第5話

母さんがハサミで布を切り、正確に花びらの形にしていく。

 測らずとも正確に染料を水に溶かし、その花びらを生きた花のように染めていく。

正確にこてを当て、糊を塗り、完璧な花に仕上げていく。

 まるで魔法のように美しい造花が、あたしの目の前で生まれる。 

 この人は本当に、華道家として一流だ、と思わずにいられない。


 母さんがミシンの前にいる。

 誰にも習っていないのに、正確に切り、ファスナーを付け、ただの布を魔法のように可愛らしいワンピースに仕上げていく。

 素人と思えない仕上がりの新しい洋服が、あたしの目の前で生まれる。

 この人の器用さと色彩感覚は抜群だ、と思わずにいられない。


 母さんが台所で父さんの弁当を作っている。

 彩りも悪く、バランスもひどい、見るからにまずそうな弁当だ。色彩感覚良い筈なのに、何故こんなにもみすぼらしい弁当しか作れないのか?不思議でたまらない。父さんが蓋で隠しながら食べたくなる気持ちがよく分かる。

 野菜の切り方、調理法、洗い物の仕方、洗濯物の干し方、畳み方、しまい方、掃除の仕方、ごみの出し方、どれもこれも酷い。

 この人は、主婦としては最悪だ、と思わずにいられない。


 母さんが急にあたしの部屋に入って来た。あたしはそれまで読んでいた漫画の上にさっと教科書を広げ読んでいる振りをする。

 棚の上に飾ってある自分の造花を見ている母さん。

「えーっと」

と、わざとらしく言っている。勉強しているかどうか監視しているんだろう。

 この人は、母親としても最悪だと思わずにいられない。


 靴が窮屈になって来た。

 母さんの顔色を見ながら頼む。

「靴と上履き、新しいの欲しいんだけど」

 母さんがすかさず言う。

「お姉ちゃんの履いて」

 またお古かよ。不満満タンでいたらこう言われた。

「あんた、早く働くようになって、好きな物を好きなだけ買いなさい」

 早く働いて良いんだね?


 夕飯時、母さんは「毎日」こう言う。

「何か変わった事ない?」

 んーな、毎日ある訳ねーだろ!

 どうせ毎日同じ事聞いてるって認識ないんだろうけど。


 クラスにナツミちゃんという女の子がいた。色が白くて可愛い顔立ちの子だ。

 ナツミちゃんは何故か一切口をきかない子だった。病気や障害があって「喋れない」のではなく、とにかく一言も「喋らない」のだ。

 何回か一緒に遊んだよ。あたしが冗談言ったり、何かおかしい事すると、楽しそうにニコニコ微笑む。だが決して喋らない。

「あ、って言ってみて」

とか言ったけど、にこやかに黙ったままだ。そして嫌な事をされるとキッと睨む。つまり何も感じていない訳じゃないのだ。

 先生も毎朝、出席を取る時に名前を呼び、黙っているナツミちゃんに

「ナツミちゃんいる?」

と顔を確認している。返事をしないナツミちゃんを決して咎めない。

 ナツミちゃんはどうして何も言わないのかなあ。

 …夕飯時にまた母さんが言う。

「何か変わった事ない?」

 だからナツミちゃんの事を話した。

「そういう子を、寡黙児って言うのよ」

だって。カモクジかあ、んん、よく分からない。

「どう接したらいいと思う?」

と聞いたら

「さあ、どうしたらいいかねえ。あたしはそういう経験ないからねえ、分からないねえ」

だって。

 …こっちもどうしたらいいか分かんねーよ。分かんねーから聞いてんだよ!


 一日の授業の終わりに先生は必ず宿題を出す。黒板に算数の計算式を書き、みんなはそれを自分のノートに書き写して、家でやって来るのだ。

 だが、次の日登校すると、何故か黒板の数字が書き変えられている。2が8になっていたり、4が9になっていたりする。勿論答え合わせもおかしくなる。

 はて?みんなで不思議がる。高橋さんがあたしに言った。

「沖本さん、8って数字ここに書いてみて」

 言われるままに黒板にチョークで8と書いたら憎々し気にこう言われた。

「この字、似てる!」

 あたしが書き変えた犯人だって言うの?冗談じゃない!

「あたしじゃないよ!」

と言ったら

「じゃあ誰?」

と凄い目で睨みながら切り返してくる。

「知らないよ!でもあたしじゃないから!」

と言った。何であたしって決めつけんだよ!

