘の人はすごすごと帰って行った。

 母さんが言う。

「あんた、向こうも仕事だから」

 父さんが得意気に言う。

「俺が言えばすぐ退散したろ」

 それで家族を守っているつもりかよ。

 ますますパフォーマンス夫婦だった。


 父さんはテレビで軍歌が流れるたびに腕を振りながら一緒に歌う。昔からだけど。

 さすが戦争世代だねえ。団塊の世代か?それもパフォーマンスかいな?


 夕飯時、父さんが珍しく

「会社で褒められた」

と嬉し気に言う。オマエを褒めてくれる上司がいるのかよ、と思っていたらこう言った。

「これで」

と原稿用紙を出してくる。大人でも作文書くことあんのかよ、しかも会社で。

 そこには「異常な体験」というタイトルで作文が書かれていた。

「私の人生に、異常な事は何も起こらなかった。ひとつとして異常な体験はなかった」という短い作文で、これのどこをその上司は褒めたんだろうと不思議だった。

 父さんは

「俺は読み返してみて涙が出た」

と言う。

 父さんは戦争体験者だし、尋常じゃない経験をした筈だ。それを忘れたのか?ましてあたしの事を散々異常な子どもと言ったのは誰だ。あんたの異常な体験は「戦争を経験した事」と「次女が生まれた事」だろうが!


 学校の授業で得意なものなんてなかったが、いちばん苦手だったのが読書感想文だった。本を読むのは好きだったが、感想文はちょっと…。

 母さんは

「思った事をそのまま書けばいいのよ」

と言うが、それが出来れば苦労しねえっつーの。

 原稿用紙を前に、ウンウン頭を悩ませているあたしに父さんがにこやかに言う。

「マリ、父さんは作文が得意だぞ。だからお前も」

 おいおい。会社でたったの一度褒められただけで、調子に乗るんじゃねえよ。


 学校で毎日行われる色々な授業が不思議に思える。

 何で国語や美術や体育や算数、社会や理科、家庭科もあるんだろう?

 何で絵を描いたり、読書感想文も書かなきゃいけないんだろう?

 平均台や鉄棒、マット運動も何の意味があるんだろう?

 どうしてひとりずつ歌ったりしなきゃいけないんだろう?

 何で笛なんか吹かなきゃいけないんだろう?

 何の為にマラソンなんかするんだろう?

 水泳して何になるんだろう?

 どうして色々覚えなきゃいけないんだろう?

 本当にさっぱり分からない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る