第五章 場違いな歯車はカラカラ廻る

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 物心ついたころ、という言葉を耳にすることがある。

 子供が成長する段階で周囲のことがなんとなくわかり始める時期というのが誰しもあって、自身の記憶を遡ると自然とそのあたりに着地するらしい。

 自我を持ち始めたころ、という人もいる。あるいは分別がつくようになったころ、と表現する人もいる。曖昧なようだけれど、他人はそれを感覚で理解しているようだった。

 私にはいまだにその感覚がよくわからない。幼少期の朧げな記憶というのがなかったからだろうか。

 生まれた時、私の体は八歳だった。

 お風呂場の鏡の向こう側から、じっとこちらを見つめている少女が自分だと気づいたあの瞬間から、私は始まった。

 少し癖のある赤毛がかわいいなと思ったのを覚えている。触れた手と、触れられた頭に感触があって、うれしくなったのと同時になんだか照れ臭かった。

 しばらくして大人の男性の声で「奈美さん」と呼ばれた。

 それが自分の名前だということに気が付くのに私は少しの時間を要した。そして、自分の名前ではないということに気づくのは、それよりもう少し時間が必要だった。

 生活をするのに、困ることは少なかった。私が分からなかったのは自分のことだけだったからだ。夕方になれば部屋に入り、朝になれば部屋を出る。そして、学校に行き、帰ってきて食事をする。私に与えられた役割はそれだけ。

 家にいた男性はお父さんだった。だから、そう呼んでいた。血がつながっていないことに気が付いたのは、実はつい最近のことだ。余所の家では、あまり娘をさん付けで呼ばないらしいことを、ふと耳にしたからだったように思う。

 知ったところで、何かが変わることはなかった。何年もそのことに気が付かないくらいには、私とお父さんの関係は希薄だったからだ。会話をすることはほとんどない。顔を合わせるのも、一日のうち、夕食の時間のほんの数十分の間だけだったから。

 ただその間だけは、お父さんは私のことをじっと見つめていることがあった。その視線の意味は、今でもよくわからない。もしかしたら上手に娘をやれていないのかもしれないと不安になったこともあったけれど、お父さんは私に不満のようなものを吐き出すことはなかった。いつの間にか、そんな不安を感じることもなくなっていた。

 学校にいる間は、私は「奈美ちゃん」だった。私のことを嫌いな子も、私のことをなんとも思っていない子も、先生も、みんな私のことをそう呼んでいた。外から見た時に、親しそうに聞こえるから「奈美ちゃん」と呼ばれるのは都合がよかった。

 初めて学校に行った日、私の名簿番号の棚には上履きがなかった。

 困って担任の先生に聞くと、血相を変えて共用の靴を持ってきてくれた。

 翌日には国語の教科書が見つからなかった。そのことも伝えると、誰にやられたの? と聞かれて、なるほど誰かがやったことだったのかと鈍感な私でも気が付いた。

 学校は不思議なことが起こるところなんだなぁ、くらいにしか思っていなかったからだ。

 どうやら私が生まれる前から、「奈美ちゃん」はいじめられていたようだった。どうしてなのか気になって、私のことをなんとも思っていない子に聞いてみたことがある。

「ね、私。なんでいじめられてるの?」

 変な顔をされた。今思えば、それがどれだけおかしな言葉なのかわかるような気もするけれど、そのころの私にはそれを判断できるほどの経験が全くなかった。

 だから、「そんなの、いじめてる子に聞いたらいいじゃん」という言葉を素直に受け止めて、実行してみたのだった。

 一人や二人ではなかったから、全員に聞いて回るのは思ったよりも大変だった。簡単には答えてくれない子もいた。私のことを嫌いなのだから当然だ。だけど、結局誰からも明確な答えはもらえなかった。

 誰にも、「奈美ちゃん」をいじめている理由がわからなかったからだ。

 なーんだと思った。それから、私は学校に怖いものがなくなった。

 何を言われても、何をされても、それは私のせいじゃないし、私の前の「奈美ちゃん」のせいでもない。ほとんどのことは気にならなくなって、困ればすぐに先生を頼った。頼ることに気負うこともなくなった。

 そのうち表立ったいじめはひっそりと影を潜めた。みんな、「奈美ちゃん」に興味がなくなったようだった。

 先生からは強くなったねと言われたことがある。理解ができなくて適当にうなずいたあの時の私は、肯定したように見えたかもしれないけれど、強さという言葉と私を結びつけるのはなんだかとんちんかんに思えた。

 そうじゃない。

 ただ「奈美ちゃん」は他のみんなが私に対してそうなっていく以上に、他人に興味がなかっただけなのだ。あるいは自分にも。

 私にとって学校は、辛いことも楽しいこともない、ただただ退屈な時間になっていった。

 小学校も。

 中学校も。

 高校も。

 八年間。時間の潰し方だけが、少しずつ上手になっていく。

 教室が変わると窓際の傷み方や床の汚れが違うので、眺めるところが増えて嬉しかった。クラスメートが変わることにはあまり関心がなかったけれど、それはきっとお互い様だ。誰も私なんて見ていない。

 無感動に、時間だけが過ぎる。

 無干渉に、景色だけが流れる。

 取り残されていくような感覚はあっても、焦りはなかった。そう感じる心が動かなかった。

 孤独という言葉が頭をよぎることもあった。

 それは怖いとか悲しいとか、そんな立派な感情を全く伴わずに、あぁ私はきっとこの退屈にいつか殺されるのだなという確信だけが胸を満たす呪いだ。

 いっそ死んでみようかと思ったことは何度もあった。

 そうしなかったのは、胸の中に眠る奈美がいたからだ。

 どうしてあの日生まれてきたのかを、私はかなり早い段階で知っていた。どうして私に自分の部屋での記憶がないのかを理解していた。

 私を取り巻く無機質な日常は、奈美が耐えられなかった世界だったのだ。

 奈美にとっては、苦しいことばかりだったのかもしれないし、悲しいことばかりだったのかもしれない。でも、鈍感な私にはただただ退屈なだけ。

 それは今思えば、幸せな日々というのを知らないからだったのかもしれない。そう考えて、けれど私は少しうれしくなった。

 だって、きっと奈美には幸せな時間があったということだから。

 目を瞑って、微かな寝息に耳を立てると落ち着くような気がした。

 私は奈美のためならなんでもしようと思った。

 生きていける。

 私は耐えられる。

 鈍感でいよう。必要ならもっと。もっと。

 守りたかった。そのために私は生まれ、存在しているのだから。

 麻木亜美、という名前は私が自分でつけた。

 私が守るのは私じゃない。

 奈美を守るのは奈美じゃない。

 だから、名前が必要だった。

 誰にも呼ばれなくても、私が私を奈美と区別するための名前。

 大切な人を守る騎士としての名前。

 大切な人の代わりに世界と戦う戦士としての名前。

 

 そして大切な人をこの手で殺めた咎人の名前だ。

 

 ピン、という機械音がしてエレベーターが止まる。

 半透明のガラスで作られたボタンはオレンジの光で八階を示していた。

 扉が開くのに合わせてタイル張りの通路へ出ると、ひらけた窓からくすんだ空が見える。見慣れた、変哲のない、退屈な景色だ。だけど他に目を向けるところもないので横目に眺めながら歩いた。

 すぐに行き止まる。差した鍵を回すと錠が外れる音がして、私は呼吸を胸にためながら重い扉に手をかけた。

 家に帰るのは、八日ぶりだ。

 あの日から、もうそれだけの時間が経っていた。

 生活感の希薄なリビングは時の流れを感じさせてはくれなくて、私は普段学校から帰ってきた時と同じような感覚で、荷物を置き、お風呂場の洗面台で手を洗った。

 手首を切ったのはこの場所だった。

 その瞬間の記憶はなんだかはっきりしない。だからか感慨は薄かった。

 鏡に映る奈美の赤毛がかわいいなと、今日もまた思っただけだ。

 戸棚から取り出した新しいタオルで両手を拭きながら、これからのことを考えた。

 明日やその先の未来のことじゃない。本当ならまだ学校にいるはずのこの時間を、私は家でどうやって潰したらいいのかわからなかったのだ。

 何もすることがないと、いらないことを考えてしまう。これまでの私はそうなる前に、部屋に入った。私はそこで途切れて、朝になれば支度をして学校へ行く。退屈でも学校なら、私には役割があったから。

 奈美の部屋。

 自然とその扉の前に立っていた。

 この中のことを私は知らない。それは奈美のものだ。

 小さなドアノブを捻れば私は私でなくなるはずだった。

 けれど奈美はもういない。

 私がこの手で殺してしまったから。

 胸の奥からは何も聞こえない。

 この扉をくぐったなら、私はどうなるのだろうと考えた。

 いっそ、消えてしまえたらいいと思った。それとも今なら私は麻木亜美として、この部屋に入ることができるのだろうか。

 麻木亜美と、麻木奈美を隔てる境界は見た目からはなにも変わらない。

 好奇心もあった。けれど、それとは別の焦燥感に似た感情に急き立てられて、手が伸びる。

 小さな音を立てて、扉は手前に開いた。

 そこは知識の中にある、子供部屋の印象に近かった。

 ピンクのシーツで統一されたベッド、小学生の時から変わっていないのであろう背の低い学習机、隙間の多い小さな本棚。椅子には年季の入った大きなクマのぬいぐるみが座っていた。中の綿が縮んでしまっているのか、その姿はしょぼくれたようにも項垂れているようにも見える。

 壁際には、水槽が二つ並んでいた。七十センチほどの幅があるものと、その半分ほどしかないガラスの囲い。

 大きいほうには水が満たされ、数匹の金魚と水草が入っていた。酸素を供給するポンプから小さな駆動音が聞こえている。

 もう一つの水槽には、拳ほどの大きさのカエルが入っていた。水は底から数センチまでしかなくて、苔むした大きな石が一つと、その周りを囲う小さな砂利が沈められていた。カエルは体を半分だけ水面に出して、今にも欠伸をしそうなとろんとした瞳でじっとこちらを覗いている。

「蓋がないけど、逃げたりしないのかな」

 そんな疑問を口にしてみる。誰にともなく、何の気なしに。

 この部屋には亜美のほかに誰もいないのだから、答えが返ってくるはずはない。

「ガマゾウっていうの。体が重くて高くジャンプできないから、蓋がなくても平気なの」

 自分の発した声だと思った。そんなはずないのに。だけど、よく似ている。

「お腹がすいているみたいだから、ご飯をあげてくれると嬉しいよ」

 振り返る。当然私に声をかけてくる誰かはいなかった。ベッドと机と本棚と、それから椅子に座ったぬいぐるみ。クマの頭が、さっきより上を向いているような気がする。

「私、あなたにたくさんたくさん謝りたいことがあるの。それから、ありがとうと、あと、それから」

「奈美、なの?」

 虚空に問いかける。それはやっぱりおかしいことのはずなのに。

「そうだよ、亜美」返事があった。「私は麻木奈美。ずっとずっと一緒にいたんだよね。あの日まで、私気づいてなかったの。ううん、気づかないようにしてた。亜美がそばいてくれたこと、ずっとずっと」

