パンプローナ④


 ★☆★☆★☆★☆★☆



 寝室のカーテンの隙間から漏れる太陽の光に照らされて、エルフのアキはようやく目覚めた。

「……くぅ」

 寝袋に入ったまま上半身を起こし、背伸びをしようとする。しかし、両手がベッドの天板に当たってしまって、そこで自分が狭い二段ベッドの下の段で眠っていたということを思い出した。そして、昨日は満員だった周囲のベッドが、もうすっかり空になっているということにも気づく。

 自分のベッドの前に置かれていた、チカのピンク色の登山バッグもなくなっている。

「ふん……」


 ハイエルフの彼女には、空気を漂う風の精霊の動きを感じ取れる力があった。だから目で確認するまでもなく、自分の眠っていたベッドの上の段から呼吸音が一切聞こえないこと……つまりもう、チカがそこにいないということは把握していた。


 こうなるのなんて……とっくに、分かっていましたけどね。


 今の状況に、アキは特に何の感情も持たなかった。

 実は昨日のバルでの夕食会のとき。彼女は、チカとヒジュが話していた内容を聞いてしまっていた。トイレの扉の向こうで彼女たちが話していた言葉を、風の精霊がバルのテーブルにいたアキの元まで、運んできてしまっていたのだ。


 それでも……。

 もしかしたら……。

 それでもアキは、自分でもよく分からないうちに、「よく分からないこと」を期待してしまっていた。彼女なら……。チカなら……なんて。


 ロンセスバリェスでアルベルゲに入れずにいた自分に、チカが話しかけてくれたこと。今ではアキも、彼女のその行動の意味を理解していた。あのときの彼女は、自分を助けようとしてくれたのだ。彼女の助けがあったお陰で、自分はあの日、ベッドで眠ることが出来たのだ。

 そんなチカだったら……もしかしたら、また自分を気にかけてくれるんじゃないか。ヒジュからの誘いを断ってしまうんじゃないか、と。

 しかし、そんな彼女のわずかな期待も、昨日の消灯直後にチカが話しかけてきたときには、ほとんど崩れていた。


 もう、一人でも大丈夫そうだね?


 ……やっぱりね。

 しょせん人間なんだもの。ハイエルフのワタシとは、生きる世界が違うのよ……。

 だから、アキはとっくにこうなることが分かっていたのだ。今日目を覚ましていたとき、自分はきっと、チカに取り残されているのだろう、ということが。


 寝袋をたたみ、昨日買ったバッグに詰め込む。昨日のスポーツ店の店員からは、「天気が急変したときにすぐ対応できるように、フリースやジャケットを取り出しやすくパッキングしてくださいね」なんて言われていた気がしたが……そんなことは気にしない。買ったばかりのシューズやウォーキングストックがどんな柄だったかさえも、もはやよく覚えていない。でも、問題はない。どうせ、出発するのは自分が最後だ。靴置き場に最後に残っているのが、自分の物だろうから。

 そして準備を整えたアキは、空の二段ベッドが並ぶ寝室の扉を開けて、アルベルゲの玄関へと向かった。




 ★☆★☆★☆★☆★☆




「おっそいよーっ! まったく、いつまで寝てるんだよーっ!」

「……は?」


 ようやく寝室の扉を開けて出てきたアキちゃんを見て、あたしはそう言った。

 時間は、もう八時。このアルベルゲのチェックアウト時間ギリギリで、これ以上は強制的に追い出されてしまう。ご主人オスピタレイロさんが厚意で入れてくれたカフェオレカフェ・コン・レチェも既に三杯目に突入していて、あたしのお腹もタプンタプンになっていた。


「あーもう、ほら! 準備できてるなら、さっさと出発するよっ⁉ 今日だって、昨日と同じくらい歩かなくちゃいけないんだからね⁉ あんまりのんびりしてたら、今日の目的地までたどりつけないんだからね⁉」

「ちょ、ちょっと⁉」

 驚いているアキちゃんの手を引いて、あたしは無理やり歩き出そうとする。

 訳が分からない様子のアキちゃんは、そんなあたしの手を振り切って、叫ぶように言う。

「な、なんで……まだアンタがいるのよっ⁉ ア、アンタは……あ、あのうるさいヤツらと、先に行ったはずでしょっ⁉」

「ありゃ……アキちゃん、気づいてたんだ?」

 あたしがヒジュちゃんと話していたことは知らないと思っていたから、アキちゃんがそんなことを言ったのには、ちょっと驚いた。

 でも、あえて何でもないふうに取り繕って、あたしは答えた。

「いやー……あたしも、出来るならアキちゃん置いてヒジュちゃんたちと一緒に行きたかったんだけどさー。でも、そんなことしたら、アキちゃん一人でカミーノ歩くことになるじゃん? アキちゃん一人にしたら、何するか分かんないでしょー? 絶対、周囲の人にとんでもない迷惑とかかけちゃうでしょー? しかもそのときに、あたしがアキちゃんのこと一人にしたせいだー、とか言って、あたしが責任取ることになっちゃたりしたら、それこそ面倒だなーって思ってさー」