 先生も不思議がっていた。

「誰が何の為にそんな事するのかしら」

 前の席にいる高橋さんが、後ろの席にいるあたしを振り返って睨んでいる。つられてみんなもあたしを見る。

 悔しかったね。あたしじゃないのに!高橋さんってどうしていつもあたしを攻撃するんだろう。それもみんなの前で。前にも家に来いと言っておきながらいなくて待ちぼうけ食わせた事あるし、酷いよ。

 …夕飯時、また母さんが言う。

「何か変わった事ない?」

 だからあたしその事を母さんに話したよ。

 そしたらまた

「さあ、どうしたらいいかねえ、あたしにはそういう経験ないから分からないねえ」

だって。だったら最初から変わった事ないか聞くなってーの!母さんも酷いけど、高橋さんも酷い、許せない!

 だからあたし、犯人を見つけてやるって決めた。

 翌日の放課後、みんなが帰る。あたしも帰ったとみせかけ、密かに教室に戻って掃除用具入れの中に隠れた。隙間から黒板が見える。よし、誰がやっているのか見つけてやるわい!

 …辛抱強く待っていたら、カララと教室の扉が開き、高橋さんが入って来た。あれ?何で高橋さんが?

 …と思っていたら、辺りを見回し誰もいない事を確かめている。何するんだろうと見ていたら、何と!高橋さんが数字を書き変えている!

 どびっくり!あれだけ言うんだもん、まさか高橋さんが犯人だなんて思わないよ!

 あたしはあまりにびっくりして動けなかった。本当は飛び出して犯人を捕まえるつもりだったけど…。

 夕飯時、母さんが言う。

「何か変わった事ない?」

 だから犯人が高橋さんだった事を話した。

 そしたら

「あんたがやったって思われるよ」

だって。相変わらず役に立たないババアだねえ。黙るしかない。


 翌朝、また数字が書き変えられている事で教室は大騒ぎになっている。高橋さんも「正義の味方!」って顔して、一緒に騒いでいる。

 休み時間、トイレに行こうとする高橋さんを追った。

「高橋さん、あたし昨日見たよ」

と言って、高橋さんをじっと見る。

「何を?何を見たの?」

 高橋さんがむきになって言ってくる。

「なあに?沖本さん、何見たって言うの?言ってよ」

 あたしは「もうやめな」という気持ちを込めて、黙ってじいっと見ていた。

 高橋さんはみんなの前であたしを犯人扱いしたけど、あたしはみんなの前でなく、高橋さんだけに言う事で、高橋さんのプライドをぎりぎり守ってやった。 

 高橋さんが、まずい、というような引きつった顔で逃げて行く。

 高橋さんは二度とあたしに意地悪して来なくなった。そして黒板の数字も書き変えられなくなった。

 高橋さんってどうしてそんな事したのかなあ?んん、分からない。


 今日は学校の授業参観。あたしは母さんが来ている事に舞い上がっちまっていた。

 先生が言う。

「この問題、分かる人」

 みんなは親に良い所を見せようと、張り切って手をあげる。だが、緊張しすぎているあたしの手はあがらない。

 何回も先生は言う。

「この問題、分かる人」

 みんな、いっせいに手をあげる。手があがらないのは、相変わらずあたしだけだ。

 先生が見かねて言ってくれた。

「沖本さん、どう?」

 カチンコチンだよ、分かるかってーの。首をかしげる。

 先生は言ったよ。

「お母さんが見ているから、緊張しちゃったかな」

 みんなが笑う。あたしも照れくさいやら何やらで、笑いながら振り返ると、母さんも苦笑していた。


 家に帰るなり、母さんが凄い剣幕で怒鳴った。

「何よ、あんた、いつも授業中あんななの?」

 答えられない。そうと言えば、そうだから。

「今日あたし、あんたのせいで恥かいたわ」

 ああそうか、あたしは母さんに恥をかかせたんだ。黙ってうつむく。

「あんた、今日の夕飯抜きよ、あたしに恥かかせた罰だからね」

 当然なんだろうと、深く頷いた。


 だからね、それからしばらくして、また授業参観が実施される事になった時、あたしは悩んじゃったよ。

 また母さんに恥をかかす事になるんだろうし、また怒られるんだろうって。

 悩んだ挙句、その授業参観のお知らせの手紙を母さんに見せずに捨てたよ。あたしとしては、気を使ったつもりだった。

 当日、母さんがいない授業参観は気が楽だったよ。

 …だが、家に帰るなり母さんに怒鳴られた。

「あんた、今日は授業参観だったんだって?」

 あれ?誰に聞いたんだろう。

「何で言わないのよ!あたし何も知らなくて恥かいたじゃない!」

 やはりあたしは母さんに恥をかかせ、怒られる羽目になった。勿論その日の夕飯は抜きだった。

 母さんが声高らかに言う。

「当然よ!あんたみんたいな悪い子は!自分の撒いた種、自分で刈り取りなさいよ!」

 本当にそうなんだろう。あたしは悪い子どもだから、価値のない子どもだから、こんな仕打ちを受けて当然なんだろう。よく納得して、空腹に耐えた。


 先生が連絡ノートにあたしの素行を心配してメッセージを書いた。

「沖本さんは忘れ物も多く、学校から配られたお手紙をおうちの人に見せない事も多く、授業中も上の空でいる事が多いです。ご家庭でもしっかり指導していただけるようお願いします」

