第18話 長い旅路の始まり

(ユアン君……)

 ログウェルが去った後、ゲオルクと残されたリザはここにいない一人の少年を想う。

 あの子は今、どこにいるのだろうか。何か恐ろしい目に遭っていないか。お腹をすかせていないだろうか。

 ログウェルは言った。ユアンを殺すことが、世界にとって最善なのだと。

 もし、リザが今と違う立場であったら、その言葉に賛同していたかもしれない。

 エギヒデムの門が顔や名前も知らないどこかの誰かであったなら、その人が生きている限り自分や周りの人達の命が脅かされるという状況で、その人の死を望まずにいられる自信がリザにはなかった。

 けれども、リザはユアンのことをよく知っている。

 あの子の涙も、優しさも、不安も、笑顔も、たくさん見てきた。

 あどけない寝顔も、真剣に折り紙を追っている横顔も、ポケットにたくさん木の実を詰め込んで満足気な表情も、おやつを食べるときに顔を綻ばせるところも、覚えているのだ。

 それなのにユアンを犠牲にするなんてことは、リザには受け入れられない。

「なあ、リザさん」

 隣から声がして、リザは顔をあげる。

「俺には、ログウェルの言うことを完全に否定することはできない。家族が生きていて、あんた達と過ごすこともなく、あいつ同じ立場だったら……俺も同じようにユアンを殺す判断をしていたかもしれないからだ」

 ゲオルクとログウェル。親友とも言える関係を築いた二人は、非常に価値観が似ていた。

 だからこそ、わかる。少しでも運命の歯車が違えば、ゲオルクはリザとユアンを追う立場になっていただろうと。

 何の罪もない幼い子供を、迷いながら躊躇いながら、これでいいのかと自問をしながら、それでも世界の為、国の為、民の為、家族の為、いろんな言い訳を重ねて、己の責務に殉じていたはずだ。