 ごめんね、とその声は言った。ごめんね、ともう一度。

「やめて」やめてほしかった。奈美から、そんな言葉を言われる筋合いはない。

 謝らなきゃいけないのは私のはずだ。「やめてよ」だから強く繰り返した。

「……ごめん、怒らせちゃったのかな」

 消え入るように聞こえて、沈黙が落ちる。

 私はなんて愚かなんだろう。入院している間、奈美に言えなかった言葉を何度も反芻してきたはずなのに。それは、こんな言葉じゃなかったはずなのに。

 力が入らなくなって、私は崩れるように膝を床についた。両手で支えなければ、今にも倒れこんでしまいそうになる。悔しかった。

「この子はね、るー君っていうの。昔、まだパパが生きている頃に、お誕生日にもらったの」

 顔を上げるとぬいぐるみのクマが右手を不自然に揺らしていた。見えない誰かにつままれて、無理やり揺さぶられているみたいに見えた。

「るー君は寂しがり屋なので、ぎゅっとしてあげると喜んでくれるのです」

 はい、といいながらクマが両手を広げた。すると、支えを失ったように頭がこくんと垂れ下がる。「わわわ」今度は頭が持ち上がって左手が下がった。

 見えないけれど、舞台の裏は忙しそうだった。拍子抜けして、なんだか間も抜けていて、油断していた私は傍からはポカンとしているように見えたかもしれない。

「ぼく、寂しいなぁ」

 催促するようにクマが言う。声音を変えようとしているみたいだけど、あんまりうまくいっていなかった。声だけではなく、不器用なところも奈美と私はそっくりみたいだ。

「そうやって甘えるから中の綿が固くなっちゃうんだよ。いつも抱いてたんでしょ?」

「えぇ、そうだったの? ごめんねるー君。私のせいだったみたい」

 ひょいと持ち上げられて、るー君が明後日の方を向く。すぐに気が付いた。私が立ち上がったら、きっとあのくらいの高さだから。

「そこにいるの?」聞いた。

「ここにいる。今だけ」

 腕を透かしてみたけれど、触れることはできない。

 不思議と、怖いとは思わなかった。ただ少しだけ残念だった。

「奈美はおばけなの?」

「そうだよー、おばけなの」とクスクスと笑った。笑い方は私よりずっと上手だ。

「何がきっかけだったのか、ほんとはよく覚えてないんだけどね。長い間、この部屋が私の世界のすべてだった。寂しいことはなかったよ。るー君がいて、ガマゾウがいて、でめまろもでめすけもいて。辛いことや、悲しいこともなかった。だってここには私を嫌いな人も、私の嫌いなものもなかったから」

 でめまろはあっちの大きいの、でめすけはそっちの細長いの、とクマのるー君が腕を回して大きな方の水槽を指す。

「この世界がどうやって守られてたのか、考えないようにしてたんだと思う。疑問に思うことも、不思議に思うこともしないで。ただただ、生きてた。幸せだったのかって聞かれたら、幸せだったよ。私が望んだんだもん。だけど、」

 奈美は一瞬言葉を詰まらせた。

「だけど、私の世界は亜美を犠牲にしてたんだよね。私を嫌いな人も、私の嫌いなものも全部亜美に押し付けて、幸せにただただ生きてたの。亜美を利用して」

「違うよ」違う。「利用してたのは私の方だった。私が人と馴染めないのは、世界に興味が持てないのは全部、私が奈美のために生まれたからだって思ってた。苦しむのが役割で、辛いのが存在意義で、耐えることだけが許されてるんだって。だから鈍感でいようと思ったのに。全部全部、そうやって受け入れようと思ってたのに。やっていけると思ってたのに」

「亜美」

「あの日、全部わかっちゃったんだ」

 私の胸の中で奈美が目を覚ました、あの日。

「友達になって、って奈美は言ったよね。私は自分が勘違いしてたことに気が付いたんだよ。ううん、確信じゃなかった。ただ間違ってたのかもしれないって、思った。私は苦しむために生まれたんじゃなかったのかもしれない。なにかに喜んだり、幸せに感じてもよかったのかもしれない。奈美やほかの誰かと関わって、友達になってもよかったのかもしれない。そう思ったら、私は自分を認められなくなった。だって、奈美を守っているつもりでいたことが私の誇りのすべてだったから。苦しいのも辛いのも、全部全部奈美のためだって、奈美のせいだって思ってここまで来てしまったから」

 私はあの日、嘘を吐いた。

「ヤダって言ったの。友達になんてなりたくないって。酷い言葉だった。だけどそういわなかったら、私自身がこれまでの私を否定することになる」

 苦しくなって、胸を押さえた。

「ごめんね。奈美、そこまでして私は自分を守ったのに、結局私は自分を殺そうとした。言葉で何を言ってももう手遅れだったんだよ。私は私を、許せなかった」

 腕に残る傷口は、どうして絶つ命を間違えてしまったのだろう。

「いっそ、苦しむために生まれてきたのならよかったのに」

「こら、いけません」

 うつむいた視界の外から、柔らかい感触がほほを掠めた。頭を挙げると、クマが椅子の端で仁王立ちをしている。

「今のはひっぱたいたのです」

「撫でられたのかと思った」

「ひっぱたいたのです。怒ってるんだもん」

 むすっとした気配があった。クマの表情は変わらないけど。

「私は亜美に守られていたことに気が付いたとき、嬉しかったんだよ。私のために何かしてくれる人がいること。私のことを想ってくれる人がいること。同時にね、バカだなぁって思った。そんなに大切なことを、どうして気づかなかったんだろって」

 それから、と奈美は言葉を繋ぐ。

「私は亜美に、何ができるだろうって考えた。小さな世界に閉じこもってた私には亜美が喜ぶようなものをあげられないし、守られるだけだった私にできることもなくて、泣きそうだったよ。ほんとはちょっと泣いた。考えて、考えて、そうだ友達になろうって思ったの。友達がなんだかもわかってなかったのにおかしいよね」

 へへへ、と照れたように笑う。

「でも、私だったら一番嬉しいことを亜美にしてあげたかったんだよ」

 クマの右手がもう一度、私のほほを優しく叩いた。

「今のは涙をぬぐったのです」

「ひっぱたかれたのかと思った」

「涙をぬぐったのです。亜美が私と同じくらい、泣き虫だから」

「ずるい」私には奈美の顔が見えないのに。

「おばけだからね。ずるくてもいいのです」

「怒ってないの?」

「なにを?」

「私、奈美を殺しちゃったんだよ?」

「うん、怒ってない」

「憎んでない?」

「うん」

「恨んでない?」

「うん。もしかして恨みや憎しみで化けて出たんだと思ってたの?」

「思ってた。だって私は奈美にそれだけのことをしたんだもん」

 奈美の声が聞こえた時、ほっとした自分がいた。私を、殺してくれるのかもしれないって思ったから。

「私ね。この部屋を出て初めて友達ができたの。あとたくさんたくさん考えて、それからこうして亜美と話せた。ここでただただ過ごしてた八年間より、それはずっと幸せな時間だったんだよ」

 だから、と奈美は一拍溜めて。

「私は亜美にも、生きてるのって楽しくって仕方ねぇやって笑っていてほしい。それを伝えたくて願いを叶えてもらったんだよ」

 私は本当に愚かだ。

 結局私は、手首に刃をあてたあの瞬間ですら、死にたかったわけじゃなかった。ましてや殺したかったわけじゃなかった。生きることに、臆病になっていただけだ。勝手に支えにしていたものを失って、どうやって生きたらいいのかわからなくなってしまっただけなんだ。

 かっこ悪い。どうしようもなくかっこ悪くて、膝を抱えて泣いた。

 自分の情けなさに辟易する。

 奈美を守るなんて言っていたはずの、自分の頼りなさが恥ずかしかった。

 とんとん、と肩を何かが叩いた。

 膝に埋めていた頭を少しだけ起こすと、ぬいぐるみのクマが不器用に両手を広げてこちらを覗いている。

「ぼく、寂しいなぁ」

 むしゃくしゃして投げやりに、私はそのクマを抱き寄せた。

「私怖いの。真っ赤な血が流れて死ぬんだって思った時よりも、真っ白な病室で目が覚めた時のほうが怖かった。何をしたらいいのかも、どっちを向いて寝たらいいのかすらわからなくなって。少し前ならね、耳をすませたら奈美の寝息が聞こえた。そうすると落ち着いて、奈美のために自分がどうすべきか分かった」

 今は違う。

「もう聞こえないの、胸の奥から、何も聞こえないの」

「私には聞こえるよ。亜美の心臓の音。だって、亜美は生きてるんだもん」

 私はそれが嬉しいよ、と聞こえた。

「私も、それを喜んでいいのかな。私が幸せになりたいって、願ってみてもいいのかな」

 クマを抱きしめているせいで、奈美がどこにいるのかわからなかった。

 返事はない。自分でもわかっていた。もうそれは誰かに答えてもらうような問いかけではないことを。

「奈美。私、あなたと友達になりたい。あの日そう言ってくれたあなたに酷い言葉を言ったけど。本当はすごくすごく嬉しかった。図々しいのはわかってるけど、友達に……なってほしいの」

 それは、何かを望むことをしなかった私の口から出た初めての願いだった。

 微かな音になった奈美の声が耳に届く。

 私はもうそのつもりだったよ、と。

 窓のないこの部屋に、優しい風が吹いた気がした。

「奈美?」

 トントン、と音がした。それが扉を叩くノックの音だと気がついて、私は立ち上がる。一度だけ振り返って、るー君を椅子に戻した。それから、ゆっくりとドアノブに手をかける。

「奈美さん、帰ってきていたんだね。病院まで迎えに行くつもりだったんだけど、受付で驚かれてしまったよ。ご一緒じゃないんですかって」

 お父さんだった。困ったように不器用に笑って、すぐに大きな背中を向ける。

「とにかく無事でよかった。ご飯にするから下りておいで」

 遠ざかろうとするその手を、私は反射的に掴んでいた。びっくりした表情でお父さんは振り返る。怒られるかもしれないと思ったけれど、私の手を振り払おうとはしなかった。

「お父さんは、私が生きていて、嬉しい?」

 どうしてそんなことを聞いたのか、自分ではわからなかった。血の繋がらない娘から言われたって、きっと困るだけなのに。

 目を見れなくて、私は掴んだ大きな手を見つめる。

 私の手は震えていた。それが伝わるのが怖くてとっさに引こうとしたけど、お父さんのもう一方の手が被さって、包むように握り返された。その手が温かくて、私は困惑する。

 お父さんはちょっと考えるような仕草をして、「少し昔の話になるんだけど」と切り出しながら、屈んで視線を合わせてくれた。

「君のお母さんが亡くなった頃、僕は典型的な仕事人間で一切家事なんてやったことがなかった。家族を養った経験がなかったから、君もお母さんもお金で支援するつもりだったんだ。だから酷いものだったよ。会社での業績はいいのに洗濯も掃除も失敗続きで、どんどん自信がなくなっていった。特に料理がね、あれはどうしようもない。本当なら人に食べさせられるようなものじゃなかったと思う。自覚をしていたから心の中で、僕は何度も君に謝りながら食卓についたものだった」

