森篇

第1話 「転移した先は」

 ぞわりと何かが口内を這っていき、口外へ、顎へとつたっていく気持ち悪さに意識が覚醒した。

 驚いて口元に手をやると、ヌメッとした粘性の液体が手に付着する。冷たくは無くほのかに温かい。

 あー……、よだれね、俺の。口の中に何か入ったのかとビビった。


 立ち上がって周りを見ると、木に囲まれている。それも一本、一本が屋久杉よりも幾ばくか太く、巨大だった。

 ポケットからスマホを取りだし画面を見ると、日付は八月一日、時刻は十一時半頃。アパートに居たときからそれほど時間は経っていないようだ。

 電波は受信していなかった。まだ時計としては機能しているが、そのうちズレてきて使い物にならなくなるだろう。電源を切ってポケットに突っ込む。


 だとしたら……、持って来て正解だった。左の手首につけていた手巻きの腕時計をちょんと触る。随分昔に父親からもらって以降ずっと使っている。一日一回、ゼンマイを巻かないといけず、一見面倒だが、なかなかどうして愛着のあるものだ。


 身の周りを確認すると、身につけていたものはそのままだった。念のためにと履いた靴もそのまま。もし靴を履いていなかったら、裸足で過ごすことになったかもしれない。


 さて……、ここはどこだろう? 森か?


 築二十年のアパートの一室に居たはずの俺はいつの間にか自然に囲まれていた。

 周囲に人の気配は一切無く、不自然なほどの静寂に包まれている。


 成功、したのだろうか?


 仮に、俺が転移と呼べる現象を体験しているのならば、それは先程のが原因に違いないだろう。

 魔法陣に手を触れて深呼吸するという、それだけの行為。


 呼吸するだけでワープが成功するのかというと、甚だ疑わしい。あまりにも分からないことだらけで頭がこんがらがってくる。

 しかし、ただ一つ分かっているのが、先程のものは普段の呼吸とは全く違うものであったこと。


 息を吸っているだけで、全身に鳥肌が立ち、全ての感覚が鋭敏になったかのように錯覚した。服がこすれるだけで痒く感じ、心臓の音はやたらと大きく、視界はチカチカしていた。


 呼吸をするということはあれほど苦しかったことだろうか?


 ゆっくりと息を吐くと、体にたまっていた何かが一気に動き出したようにゾワゾワとした感覚。全身は電気が駆け巡ったかのように痺れ、体中の血液が右手に集まっていくような感触。そしてグヌリ、と魔法陣に流れこんでいった気がした。


 不思議な感じだった。あの時確かに気がした。投げた球が狙ったところに吸い込まれていくような、投げる前からある一点に到達することを知っていたような。俺自身、何を言っているのか分からない。

 

 右手をグーパーと開いて閉じて、しげしげと眺める。

 腕を潰して寝たときのように、未だににジンジンと痺れている。


 いや、今はこの話を置いておこう。

 とりあえず現状の把握をしなければならない。

 理系たる者、常に冷静に、理知的に振る舞うものだ。例え、バイト中にお客さんにお叱りを受けたとしても、数十万円の実験器具をうっかり壊しそうになったとしても、だ。あれは本当に危なかった……。


 改めて周りを見回してみても、視界に入るのは木のみ。

 もしかしたら木では無いのかもしれないが、俺の知っている限り、この形状は木と呼ばれるものだろう。

 大地に根を張り、太く背の高い幹からは数多の枝が伸びている。枝には無数とも言える葉が生い茂っていた。


「でっけぇ……」


 あまりの大きさに圧倒され、小学生並の幼稚な感想が口から漏れ出た。

 少なくとも、俺はこの大きさの樹木を見たことが無い。屋久島に行ったときもここまでの大きさのものは無かったはずだ。

 目測でしかないが、樹高は百メートルを超えている。

 メジャーを取り出してぐるりと幹を測ろうとしたが、測れない。三十メートルメジャーでは、わずかに長さが足りないのだ。


「まじかよ……」


 幹の周りの長さは三十メートル少し。単純計算で幹の直径は十メートルほどだ。

 俺の知っている限り、世界一体積が大きいらしい、セコイアなんちゃらと呼ばれる巨木と同等かそれ以上の大きさの木だ。


 最初の疑問に振り返る。ここはどこだろうか?

 一つ、俺は何らかの超常的な力で自宅からここへ飛ばされた。二つ、周囲の樹は日本では到底見たことの無いサイズのものばかりである。

 

 では、ここは異世界か? いや、そう結論付けるのは早計だ。

 電波が届かない世界のどこかに飛ばされただけという可能性もある。気を失った一瞬の間に、移動していること自体がそもそも普通じゃないけど。


「とりあえず歩くか!」


 考えていても仕方無い。まずは行動あるのみ。

 水も食料も限りがあるので、ここに居座っていても飢え死にするだけだ。

 おっと、そういえばお決まりのアレをやっていなかった。俺が異世界に行ったかどうかは分からないが、異世界に行ったらお決まりのアレだ。


「ステータス!」


 何でもこう言えば、ゲームのように自分のステータスが確認できるらしい。もしかしたら俺の現在地が分かって、楽々森を脱出、なんてこともあるかもしれない。


 …………。


「ステータス!」


 …………。


「ステータス……」


 …………。


 むう、何も起こらない。もしかしたら……、とは思っていたが何も起きないか。

 まあ、人生がいつも上手く行くとは限らない。

 とりあえず今俺に出来ることは、森を脱出すること、記念に森の状態を写メって保存することぐらいだろうか。



 