「……ゲオルクさん」

 ゲオルクの言葉はユアンを死を受け入れようとしているようなものだったが、リザはそう感じなかった。

 なぜなら、リザを見つめるゲオルクの目が、とても真っ直ぐだったからだ。

「でも、そうはならなかった。今の俺にはあんた達以上に守りたいものはない……だから、助けに行こう、ユアンを!」

「……ええ!」

 ここから無事逃げ出せたとしても、多くの人がユアンを狙ってくるだろう。あらゆる人がユアンを殺そうとするだろう。

 もしかしたら、一生逃げ続けるはめになるかもしれない。

 それでも、二人は覚悟を決めた。

 ユアンが生き延びる為ならなんでもしよう、と。

 きっと二人とも、大切に思える誰かがいないとだめだというところが似ているのだ。

 報われるのが、救われるのが、幸せになるのが自分だけとなると、途端にどうでもよくなってしまう。

 手を抜いて、適当になって、投げやりになって、いつまでも前進できない。

 けれども、愛する者がいてくれるのなら、守るべきものが存在するなら、守る為に全力を尽くそうとする。

 例えそれが、どんな茨の道であろうとも。

「そのためにも、まずはここから抜け出さないと」

「ああ。とりあえず、ドアをぶち破るか」

「えっ! ……いや、でも、それしかないですよね」

 思い切りが良すぎるゲオルクの発案にリザは驚くが、他に方法がないのも事実。

 外に人の気配がないなら強行突破しようと二人がドアに耳を寄せると、異常な状況に気づいた。

「……なんだか、騒がしいですね」

「そうだな……何かあったか?」

 遠くの方で、慌ただしい足音や声が聞こえる。

 明らかに何かが起こっているのだ。

「……出るぞ」

「はい」

 何が起きているのかはわからないが、千載一遇の好機なのは確かである。

 ゲオルクは部屋の中にあった椅子を持ち上げると、ドアノブに力強く叩きつけた。

 二回、三回と振り下ろしているうちにドアノブが壊れ、鍵が機能を果たせずドアが開く。

 かなり大きな音をたてたのに、誰かが駆けつける様子もない。

 それだけでも異常だというのに、足元に広がるものを見て二人は言葉を失う。

「この泥は……」

 泥は今なおも流れてきて、それがどこからのものなのか考えるまでもなかった。

「ユアン君の身に何かあったんじゃ!」

「急ぐぞ!」

 二人は泥が流れてくる方向へ走り出す。

 階段を登るほどに泥の量は多くなり、行き着いたのは最上階。

 一つしかない扉の前には先客が一人いた。

「ログウェル!」

「君たちはっ! まさか抜け出して来たのか!」

「そんなことより、ユアン君はこの中にいるんですか?」

 突然現れたリザたちにログウェルは目を鋭くするが、今はそれどころではないと思い直してそれ以上の追及はせず、リザの言葉に頷く。

「ああ、そうだ。ここに彼はいる」

「何があったんだ?」

「それは、わからない……何の前触れもなく泥が浸出して来たそうだ」

 本当に突然の出来事だったのだという。

 ログウェルは部下からの報告を受けて騎士達に避難誘導を指示した後にここへ駆けつけたのだ。

「とにかく君たちはここから」

「私たちもこの中に入ります。構いませんね」

「いや、それは……」

「俺たちならユアンを止められる」

 リザたちがユアンを連れ去る可能性を考え追い返そうとするログウェルだが、二人は引き下がらない。

 冷静であろうと努めているログウェルであったが、実のところこの状況に混乱を覚えていた。

 なにせ情報が何も入ってこないのだ。

 どうしてこんなことになったのか、どうすれば治まるのか、まるでわからない。

(……確かにこの二人がいれば、万が一の場合、あの子供をなだめるなり説得するなりできるかもしれない)

 エギヒデムが降臨するという最悪の展開が頭がよぎった彼が下した決断は、二人の提案を飲むということだった。

「わかった、いいだろう。だが、くれぐれも妙なことはしてくれるなよ」

 一応そう忠告して、ログウェルは扉を開けた。

 すると中から大量の泥が溢れ出て、三人を押し返そうとする。

「きゃあ!」

「くっ」

 体勢を崩しそうになりながらも耐え、三人は部屋の中へと進んでいく。

 だが、流れ出たはずの泥は、一向に収まる気配などなくどんどんと溢れていた。

「この量は……」

 思わず言葉を失うログウェルだったが、部屋の片隅に見慣れた人物がいることに気づいて目を見開く。

「エレウス!」

 駆け寄って体を起こすが、その体はすでに冷たくなっていた。

 どうやら泥に飲み込まれて呼吸ができなくなってしまったらしい。

「そんな……どうしてこんなことに……」

 動揺を隠せないログウェルをよそに、リザとゲオルクはユアンを探す。

「ユアン君! どこ!? 返事をして!」

「迎えにきたぞ! ユアン!!」

 流れ来る泥に怯むことなく進み、必死に声をかけるが、反応が返ってくることはない。

 それでも諦めず探し続けていると、リザの指先に何かが触れた。

 柔らかく温かで見覚えのある感触にリザは息を呑み、そして叫んだ。

「いた!」

 両手で掴み、引っ張り出そうととするも泥が重く、足場も悪いこともありうまくいかない。

 そこへリザの言葉を聞いたゲオルクがやってきて、彼女と同じように泥の中に腕を入れる。

「合わせるぞ!」

「ええ!」

 「せーのっ」という言葉と共に二人は一気に掴んでいる者を引き上げた。

「ユアン君!」

「ユアン!」

 そこにいたのは、二人が探し求めていた子供。

 けれどもその顔は青白く、ぐったりしていた。心做しか体温も低いように感じる。

「しっかり、しっかりして、ユアン君っ」

 リザはその体を少しでも温めようと、強く抱きしめて揺さぶった。

「おいユアン、聞こえるか!? 返事しろ!」

 ゲオルクもユアンの意識が戻るように声をかける。

 二人の必死な呼びかけが通じたのか、ユアンの体がビクンッと震え小さく呻く。

「……う、ぐっ」

 ゲオルクは咄嗟にユアンの口に指を突っ込むと、大量の泥が溢れ出す。

 それを吐ききると弱々しい呼吸を繰り返しながらもユアンの目蓋がゆっくり開いて、リザとゲオルクを見た。

「ユアン君! よかった、気がついたのね」

「大丈夫か? どこか苦しいところはないか?」

 少しの間、ぼんやりとしていたユアンだったが段々と意識がはっきりしてきたのか、驚いたように呟く。

「……リザ、お姉ちゃん……ゲオルクさん?」

「ええ、そうよ。迎えに来たの」

 リザはユアンの瞳に溜まっていく涙を、指でそっと拭う。

「……う……うぅ……」

「大丈夫だぞ。もう何も怖くないからな」

 ユアンを安心させようと、ゲオルクはリザと共に強く抱きしめた。

 それに応えるように、ユアンも二人へと手をのばす。

「……」

 互いに抱きしめ合う三人。

 それを見つめるログウェルは葛藤を覚えていた。

(私は、どうすれば……)