 なつかしいなぁ、という。こんなに穏やかな表情をする人だったのだろうか。机を挟んで座ったお父さんは、いつも眉間にしわを寄せてこちらを見つめている印象しかない。

「努力はしたんだ。だから少しずつ上達はしていたと思う。けれどそのころには、僕の自尊心はボロボロでね。多少なりともできる男だと思っていた僕にはきいたよ。思えば、愛する人を失ったことも響いていたんだろう。うまくいったのか、また失敗だったのか、自分ではもう判断できなくなっていたんだ。何をやってもダメで、どれだけやっても報われないと思い込んでいた。大人にもあるんだ、そういう瞬間がね。あれは苦しかったなぁ。同僚に話してみても誰もまじめには聞いてくれないし、料理なんかでって笑わることばかりだった。まぁしょうがないよな。みんな料理は奥さんが作るものだと思ってるんだから。まぁ、もっと昔の僕だったらもしかしたら同じ反応をするかもしれない」

 なによりみんな自分の悩みで精いっぱいだったんだろう、とお父さんはため息をついた。

「ある日、あれは君が小学校にまた通えるようになって暫くたったころだったと思う。君が、一言おいしいって言ったんだ。忘れもしない、あれは形の悪いハンバーグだった。全てが報われた気がしたよ。いつしか何を食べても味がしなくなっていた僕にも、そのハンバーグはおいしく感じられた。それでようやく僕は、僕を認められるようになったんだ。なんでもうまくやっていけるような気がした。数分前まで、人生のどん底にいるような気分だったのに、おかしいだろ?」

 実はあのハンバーグのレシピを今でも財布に入れているんだよ、とまるでいたずらを企む子供みたいに言う。

「今でも食事中の君の反応で、僕はその日を生きている。あまり表情に出さないから、つい真剣に見つめてしまったりもしたけれど。つまりね、お父さんに生きる喜びを教えてくれたのは君だった。だから今度は僕が、それを少しでも教えてやらないとな」

 お父さんは握っていた手をポンポンと優しく叩いた。

「これじゃ答えには、不十分だったかい?」

 聞かれた私は、ぶんぶんとかぶりを振る。奈美に笑われないようにこらえていたものが堰を切ってほほを流れた。

 私の世界が退屈だったのは、ただ私がそう決めつけていただけだった。

 つまらないものしか、苦しいことしか、興味のない人しか存在しないのは、私自身が目を逸らしてきたからだったんだ。世界からも。自分自身からも。

 こんなに近くに、私のことを見てくれている人はいたのに。

 本当はいつだって助けを求めても良かったんだ。

 そんなことを考える自分なんて想像もできなかったけれど。

 そんなことを望む自分なんて軽蔑すらしていたけれど。

 私は生きている。これからも生きていたい。

 そうして不格好でも生き抜いて、いつかまた私が誰かの力になれる日が来るだろうか。

「……お願いがあるの」

「なにかな」

「亜美って、呼んで。私のこと」

 お父さんは少し面食らったようだった。

 だけど、決心したように真剣な顔で私の名前を口にしてくれた。

「亜美……さん」

「亜美って呼んでよぅ」

 大切な人を守る騎士としての名前。

 大切な人の代わりに世界と戦う戦士としての名前。

 

 そして、奈美の友達の名前。

 

 もう誰に笑われたっていい。

 今日の私は、世界で一番泣き虫だった。

 



                   2

「私、うまくやれたかな?」

「きっと、伝わったと思うよ。奈美の伝えたかったこと全部じゃないかもしれないけど、亜美ちゃんが聞きたかったことは全部。ただ……」

「ただ?」

「ガマゾウが口をパクパクさせながら、喉を鳴らしてるように見える」

「わぁ、亜美に餌のやり方を教えるの忘れちゃった!」

「ちょ、ちょっと待って! 三つ目の願いを使わなくても、きっとすぐに気が付くと思うよ!」

「そう、かな。うん。そうだね」

「僕がここにいるの、場違いじゃなかった?」

「そんなことないよ。勇気が出た。私一人だったらまた逃げ出してたかもしれないもん。そんな後悔、絶対したくなかったから頼ってよかった」

「そっか」

「ありがとう」

「どういたしまして。僕こそ、頼られてよかったよ」

「ふぇ、どうして?」

「うーん、なんていうか。生きてるなぁって、感じがした」

「死んでるのに、変なの」

「自分でも変だと思うよ」

「私、お腹すいた気がする」

「それはきっと気のせいだけど。そうだね、帰ろうか」

「ふふ」

「どうしたの?」

「少し前まで、私の家はここだったのになって思ったの。帰れる場所ができたんだなって」

「それはいいこと?」

「わかんないけど、私は嬉しいよ。だけどもう決めてるの。これからのこと」

「これから、って?」

「るー君にお別れを言ってくるね。それからでめまろとでめすけと、それからみんなに」

 真っ赤な靴で駆け出す奈美の背中に、みかんはかけようとした言葉を飲み込んだ。

「みんなに、か……」



 カラカラカラカラカラカラカラカラ……。



                  3

 また夢を見た。

 自分の中にあった光が、夜に飲み込まれて奪われていく夢。

 失った光を悟られないように、周りの光におびえる夢。

 そして最後には見つかって、居場所をも失ってしまう夢。

 死んでから見るようになったモノではない。

 犯した過ちを繰り返し自覚させるために、眠りに紛れて襲い掛かる呪いだ。


 目が覚めても、鬱屈した気分が晴れることはなかった。

 視界に入る蒼い天井や無意味に回る金属性の歯車のせいで、悪夢の続きを見ているような気さえする。

 だから半ば衝動的に、幹村信幸は異界を飛び出していた。

 耳をつんざく蒸気機関車の汽笛を見送って、降り立った街は平日の昼間だ。

 まぶしさに手をかざすと、かかっていたどんよりとした雲が遠ざかっていくのが見える。

 すり抜けてゆく街の人々と歩調を合わせるように、確かな足取りで信幸は歩き出した。

 こんな風に地に足をつけて歩くのはいつぶりだろうか。死んでからというもの、随分遠回りをしてしまったような気がする。

 目的地はもう決まっていた。

 懐かしい道を記憶とともにしばらく辿ると、この街に唯一の高校が見えてくる。

 信幸自身が通っていたのはもう数年前のことだ。机に座って学ぶというのは、今思えば自分には似合わなかったように思う。成績はそんなに悪くなかったが、勉強していた割にはそれほど良くもならなかった。アルバイトをしていたせいで部活動にも、誘われていた生徒会にも入らなかったけれど、そういった活動でなら何か活躍できたのだろうか。

 パンと両頬を叩いた。あの頃の記憶は悔やむように語るべきじゃない。家の状況を考えれば通うことすら、本当は厳しかったはずなのだから。

 過去に形の残るものを求めるようになったのは、あれから少し大人になってしまったようで残念だった。当時は、友達とする他愛のない会話すらきらきらと輝いていたはずなのに。

 そんなことを考えながら、校舎を見上げる。

 この学校には今、知良が通っている。三年生なのできっと四階の教室で授業を受けている時間だろう。

 知良は信幸に比べて、いや、誰と比べるべくもなく頭がよかった。小学校のころからテストの点数が九割を切っているのを見たことがないし、ひとに勉強を教えていたといって帰りが遅くなることもある。

 最近持ち帰ってくるようになった模試の結果も相当いいらしい。上を目指せば目指せるが、成績次第で学費を免除してもらえる学校を探しているみたいだと、母は言っていた。進学をせず、信幸のように就職をするということも視野に入れているのかもしれない。

 なまじ選択肢が多い分、本人は悩んでいるのではないだろうか。

 相談に乗ってやりたかった。

 背中を押してやりたかった。

 実は知良とは、去年からうまく話ができずにいる。

 それは、信幸のせいだ。

 信幸の犯した、過ちのせいだった。

 

「儲かる話がある。どうだノブ、乗っかってみる気はないか?」

 突然そんな風に切り出してきたのは、当時信幸が働いていた現場に新しく入ってきた二十歳年上のゲンさんだった。本名は、そういえばちゃんと聞いたことがない。飄々としていて言動は軽いところもあるけれど、仕事は卒なくこなす要領のいい人だった。配属されてすぐのころから信幸のことを「ノブ」と呼んで、何かと面倒を見てもらっているうちに、仕事以外の悩みも相談するような親しい間柄になっていた。

 当然、信幸の家がお金に困っている事も知っていた。

 だから『儲かる話』は、そんな自分を見かねてゲンさんなりに考えた結果だったのだろう。

「売り子を探してるやつがいるんだ。時間も手間もかからねぇ。客を引く必要もないし、何なら金を受け取ることもない。つまりは……、なんだ、売り子っつうより品を渡すだけの、まぁそういう役割なんだな」

 正直なところ、ゲンさんにしては珍しく遠回しな言い方だったせいか、信幸は初めのうちなんの話をされているのかよくわからなかった。それがある種の仕事の斡旋だと理解できたのは、報酬の話になった時だった。

「一回二万」

 ゲンさんはさらりとそう口にした。

 魅力的だった。

 信幸が何時間も汗水たらしてようやく手に入る日給をはるかに超えている。それが時間も手間もかからずに手に入るというのは、まさに夢のような話だ。

 少しは怪しい、と感じていた。けれど、きっとあの時の信幸は疲れていたのだ。思ったように評価されない自分に、上がらない給料に、楽にしてあげられない家族の生活に。気にしないようにしていた鬱憤や不満が、それ以上深く考えることを拒絶させていた。

 それに、親切にしてくれるゲンさんにも失礼だと思った。

「やらせてください」最後には、信幸の方からそう伝えた。

 商品として渡された箱は、信幸が想像していたよりもかなり小さかった。市販されている百円ライターを少しだけ横に広げた程度の大きさで、一つ一つが手のひらに収まる。それが六つ。軽く振ってみると中で何かが揺れる気配がした。内容物はさらに小さいのかもしれない。

「酒もたばこもしねぇノブには、なかなか理解しにくいかもしれねぇが、好きなやつはいるんだよ。そういう類のもんだ」

 中身を聞いた信幸に、ゲンさんはそんな風に答えた。的を得ていないことには気づいていたけれど、それ以上は聞かなかった。

 仕事は本当に簡単だった。

 品物と一緒に渡されたメモに従って、指定された場所で箱を渡すだけ。一度に渡される箱は必ず六個で、書かれていた住所は街の各所に分散していた。

 それでも慣れ親しんだこの街を回るのは、信幸にとって大変なことではなかった。かかる時間も長くて二時間。日が暮れて現場の仕事が終わってからでも十分に行うことができる。

