第10話
三人で共に過ごした日々は徐々に感触を失い、黒く光を無くしながら遠ざかっていく。夢とも思い出ともつかない微睡みから引き剥がされていく。巨大な機械から発せられる轟音が脳を揺らす。それとともに、身体の倦怠感と右足の痛みが戻ってくる。重い瞼を無理矢理持ち上げると、天井が遠かった。その日一日のエネルギーを摂取するための心地よい空腹感は無く、人工甘味料の過度な甘さに由来する胸焼けが酷い。照明の光量が強く目が痛くなった。目を閉じても瞼の裏を白く焼く様な感覚があったので、身体を横向きにする。目に入ってきたのは小窓に鉄格子の嵌ったドアだった。
急にドアに激しい衝撃が加えられた。ゴオンと金属に何かを激しくぶつけた様な、ドアを殴っている様な音。それは空理果にとって恐怖と苦痛の始まりを告げる音だった。
「敵地で熟睡とは余裕だな、
少し掠れた低い声が耳に入ってきた瞬間、背筋がぞわりと粟立った。数週間前の恐怖が蘇ってくる。自らを見下ろす大きな黒い影。脛に感じた硬い靴底の感触と、そこに力が加えられ耳からも体内からも聞こえてきた骨が割れる音、衝撃、痛み。記憶の中の声と、今まさに自らの喉から発せられた悲鳴が重なった。
「オズワルド! 何をしているんだ!」
ドアの向こうから金髪の青年の声が聞こえてきた。
「レオンか。邪魔するな。これは俺の個人的な復讐だ。両足をへし折ればそれ以上の事はしない。無節操な虐待なんかじゃあねえ」
空理架の足を折った男ーオズワルドの手がドアノブに掛けられたようで、取っ手が僅かに回転する。隙間から漏れてきた光がオズワルドの影によって消える。
「とりあえず落ち着いてくれ、オズワルド。彼女をこれ以上酷い目に遭わせることは僕達の不利益にしかならない」
「確かにな。この役立たずに貴重な艦内スペースと食料をやる必要は無いな」
オズワルドの憎悪と侮蔑を孕んだ視線が空理架に刺さる。赤黒い緩くウェーブのかかった髪は彼の憎しみが埋み火のように燻っているかの様に思えた。それが一度爆発的に燃え上がれば、空理果には想像を絶する苦痛が与えられることが容易に予想出来た。
「とにかく、今は彼女に近付かないでくれ。せめて落ち着いて話が出来る様になるまでの間は」
「話さえ聞けりゃその後は何をしても構わねえんだろ」
「……オズワルド、とにかく一度クリカから離れてくれ。フウマ・ヤクモが君の父親にしたことは防ぎようが無かったんだ」
突如として聞こえてきた父親の名前に、空理果は思わず飛び起きる。だが、発した声は乱暴に締められたドアの音にかき消された。それきり外の会話は聞こえなくなった。
「テメーに何がわかる?温室育ちの癖に」
オズワルドの怒りは、レオンが彼を無理矢理ドアから引き剥がしたことだけが原因では無かった。その怒りの強さは、温室育ちというモナークの上級国民を揶揄する言葉をレオンに放ったことからも見てとれる。モナークは僅かに残された陸地に高い塔を築いていて、富裕層や権力者層ほど上の階層に居住できる。その塔の最上部は透明なドーム状になっていて、レオンはその最上部の出自だった。下層の出身であるオズワルドは、軍人になるまでまともに自然光を浴びたことが無かった。
「僕は軍人として、否、人として正しい事をしたつもりだ。君が自らを卑しめる様な、そんな言葉を投げ付ける人間だとは思いたくない」
「そもそも俺は卑しくて暴力的な人間だ。テメーとは違ってな」
2人の間の空気が張り詰める。
しかし、その空気に臆する事なく近付いて来た男がいた。
「これだからモナーク人は強自我病と言われる。仕事回らなくなるよ」
黒髪を七三分けにセットした男の容貌は東雲人と酷似している。だが、東雲人にしては流暢な世界標準言語を喋っている。
「同じ極地の同胞を助けにきたのか、チャン」
オズワルドは七三分けの男—チャンを睨め付ける様に顔を近付けたが、思いの外整髪料の匂いが鼻についたらしく、すぐに顔を離す。
「生憎、雲隠れした臆病者を助ける道理は無いね。臆病者は卑怯者、卑怯者は破滅を呼ぶ。ルージョウの古い格言よ」
独特のペースで話すチャンによって険悪な空気は払拭された。ルージョウ出身の人々は泰然自若として小さな物事には動じないが、時にその空気を読まないマイペースさが不和を招くことがある。
「それで、君がここに来ると言うことは何か発見があったのか?」
レオンの問いかけにチャンは両手を緩く広げ、肩をすくめる。
「あの飛行機—いや、まるでオモチャね。分解したけど、こんな時代錯誤な旧式の部品だらけで何で飛べるか謎よ。ああ、部品は旧式でも手入れはバッチリ、あれなら中古で高く売れる」
「いや、あの機体を売るつもりはない」
コインのハンドサインを作るチャンに対して、レオンは真面目に制止する。そんなレオンを見て、オズワルドは自分の中の怒りが萎んでいくのを感じた。時々こんな瞬間があり、毒気が抜かれる。レオンのこういったところも温室育ちだと言える。しかし、この場合はネガティブな意味ではない。
「そこじゃねえだろ。ひと月も経つのに何もわかってねえのか」
オズワルドは視線をチャンの方に向けた。
「お前が彼女の足をへし折らなきゃ、もう少し色々わかってたと思うけどね、ワタシは」
チャンが皮肉とため息混じりで言った。それに対してオズワルドは舌打ちし、荒い足音を立ててその場を去っていった。
「どこへ行くんだ?」
「自分の部屋に戻るんだよ。あのクソ東雲人のところじゃねえ」
先程も含めて、レオンから空理架の扱いについて幾度も注意を受けていたので、彼の危惧を打ち消す様にオズワルドは吐き捨てる。レオンはそれを信じるしか無かった。
「やっぱり同調機関、そいつの仕組みが分からなきゃワタシらは永遠にあのオモチャで遊ぶハメになるよ」
「もう一度、彼女に飛んでもらうしかないか……」
レオンは大きくため息を吐いた。空理果の回復やオズワルドとの確執など懸念事項は山積みだった。しかし、それと同時に空理果を捕虜とする直前の飛行が脳裏を過ぎる。淡い光を纏い、曲芸の様な動きでオズワルドの銃撃を回避したその幻想的ともいえる瞬間だった。
淡い光の正体は、おそらく東雲製の機体には必ず搭載されている同調機関に由来するものだ。その秘密を明らかにすることが、自分たちの未来、果ては人類の未来に光を与える—そんな気がしていた。
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