 ユアンのことは殺すべきだ。

 その考えは変わらない。

 だが、三人を見ていると、本当にそれでいいのだろうかと疑念を抱いていしまう。

 何かもっと、殺す以外に別の道があるのではないか。

 そう思えてならないのだ。

(……私は……)

 だがその瞬間、地響きのような音が四人の耳に届いた。


「えっ」

「何だ!?」

 誰もが地震だと思ったが、しかし揺れているのは泥だけ。

 まるで泥の中で何かがうごめいているようだ。

「こっちだ!」

 何かが出てくる。

 そう直感したゲオルクによってリザとユアンは壁際に避難する。

 すると、床に広がる泥が徐々に盛り上がり、その存在が姿を表す。

 それは黄金に輝いていた。

 泥がこびりついているのにも関わらずなお色褪せない輝きを放つ鱗に魚のヒレのようなものがついている。

 だが、頭部などは見当たらない。

 泥から出ているのは、体の一部だけだからだ。

 本来であれば、それほどの巨体を収めるには室内にある泥では足りないのに。

 目の前の存在が人知を超えていることは、誰の目にも明らかである。

(これって、まさか……)

 リザの脳裏に浮かぶのはある神話。

 『輝く大地』の地下深くにある泥の海で暮らし、一度『影の大地』に現れれば泥を吐き続けて地上を泥で覆い、その上に新たな世界を造り出す泥の神・エギヒデム。

 目の前にいるのがそれなのだと、彼女は直感した。そしてそれは、他の三人の同様だろう。

 リザは怯えるユアンを守るように抱きしめる腕に力を込め、ゲオルクはそんなリザを抱き寄せた。

 ログウェルも剣に手を添えて動きを伺う。

 しかし、ここで四人がどんなに死力を尽くしたとしても、目の前の存在に叶うとは思えない。

 かといって逃げ切ることも出来ないだろう。

 だが、四人のそんな様子などお構いなしに、黄金の鱗はゆっくりと泥の中へと沈んでいく。

 周囲の泥はそれに巻き込まれるように流れていき、足をとられそうになる。

「きゃっ」

「くっ……!」

 リザとゲオルクは互いに支え合うようにし、ログウェルも床に剣を刺すことで耐えた。

 やがて黄金の輝きは完全に姿を消し、大量の泥もなくなっていた。

 まるで夢か幻でも見ていたのではないかと思えるほどに、あの巨大な生き物の痕跡はどこにも見当たらない。

 もし第三者に今見た光景を説明したとして、誰も信じてはくれないだろう。

 だが、呆けている暇などリザたちにはかった。

「……行くぞ」

「ええ……」

 小さく言葉を交わしそっとその場から離れようとするリザたちだったが、それを許さない人物がここにはいた。

「……どこに行くつもりだ?」

 突き刺すような眼光からリザとユアンを守るようにゲオルクが前に出る。その手には壁にかけられていた剣が握られていた。

「その子供を連れて行かせるわけにはいかない」

「こっちだって、ユアンが殺されるっていうのに置いておけるか」

「そうだな、君ならそう言うだろうな」

 ログウェルはゲオルクに剣先を向け、そのまま斬りかかった。

 それにゲオルクは応戦し、剣がぶつかり合う。

「その子供は危険だ!! 生かしておくわけにはいかない!」

「ふざけるな! ユアンが何したっていうんだ! この子は何も悪くない!」

「ああ、そうだ。その子に罪はない。だが君もあの化け物を見ただろう! その子供が生きている限りあの化け物が現れる可能性があるんだぞ! もしそうなれば、多くの人が死んでしまうんだ!」