 ひと月。

 信幸はそうして、お金を稼いだ。

 合計で七回、報酬をもらった。

 配った箱の数は、四十二個に上った。

 手渡された現金を見て、震えたのを覚えている。普段の給料とは別に入ってくるお金。それも決して小さな額ではない。

 急に怖くなる。

 働いて手にしたお金のはずなのに、自分のしていることが何なのか理解していないというだけで、信幸の心の中には大きなわだかまりが生まれていた。

 わからないということは、怖い。

 心から望んで手にしたお金が、酷く薄汚れた何かに見えた。

「信兄、忙しくなければちょっと聞きたいことがあるんだけど」

 家に帰った信幸に掛かる声があった。こんなに丁寧に断りを入れてくるのは、家の中では知良だけだ。

 母と双子は夕食の準備をしているようなので、少しだけという知良を信じて邪魔にならないように家の外に出た。小さな家の中では、落ち着いて話ができるような場所はない。

「これ、なんだか知らない?」

 あの箱だった。

 ライターより少し大きい程度の、信幸がこの街に配った箱。それが知良の小さな手に収まっている。

 信幸は反射的にそれをひったくった。

 破るように開いて、絶望する。中には何も入っていない。

「使ったのは僕じゃないよ。勉強を教えている最中に友達から相談されたんだ。その子は別の友達から渡されたって言ってた。勉強に集中できるようになるから、吸ってみろって」

「……その子は、どうなった?」

 絞り出すように信幸はそう聞いた。傍から見れば縋るようでもあったかもしれない。

「成績は上がったよ。少しだけ。親に褒められるようになったって、本人は喜んでた。嬉しかったから使い続けて、やめられなくなって僕に相談したんだ。薬自体に依存性があることは、話をして初めて気が付いたみたいだったけど」

 それで調べた、と知良は語った。

「体に強い害があるようなものじゃないみたいだった。依存性もそこまで強いものじゃないけど、短期間イライラが続いたりする。効果はアッパー系の薬物と同じで、軽度の興奮と、思考がクリアになるような感覚があるんだ。それで成績に悩んでる高校生の間で流行ってた。法律ではまだ規制されてない。脱法ハーブって言い方をするみたいだね」

 知良は信幸の知らない箱の中身をよく知っていた。

「健康的な被害が大したことないことを伝えたら、友達は安心してたよ。だけどこれ、高すぎるんだ。高校生のお小遣いじゃ割引される初めの数回しか買えない。でも、使わなくなったらまた親にがっかりされるからって、お金を工面することになる。できるやり方で。例えば、家のお金に手を付けたりとか、人から盗ってみたりとか」

 それはよくないことだから、と。

「だからもし、信兄ぃにできることがあったらお願いできないかな」

 知良の口調は普段と何も変わらなかった。信幸を責めるようでもなく、必至になって止めるのでもなく、いつもの頼みごとをするときの口調で。

 知良は頭がよかった。箱の中身の危険性にすぐに気が付いて、調べて、信幸にたどり着いた。

 でも知良にはそれ以上のことはできない。だから信幸に話したのだ。

 みんなできることが違うから。

 兄ならこの薬を街からなくせると、そう思ったから。

「母さんに、」声が震えた。「夕飯は俺の分だけ残しといてくれって伝えてくれるか」

「今日はカレーだよ。豚肉も入ってる」

「人参は全部食べちゃってもいいぞ。多分遅くなる」

 自転車を引っ張り出して、日の沈み切った街に信幸は漕ぎ出した。

 自分の情けなさに、叫びだしたくなるのを堪えながら無心で足を動かす。

 後悔ばかりが、疲れ切った体を急き立てていた。

 知ろうとすれば信幸にだってできたはずだった。自分のほうがずっと、近いところにいたのだから。そうしなかったのは、知らないことが怖いのに、知ることすらも恐れていたからだ。

「ダメな兄貴で、ごめんな」

 誰にも聞こえないはずの一人の道で、誰にも聞こえないように声を潜めて吐き捨てた。

 いきなり押し掛けた信幸を、ゲンさんは少し驚いた顔で迎えた。それから、言葉のまとまらない信幸の話を無言で、けれど一切目を背けることなく聞いてくれた。

 滅茶苦茶なことを言っていたはずだ。

 もらっていた仕事を、やめさせてもらいたい。

 できるならもう、この街で商売をしないでほしい。

 頂いたお金は、受け取れない。

 封筒に入れたままだった現金を静かに床に置いたとき、信幸の左の頬に衝撃が走った。一瞬遅れて熱くなる。ゲンさんは平手を痛そうにして振りながら、キっと信幸を睨みつけていた。

「いいかノブ。仕事なんざいくらやめても構わねぇ。気に入らねぇから追い出そうってのもわからなくはねぇ。けどなぁ、金は捨てるな。これはお前が稼いだお前の金だろ? 家族養うために、命かけて稼いだお前自身の金だろ?」

 拾った封筒をゲンさんは信幸の胸に押し付ける。

「なぁ。それならこの中に入ってる紙切れは、お前の命と何が違うんだ。お前の家族と何が違うんだよ。叩っ返そうってなら容赦しねぇぞ。こっちの拳が砕けるまでぶん殴ってやる」

 ゲンさんの目は真剣だった。当たり前だ。信幸を心配していたから、本当なら話すつもりがなかったはずの仕事に誘ってくれたのだから。

 信幸が封筒を掴むと、扉の方へ押しのけられた。ゲンさんはもう背中を向けている。

「帰れ」

 強い言葉だった。だけど泣いてるようにも聞こえた。

 謝る言葉も、感謝の言葉も、いくら声にしてみても足りなかったから、信幸は深くお辞儀をしながら一言だけ伝えてその場を後にした。

「お世話になりました」

 ゲンさんは翌日付で現場が移動になった。知らない街の聞いたこともない川に、橋を架ける仕事らしい。訪ねようと考えたことはあったけれど、信幸は結局そうしなかった。

 

 それ以来半年、うまく知良の顔を見ることができずにいる。

 変わらず接してくれる弟を見るたびに、信幸の中の罪の意識が目を覚ましたからだ。逃げることだけが信幸の前にあった道だった。避けて自分をごまかすことが、できる精いっぱいだった。不器用な自分が心底嫌になる。

 信幸はもう一度、母校の校舎を見上げた。

 生き返ってもそんな風に家族と向き合うのはごめんだった。だからここに来たのだ。

 誰にも見えないこの体のうちに、知良の様子を探っておこうというずるい考えだった。

 それでも、向き合わないよりはいい。生き返ったその先も、避けて逃げ続ける人生を送るよりずっといいはずだ。

 チャイムが鳴った。校庭の時計が示す時間から、終業の鐘だとわかる。しばらく待てば、ほかの生徒たちと一緒に中央玄関から知良が出てくるはずだ。

 身構えて待つ信幸の視界の端で、闇色の髪がふわりと揺れた。

「幹村信幸は、どうして生き返るのに願いが二つ必要なんだと思う?」

「いきなり出てきてなんなんだよ。そんなことは知るか。どうせ神様ってやつの都合なんだろ」

「そう、誰も知らないんだよ。もしかしたら『理』の中を探しても、見つからないのかもしれない。ただルールとして、そして事実として、生き返るには二つ分の願いが必要なの」

「だからなんだよ。お前がそう言ったから、ちゃんと俺は願いを残してるんだろうが」

「二つ分の願望特権は、二つ分の願いを叶えることができる。もしくは一つの願いを使って、そのまま存在し続けることもできる。いつまでもいつまでも、特例のままではあるけれど」

「何を言いに来たんだ?」

「幹村信幸にはまだ選べることがたくさんあるということ。生き返ることにこだわって視野の狭くなった幹村信幸にちょっとした忠告をしに来たんだよ」

「余計な……」お世話だ、というつもりで振り返った先に、フルートはいなかった。まるで初めから闇色などありはしなかったかのように、陽に照らされたコンクリートの道が横たわっているだけだ。

「なんだったんだよ」

 吐き捨てる信幸が校舎の方へ向き直ると、ちょうど走る人影が校門をくぐったところだった。ぶつかりそうになってとっさに避ける動作をしたけれど、重なった肩は信幸をすり抜ける。

「知良」

 届かない呼びかけに、人影は当然反応することなく道沿いに駆けていった。一瞬しか顔を確認できなかったけれど、あれは間違いなく弟だ。

 チャイムが鳴ってから、まだそれほど時間が経ってはいなかった。他の生徒も誰一人、まだ校舎から出てきてはいない。

「なにを急いでるんだ、あいつ」

 追いかける。幸いこの体は疲れることがないし、もし信幸が生きていたとしても体力で知良に負けることはない。徐々にペースの落ちてくる知良を追うのは、あたりに目を向けながら走っても、大変なことではなかった。

 家に向かっているんだと思っていた。実際、途中までは信幸自身が使っていた下校の道順と一緒だったからだ。けれど知良は、家まで道一本手前のところでルートを外れて、呼吸を乱しながら、さらに進んでいく。

 母のいる病院の方角ではない。というよりも、こちらは開発中の地域でまだ何もないのだ。ようやく大型の工場の建設が始まり、周囲に関連の建造物を展開していくための地ならしをしている段階だった。信幸の働いていた現場もそのうちの一つだ。

 知良は脇目も振らずに走っている。

 いったいこの先に何があるのか。

 信幸の胸には不安が広がっていた。建設に携わる人間以外は立ち寄らない地域なら、人目を避けたい人間には絶好のロケーションだ。『あの箱』のような危ないものに知良が関わっているのかもしれない。いや、もしかしたらそれらを街からなくすためにまた調査をしているのかもしれない。正義感の強い知良なら、そのほうがありそうだ。

 例えそうだとしても、危険なことには変わりがなかった。膨らむ想像を振り払いながら、祈るように弟を見つめる。

 けれど、やがてたどり着いた場所は信幸にとって完全に予想外のところだった。

「なんで知良がうちの事務所に向かってるんだ?」

 連れてきたことはないはずだった。それなのに、大型の重機が並ぶ駐車スペースを慣れた風に縫って進み、仮設された白壁の小屋の扉に礼儀正しく三つノックをして、知良はその中に入っていく。

 信幸が働いていた、まさにその場所だ。

 追って小屋の中に入ると、知良は一通りその場にいる人間に挨拶をして、信幸の使っていた右から三番目のロッカーを開けた。中にあった作業用のつなぎを当然のように取り出して、素早く着替える。

 あっという間のことだった。いや、もしかしたら信幸の思考が追い付かなかっただけなのかもしれない。気が付けば知良は事務所を飛び出していて、扉のしまった空間に信幸は残される。

「なんであんなガキが、工事場に加わってるんです?」

 その場にいた作業員の一人が、中央の事務机のそばに座る大柄の男に聞いた。作業員の方は、知らない顔だった。もしかしたらほんの最近現場を移動してきたのかもしれない。大男の方はお世話になっていた現場監督だ。

「あれは、幹村の弟……ってもそうか。今日から入るハチさんにはわかるわけねぇな」

 吸っていたタバコを灰皿に押し付けながら、監督はハチさんと呼ばれた年配の作業員に向き直った。

「うちの作業員に幹村って若ぇのがいるんだが、ちょっと前に事故にあってまだ意識が戻らないんですわ。うちからも医者に問い合わせてみたが、どうやらこのまま一生目を覚まさないらしい。気の毒になぁ。年の割には根性のある男だったが、不幸ってのはいつ誰に起こるかわからねぇもんだ。まぁ仕方がないと、割り切るしかねぇんだが」