 先生は念を押した。

「沖本さん、ちゃんとお母さんに読んでもらってサインもしてもらってね」

 そんなメッセージを母さんが読んだら、また怒られる。どうしても見せられなかった。

 翌日、先生は言ったよ。

「あら?ねえ沖本さん、お母さんのサインがないんだけど」

 先生にまで怒られたくない。必死に言い訳を考え、やっと一言絞り出した。

「お母さんが、サインしてくれない」

 …その日、家のドアを開けた途端に、母さんが玄関まで飛んで来たよ。

「あんた!先生から電話があったわよ!あたしがサインしてくれないって言ったんだって?この嘘つき!嘘つき!嘘つき!」

 靴を脱ぐ間もなく、力づくでリビングまで引きずって行かれる。ああ、靴を脱がないとまた怒られる。そればかり気になった。

「あんた!またあたしに恥かかせて!」

 滅茶苦茶に殴られ、蹴られる。

「嘘つき!泥棒と一緒だよ!嘘は泥棒の始まりって諺があるんだからね!この泥棒!泥棒!泥棒!泥棒!あたしに恥かかせて!あんたなんか死ねばいい!死ねばいい!!」

 泣いて謝る。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 …気が付くと土下座の姿勢のまま眠っていた。靴は履いたままだった。

 起き上がったあたしに母さんが言う。

「この家にあんたの居場所はないよ。勿論夕飯も食べさせない」


 部屋でじっと空腹をこらえていると、母さんが入ってきた。あたしの顔をただじっと見ている。

 何見てるんだろう、何なんだろうと黙っていると、あたしの顔を叩く。パンッ、パンッ、パンッ。頭、顔、肩、腕、足、仕方なさそうな、情けなさそうな面持ちで叩く母さん。

 …どうすりゃいいんだろう。こっちも情けない気持ちでいたら、こう言った。

「あんた、何であたしに謝って、ご飯食べさせてって言わないの?そうすれば食べさせてあげるのに」

 は?なんだ、そりゃ。さっき謝ったじゃん。

「おなかすいたんでしょう?ご飯食べたいんでしょう?」

 腹は減っているけど、食欲なんかねーよ、って思っていたら、手を引っ張られてリビングに連れて行かれる。

「ほら、食べなさい」

 あたしの席にまずそうな食事が並んでいる。仕方なく食べ始めると、正面に座ってあたしが食べる様子をじっと見ている。

「あんたってどうしてそんななの?」と言わんばかりの顔。

 …何で見ているんだろう。そんなにイライラするなら見てなきゃいいじゃん。黙ってまずくつらい食事を続ける。

 飯抜きでたったひとつ良い事があるとすれば、料理をしなくていい事かな。ただ、後片付けはさせられるんだけどね。


 今日は母さんの機嫌が素晴らしく良い。

 展示会で、母さんの作品がいちばん評判良く、完売したらしい。

「マリ、こっちへおいで」

 笑顔爛漫で手招きしてくれる。

 嬉しくて、無我夢中で、母さんに力いっぱい抱きつく。

「マリ、マリ」

 頭を撫でてくれる。抱きしめてくれる。話も聞いてくれる。膝の上に乗せてくれる。お菓子もくれる。

 ああ、天国だ。ああ、これが本来の母さんだ。昨日のあの言葉は幻だったんだ。この家にあたしの居場所はないなんて、あたしの聞き間違いだったんだ。

 ずっとずっと、母さんにしがみついて離れない。

 ずっとずっと、こうしていたい。

 あたしも愛されていると思いたい。

「母さん、マリの事、好き?」

「大好きだよ、マリは母さんの宝だよ」

 ああ、夢のようだ。

 ああ、なんて幸せなんだろう。


 今日は母さんの機嫌がすこぶる悪い。理由は分からない。

 昨日の天国はどこへ行ったのかなあ、じっと顔色を見ずにいられない。

 あたしがいるのに、まるでいないかのように振る舞っている。知らん顔して横を通るし。無視しないでくれよ。話しかけようか、黙っていようか、どうせ無視されるのか、どうしようか、悩む。

