第1章 野本の合戦 5

 一行の帰路を塞ぐような形で陣を構える扶ら源氏の軍勢を、将門らは葦の茂みに身を隠しながら呆然と眺めていた。

 だが幸いなことに、強風の風下に潜んでいたため未だ敵に気づかれていない。周囲は馬も隠れるほどの葦野原である。

「ここから迂回することはできぬか?」

 将門の問いに、白氏は歯噛みしながら首を振る。

「今動けば敵に気づかれまする。引き返すにしても同じこと。それにいつ風向きが変わるかもしれませぬ故、ここは日が暮れるまで待ちましょう。或いは、昨夜のうちに遣った早馬が豊田の援軍を引き連れてくるやもしれませぬ」

 希望的憶測を多分に含んだ参謀の言葉に、皆深い溜息を吐きながら葦原に身を伏せた。

「やれやれ、敵陣を目の前に陽が暮れるまで隠れん坊か。ゾッとせんわい」

 将頼が悪態吐きながら、それでもいつでも即応できるよう弓だけは手放さずに腰を下ろした。

「何時ぞやを思い出すのう。何やら随分昔のことのようじゃ」

 傍らで囁く将門に、美那緒も目を細め小さく答える。

「妾は昨日の出来事のように思いまする」



 源氏勢本陣。

 

「物見の知らせでは、今朝方、将門一行は真樹勢郎党三十余騎を伴い新治営所を出立したとのことでございまする。その中には良兼様の娘御も見えたとか」

 配下の報告に満足気に扶が頷く。

「よしよし、将門奴、戦仕立てとはいえ小勢じゃのう。どうやら先日の挨拶が効いたか、慌ただしく支度を急いて兵数が揃わなんだと見える。おまけに迂闊にも細君を伴って出てくるとは、まさしく鴨と葱じゃ。ひと手間省けたわ!」

 肩を揺らす兄の横で、ひょろりと背の高い色白の男――茂もフムと顎髭を撫でる。

「しかし兄貴。我らもよく昨日今日でこれだけの兵を集められたものですな。些か伴類の輩が多いようにも思うが」

 伴類とは領内の農民を臨時で兵に取り立てたもの。言うなれば即席の徴兵に近い。これに対し比較的忠誠心の強い郎党や営所等で働く奉公人等主人に近しい立場の兵を従類と呼ぶ。

「なに、豊田の小倅など数で脅かしてやればいちころじゃ。俘囚征伐で戦に覚えのあるという土地の者の他に、腕が立つという野盗一味も加えておる。将門奴、ひょっとして今頃我が大軍を遠目から目の当たりにして葦の茂みに潜み怯え震えておるかもしれぬて!」

 ケラケラと声を上げて笑う兄の前に、でっぷりと太った巨漢の男――隆が、この真冬に鎧からはみ出した腹を揺すりながら、汗を拭き拭き現れた。

あんちゃん。僦馬の党の頭目が着陣しましたぜ」

「おお! どれ、前へ」

 大柄な隆の後ろから呼ばれ出でたのは意外なほどの小兵――実は以前、将門達の脱出劇を湖畔から傍観していた黒裏頭の頭目であった。

 頭目は扶の前に胡坐をかくと深々と低頭し名乗りを上げた。

「上野国を根城に馬借を営んでおりまする。……名は、好きに呼んでくだされ」

 顔を隠していても尚若年さを感じさせる声音であったが、頭目の前評判を耳にしていた扶は機嫌よく頷いた。

「坂東近辺の街道を震え上がらせておる貴公を名無しで通してしまうのは少々心苦しいが、まあ、良かろう。黒僦馬の頭目よ、早速だが、恐らくこの陣の周辺に隠れ潜んでおるであろう将門を炙り出してほしい。奴め、きっとその辺の葦原に身を伏せて日が暮れ機会が訪れるのを待っておるに決まっておる。見つけ出して殺せ。諸共悉くをな。ただし、彼奴の妻君だけは傷をつけてはならぬ。生かして捕らえるのじゃ。見事討ち取って戻れば、望みのままの褒美を取らすぞ!」

「謂いのままに」

 今一度低頭すると、頭目はさっさと陣を退出していった。その去り様を頼もしそうに見送る。

「身の軽い奴じゃ!」

「兄ちゃん、大丈夫なのかよう。何だか鶏がらみてェに華奢な野郎だぜ?」

 いまいち安心できぬ様子で問いかける弟へ、兄はニヤリと笑いかける。

「隆よ、おぬしも東山道を荒らしまわる僦馬の党については噂を耳にしておろう。彼奴等は表向きこそ荷役を生業としておるが、本性は残忍極まりない山賊よ。馬仕事の手が空けば、財を掠めるし女を拐す。火付けもすれば人を殺めるも躊躇わぬ輩じゃ。そこいらの雑兵崩れより余程荒事に手慣れておるわい。その中でも、あの黒僦馬の一党は特に悪逆の聞こえが高うてな。おまけに、あの頭目をはじめ、一味の名はおろか素顔を目の当たりにした者は誰一人おらぬという謎に満ちた連中じゃ。但し、矢鱈と慎重で潮目が変われば仕事の途中でもさっさと手を引くというのが玉に瑕じゃが、腕は確かじゃ。尤も、雇い入れるには少しばかり高くついたがのう」

 残忍だの悪逆だの謎の組織だのという言葉の列挙に「剣呑なことじゃ」と茂が苦笑する。

「まずもって、彼奴等には将門一味を炙り出してもらう。飛び出してきたところへ我らが討って掛かって一網打尽にし、蛙のように引き裂いてくれる。うっかりあの黒僦馬共に最後まで仕事をさせて、望みのままの褒美を与えてやることになってしまっては、父上から頂いている小遣いが吹き飛んでしまうでな。我らも少しばかりは勤労に励まねばなるまいて!」

 冗談めかした兄の口振りに、弟達も心底可笑しそうにケラケラと笑い声を上げた。



 茂みで息を潜めていた白氏が、ふと口を開く。

「……静か過ぎますな」

 傍らで所在なさげに葦の葉っぱを弄んでいた経明が頷く。

「やはり……」

「貴公の懸念、恐らく当たっているだろうよ」

 チラリ、と主の方へ視線を向ける。

 将門は藪の陰から油断なく敵陣を見つめながら答えた。

「気づかれておるな。……しかし所在まではまだ捉まれておらぬ。今に探りを入れてくるやもしれぬ。努々気を抜くなよ!」

 一同が無言でそれに応えたその時、

「うわあっ⁉」

 突如茂みから奇声を上げながら躍り出た覆面の曲者に斬りつけられた将頼が悲鳴を上げた。

「将頼⁉」

 思わず叫び声を上げた将門の周囲から一斉に鬨の声が上がり、次々と覆面の男たちが姿を現した。騎馬勢に馬へ跨る隙も与えずに斬りかかってくる。

「そんな! 葦の葉一つ鳴らさずにどうやって忍び寄ってきたのじゃ⁉」

 驚愕の余り呟きを漏らす将門目掛けて敵の刃が光る。

「そこにいたか、将門!」

「うおっ⁉」

 堪らずに鞘を走らせる将門の太刀が翻り火花が飛び散った。


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