 胸ポケットから取り出した箱の端をトントンと叩いて、二本目のタバコに手を付ける。

「幹村に振ってた仕事は少なくなかったもんで、俺はすぐに人員の補充をするつもりだった。そこに制服着たあのひょろひょろの小僧が丁寧に菓子折りまで用意して来たわけだ。『兄が目を覚ますまで、自分を使って欲しい』ってな。意識が戻らないとクビになるもんだと思ってきたんだろう。実際そうだ。うちはいつ帰ってくるかわからない人間をいつまでも待つことなんかできないし、人を補充すればそのままそいつを使い続ける。そもそも、回復する見込みはほとんどないんだ。可哀そうでも、気の毒でも、それはもうそういうもんだ」

 だから断った。

 煙と一緒に吐き出された言葉にハチさんも頷いている。

「けど、根性だけは兄弟で似たんだろうなぁ。あいつはとんでもなく頑固だった。あれやこれやの理屈をこねて、自分にここの仕事ができることを主張して見せるわけだ。いや実際賢くはあるんだろうが、あの細い腕を見るとどうも信用ができなくてな。正直後悔してるんだが、諦めさせるつもりで、聞いちまった」

「へぇ、なんて?」

「兄貴は、本当に目を覚ますのか? って、子供に突きつけるにはバカみてぇに残酷な言葉だ。いや、たとえガキでなくとも家族にぶつけるような言葉じゃなかった。ただまぁ、言い訳じゃないがそこが肝心でな。兄貴の代わりに受験を控えた高校生が何か月も働けるか? 場合によっちゃぁ一年二年、起き上がるかどうかもわからない人間の代わりでなんてな。それなのにあいつは、表情をピクリとも変えることなく言い放ちやがった」

 

 信兄ぃは我が家のヒーローなんです。

 今はちょっとかっこつけて、駆け付けるタイミングを計ってるんですよ。

 だからピンチになるまで、全力を尽くさせてもらいます。


 閉め切られた窓の向こうに、土木用の一輪車で土砂を運ぶ知良の姿が見えた。まだそれほど暑い時期でもないのに、もう玉のような汗を流しながらよろよろと進んでいる。

 それは本来、信幸の仕事だった。無責任に手放したはずの役割を、知良は必死に守ろうとしている。

 できることが違うのに、そんなことも度外視にして。

 病院で眠る信幸が目を覚ましたとき、そこに居場所があるように。

「信じるとか、信じないとか、そういう話じゃぁないんだなと悟ったよ。あのガキには、兄貴の帰ってくる姿がもう見えてるんだ。あれは強い。結局、俺が折れるしかなかった」

 がはは、と嬉しそうに監督は笑った。

 幹村信幸は、逃げることしかできなかった人間だ。

 進むことをあきらめて、どうすれば一番価値のある死に方ができるのかだけを考えていた人間だった。

 自分の中の光を失ってしまったあの日から。

 そう、思っていた。

 だけど。

 光は見えなくなっただけだったのだ。

 周りの光が眩しくて、瞑ってしまった両目を開けなくなってしまっていただけ。

 信幸には、まだやれることがある。それを信じて待っていてくれる家族がいる。

「帰らなきゃな」

 窓に近づいて、呟くようにそう言った。声は誰にも聞こえない。けれど知良は一瞬こちらを振り返って、何かを探すような仕草を見せた。信幸の言葉に反応したように見えたのは、きっと気のせいなのだろうけど。

「でも旦那、それならどうして俺を現場に呼んだんですかい? 今の話なら、幹村ってのの代わりは弟にやらせてるんでしょうに」

「そりゃぁ、ハチさん。その弟の働きが俺の目測の半分にもならなかったからですよ。もちろんこちらとしちゃぁ大損害だが、説き伏せられちまった責任もある。まぁ、兄貴が帰ってきたらツケは払ってもらいますよ。いつになることやら、わかったもんじゃありませんがね」

 現場から戻ってきた作業員が扉を開くのに合わせて、信幸は事務所の外に出た。日はまだ高いが、そろそろ夕刻が近づいてくる。日が沈めば、作業も引き上げることになるだろう。

 汗をぬぐう知良の姿に背を向けて、信幸は歩き出した。

 今日だけは、異界に帰る約束だったからだ。

「ちょっとだけ、待っててくれよな」

 生き返る。そう決めてからも信幸の心は揺れていた。

 けれど、そんな迷いも今はどこにもない。

 母が愛してくれた自分を、弟が信じてくれた自分を、信幸自身が愛し、信じて生きていくことができると思えたからだ。

 来た時よりも強く確かな足取りで、自分の生まれ育った街の大地を踏みしめる。

 

 甲高いブレーキ音が信幸の耳に飛び込んだのは、それからすぐのことだった。



 カラカラカラカラカラカラカラカラ……。




                  4


――○○月○○日

 破水という言葉は、耳慣れない人間にはひどく恐ろしいものを想像させる。

 だから姉貴が救急車を呼ばずに呑気にタクシーを待ったというのには驚いたし、その車内で陣痛が始まったという報告にも僕は恐怖を覚えた。

 どんなに多くの本を読みこんでみても、こんな時に役に立つのは経験だ。下に兄弟のいない僕にとってそれは未知の領域だった。

「ここで待つ男性の方はみんなそんな表情をされますけど。大丈夫ですから、気を張りすぎないようにしてくださいね」

 看護師の女性にそう言われてしまうくらいには、分娩室の扉の前で待つ僕は緊張した表情をしていたのだと思う。喜ぶべき時だったのだろうけれど、正直なところ心配ばかりが胸を満たしていた。

 手のひらに収まる生まれたての子供を想像しては、こんなに弱そうな生物がうまく生きていけるはずがないと考えてしまう。消耗した姉貴の呼吸が、どこかで止まってしまうのではないかと怯えている。慌てる医師たちの声が実際に耳に届いてくるような気さえしていた。

 お産は想像以上に時間がかかって、いつしか僕は固い緑のベンチの上で眠っていた。

 起こされた時には分娩室の赤いランプは暗く沈んでいて、頭がうまく働かないまま指示された病室へと向かった。

「なーに、あたしより疲れた顔してんのよ」

 ゲラゲラと笑う姉貴の腕の中で、タオルまみれの小さな生き物がもぞもぞしている。その圧倒的な存在感に圧されて身動き取れずにいた僕に、姉貴はほいっと赤ん坊を抱かせた。まるでバスケットボールでも受け渡すみたいに。

 重い。それから、温かい。手のひらになんて到底収まらなかった。上気して赤みを帯びた顔をぶんぶんと振って、僕から逃れようとする。落とさないように慌てている姿を見て、何が楽しいのか姉貴はまた笑っていた。

「その顔、よく覚えときなよ。なんで生まれてきたのかなんてちっとも考えてない顔してる」

 姉貴がそういうので僕は腕の中を覗いたのに、「そうじゃない」と鋭いチョップを頂いた。

「あんたの話してんのよ。人間必死になったら大抵のことはどうでもよくなるの。まぁ、そういう意味じゃ、あんたら今そっくりな顔してるけどね」

 返して、というので赤ん坊を姉貴の腕に戻した。平気な顔をしているけれど、体を動かすのは少し辛そうだった。

「命はさぁ、どんなに数えなおしても一つしかないわけ。あたしが十か月も重たい体引きずって、それこそ死ぬんじゃないかってぐらい叫びながら産み落としても、こんなにちっちゃな一つだけ。なんか笑っちゃうわ」

 こんにゃろ、なんて言いながら姉貴は小さな頬を二本の指で挟みこんで、しわくちゃになった顔を満足そうに見つめている。

「一つだから、あんたの言うこともわかる。命を正しく使いたくもなるだろうし、確かな答えを求めたい人たちもいるだろうさ。自分はどうして生まれてきたんだろうって。だけど、あたしはそういうのどうでもいいのよね」

 だって一つだから、と。

「一つだから、どうせ正しくなんて生きられない。一つだから、確実なものになんて到底たどり着かない。諦めてるんじゃなくて、もっといい方法を知ってるって話ね。つまりたった一つの自分の命を、何があっても認めてあげたらいいわけよ」

 赤ん坊が突拍子もなく、張り裂けそうな声をあげて泣き出した。

 取り乱すことしかできない僕を尻目に、姉貴はあやしながらまたゲラゲラと笑っている。

「まぁ、思うように生きて、せいぜい苦しまないように死になよね」――




                  5

 みかんが一通り生界での用事をこなした頃には、世間は夜と呼べる時間になっていた。

 はっきりとした始まりの時刻を決めてはいなかったけれど、もうみんなを待たせてしまっているかもしれない。そんな焦りを抱えながら帰りの機関車に乗り込んだ。ふかふかの赤いシートに着席すると、列車は次第に角度をあげてゆく。

 車窓から眺める夜空には一面に星がきらめいていた。けれど少し乗り出して視線を下げれば、街の灯りはそれ以上にきらきらと輝いている。

 その一つ一つが人の営みであることを、みかんはもう知っていた。

 高倉涼吾の生きた街、そしてみかん自身が生まれた街。

 そこでは足早に歩くセールスマンや、談笑に勤しむ駐在や、野球に励む学生が生活をしている。病院で働く人たちや、お店で物を売る人たちもいた。ベビーカーを押すお母さんともすれ違う。そして奈美や、亜美や、信幸も。

 たくさんの歯車が緻密に繊細に噛み合って、力強い音を響かせながらこの街は生きている。

 やがて大空に空いたトンネルに差し掛かるまで、みかんはこの景色を忘れないように目に焼き付けておこうと思った。


 窓の向こうが、蒼に変わる。

 異界の空は暗く深いけれど、夜のそれとはまったく違ってみかんには映った。単に星がないからではない。触れれば浸食されそうな、粘度の高い凝った闇色が空間そのものを満たしているみたいに感じる。ガラス越しにかざした手が、気を抜くと持っていかれてしまいそうな気がした。

 けれど、それを怖いと思ったのは初めの頃だけだ。次第に見慣れて、今や帰ってきたという安心感すら覚えている。もしかしたら浸食されたみかんの体は、少しずつ闇に近づいているのかもしれない。

 きっとそんな感想を伝えたら、フルートに笑われてしまうのだろうけれど。

 時計塔につくまではまだ少し時間がかかりそうだった。だから忘れないうちに抱えていた日記を開いて筆を走らせる。


 与えられていた個室では少し狭いので、フルートに頼んで広めの部屋を借りることにした。

 円形のテーブルと数個の椅子、脇にはひと際目立つホワイトボードが立っている。

 初めに特例の説明を受けたあの部屋だ。暗色の壁やむき出しの金属が少し雰囲気を乱しているけれど、幸いまだ信幸が戻ってきていないので、これから飾り付ければ何とかなるだろう。

 とりあえずみかんの部屋で眠っていた奈美を起こして、用意した折り紙で飾りを作ってもらうことにした。飾りといっても輪っかをつなげて壁や天井に渡す簡単なものだったけれど、見本として作ったそれを奈美は「すごいすごーい」と嬉しそうに眺めている。作り方を教えると、真剣な表情になって黙々とハサミを動かし始めた。もしかしたら、案外こういう作業は好きなのかもしれない。