 …やっぱり母さんはそっぽを向いている。やっぱりこの家にあたしの居場所はないんだ。

 ああ、悪夢のようだ。

 ああ、なんて不幸なんだろう。


 昼寝をしたら夜に眠れなくなった。夜中、母さんがトイレに行く音が聞こえた。

 走って行き、涙ながらに訴える。

「眠れない」

 母さんが自分の布団に入れてくれた。温かい。

 すすり泣くあたしの頭を撫で

「新しい筆箱、買ってあげるからね」

と言ってくれた。

 筆箱なんかどうでもいい。ただ安心して、母さんにしがみついて眠った。

 幸せだった。


 翌日、押し入れの中で昼寝をしていたら、母さんが勢いよくがらっと開けた。そして遠慮なくあたしの両耳をつかみ、力づくで引きずり出す。

 たった今まで眠っていたのに、びっくりして悲鳴をあげる。

「あんた!昼間寝るから夜寝られなくなるのよ!」

 滅茶苦茶に引きずり回され、蹴られ、殴られる。

 ああ、もうショックで眠れない。

 そう、きっと夜になっても。

 この人は、人間として、最悪だ。


 うちの近くにある文房具屋では、100円買い物するごとに、カードに1回スタンプとして、ハンコを押してもらえた。20スタンプたまるとキーホルダーをもらえる仕組みだ。

 全部ためる為には2000円も使わなくてはいけない。んん、何とか早く貯める方法はないかな?

 ある時、お店の人が見ていない隙に、あたしはそのハンコを盗んできた。ドキドキしながら家に帰り、朱肉を持って来てカードにハンコを押す。

 …あれ?インクの色が全然違うから、バレバレだ。これではキーホルダーをもらえるどころか、あたしがこのハンコを盗んだ犯人だと、証明しているようなものだ。んん、どうしよう。困った。

 …悩んだ挙句、姉ちゃんに相談した。賢い姉ちゃんは言ったよ。

「正直に言って戻しても、二度とその店で買い物出来なくなるし、学校に言いつけられるかも知れない。だからこのハンコをお店にそっと戻そう」

 2人で文房具店に行き、床に転がしておいた。

 どうかお店の人が早く見つけてくれますように。そしてあたしの犯行だとバレませんように。そればかり祈っていた。

 申し訳なさすぎるから、色鉛筆を買った(勿論ちゃんとお会計した)。

 店を出て、2人で公園へ。

 ブランコに乗りながら姉ちゃんが言う。

「マリ、やっぱり悪い事は出来ないんだよ」

 心から納得し、うんうんと頷きながら姉ちゃんに頼む。

「父さんと母さんに言わないで」

「言えないよ、バーカ」

 何となく、愛情のこもったバーカ、だなと嬉しくなる。

 ああ、良い姉ちゃんだなって初めて思った。


 食器棚の中に食べかけのお菓子があった。つまみ食いをして、ふと振り返ると、姉ちゃんが軽蔑の眼差しで睨んでいた。

 …ああ、嫌な姉ちゃんだなって、改めて思った。


 そろそろ冬服を出そうと思ったら、押し入れの前に姉ちゃんの洋服が散乱していて押し入れの襖を開けるに開けられない。

「片付けてよ」

と言ったら姉ちゃんが意地の悪い目で言う。

「あんた、あたしがいなかったらどうする?」

「自分でやる」

「じゃあいないと思って自分でやりな!」

「現にいるじゃん!」

「だからいないと思ってやんな!」

 何て屁理屈女だ!殴ってやりたい!


 あたしが読みかけの漫画を、姉ちゃんが勝手に持って行き読んでいる。栞もどこかへ行ったらしく、どこまで読んだか分からなくなっている。

「返してよ」

 漫画に伸ばしたあたしの手を、鉛筆でぶさっと刺す姉ちゃん。

 何て事するんだ!びっくりして悲鳴を上げる。

 姉ちゃんが平気で言う。

「あんたが悪いんじゃん」

 漫画どころではない。慌てて母さんの所へ行き訴えた。

「お姉ちゃんが鉛筆で刺した」

 仕事中の母さんが、さもめんどくさそうに言う。

「それはあんたが何かしたからでしょう」

「いいから手当してよ!」

「ベランダにアロエあるから塗っときなさいよ」

 娘の手より、造花が大事なのかよ!アロエをむしりながら心が煮えくり返る。

 あたしは母さんが父さんに殴られている時に、いつも一生懸命止めてるって言うのに!

 あたしは良くしてやっているのに、悪くするなんて!何て母親だ!何て姉だ!