 ログウェルにとって、それは絶対にあってはならないことだ。

 彼の中にもう迷いはない。

 先程の光景を見て、己の責務を全うする覚悟を決めてしまったのだ。

 一時の感傷に流されることなく、ユアンを殺す。

 その為に、彼はその障害となる者は全て斬る。

 例えそれが、親友であっても。

「だからあんな小さな子供に死ねと? そんな馬鹿な話があるか! 泥を吐かないようにしていればいいだけだろう! そもそもお前たちがユアンを追い詰めなければあの子があんなにも泥を吐くことはなかったんだ!」

「それはこちらが悪かった! 申し訳なく思う! だが、だからといってその子がこれから先、泥を吐かずに生きていける保証がどこにある!」

「俺とリザが守っていくさ!」

 ゲオルクは叫ぶ。

 もはや彼にとって、リザとユアンは決して失えない大切な存在となっていた。

 だが、ログウェルも引かない。

「それで十分だと思っているのか!? 当たり前の日常が、なんの前触れもなく奪われることがあると、君は知っているはずだ!」

「っ!」

 ゲオルクの脳裏に両親と弟の姿が浮かぶ。

 生まれた時からずっと一緒にいて、だから当たり前のようにこれから先の人生でも一緒にいると思っていた。

 けれど、そんなものはただの思いこみなのだと打ちのめされた。

「ああ、そうだ……大切なものは、いとも簡単にこの手からすり抜けてしまう。だからこそ、今度は守れるように必死になるんだろうが!」

 ゲオルクの言葉にログウェルの瞳に落胆の色が浮かぶが、けれどその感情はすぐに消え去る。

「そうか、なら……仕方がないな!」

 この瞬間、親友だった二人は完全に決別した。

 小手調べだった先ほどまでとは打って変わり、ゲオルクとログウェルは本気で戦う。

 もはや二人の間に言葉はない。そんなもの無意味だ。

 片や、関係のない多くの人を巻き込み死に追いやるかもしれないのに、それを無視してただ自分が大事だと思う物だけを守ろうとする者。

 片や、何の罪もなく本来なら守らねばならない子供を自分や周りの安寧のために殺そうとする者。

 どちらにも正義などなく、だからどちらも止まらない。

 一進一退の攻防。

 しかし、それも時間が経過するとともに変化が訪れる。

「くっ……」

 ゲオルクが押されだしたのだ。

 かつて、二人の実力は拮抗していた。しかし、騎士団を抜けた後も体を鍛えていたとはいえあくまで独学だった上に魔獣を相手にしていたゲオルクと、騎士団の厳しい訓練に耐え多くの対人戦の経験を積んだログウェルでは差が生じていたのだ。

 この現状が続けばログウェルが勝ち、ゲオルクは負けるという形で決着がつくだろう。

 しかし、ここにはそれを許容できない者がいた。


(どうしよう……! 一体どうすればっ!?)

 ユアンを抱えながらリザは考える。

 戦いのことなどわからないリザではあったが、ゲオルクがログウェルに押されていることは理解できた。

 このまま何もしなければ、リザはゲオルクとユアンの両方を失うことになる。

「リザお姉ちゃん、どうしよう……このままだとゲオルクさんが」

「ええ、なんとかしないと」

 けれどどうすればいいのだろう。

 加勢しようにも、戦えないリザが入ったところでゲオルクの邪魔になるだけだ。

(せめて、一瞬……一瞬だけでいい。あの人に隙を作り出せれば……!)

 自分に何が出来るだろうかと必死に考えていると、視界の端に一冊の本があることに気づいた。

 他の本は泥に塗れているのに、たまたま免れたのかその本は汚れた様子もない。

(……そうだわ!)

 リザの頭に、一つの案が浮かんだ。

 そしてその内容を吟味する余裕などリザにはなく、その思いついた方法をすぐさま実行する為に本へと手を伸ばす。

 だが、他の方法を考える余裕などリザにはなく、もうこれしかないと

(大丈夫、絶対にうまくいく!)

 自分にそう言い聞かせ、本のページを破った。


「うおお!!」

「はあぁ!!」

 押されながらもゲオルクはログウェルへと食らいつく。ここで自分が負ければ、また大切な者を失ってしまうが故に。

 だが、このままではまずいこともわかっている。

 何か打開策はないかと必死に考えるが、何も浮かばない。

(一瞬、一瞬でもいい……何か隙を作れれば……!)