 フルートにはホワイトボードの装飾をお願いすることにした。せっかくあるのだから、使わない手はないと思ったからだ。伝えるとフルートはマーカーの蓋をきゅぽんと外して、くくくと歪んだ笑いを見せながら椅子によじ登った。全身をふんだんに使って大きな文字を置いていく。それでもやはり、文字はボードの半分を少し超えたところまでしか届かなかった。上だけみかんが書くのもはばかられるので、奈美の飾りの余りを上から垂らしてみる。急ごしらえの割には、それなりに見栄えは悪くないように思えた。

 みんなのおかげで、次第に場が整っていく。けれど肝心なのはみかんの仕事だ。

 中央の広い机いっぱいに、まずは覚えた材料を並べてみる。並べるというのはおかしな表現だったかもしれない。必要な物はそこにあっただけなのだから。ほんの一瞬前まではなかったというだけで。

 過程を飛ばした結果が、視界を覆うほどに広がっていた。

 薄力粉、バター、卵、生クリームに牛乳と砂糖。彩りを加えるフルーツや、クリームを泡立てる際に使う氷水も用意している。調理器具も必要だった。それは使う時になってから揃えていくことにして、みかんは頭の中でこれからの算段を立てる。

 一つのケーキを作るのに、こんなに材料が必要になるとは想像していなかった。知らなかったから、みかんは生界にそれを調べに行っていたのだ。

「どうせ有限性変動存在率に頼るのなら、完成したケーキ自体がここにあってもおかしなことはないんだよ」

 そう、フルートが当然の疑問を僕にぶつけてきた。

「僕もそのつもりだったんですけどね。奈美が『え? ケーキってみんなで作るものんじゃないの?』なんて言うので」

 小さい頃の家族との思い出を嬉しそうに奈美は語ってくれた。あまりに昔のことだから、味も匂いも忘れてしまったけれど、楽しかったことはよく覚えている。だから特別な今日はケーキなのだと。

「そうは言ってもスポンジぐらいは用意してもよかったんじゃないかと、今更になって後悔していたところです」

 くくく、と短くフルートは笑った。

「あるんだよ」

 ある。

 丸テーブルの中心に巨大な円形のスポンジケーキが乗っていた。かわりに先ほどまで机を陣取っていた粉や卵は影も形も見つからない。

「わわわ、でっかいケーキだ! すごいよ、みかんくん!」

 まだ何の飾り気もないふかふかの生地だけのケーキを見て、奈美は大はしゃぎをしている。的外れな感謝に笑顔を返しながら、これでよかったのかと少し気が抜けてみかんは椅子に座り込んだ。

「余計なおせっかいだったかな?」

「いえ、奈美がよければいいんです。それに作る余地はまだまだありそうですし」

 ど・れ・に・し・よ・う・か・なぁ、とスタッカート交じりに口ずさみながら、奈美は添える果物を選び始めていた。伸ばした右手の人差し指が、優柔不断にゆらゆらと弧を描いている。左手には、最後に差す予定のカラフルな蝋燭がもうしっかりと握られていた。

 見ているだけでも楽しいけれど、せっかく下調べをした知識を全く使わないまま終わってしまうのは流石に寂しいので、いつの間にかホイップになっていたクリームを使って下地を作ってあげることにした。ケーキの高さと同じ大きなヘラを使って平らに伸ばし、その上からフォークで波の模様を入れていく。ある程度整ったところに、絞り袋で余ったクリームをデコレートしていけば、まだ真っ白ではあるけどイメージしていたケーキにぐっと近づいたように思う。その間、街の灯りよりきらきらした瞳がみかんの周りを興奮しながら周回していた。

「わぁ。素敵だ! イチゴをのせるのがもったいない!」

「のせなかったら、イチゴの方がもったいないよ」

 気に入ってもらえたようなのでひとまずほっとして、みかんは一息を吐いた。あとはもう適当に果物をちりばめていくだけだ。あの人差し指の様子だと、それにはもう少しかかりそうではあるけれど。

「異界では、大抵のことは一人でもできるんだよ」

 一仕事終えたみかんを気遣ってフルートがカップをよこしてくれた。中身は空に見えたけど、受け取るときにはコーヒーが小さな渦を巻きながら控えめに湯気をあげている。一度失敗をしているので、念入りに温度が冷め始めるのを待って口をつけた。みかんが自分で作るよりも少しだけ苦い。けれどここまでの準備に気を張っていた体には、なんだか染み渡っていくような気がした。

 闇色の髪がふわりと空気を孕んで、みかんの隣に座る。

「大抵のことは一人でできる。大抵のものは揃えることができる。願望特権さえ残っているなら、その大抵の範囲を限りなく全てに近づけることだってできる。でも、大抵のことは必要ないのが異界なの。ここにいる全てが、存在しないことを許されているんだもの」

「それは神様に?」

「あるいは理に」

 でもそんなことは関係ないんだよ、とフルートなら言うんじゃないかと思った。だけど言葉は続かない。つまみ食いをしながらブドウやオレンジを並べていく奈美の姿を、じっと見つめているだけだ。

 だから、「そんなことは関係ありませんよ」とみかんの方から言ってみる。

 フルートは一瞬感情の読めない呆けたような表情をして、それからあひゃひゃひゃひゃと笑った。いつもより少しだけ寂しそうに。それはきっとみかんの思い過ごしなのだろうけれど。

 死神であるフルートも、空虚な気分に浸ることがあるのだろうか。

「異界では過去にも極々稀に、こうして特例が重なることがあったけれど、集まって何かをするなんていうのは初めてなんだよ」

 ホワイトボードに並べた四文字を眺めながら、なぞるようにそう言った。そんなに大したものではないけれど、この些細な催しをフルートも楽しんでくれているといいなとみかんは思う。

「それにしても遅いですね、信幸さん。今日だけは異界に戻ってくる約束だったのに」

 みかんが異界に帰ってきてから、かなりの時間が経っているのに、この会の主役はなかなか姿を現さなかった。

 もしかしてもう、生き返ってしまったのだろうか。それは残念なことではない。ただそうなるとケーキが少し大きすぎたかもしれないなんて、場違いなことが頭をよぎった。

「心配しなくても、ひょっこり顔をだすんだよ。誰にだって、ばつの悪い瞬間はあるからね」

「フルートは何を知ってるの?」

「なんでも、知っているんだよ。死神はそういうもの」

 あ、とケーキに蝋燭を立てていた奈美の手が止まった。視線の先で壁と同色の蒼い扉が、小さな音を立てて手前に開く。

「おかえり、マッキー」と奈美が言った。

「おかえりなさい」とみかんも続く。

 くくくくっとフルートは楽しそうに笑っている。

 緩慢な動作で部屋に入ってきた信幸が、所在なさそうに頭を掻きながら謝罪の言葉を口にした。

「お、おう。悪かったな。遅くなって」

 みかんは立ち上がり、中身がなくなって冷たくなったカップを机に置く。

「それじゃあ、お別れ会を始めましょうか」



 カラカラカラカラカラカラカラカラ……。




                  6

 ぼぅ、と微かな音を立てて蝋燭に火が灯った。

 熱を帯びた光に照らされて、切り分けられたケーキが薄暗いこの異界の一部屋で強い存在感を放っている。蒼い部屋で赤い光に触れていながら、表面を覆うクリームが白く見えるのは不思議だなと、場違いにそんなことを考えた。

「薄暗くないもん」と言って頬を膨らませた奈美の言葉で、幹村信幸はようやくその部屋に施された装飾に気が付いた。視線をあげると、あちこちにカラフルな折り紙の飾りがぶら下がっている。妙な懐かしさがあった。少し前なら、家族の誰かの誕生日になると信幸自身がこうして家中を飾り付けたものだ。質素で簡単なつくりだけれど、そうするといつもいるはずの家がどこか特別になったような気になれた。

 壁際のホワイトボードには大きな文字で『お別れ会』と書かれている。文字の位置が中途半端に低いのは、まぁきっと想像の通りなのだろう。似顔絵のようなものも並んでいるけれど、芸術に疎い信幸にはどれが誰なのかよくわからなかった。まるでピカソの有名な絵画のように、情報が複雑化されてうまく評価ができない。ただ彩りとしては悪くないように思えた。

「幹村信幸が火を消すのをみんなが待っているんだよ」

 フルートの言葉で信幸が視線を戻すと、みかんと奈美がこちらをじっと見つめている。

「俺で、いいのか?」

「もちろんです」みかんが答える。「信幸さんのための会ですから」

 手元のケーキの真ん中で、溶けだした蝋がゆっくりと滴っていった。ショートケーキといわれて受け取ったけれど、皿の上ではイチゴと同じくらい、ブドウやオレンジやそれからメロンが自分の色を主張している。

 蝋燭の火を吹き消す。燻った煙が一瞬のこって、すぐに闇に紛れて見えなくなった。

「もう食べてもいいんだよね? いただきまーす」

「ちょっと待ってね。これからフォークを配るから、って、もう半分なくなってる……」

 奈美が口火を切って、その口でケーキにかぶりついた。慌てた様子でみかんが寄ったけれど、一足遅かったようだ。クリームだらけになった顔で満足そうに笑みを浮かべて、甘いなぁと呟いている。

 その横ではフルートが、受け取ったフォークで刺したメロンを宙で揺らして物珍しそうに見つめていた。そのうち飽きたのか口に放り込んで、今度はブドウに同じことをしようとしている。皮のついたままの大ぶりの巨峰を、先の丸いプラスチックのフォークで刺すのは難しそうだ。


 ぼぅ、とそんな様子を信幸は見つめている。


「甘いものは、口に合いませんか?」

 フォークを手渡しに来たみかんが心配そうに尋ねた。

 はっとして受け取りながら、気を使わせてしまったことを謝る。

 それから、小さく分けたケーキを口に含んだ。

 感想を伝えるとみかんは嬉しそうに笑った。

 それから、みんなでこの会を準備していた話を聞いた。

 感謝を伝えると奈美が胸を張ってエッヘンと言った。

 それから、信幸がなかなか帰ってこないので心配していたといわれた。

 改めて伝えようとした謝罪の言葉は遮られて、ケーキを食べるよう促された。

 それから、小さく分けたケーキを口に含んだ。

 亜美も食べられたらいいのにと奈美が言うので、亜美とは誰なのかを尋ねた。

 それから、奈美が特例になった経緯を聞いた。

 それから、飼っていたカエルや金魚の自慢を聞いた。

 それから、小さく分けたケーキを口に含んだ。

 それから、みかんが生界で見てきた街の話を聞いた。

 それから、小さく分けたケーキを口に含んだ。

 それから、飲み物がいるかと聞かれて紅茶を頼んだ。

 それから、小さく分けたケーキを口に運んだ。

 それから、湯気の上がるダージリンティーに口をつけた。

 それから、こちらをじっと見つめるフルートの視線に気が付いた。

 それから、小さく分けたケーキを口に運んだ。

 それから、

 それから、

 それから、

 それから、

 それから、

 それから、

 それから、

 それから、

 それから、

 それから、

 それから、

 それから、

 それから、

 それから、

 それから、

 それから、

 それから、

 それから、

 プラスチックのフォークが陶器の皿をひっかいて不快な音を立てた。

 思わず手放した皿が蒼い床にぶつかっていくつもの破片に変わっていく。大きな音を立てて散らばり、床にまだら模様を作ったそれを拾うために立ち上がると、数回の瞬きの間に割れた皿はなくなっていた。初めから、そんなものなどなかったかのようだった。

