パンプローナ③

 バルの客席から続いている、モノクロチェックタイルの床。個室のドアノブや壁の手すり部分には草のツタを模したような装飾がされていて、天井には年代を感じさせる小さなシャンデリアのような照明もある。そこは、割と掃除が行き届いていて綺麗な所が多いスペインのバルのトイレの中でも、なかなかのハイレベルなところだった。


「え……?」

 その洗面所で、用を足し終わって手を洗っていたあたしに、ヒジュちゃんが隣の鏡越しに話しかけてきたんだ。

「一緒……って、三人? 四人、じゃなくって?」

「うん。アタシと友達と、チカちゃんの三人」

 ニッコリと微笑むヒジュちゃん。今までずっと流暢な英語で話してきた彼女が、簡単な数字を間違えて言ったわけじゃないことは、すぐに分かった。


「だってさあ……」

 ハンカチを忘れたらしいヒジュちゃんは、洗面台で洗った手を、腰のあたりでバタバタと振っている。可愛い見た目の彼女がやると、その動作はまるでKポップアイドルのダンスみたいだった。

「これからカミーノをどんどん進んでいくとぉ、このパンプローナとは全然違う、ド田舎の町とかにも行くことになるでしょぉ? そんなときに、スペイン語が出来るチカちゃんがいてくれると、いろいろと助かりそうだなぁーって。ほら、動画作成にも役に立ちそうだしぃ」

 「そうしたら、初心者向けのスペイン語講座動画とかも、やってもいいかもねぇ?」と続けるヒジュちゃん。その態度は、あたしの頭の中に浮かんでいた「当然の疑問」を、あえて避けているように思えた。

 だからあたしは、その「疑問」を自分から口にしなければいけなかった。

「だ、だったら、四人でもいいんじゃない? アキちゃんも、一緒で……」

 でも……。

 ヒジュちゃんは――今度は鏡ではなく直接あたしの方を見て――、首を横に振った。

「ダメ……っていうか、ヤダかな」

「え……」

 彼女と目が合う。

 そのときのヒジュちゃんの表情は、喜怒哀楽のどれとも違う……でも、あえてどれかに分類するなら、多分「楽」になるのかもしれない。「楽しい」っていうよりは、リラックスしてる「らく」って感じ。静かな気持ちで、当たり前のことを当たり前に言っているような……そんな表情だった。

「だってアキちゃんって……自分のこと、自分で出来ないんでしょぉ? カミーノのことも、何にも知らずに来ちゃったんでしょぉ? そういう人はアタシ……ちょっとめんどくさいなぁ」

「……」


 ヒジュちゃんには、パンプローナに来るまでにあたしたちのことを話していた。

 ロンセスバリェスでアキちゃんが困っていたところを、あたしが助けたこと。ヤイコさんに言われて、パンプローナまで一緒に来ることになったこと。アキちゃんがカミーノに必要な物を何も持ってないから、パンプローナで買わなくちゃいけなかったことも。

 きっとヒジュちゃんは、それを知ったからあたしを誘ってくれているんだ。

 めんどくさいアキちゃんから、あたしを救い出してくれるために。あたしがここで、アキちゃんと別れる口実を作ってくれているんだ。あたしには、直感的にそれが分かってしまった。


「アタシたちは、明日はちょっと早めにここを出発する予定。だから、朝六時くらいにはもうアルベルゲの入り口に集合してると思うんだけど……そのとき、十分じゅっぷんだけチカちゃんのこと、待ってることにするね? それまでに来てくれたら、一緒に行けるからね」

 そう言うと、ヒジュちゃんはトイレを出て行った。


 彼女が出て行ったドアからは、バルの客たちのやかましい談笑が聞こえてくる。それは、いまだに洗面台の前で一人立ち尽くしていたあたしがいる場所とは、まるで別世界へつながっている扉のように思えた。


 それからあたしも席に戻って、しばらくして夕食会が終了すると、あたしたちはアルベルゲに戻った。


 そのあとは歯を磨いたりシャワーを浴びたりしていうちに、すぐにそのアルベルゲの消灯時間になってしまって、あたしたちは自分のベッドの寝袋に入った。その夜は、隣のベッドで眠っていたおじさん巡礼者の歯ぎしりとイビキがうるさかったからか、あたしはなかなか眠りにつくことが出来なかった。




 次の日の朝。

 目を覚ますと、まだ太陽は昇ってなくて、周囲は真っ暗。時間は、五時四十分。昨日アラームをかけた時間だ。

 ゴソゴソと動き始めている人もいるけど、まだ眠っている人もいる。あたしも、眠っている人をなるべく起こさないように荷物の準備をした。


 ヒジュちゃんたちのベッドはあたしたちとは離れたところにある。きっと、もう準備を済ませてアルベルゲの玄関で準備運動でもしているのだろう。

 自分が眠っていた二段ベッドの、下の段に視線を向ける。そこには、昨日買ったばっかりの寝袋に包まれた、サラサラ金髪の女の子が眠っていた。

「よく食べて、よく寝る娘だな……」

 彼女が、昨日のバルでピンチョスを食べて悶絶していた光景を思い出して、にやけてしまう。

 と、同時に。その光景がもう二度と見られないことを想像してしまって、そのにやけ顔を無表情に戻す。

「……」


 昨日の夜、消灯のあとに眠りにつく前に……ベッドの下の段の彼女と、ほんの少しだけ話をした。


「道具もそろったし……もう、アキちゃん一人でも、大丈夫そうだね?」

「……ええ、そうね」


 それだけ。

 本当に、その一往復の会話だけ。

 それきり言ったあとは、お互いにもう何もしゃべらなかった。


 それでも、あたしが話しかけたことにちゃんとアキちゃんが答えてくれるのは珍しかったので、そのときの声は妙に印象に残った。



 ここであたしが彼女を置いて行っても、何も問題はない。

 だって、あたしが彼女と一緒に歩くのは、もともとこのパンプローナまでだったんだから。

 ここから先は、お互い自由だ。

 あたしはあたしのカミーノを。アキちゃんはアキちゃんのカミーノを、歩けばいい。

 だって、アキちゃんはあたしとか、人間のことを嫌いみたいだし。

 だって、ヒジュちゃんはあたしのことを必要としてくれているし。

 だから……これで、いいんだ。あたしは、何も間違っていないんだ。



 このアルベルゲは、二段ベッドがたくさん並んでいる寝室を出ると、その先にすぐに玄関があって、建物の外が見える。きっと、そこにはヒジュちゃんたちがいるのだろう。自分の荷物をもって、あたしはそこへ向かう扉を開けた。

 さっきまでは眠っていたけれど、もしも準備している間にアキちゃんが起きてしまっていたら……。彼女を置いて出て行こうとするあたしの姿を見られてしまったら……。そう思うと、あたしは寝室の方を振り返ることは出来なかった。

 そして、アルベルゲの玄関に待つ、ヒジュちゃんたちと合流した。

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