 しかし、ログウェルは自分が有利だからという理由で油断してくれるような男ではないことも知っている。

 それでも何かないかと剣を打ち合いながらも周囲の状況を確認していると、風が吹いていることに気づいた。

 決して強くはない、そよ風と呼べる程度の風だ。

 だが、窓もないこの部屋ではそれだけでも異質である。

 そして、そんなことが出来るのは一人しかおらず、ログウェルはこのことに気づいていない様子だ。

 とはいえログウェルも勘の良い男だ

 少しでもゲオルクに不審な動きがあればすぐに気づいてしまうだろう。

(……よし)

 だからリザが何をやっているのかは決して探らない。視線を向けることもしない。

 きっと何か策があるのだろうと、そう信じて行動すると決めた。

 ゲオルクは剣を握り直すと、ログウェルを自分に引きつけつつ風が彼の背後から吹くように誘導しながら戦う。

 無論それは簡単なことではなかった。

 ただでさえ地力は向こうのほうが上であり、そんな相手を思い通りに動かそうと立ち回るのは至難の技。

 一瞬でも気を抜けば、そのまま持っていかれるだろう。

 だが、ゲオルクの意志は揺るがず、歯を食いしばって耐える。

 そして、その労力は報われる瞬間が訪れた。


「……ん?」

 違和感に気づいたのはログウェルであった。

 何かが燃える匂いを感じたのだ。それもすぐ近くで。

 次いで、感じたのは熱さである。

 視界の端で揺れるものを見て、ログウェルは自分の服が燃えていることに気づいた。

「なっ!」

 驚愕したログウェルはとっさに火を叩いて消し止めたのだが、それが決定的な隙となる。

「がっ!」

 ゲオルクの一撃がログウェルのみぞおちに入った。

「う、ぐ……」

 苦悶の表情を浮かべ、ログウェルは倒れ込む。

 彼が気を失っているのを確認して、ゲオルクは大きく息を吐いた。

「ゲオルクさん、大丈夫ですか?」

 勝負がついたのを見て、リザたちがゲオルクに駆け寄る。

「二人とも、大丈夫だったか?」

「はい、私達はなんとも」

「ゲオルクさん」

 ユアンがゲオルクに手を伸ばす。

 それに応じてゲオルクはユアンを抱き上げると、そのまま首に腕を回される。

「死んじゃうかと思った……」

 小さくか細い声で告げられた言葉に、ゲオルクは安心させるように微笑む。

「大丈夫だ。二人を置いて死ぬもんか」

 ゲオルクが視線を下げると黒く焦げた紙飛行機が目についた。

「あの紙飛行機はリザさんが?」

「……すみません、他に方法が思いつかなくて」

 リザは恥じ入るようにうつむく。

 リザのとった行動は本の頁を折って紙飛行機にして、それを魔法で火をつけてさらにまた風の魔法で飛ばし、それでログウェルの気を引こうとしたのだ。

 冷静になって考えると、よくもまあこんな到底作戦とも言えない稚拙な方法を実行したものである。

 ゲオルクがリザの意図に気づき、それに合わせて行動してくれたおかげでうまくいったが、そうでなければログウェルにあっさりと気づかれて失敗していただろう。

「いや、助かったよ。あれがなかったら死んでいた。本当に、ありがとう」

 けれどゲオルクは笑って言う。

 ゲオルクの言う通り、リザが行動しなければ彼はログウェルに負けていたのは間違いない。

 リザの行動は確かにゲオルクを助けになったのだ。それだけで十分だろう。

(……さて、こいつはどうするか)

 気を失っている親友にゲオルクはチラリと目を向ける。

 もし彼が目を覚ませば、必ずや自分たちを追い、ユアンの命を狙う。

 ならば今ここで息の根を止めた方が、今後のためだ。

 頭ではそう思っていても、彼の中にある情がそれを躊躇わせる。

 だからといって見過ごすには、ログウェルの存在はあまりにも脅威だった。

 ユアンに目を向ける。

「ゲオルクさん?」

「……いや、なんでもない」

 幼い子ども。きっとこれから先、多くの者がこの子の命を狙うだろう。

 この腕の中にいる温もりを守るには、生半可な覚悟では駄目なのだ。

(…………やはりここで殺しておこう)

