エピローグ ―― Leben nach der Scheidung ――

 本日をもって、私の本名は「大西 百合子」から、旧姓の「川村 百合子」に戻った。


 噂には聞いていたが、離婚届は本当に緑色だった。それに必要事項を記入するのが、二人の最後の共同作業。そして私は市役所の戸籍係にそれを提出し、そのまま受理された。

 十五年の結婚生活。交際期間も含めれば二十年近くになる。それなりに長いと感じていたが、終わるのは一瞬だった。


 私は痛感した。結局のところ、私たちの結婚生活は幻想ファンタジーにすぎなかったのだ。それも、とても壊れやすいフラギーレ


「私の何が、そんなに嫌だったの?」


 最後に私は、良祐さんに聞いた。


「別に。君のことは嫌いじゃない。むしろ、愛していた。言っても信じてもらえないと思うけど」


 良祐さんは、寂しげに笑いながら、言った。



「だったら、なぜ浮気したの? 私のことを愛しているのに」


「心と身体からだは違うんだ。心は君を求めていても、身体は別な女を求めていた。でも……それが君を傷つけることも、分かっていた。それなのに……ごめん。分かってくれなくても、許してくれなくても構わない。僕は、それだけのことをしてしまったと……思ってるから……」


「分かったわ。今まで、ありがとう。最後は笑って、別れましょう」


 私は笑顔を作る。


「ああ。ありがとう」


 良祐さんも、弱弱しく笑った。


---


 そして今、私は実家に帰ってきた。あの明日香とかいうバカ女と良祐さんが事に及んでいた、あのマンションには、もう一秒だっていたくなかった。だから私はそこを引き払い、この家に一人で住むことにしたのだ。


 それにしても……


 良祐さんにはもうとっくに愛想が尽きていたつもりだったから、一人になっても別に何も変わらないだろう、と思っていた。が、こうして本当に一人になってみると、月並みな物言いだが、やはり心のどこかにぽっかりと大きな穴が空いたようだった。凄まじい喪失感が、今の私の全てを支配していた。


 強い風が、玄関の前で立ち尽くしていた私を我に返らせる。


 ホームセキュリティを解除し、ドアを開ける。


 いつもの仕事場であるピアノ部屋を通り抜け、今ではめったに入ることのない居間に足を踏み入れる。


 かすかなホコリのにおいが漂う、よどんだ空気。障子戸から降り注ぐ夕日が、畳の上に落ちてそこだけを赤く染めていた。


 近所で遊ぶ子供たちの声が、かつて両親や桜子とここで過ごした日々を、私の脳裏に蘇らせる。


 私の頬を、いつしか涙が伝っていた。


---


 「仕事はショックに対する最良の薬である」と書いたのは、アーサー・C・クラークだっただろうか。まさにその通りだと思う。離婚してからの私は、ピアノ教師とピアニストの仕事に明け暮れた。


 その日、私は市民オーケストラの定期地方公演にゲストピアニストとして参加していた。


 人口三千人にも満たない地域だが、会場のコミュニティプラザのホールは聴衆で八割方埋まるほどの盛況だった。私はオーケストラをバックにピアノを弾いた。演目はラフマニノフのピアノ協奏曲コンチェルト第2番。色んな映画やポップスで引用されている、定番中の定番だ。


 演奏会は無事終了。玄関を出ると、辺りはもう薄暗い。オケのメンバーたちから打ち上げに誘われたが、明日もピアノ教室の仕事があることを理由に断った。彼ら彼女らに別れの挨拶をして、私は駐車場に停めてある愛車のミニ・クーパーに向かった。


 ふと、私の車のそばに、一人の人影があるのに気づく。おそるおそる近づくと、その人は私の方に向いて、言った。


「久しぶりだね」


 ……!