「は、はぁーっ⁉ な、何言ってるのよっ! こ、このハイエルフのワタシが、そんなことになるわけないでしょっ! アンタなんかいなくったって、ワタシは一人でも……」

「えー、ホントにー? 昨日まで最低限の装備も持たずに、手ぶらでカミーノ歩こうとしてた人が、誰にも迷惑かけずにサンティアゴまで行けるとはとても思えないんだけどなー?」

「う、うるさいわねっ! こ、こんな装備なんて……昨日の店員があんまり勧めるものだから、仕方なく買っただけで……このハイエルフのワタシなら、大地に宿る精霊たちの力を借りれば、こんなもの無くったって手ぶらでも余裕で……」

「はいはい。そしたらせいぜいその精霊さんに、今日一日晴れるようにお願いしといてくださいなー」

「ちょ、ちょっとっ! ア、アンタ、バカにしてるでしょっ⁉ 本当に、私は一人でも十分に……」

「あ……アルベルゲの主人オスピタレイロさんが、こっちを睨んでる……。す、すいませーんっ! もう、今すぐ出発しますんでっ!」

「ちょ、ちょっとっ! ア、アンタ、待ちなさいっ! まだ、話は終わってねーですわよっ⁉ こ、こら、待ちなさいってばーっ!」


 そんなことを言いながら、あたしたちは他の巡礼者たちとはだいぶ遅れて、その日のカミーノを歩き出した。



 アキちゃんにはあんなこと言ったけど、実はあたし……。

 今朝起きて、ヒジュちゃんたちと会う直前まで、ずっと悩んでいた。


 自分を必要としてくれて、一緒に行こうって誘ってくれたヒジュちゃん。本当なら、彼女の誘いを断る理由なんてなかった。彼女たちと一緒に行くのは、きっと楽しい。あたしがこれから長い日数かけて歩くことになるカミーノが、きっと最高の思い出になってくれたと思う。

 でも……。

 きっとあたしは、そんな最高の思い出のところどころで、アキちゃんのことを考えてしまう気がする。

 自分が置いて行ってしまった、めんどくさいエルフの娘がいたこと。自分が誰かを切り捨てて、楽しい思い出を作ってしまったということ。それを、忘れることが出来ない気がする。

 だからあたしは、残ることにしたんだ。六時に待っていてくれたヒジュちゃんたちに「一緒には行けない」と言って、彼女たちを見送ったんだ。

 そしたら彼女たちは、明るく「そっか、分かったよぉ。じゃあねぇー、ブエン・カミーノぉー!」なんて言って、見た目では全然気にしてないみたいに出発していったけど……。でも、本心では、どう思ったかな? やっぱり、ちょっとイラっとされちゃったかもしれないよね。

 でも、仕方ないよ。


 だって……だって……。

 あたしはもともと、親に捨てられた捨て子だし。そんなあたしが、アキちゃんを捨てるなんて、出来るわけがないんだからさ。


 ヒジュちゃんたちを見送って、アキちゃんが起きるまでの間。

 あたしは、そんなふうに自分の気持ちの整理をつけていた。捨て子の自分は、かわいそうなアキちゃんを見捨てたりしない。親に捨てられたあたしだからこそ、みんなが見捨てる彼女をちゃんと最後までサンティアゴまで連れていく。それが自分の役割なんだ、って思うことにしたんだ。


 それはなんだかあまりにも「出来すぎて」いて、自分でも、都合よく後付けされた理由だと思えてしまうのだけど……。でも、だからといってそれ以外の理由なんて思いつかなかったので、あたしはそれで自分を納得させることが出来ていた。



「あ! あとアキちゃんっ! 今までは、登山バッグとか持ってなかったから仕方なかったけど……今日からは、二人で使う荷物はアキちゃんにも分担して持ってもらうからねっ⁉ 水のペットボトルとか、非常食とか。まだまだ、アキちゃんのバッグに全然入るよねっ⁉」

「は、はぁっ⁉ なんでワタシが、そんなことしなくちゃいけねーのよっ! 高貴なハイエルフのワタシが、たかが人間のアンタの荷物まで、持つはずが……」

「えー、でもでもー、荷物いっぱい詰めてバッグぱんぱんにしてるのって、すっごくオシャレですよー? やっぱりベースが綺麗なエルフさんだと、ぱんぱんのバッグでも似合っちゃうんですねー?」

「え……そ、そう? それじゃあ…………とか、言うわけないでしょっ!」

「ち、ダメか」

「ああもうっ! さっきからチカは、ワタシのことバカにしすぎですわーっ!」


 二人並んで、バカなことを言い合いながら出発するあたしとアキちゃん。


 そんなわけで。

 誰かに無理やり押し付けられたのとは違う、あたしたち二人の本当のカミーノが、ようやくここからスタートしたのだった。

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