訪問者

カランッ


入口のベルが鳴った。いつも通り挨拶をしようとそちらを見ると、数分前まで窓際の席に座っていた女性が立っていた。


「あ、もしかして忘れ物ですか?僕、探してきますね」


喫茶店をしているとこんなこともよくある。

川本さんも鉛筆を忘れたり、新聞を忘れたり、何回も戻ってきたものだ。

きっと彼女も忘れ物だろうなと、返事も聞かずに自然とその席へ向かおうとした。

でもその時、彼女が少し焦った様子で声をかけてきた。


「いえ、違うんです!あ、間違ってはいないんですけど、えっと…」


なんて言えば良いかわからない、そんな様子で少し目線をずらした彼女。


「すみません。僕、早とちりしたみたいですね。どうなさったんですか?」


今、店内には他に誰もいない。

聞こえるのはゆっくりと流れるBGMだけで、静かといえば静かなこの状況。

それが彼女にとっては緊張する要因になってしまっているんだろう。

初めて来たお店ってただでさえ緊張するもんなーなんて、余計なことを考えていた。


「あの、貼り紙を見て、戻ってきたんです」


「貼り紙?」


「えっと、あそこにある、イヤリングのイラストの…」


そう言って彼女が指さした窓。そこで僕はやっと思い出した。

すっかり剥がすのを忘れていた、というより貼ったことさえ忘れていた、その存在を。


「…あれ、私のだと思うんですけど、さすがにもうないですよね」


聞くことさえ躊躇うような視線をこちらに向け、彼女は遠慮がちに口にした。

貼り紙は日焼けして、イラストも文字も薄くなっている。誰が見ても、もう機能していないと思われる程ボロボロだった。だから彼女もそう思ったのだろうけど、違う。

だって僕は忘れていたんだから。全部全部放ったらかしていたんだから。

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