 ◇




 歩き始めてから六時間以上が経過した。

 方向も自分の位置も分からないので、とりあえず真っ直ぐ歩いているだけだが、一向に森を抜け出せる気がしない。

 徒歩の時速が約五キロメートル毎秒だから、休憩を挟んだことを考慮しても二十五キロ以上は歩いたはずだ。


 日も暮れてきたし、歩くのも大分疲れてきた。ここらで今日は休むとしよう。

 水と食料的にあと三日は保つだろうから、最悪それまでに脱出できれば良い。

 ちょうど椅子のように、地面に張っている木の根に腰をかけた。


 さて、分かったことがいくつかある。

 

 まず、昼の空は青く、日が暮れると赤くなるということ。また、腕時計で時間を確認していたところ、日没の時間は日本とほぼ同じだった。

 巨樹に覆われていたため、上空はほとんど見れなかったが、間違いないと思う。太陽らしいものも確認できた。


 次に、呼吸が苦しくなったりなどはしなかったということ。空気中の酸素密度がほとんど同じだと考えて良いと思う。

 スマホのアプリで湿度、温度やらを測ってみたが、日本の気候とほぼ同じと考えられる。ただ、森だからか結構涼しい。あくまでスマホのアプリなので、間違っている可能性もありそうだが。


 最後に、この森はおかしいということだ。

 道中、虫や動物は全く見られなかった。普通森には虫が絶対にいる。動物が確認できないならまだしも、小バエや蟻ですらいないというのは異常だ。土を掘り返せば何か出てきたかもしれないが、危険生物が出てくるのはゴメンだ。

 また、この巨樹以外の植物も見られなかった。コケ類や草本も、だ。唯一見たのは、木に生えているキノコぐらいか。


 まとめると、俺が居る場所は、気候条件などは日本とほぼ一致しているが、生態系は全く異なっているということ。この森が異質というだけかもしれないが。


 考えていたら腹が減ってきた。この森に来てから不思議と空腹感は感じていなかったが、休んでいるからか腹が鳴ってきた。

 飯にしよう。カップラーメンは二個持って来てあるので、お湯を沸かせばすぐに食べられる。味は王道のしょうゆとカレー。今日はカレー味にするか。

 水源があれば、そこから水の補給も出来たかもしれないけど見当たらなかったんだよな……。


 バーナーをセットしたらライターで火をつけた後、水を入れたケトルを載せる。

 そしてバーナーの火をボーッと眺めて、お湯が沸くのを待つ。

 こういう状況下だと、火を見るだけで安心するから不思議なものだ。恐怖と安堵が混ざったよく分からない感情。


「っし、沸いた」


 カップ麺の容器にお湯を注いでふたをする。その拍子に、ふわりとカレーの良い匂いが鼻孔をくすぐった。ずっと嗅いでいたくなる。

 ……そういえば、この森はもう一つおかしいことがある。匂いが無いことだ。普通は土や草、木の独特な香りが森に充満しているはず。にも関わらず、この森は無臭。

 草の香りや木の香りが無いのは、まだ良い。しかし、土の匂いが無いのはどうにもいただけ無い。


 匂いを感じさせる化学物質が無い? 土に細菌がいない? それとも俺の鼻がイカれたか?

 それだと木が枯れたときの分解者は? そもそも生態系には生産者、消費者、分解者が存在するはず。概ね、植物が生産者、生物は消費者、菌類などが分解者だ。

 この森は見たところ、巨木が生産者、キノコ類が分解者の役割を担っている、と思う。

 じゃあ、消費者はどこにいる?


 ……分からん。俺の専門は建築・設計系で、生物系は専門外だ。生物も勉強しておくんだったなぁ。



 また考え込んでいると、どこからかガサリと音がした。


「――っ!」


 咄嗟とっさに音のした方向に顔を向ける。視界が悪いため何も見えないが、何かいることは分かる。


 人か、動物か、はたまた魔獣か。おそらく向こうもこちらの様子をうかがっている。俺はリュックからサバイバルナイフを取りだし、構えた。


 近くの木の後ろに隠れているとしたら、距離は十メートルほど。

 逃げる、は無しだ。リュックを背負ったままじゃ早く走れないし、リュックが無ければ今後、俺の命に関わる。

 あわよくば、向こうが退いてくれれば良いんだが。

 

 大丈夫。熊に遭遇したことは無いが、イノシシはある。下手に刺激をしなければ、向こうも分かってくれるだろう。


 そうして二分ほどの膠着こうちゃく状態を破ったのは向こうだった。


「あ、あの……」


 声? 人間? 女性? 日本語? ここは日本なのか?

 

 情報を処理しようとするも思考がまとまらない。多分、若い女性の声だ。そして向こうに敵意は無く、意思の疎通を試みている。


「あの……? 聞こえてます……?」


 俺の返答が無かったからだろうか。彼女はもう一度声を掛けてきた。戸惑っているように声は少し上擦っている。敵意が無いどころか友好的とも言える。


「聞こえてます。俺は矢島堅也、大学三年生です。姿を見せていただいても?」


 こちらの名前と職業を言っておけば、おそらく不信感は与えないだろう。ナイフを地面に置き、両手を上にして敵意が無いことを伝える。


 何か考え込んでいたのだろうか? 彼女の返事は無く、十秒ほど経ってからおずおずといった様子で姿を現した。そしてゆっくりとこちらに近付いてくる。


 まず目に付いたのは、胸元にあしらわれたリボンだ。そして特徴的な大きな襟。

 次に涼しげな半袖のシャツと膝より少し上の丈のスカートが目を引く。


 さてここから導き出される結論は? そう、セーラー服。つまり制服。


 俺は今、この瞬間、野生のJKと遭遇したのだ。


 カップ麺にお湯を注いでから既に五分が経過していた。


 


 


 


 




 


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る