「大丈夫ですか?」とみかんが聞いた。それには答えなかった。

 だけど、話さなくちゃいけないことがある。

 思考がようやくクリアになって、信幸はどこか傍観するようにこの場を眺めていた自分に気が付いた。痛覚のない頭が痛む。鳴るはずのない鼓動が叫びをあげる。逃げ出そうとする体を、必至に押さえつけた。

「聞いてほしいことがあるんだ」

 間を開けずに一息で伝えた。


「生き返ることはできなくなった」


 誰かの息をのむ音が聞こえた。

「ここまで用意してくれたのにごめんな。それから、今まで言い出せなかったことも悪かった。今日は弟の様子を見に行ってたんだ。賢くて正義感の強いできた弟だ。それがバカな兄貴の代わりに無茶して働いて、体力もないのに力仕事なんかやりやがって、ふらふらになりながら俺の帰りを待っていて」

 それで、

「転んだんだ。もしかしたら石にでも躓いたのかもしれないし、単に足でももつれただけだったのかもしれない。俺がそれに気づいたのは、もうどうやっても止まれないダンプカーがかけた急ブレーキの音が聞こえたからだ。最悪の未来が見えた。それが現実になろうとしてた」

 大切なものを永遠に失う夢。

「判断するのは早かった。必死だったから、知良を助けるのに願いを使うことを一瞬だって迷わなかった。いや、家族のためならどんな状況だってきっと同じことをしたさ。ヒーローになれた気がしたよ。かっこよかったんだぜ?」

 精いっぱい冗談めかして放った言葉は、反響することなく闇に溶けてゆく。

「弟さんは、無事なんですか?」みかんが聞いた。

「呆けた顔してたよ。そりゃぁそうだろう、轢かれると思ってたのに、気が付けば三メートルもずれたとこで間抜けにちじこまってたんだから。擦り傷一つもなかったはずだ。まぁ、気をつけろって説教はされてたけどな。それで一応家に帰るまで見送って、さて俺も帰るかって汽車に乗り込む段階になって」

 考えないようにしていたことに気づいた。

「俺は二つ目の願望特権を使っちまってた。だけど後悔はしてないんだ。もう生き返ることはできないんだって思っても、不思議と清々しい気分ですらあった。やっと本当の自分の願いのために特権を使えたんだなと思ったよ。このために特例になったんだとすら思えた。そう考えると、これまでのことも全部許せるような気がしてきた。失敗ばかりだったこれまでのことを何もかもだ。ただ、ここで待ってくれているお前らのところにどんな顔をして帰ったらいいのかわからなくて」

 随分遠回りをしてきてしまった。

「悪かったな、本当に。待たせた上にこんな体たらくで」

 もう一度、謝る。頭を下げた。

「それだけ?」と奈美が聞く。

「あぁ、それだけだ」と答えた。それだけ。

「それなら、マッキーはどうしてそんなに悔しそうに泣いてるの?」

 近づいてきた奈美が覗き込むように見上げてくるので、信幸は乱暴に目元を拭った。だけどあんまり効果はなくて、もう照れたように笑うしかなかった。

「つくづくかっこ悪いなぁ、俺は」

「今日はそんなことないよ」

 いつかの言葉を予想していた信幸は、少し拍子抜けする。

 じゃじゃーん、と奈美は後ろに回していた手を信幸の方に差し出した。何かをつまむように持っているようだが、にじんだ視界の中ではそれが何なのかわからなかった。

「ここに余ったイチゴがあります」

 どうやらイチゴらしい。

「これを食べると、イチゴはなくなってしまいます。それは悲しいこと? ううん、イチゴはおいしいのです。なくなってしまうけど、誰かを笑顔にすることができるでしょ?」

「よくわからねぇ。何が言いたいんだよ」

 伝える言葉を整理するように奈美はうーん、と間を置いた。

「私ね、パパとママのところに行こうと思ってるの。随分前に死んじゃって、きっと特例になんてなってなくて、どこにいるかもわからないよ。でもね、考えてたんだ。生界でも、異界でもないところなら、また会えるかもしれない。もしかしたらどこかでずっと、待っててくれているのかもしれない。フルートには否定されちゃったけどね」

 ひひひ、と初めて見る笑い方で闇色の髪が揺れた。

「でもでも、ほんとは誰も知らないんだもん。私は冒険をするつもり。そのための勇気をここにいるみんながくれたから。ほかの人が考えている幸せとは違うのかもしれないけど、私は異界にきてとっても幸せだった。異界にきて、それまでの自分も幸せだったんだってわかった。亜美と友達にもなれたしね」

 楽しかったんだぁ、と奈美は赤毛を振り回して笑っている。

「だけど、これからの私が幸せになるためにはここじゃダメなんだって思ってる。きっとわかってもらえないと思うけど、そう信じてる」

 だからね、と突き出していた手を引っ込めた。

「このイチゴは私が食べます」はむ。「でも、私に残った最後の願いはマッキーにあげるよ」

 あひゃひゃひゃひゃ、と闇が邪悪に顔を歪めて笑った。

「なにを、言ってるんだよ」

 突きつけられた言葉が、うまく頭に入ってこない。

「生き返るには二つ分の願望特権が必要なの。それは言葉通りの意味なんだよ。だから、麻木奈美の提案は面白い。前例はないけどね。それはでもそれだけのことなんだよ。幹村信幸の最後の願望と、麻木奈美の最後の願望で、幹村信幸は生き返ることができる」

 フルートが淡々と事実を伝える。できる。できるのだろう。でもそうじゃない。

「そんなことしたら、願いを全て使った奈美はどうなるんだよ」

「ふっと消えるの。初めに説明した通りだよ」

「違います。冒険に出るのです」

「お前は、黙ってろ!」

 強い言葉を、思わずぶつける。

「消えちまうんだぞ。お前自身がどこにもいなくなっちまうんだ。自殺をするのと変わらないじゃねぇか。それをなんでそんなにあっさり決められるんだよ。平気な顔して、そんな風に言えるんだよ。怖く、ないのかよ」

 次第に弱くなっていく自分の声を自覚していた。きっと、死を決めた直後の自分自身にぶつけているような言葉だったからだ。

「怖かったよ」と奈美は言った。「せっかくパパとママを探す最後のチャンスがあるのに、私はそれを選べないんじゃないかって怖かった。あーでもない、こーでもないって結局願いを使わずに、ぼんやり異界でただ長いだけの時間を過ごしてしまうのが怖かった。だから、素敵だと思うのです。マッキーは生き返りたいんでしょ?」

 違うの? と首を傾けながら奈美が言う。

 それはもう、諦めたことだ。

 叶えた願いと引き換えに。

 だから、後悔なんてしていない。

 そう言ったはずだ。

 冷静に、同じことをもう一度伝えるはずだった。

 言える、はずだった。

「生き返りたいに決まってるだろ!」

 だけど吐き出した言葉は、もう信幸の支配を離れていた。

「俺は大馬鹿野郎だ。与えられてきた愛情にも、向けられていた信頼や尊敬にも目を背けて、卑屈な自己犠牲とちっぽけな罪悪感で命を捨てたクズなんだ。でもそんな俺を、少しも迷わずに待ち続けているもっと馬鹿な家族がいる」

 待つなんて言葉では、とても足りない。

 今この瞬間も、彼らはそれぞれの場所で戦い続けている。

 その姿に、たくさんのことを教えられた。

「俺にはまだ、生きてやれることがあるって気づいたんだ。失ったと思っていた俺の中の光を、もう一度見つけることができた。生き返りたくないわけないじゃねぇか。生き返られなくたっていいなんて、思えるはずないじゃねぇか。残念だけどしょうがないなんて、割り切れるわけないだろ!」

 裸になった言葉が、自分自身を突き刺すようだった。

「だけど、そのために誰かが消えてなくなるなんて、そんなのダメなんだ」

「マッキーはわがままだなぁ」奈美がくすくすと笑う。「私が願いを使うのは私のためなのに」

 異界のどこか遠くから、重い鐘の音が響いて部屋の空気を震わせた。蒼い壁が、冷たい床が、吠える信幸を威嚇している。

「みかん。お前も奈美に、なにか言ってやってくれよ」

 助けを求めるしかなかった。そうでもしなければ、いつか自分が折れてしまう気がして。

「信幸さんは優しいんですね」

 みかんはそんなことを口にした。

「こんな時になんだよ」

「だって、どうしても叶えたい願いがあるのに、信幸さんは今も人のことを考えてる。自分自身のことよりも、奈美のことを考えているんでしょ?」

「臆病なだけなんだよ」幹村信幸は人間だから、とフルートが言葉を挟んだ。

「それでも、僕は優しさなんだと思います。少し安心しました」

 冷めちゃいましたよね、と呟きながらみかんは信幸に近づいて、持っていたままだったカップに被せるように手のひらを添えた。手が離れると、まるで今注がれたばかりのような湯気が紅茶から上がる。その動作には一切の違和感がなくて、フルートと初めて出会った時に覚えた異様な気配を、信幸は思い出していた。

 自分とは在り方の違う存在を前にした薄ら寒い感覚。

 だけど自身に用意したカップを傾けて、「う、苦い。ちょっとかっこつけちゃいました」と照れたように笑うみかんの姿は、自分と何も変わらない。人そのものだ。

「少しだけ、僕の話をしてもいいですか?」

 みかんはそんな風に、少しかしこまった様子で切り出した。

「生まれた意味を考えていたんです。生まれてからこれまでずっと。なんだかそれだけが『僕』と、僕が生まれるまで僕だった『高倉涼吾』という人間を繋いでくれているような気がしたから。初めは正解を探していて、確からしいものにできるだけ近づきたくて、がむしゃらに探してみようなんて思っていたんですけど。そんなもの、本当はどこにもないんだって気づいたんです。答えは見つけるものじゃなくて、選ぶものだから。それからは、じゃあ何を選ぶべきなんだろうって、悩みました。けどなかなかうまくいかなくて、彼も同じように悶々とした時間を過ごすことがあったのかな、なんて考えてみたりして」

 みかんの視線が手元のカップに落ちる。

「もう全部、否定してやろうって思ったんです。例えば、僕が生まれたのは神様のためじゃない。僕が生まれたのは歩道に広がる真っ赤な血に怯えるためじゃない。僕が生まれたのは知らない世界を怖がるためじゃない。僕でない僕を忘れるためじゃない。異界で迷子になるためじゃないし、僕を拒絶する理に震えるためでもない。あとは、そうだな。野球をするためでもなさそうですよね。とか、とか」