 その声の主は、すぐに思い出せた。忘れるはずがない。


「良祐さん……」


---


 良祐さんは私なら絶対選ばないような、やけに派手な色合いのブルゾンを着ていた。若作りのつもりだろうか。もう四十二だというのに。いや、それとも……


「どうして、ここにいるの?」


 単刀直入に、私は問いかける。


「県立病院をクビになったからさ」彼は苦笑しながら応えた。「勤務時間内の不倫行為がバレたおかげでね。今はこの地区の診療所で働いてる。ま、色々不便なこともあるけど、職があるだけマシさ。今日はオケが来てラフマニノフの2番をる、って聞いて、もしかしたら君がピアニストとして来るんじゃないかな、と思ってね。ビンゴだった」


「……そう」


 正直、あまり会いたくない相手だった。それでもかつては一緒に暮らした人なのだ。無碍むげにはできない。それにしても、彼はいったいどういうつもりなのか。よりを戻したい、とでも思っているのだろうか。


 冗談じゃない。こっちにはそんな未練など毛頭ない。そりゃ、寂しいと思うこともなくはない。だけど、再婚するにしても彼とだけはご免だ。先に釘を刺しておかなくては。


「私は、あなたとやり直すつもりは全くないから」


「分かってるよ。僕ももう、再婚したから。明日香とね」


「!」


 思わず私は良祐さんの顔をのぞき込む。点いたばかりの駐車場の照明灯が、彼の少しニヤけたような表情を浮かび上がらせた。


 やはりか。考えてみれば、昔からこの人は自分の服装には全く無頓着だった。そのブルゾンは彼女が選んだのね。どうりで、彼女らしい下品な趣味だわ。


 良祐さんは続ける。


「結局アイツも病院辞めることになって、実家も勘当同然の状態で、行き場をなくしてしまって……僕しか頼る人間がいなかったんだ。だから今、一緒に住んでる。君への慰謝料を一括で肩代わりしてくれた彼女の両親に返すために、二人でなんとか頑張って稼いでるよ。子供も出来たんだ」


「!」


 彼の最後の一言は、とてつもない重さをもって私の胸に突き刺さった。


「もう八ヶ月になる。これでようやく僕も父親になることが出来るよ。もちろん子供を育てるためにもさらに頑張らないとな。だから、僕のことは心配いらない。それだけが言いたかったんだ。じゃあ、元気でな」


 そう言い残すと、良祐さんは踵を返し、遠ざかっていった。


---


 家への帰路。ステアリングを握りながらも、私は心ここにあらずといった状態だった。百キロを超える道のりの間、よくもまあ事故らなかったものだ。


 そして、帰宅後も私は呆然としたままだった。


 あの二人は、私とはもう何の関係もない。単なる他人だ。そう言い聞かせてもダメだった。


 島田 明日香が妊娠している。それだけで、底なしの敗北感に私は打ちひしがれる。完膚なきまでに彼女を叩きのめしたはずなのに。


 私が望んでも得られなかった、我が子を育てる喜び。それを彼女はいとも容易たやすく手に入れたのだ。

 そして、わざわざそれを私に伝えてきた、良祐さん……おそらく、自分と彼女をこっぴどく痛めつけた私に対する、ちょっとした意趣返しのつもりなのだろう。やってくれる。


 幸せそうな二人が憎かった。だけどそれは私の醜い気持ちの成せる技だ。自分を裏切った人間なんか不幸になればいい。無意識に私はそう願っていた。それに気づかされた私は、余計に落ち込むばかりだった。


---


 次の日は瑞貴ちゃんのレッスン日だった。今彼女が練習しているのは、ショパンの練習曲エチュード 作品Op.10-3 、いわゆる「別れの曲」だ。


 テレビや映画でもよく取り上げられる有名な曲。シンプルなメロディだし、昔の人気ドラマで素人同然の俳優が曲がりなりにも弾いていたので、簡単な曲だと思われている。


 とんでもない。むしろこの曲は難しい部類に入るのだ。簡単に聞こえるのは、テレビや映画ではみな冒頭部の簡単なフレーズしか演っていないからに過ぎない。


 そもそも、この曲の冒頭部の優しく甘いメロディは、あまり別れという印象を感じさせない。しかしテンポが一気に速くなる中盤では、まさしく別れの激情が余すことなく表現されている。此処こここそが、この曲をして「別れの曲」たらしめる所以ゆえんなのだ。そして、その難しいパッセージを、瑞貴ちゃんはスピーディーかつ滑らかに、ミスすることなく完璧に弾きこなした。そしてまた、冒頭部の優しいメロデイに戻る。