 冷酷に、冷徹に、ゲオルクはそう判断した。

 しかしリザとユアンの目の前ではそんな事はできない。

 少しの間離れてもらおうとリザにユアンを預けようとしたゲオルクだが、そんな彼の手をリザがそっと触れた。

「ゲオルクさん……行きましょう」

「え……」

 リザの眼差しはゲオルクの心を見透かすように静かで真っ直ぐである。

「ここにいては他に人が来るかもしれません」

「それは、そうだが……」

 確かにリザの言う通り、ここに長居するのは危険だ。

 だが、それでもせめてログウェルだけでも始末しなくてはと考えるゲオルクであるが、その思考を中断させるようにリザが首を横に振る。

「お願いです。私達を守るために自分を傷つけるようなことはしないで」

「っ……」

 リザの懇願にゲオルクは言葉を詰まらせた。

 そんな二人をユアンは不思議そうに見つめる。

「どうしたの? 二人とも」

「なんでもないわ。ね、ゲオルクさん」

「……ああ、そうだな」

 ゲオルクはリザに手を引かれる形で部屋を出ていく。

 後ろで倒れるログウェルは未だ気がつく気配はない。

(……いつかこの選択を後悔する日が来るかもしれないな)

 それでも今は、少しだけ安堵した。




 外を出ると、ちょうど日が昇っているところであった。

 山々の間から差し込む陽の光が三人を照らし、その影をより濃くさせていく。

 それは三人の行く末を祝福しているようにも、業の深さを表しているようにも見えた。

(……きっと、世界中を探したって私達ほどの悪党はいないでしょうね)

 リザはふとそんなことを思う。

 どんな悪人とて世界中の人の命を脅かすようなことはしない。

 そして、その生命を脅かされている人々の中には、リザがかつて共に暮らした友人たちもいる。

 彼らが自分のしたことを知ればどんな反応をするだろう。

 同調するだろうか、反対するだろうか。

 もしかしたら、次に会う時には敵対しているかもしれない。

 以前は、いつの日か再会できたらと思っていた彼らに、会いたくないと思う日が来るとは思わなかった。

「ねえ、降ろして」

「ん? それはいいが、体は大丈夫か?」

 リザがぼんやりとそんなことを考えていると、ユアンがゲオルクの腕から降りる。

「うん。僕、もう歩けるから」

「……ユアンくん、無理しないでいいのよ?」

「平気だよ」

 泥の中から出てきた時のぐったりとした様子を思い出したリザが不安げな眼差しを向けると、ユアンは彼女に手を差し出す。

 どうやら手をつなぎたいらしい。

 リザがその手を掴むと、今度は反対側の手をゲオルクに伸ばす。

 二人と手を繋いだユアンはご満悦の表情で二人を見る。

「えへへ」

 その笑顔はまるで太陽のようで、それを見るだけでリザは自分の中にあった不安が拭い去られるのを感じた。

 きっとそれはゲオルクも同じだろう。

「ねえ、これからどこに行くの? 家に帰るの?」

「いや……あそこに帰ったらまた怖い人達に見つかっちまうから、別の場所だな」

「トビー置いてきちゃった」

「それは、仕方がないわ。トビーもきっと許してくれる」

「そうかな?」

「ええ」

「とりあえず、どこか遠くに行かなきゃな」

「遠くってどこ? 海の向こう?」

「そうだな。でも、それだと船に乗らなきゃいけないからなあ」

「しばらくは人の多いところは避けた方がいいですよね。山で野宿でもします?」

「それしかないか……なあユアン、またあの山菜のスープ飲めるか?」

「えっ! …………頑張る」

「うふふ」

 リザは、あらゆる物を失った。そしてこれからも、たくさんの苦痛や悲哀に襲われるだろう。

 それでもあの日あの時、寂れた小屋に入ったことを後悔はしない。

 いつか、三人で心から穏やかに暮らせるその日まで、決してこの手を離さないと心に誓う。




 エギヒデムの門を開かせない旅は始まったばかりである。


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エギヒデムの門 秋空夕子 @akizora_y

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