 もう嫌だ。本当に嫌だ!嫌だ!嫌だああああああああああ!!!


 絵を描くのが好きな姉ちゃんが言う。

「マリ、裸になってそこに立って」

 出来るか!んな事!いつ父さんが来るか分からないっつーのに!


 姉ちゃんが熱を出し寝ている。

「体温計持って来て」

と言うので持って行ってやった。

 自分の熱を測り、水銀の位置が読めない事に苛立ち、体温計を金属の固いごみ箱にバンバンぶつける短気な姉ちゃん。体温計は壊れ、中の水銀が散らばった。

「知らないっ!」

って、ふて寝してやがる。

 母さんが言う。

「あんた、水銀片付けてよ。素手で触っちゃ駄目よ」

 姉ちゃんがヒステリー起こして割った体温計の水銀を、どうしてあたしが片付けなきゃいけないんだ。しかも素手で触れない水銀を!

 手袋をして体温計の破片と水銀を拾い集めながら、また心が煮えくり返る。


 姉ちゃんの友達がうちに遊びに来た。

「こんにちは」

と挨拶した途端、姉ちゃんがあたしを指差してこうのたまった。

「こいつ、食い意地張ってんだよ!」

 びっくりした。その友達も返事のしようがなく絶句している。

 姉ちゃんは平気であたしに恥をかかせた。どうしてそう傷つけて来るのか?


 姉ちゃんが夏休みの自由研究の課題に「人の脈拍を測る」というテーマを選んだ。

 あたしを相手に「正常時」「起きたばかり」「食前」「食後」「走った後」「ストレッチをした後」等々色々やらせ、脈拍を測る。レポートをまとめ、学校に提出し、ほっとした顔をしている姉ちゃん。

 あたしも夏休みの自由研究の課題を決めなくてはいけない。だが、考えるのがめんどくさかった。

 そこで姉ちゃんの研究テーマをそのままパクリ、学校に提出した。

 姉ちゃんが激高する。

「真似するなんて、許せない!」

 母さんも、高橋さんよろしく自分は正義の味方!って顔して言う。

「あんた、絶対先生に呼ばれて怒られるよ!絶対に!」

 怒ってばかり、よく似た親子だねえ。

 母さんが毎日けたたましく言う。

「あんた、ろくな大人にならないよっ!人の課題を盗むなんて」

 そうかなあ?あたしの頭の上にまた疑問符が浮かぶ。

 …この件で、あたしは決して先生に呼ばれる事も咎められる事もなかった。大勢の生徒を相手にしている先生は、まして担任が違うのだから、きょうだいで同じ課題とか、いっさい気が付かないものなんだとタカをくくった。

 試しに翌年から3年続けて夏休みの自由研究として同じ課題を提出してみたが、誰も何も言わなかった。

 あたしが大人を舐めた瞬間だった。


 出かけようとしたら雨が降っている。自分の傘を探したが、何故か無い。仕方なく姉ちゃんの傘を無断で借りて外出する。

 強風で傘は折れ、滅茶苦茶に壊れてしまった。

 姉ちゃんに傘を見せて謝ったが、取り付くしまもない怒り方をする。

「気に入っていたのに!ましてや無断で使うなんて!」

 確かにそうだが、まったく悪気はなかったし、わざと壊した訳ではないのにそこまで言うなんて。

「弁償しなよ!弁償!!」

 ヒステリックにわめく姉ちゃん。小学生のあたしに弁償なんて、出来る訳ないじゃん。稼ぎもないのに、本当に嫌な人だ。

 父さんと母さんもまったくあたしをかばってくれなかった。

「お姉ちゃんが許してくれるまで謝り続けなさい」

だの

「自分の撒いた種、自分で刈り取りなさい」

というばかりだった。

 姉ちゃんはそれからもあたしの顔見るたびに

「傘、壊したくせに」

とか

「勉強出来ないくせに」

とか

「課題、真似したくせに」

だのと嫌味ばっかり言うし。

 もううんざりだ。こんな姉ちゃんいらないよ。


 母さんは父さんに殴られるたびに、姉ちゃんとあたしに八つ当たりする。

 姉ちゃんも父さんや母さんに怒られるたびに、あたしに八つ当たりする。

 家の中でいちばん小さくて弱い存在であるあたしは、やられるばかりだ。

 もう嫌だ。こんな父さんも母さんも姉ちゃんもいらないよ。

 本当にいらないよ!いらない!いらない!いらないいいいいいっ!!!


 この人は、父親として最低だ。

 この人は、母親として最悪だ。

 この人は、姉として駄目だ。

 嫌だああああああああああああああああああああああああああ!!!


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