 とても小学六年とは思えない。技術的にはほぼ完璧な演奏だ。ただ……やはりまだ感情表現がつたない。今はいいが、この傾向が成長しても続くようなら、いずれ彼女の足を引っ張ることになるかもしれない。


 それにしても……昨日、自分の離婚について再び深く思い起こさせることがあった後で、ここまで見事な演奏の「別れの曲」を聴くなんて……なんて皮肉なんだろう。


「どうしたの、先生」


 いつの間にか、演奏を終えた瑞貴ちゃんが立ち上がり、怪訝そうな顔で私を見つめていた。


 いけない。少しぼうっとしてしまったらしい。それにしても……


 驚いた。彼女が自ら口を開くのは、とても珍しいことなのだ。


「……え?」


「先生、なんだかいつもと違うよ」


 ……なんてことだ。


 努めて感情は表に出さないようにしていたつもりだったのに……こんな小さい子に見抜かれるほど、私は打ちのめされていたのか……


 いや、瑞貴ちゃんは繊細な子だ。私の微妙な感情の揺れを、彼女なりに感じ取ったのかもしれない。


「ううん。何でもないの。何でも……」


 その時だった。


 私の両眼から、涙が零れ落ちる。


「どうしたの!? 先生、泣いてるの? 何か悲しいことがあったの?」


 瑞貴ちゃんの顔も、今にも泣きそうに歪んでいた。


 思わず私は、彼女を抱きしめる。


「先生……う……ぐすっ……」


 私の胸の中で、瑞貴ちゃんは泣き出した。


 やさしい子……


 そう。彼女はこういう子なのだ。決して感情が希薄なのではない。むしろ逆だ。共感力が高すぎて、自らも他人の感情に翻弄されてしまう。彼女の無表情は、そうならないための彼女の仮面、いや鎧だ。


 だけど今、鎧を脱ぎ捨てた彼女のぬくもりが、すさみきった私の心の中に染み渡っていく。


 そうだ。私にはこの子がいる。この子を全力で育てよう。この子のピアニストとしての親は、私なんだ。


 それに、私自身も中田さんに言ったじゃないか。起きた物事に善いも悪いもない、って。だから昨日のことも、きっとこの子を育てるための糧になる。いや、そうしなきゃならないんだ。


---


 瑞貴ちゃんが帰った後で、ふと、思い出したことがある。


 "これは本件とは直接関係ないのですが、よろしければご参考までに"


 そう言って、松田さんが置いていった資料。(旧姓)島田 明日香の行動記録だ。


 正直、彼女とはもう関わりたくない。思い出したくもなかった。だからこれまで中身を見ずにいたのだが、これを置いていった時の松田さんの表情が、どことなく含みを感じさせるようなものだったのが、私も少し気になっていた。それに、昨日の良祐さんの言葉にも、一つ腑に落ちないところがあったのだ。


 そして今、私はとうとうそれを紐解いた。


 やはり。


 彼女も別な男と二股をかけていたのだ。それも良祐さんと知り合う前からの付き合いだった。もちろん肉体関係もアリで。良祐さんがそれに気づいている節はないようだ。そして、その付き合いが切れたという記述も、ない。


 ……。


 類は友を呼ぶ、とはこのことか。全くもって、お似合いのカップルだこと。


 私は不妊検査をして、十分自然妊娠可能という診断を得たが、良祐さんは一度も検査を受けたことがなかった。だけど、不妊の原因は男性由来であることも多いのだ。


 そして。


 鏡を見なくてもわかる。今の私の顔には、さぞかし嫌らしい笑みが張り付いていることだろう。何だかんだ言っても、結局これが私の本質なのだ。自分の醜さにほとほと嫌気が差す。だけどどうにもできない。


 私は心の中で問いかける。


 ねえ、良祐さん。


 あなたは父親になれて喜んでるみたいだけど……


 あなたの今の奥さんのお腹にいる赤ちゃん……


 本当に、あなたの子供なのかしらね……?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Fragile Fantasie Phantom Cat @pxl12160

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説