松藤四十弐

 どこの誰かも知らない人と、話したくなる夜がある。若いのか、年寄りなのか、男なのか、女なのか。話してみるまで分からない。でも、それでいいし、それがいい。

 そんな欲求を、そのチャットは満たしてくれた。世界中の誰かとつなげてくれるもので、無料だった。

 そこで僕は昨日、ヨーロッパの高校生とアジアのアニメオタクと、あいさつに毛が生えた程度の会話をした。すぐに消えて去っていく、風に乗った草のにおいのような内容で、20分経たずに終わった。すでに彼らの名前も思い出せない。でも、それで僕は満足だった。ちっぽけな寂しさにはちょうどよく、眠れない時間はうずまくように消化されていった。

 そして僕は今日もここにいる。寂しさを紛らわすために、日本人の女性と話をしている。彼女の年齢は39歳。全国を旅していて、今はネットカフェにいると教えてくれた。旅の理由は、今まで出会った男と性行為をするためだという。

「私、もうすぐ死ぬ気がするから」

 それが彼女の大まかな理由だった。

「でも、なぜ、性行為?」

「もしかしたらチャンスを逃してきたのかもしれないから。好きでもない、魅力的だと思ったこともない男とシタことなかったから」

 二十年間、独り身の僕にとって、それは理解できなかった。

「なにがチャンスなんですか?」

「もしかしたら、めちゃくちゃ気持ちいいかもしれないでしょ」

「そうですか。まだ誰とも会ってないんですか?」

「4人と再会して、2人とやった」

 話を繋ぐ言葉が見つからないことは多々ある。紡いでは解いて、紡いでは解いて、最終的に質問になるのが僕のクセだった。

「よかった……んですかね。他の2人はダメだったんですか?」

「だめね。実は10人に連絡とって、会えたのが4人だけ。みんな私のことが好きだったんだけど、真面目な人が多かったから。暗に家庭のことを言われて。今も性格は変わらないってことかな」

「最後までいった2人は?」

「2人とも独身。1人はバツがついてた」

 行為の内容について僕は聞かなかった。興味はあったが、聞くのはプライベート過ぎると思ったし、恥ずかしくもあった。その代わりに、旅する中でおすすめの場所を聞いた。

「高校時代によく行った場所なんだけど、大きな梅の木があるの。樹齢千年の桜の木くらい大きくて、神々しいやつ」

彼女は「ちょっと待ってて」と言って、アップロードサイトのURLを送ってきた。

 僕は躊躇しつつも、えいやとクリックした。

 それは巨大な梅の木だった。枝が上へ、左右へ、拡がっていて、十メートル以上ありそうだった。根元にいる人間も人形のように小さかった。その人間が彼女なのかもしれない。帽子をかぶり、リュックを背負っている。すらりとしていて、なんとなく想像通りだった。

「すごいですね」

「そうでしょう」

 彼女はそう言って、住所を教えてくれた。ここから電車で2時間と少しかかる場所だった。

「今日、行ってきたんだけどね。まぁ、いろいろとわかるよね」

「何がですか?」

「私のことが好きだったのに、何もしてこない男たちはさ、結局は幸せってこと。奥さんがいて、子供がいて、仕事をしていて、不安があっても満足ってこと。それを意識的にか、無意識的にか知らないけど、みせびらかしているんだよね。ざまぁみろって、私は言われているんだよ。あなたが気にも留めなかった俺はこんなにもいい男なんですよって。それに比べてあなたはどうなんですかって。変わってないですねって」

 また、僕は口を閉じざるをえなかった。彼女に優しく接したかったが、経験も言葉も僕の人生にはなかった。頭の中をあちこち探しても、出てこなかった。彼女に伝えるべきものは、僕が誰にも買ってもらえなかったもので、手に入れようとしたのちに手を振りほどかれたもののような気がした。そして、それも間違いのような気もした。

「まぁ、私はもうすぐいなくなるだろうし、まだ当ては2人いるし」と言って、彼女は「さよなら」と続けた。

 彼女は僕の返事も待たずにあっという間に消えた。残ったURLをクリックしたが、梅の木はすでにデリートされていた。

 僕はそのまま部屋に取り残された。ノートパソコンの光と、外を走る車のエンジン音だけが部屋を飛び回った。

 「なんでかなあ」

 僕はそう自分の衝動について疑問を投げかけたのち、冷蔵庫を開けて、リュックの中に緑茶の入ったペットボトルを入れた。それからタオルと下着、シャツを入れた。Tシャツにパーカーを着て、ジャージからジーンズに履き替えて、靴下を履いた。折りたたんだ財布には2万円が入っていた。

 ひとりになって瞬間的に思ったのは、彼女に会いたい、だった。それは性的衝動かもしれないし、生死が関わっているせいかもしれなかった。しかし、準備していくうちに現実が乗り込んできて、気持ちは、あの梅の木が見たい、に変化した。生きているうちに一度は見たいものがすぐ近くにある気がして、いてもたってもいられなくなった。彼女については二の次で、探すつもりもなかった。ただ出会ったら、出会ったで、それはそれでいい。欲求と甘い期待がリュックの中に散乱しているのを自覚した。

 今はまだ、夜の二十三時。始発には早すぎるが、僕は駅へ向かうことにした。

 部屋を出て、鍵をかけた。ガチャリという音と感触が、人生で一番気持ちよかった。

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松藤四十弐 @24ban

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