「悲しい顔をするためでもないんだよ」と奈美が言うと、みかんはそうだねと柔らかな表情で同意した。

「否定して、否定して、否定して。無限にあるはずの選択肢を少しずつ減らしていったら、不思議なんですけど求めていたものの輪郭が見えてきたような気がするんです。案外答えって、そんなものなのかもしれないって思いました。直接的な言葉にすることは難しいけれど、確かなもの。そしてそれは僕自身が選んだもので、変わらないもの。うまくは説明できないんですけどね。今の僕は、それに従って迷わず歩ける」

 そうだ先にやっておかないと、とみかんは思い出したように、いつか見た日記を取り出した。異界の闇と交わらない異質な存在感を放つそれを、大切に抱える。

「初めの願いを使った時から、いつかはやらなくちゃって思っていたんです。僕がこうして独り占めしてるのはずるいですよね。この日記を、探している人がいるはずだから。二つ目の願いで、高倉涼吾の日記を所持する権利を放棄します」

 赤い光が日記と、それを持っているみかんを包み込む。信幸の目に、再びみかんが映るときには、もう広げた手の中には何もなくなっていた。一瞬名残惜しそうにその手を握り締めて、切り替えるようにそれから、とみかんは呟いた。

「信幸さんは優しいから、きっと最後まで奈美の提案にうんとは言わないですよね。でもそれじゃあ、奈美の願いは叶わなくって……。仕方ないことだとは思うんですよ。だって、それは奈美のわがままですから」

「わぁ、みかんくんが意地悪なこと言ってる」

「でも、このままだと誰の願いも叶わない。それって寂しいことだから、僕も少しだけわがままになってみようと思うんです」

 あひゃひゃひゃひゃ、とフルートがまた笑いだす。

 不吉な予感があった。それはもう、確信ですらあった。

「お前まで、なにを言おうとしてるんだよ」

 問いかける信幸の目を、みかんはしっかりと見つめ返している。

「僕の最後の願いと、奈美の願いで信幸さんを生き返らせます。それなら奈美の願いも、信幸さんの本当の願いも叶えることができる。信幸さんは優しいままで、元の世界に戻ることができます」

 名案でしょ、とでもいう風におどけて笑った。初めて見るみかんの表情を、信幸は呆然と眺めることしかできない。

 一通り笑い終えたフルートが、振袖に空気を孕んで舞うように椅子から飛び下りた。異様に静かに、理不尽に美しく。

「同じところには行けないんだよ」

 見惚れるほど残酷に、言葉を紡ぐ。

「麻木奈美と、みかんとはね。同じ場所で、同じ理由で消えたとしても、行きつくところは決して同じにはならないんだよ。それでも、願うの?」

 投げかけられた問いかけに、一瞬奈美とみかんの視線が交わる。

「わかっています。これはそういう願いではないですから」

 みかんは力強く答えて、奈美が応じるようにうんと頷いた。

「私はもともと、冒険には一人で行くつもりだったんだもん」

「勝手なこと言ってんじゃねぇぞ。そんなこと、絶対にさせないからな!」

 信幸は、許せない。

 死を選んだのは信幸だった。形だけこしらえた意地を張って、見せかけだけの決意を抱えて。

 考えることをやめたのは信幸だった。逃げるように部屋にこもって、見たくない世界を遠ざけて。

 焦るように願いを使ったのは信幸だった。自分の本心と向き合わず、場当たり的にお金を求めたのは、ただ楽になりたかっただけ。

 そんな情けない自分のために、二人が願いを使おうとしているのが許せなかった。消えてしまおうとしているのが。許せなかった。

「ダメなんだ」

 伝えたい思いが、うまく言葉にならない。

「俺が本当は何を望んでるのかなんて、もうわからねぇよ。生き返るつもりだった。それはできなくなって、だけどこれでよかったんだって想いも嘘じゃなかった。それなのに俺を生き返らせようとして、お前ら二人して消えちまうだなんて。そんなのってないぜ。生き返りたい気持ちと同じくらい、お前らが選ぼうとしていることを許せないのも本音なんだ」

「信幸さんが僕らを必死に止めようとするのは、きっともう信幸さんは自分の考える幸せの形を思い描けているからですよね。それはきっと、あの街にしかないものなんでしょう。僕らがまだ見たこともないような、宝物があるのかな。少しうらやましくも思います」

 少しですよ。と。

「でもだから、信幸さんは生き返らなくちゃいけない。僕や奈美とは違う道で、そこで本当の願いを叶えてください」

 みかんが残っていたカップの中身を空にして、円形の机の端にコトっと置いた。それを見た奈美がひょこひょこと近づいてきて、

「ごめんね、マッキー」

 そう言った。

「お話が長かったから、もう使っちゃった」

 奈美の右手から、純白の光が溢れて蒼い部屋を支配する。

「そん、な」

 津波のように押し寄せる輝きの中で、みかんの左手が奈美の手と重なった。はっきり見えたのはそこまでだ。

 光がはじける。

「やめろ! 待ってくれ!」

 もう信幸の言葉には、何の意味も持たなかった。

 力を持った願いが、今にも襲い掛かろうと信幸を睨みつけている。

「こういう時、なんていうのかな?」

 場違いなふわっとした声が、信幸の耳にも届く。

「さよなら、はなんか寂しいなって思っちゃった」

「奈美は冒険に出るんでしょ? それならいい言葉があるよ」

 もう何かを考える余裕はなかった。ただ信幸にはまだ一つだけ、やれることが残っている。

 それで、どうなるのかなんてことまで頭は回らない。あとのことなんてわからない。

 でも、二人が消えるのはイヤなんだ。

「俺に残った最後の願いで、二人の願いを止めてくれ!」

 光に飲み込まれそうになる体を踏ん張って、強く強く叫んだ。

 信幸自身の胸の奥から、光が生まれる。

 それはすぐに大きく膨らんで、願いと願いがぶつかった。

 止められる、と思った。

 刹那、信幸の光は強烈な赤に変わって、拮抗していたはずのバランスをたちどころに崩していく。

 闇色の髪が、信幸のすぐそばでくすくすと揺れた。

「特例に特権があるように、死神にも特権があるんだよ。私にも自室があるし、生界にも特例より自由に行き来できる。残念だったね、幹村信幸。特例特権への干渉はもちろん願望特権にも有効なんだよ」

「嘘、だろ」

 光は目の前まで迫っていた。

 視界が、体が、存在が、痛いほどの白に塗りつぶされる。

 唯一感覚の残る信幸の耳に、微かな声が届いた。

「いってらしゃい、奈美」

「へへ、いってきます。みかん君もね。あとマッキーも」

 それから、耳障りな笑い声。

 あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ……。

 闇に伸ばした信幸の手が、空を切る。



「やめてくれ、フルート!」

 蛍光灯の昼光色に目が慣れるまで、少しの時間がかかった。

 起こした体が重い。突き出していた手が、重力に従ってだらりと落ちた。ベッドに備え付けられた手すりにぶつかって、微かな痛みを覚える。

「ダメだよ、信兄ぃ。病院で大きな声を出しちゃ」

 ベッドの脇にいた豊音が、たしなめるようにそう言った。

 横では久満があわわと震えている。心配になってほほに触れると、その手に自分の手を重ねてもう一度あわわと呟いた。

 空いた片手で、久満は豊音の肩をぺしぺしとはたく。

「トヨちゃん、大変だ。信兄ぃが起きたよ!」

「え?」と豊音は目をぱちくりさせながら、久満と信幸を交互に眺めて、それから一瞬大きく目を見開いたかと思うと、先の自分の言葉なんてとうに忘れたように大きな声で叫んだ。

「わああああぁ、お兄ちゃんが起きた! 大変だ、ママに伝えてくるー!」

 一目散に走りだした豊音を目だけで見送ったところで、信幸は自分のつけている窮屈な吸気用のマスクや、胸に張られたいくつもの電極に気が付いた。辿ったコードの先で、モニターが緑色の波形を映し出している。

 一定の間隔で、大きく波打つ。それは信幸の胸の内側で、絶えず鼓動する心臓の音と重なっている。

 豊音のあげた声を聴いて、白衣を着た数人の看護師が集まってきた。慌てた様子で計器に触れて、何かを確かめているようだが専門的なことはよくわからない。

「まさか」と駆け付けた看護師の一人が呟いて、はっとした様子でばつが悪そうに信幸の顔をうかがった。

「気分はいかがですか?」

「いいんですけど、これ、外してもいいですか?」

 少し声をこもらせながら信幸が口元のマスクを指すと、看護師はちょうど到着した医師の男性に目配せをして信幸の頭に手を伸ばした。

「頭がふわふわするような感覚は、ありませんか? 吐き気や眩暈のような」

 医師が聞く。素直に答えた。

「大丈夫です。ただ少し、眩しく感じます」

 はっはっは、と豪快に医師は笑った。

「この部屋では、私だってそう感じますよ。続くようならまたおっしゃってください。元気そうでよかった」

 奇跡ですよ、と添えるように呟く。

 いくつかの指示を看護師に伝えて、医師はその場を離れた。

「信兄ぃもう大丈夫なの? 痛いところない?」

 大人が離れるのを待って、少し距離を取っていた久満が近づいてきた。

 信幸がうなずくと、嬉しそうに笑顔を作ってベッドに飛び込む。

「たくさんたくさん、祈ってたんだよ。信兄ぃが元気になりますようにって、ママと知兄ぃとトヨちゃんと」

「全部聞こえてたよ。ありがとな」

 よかったぁ、と笑う。それから、小さくハンバーグと聞こえた気がしたけれど、それは信幸の気のせいだったかもしれない。

「ねぇ、信兄ぃ。フルートってなに?」

「何って、楽器だろ。金管だか木管だかの」

 わああああぁ、と声がした廊下の方を覗くと豊音が戻ってくるところだった。

「こら、大きい声出さないの! あと走っちゃだめ!」

 豊音の数倍は大きな懐かしい声が、それに続いている。

 自分のベッドから、もう離れられるようになったようだった。自分よりずっと元気そうな母の姿に少し安心して、信幸の顔が緩む。

「なんて顔してるの。こんなに心配かけて、あれだけ車には気をつけなさいって、」

 母の言葉は最後まで発せられなかった。

 強い人だと思っていた。

 気高い人だと思っていた。

 そんな母が、強いまま、気高いままに、大粒の涙を流して言葉を詰まらせていた。

 信幸に初めて見せる、涙だった。

 力強い両腕に抱き締められる。震える声がよかった、本当によかったと信幸だけに聞こえるように届いた。

「トヨものるー」

「わぁ、ヒサもー」

「のわ、ちょっとお前ら」

 信幸の体に豊音と久満も被さる。ベッドが微かに軋んだような音を立てた。

 少し離れたところから、笑い声が聞こえる。

「重そうだね」

 母の背中越しに確認すると、声の主はパンパンに膨れたスーパーの買い物袋を持って部屋の入り口付近に立っていた。

「母さんのお見舞いに寄ったら、誰もいなかったから来てみたんだ」

 まっすぐな知良の視線を信幸は受け止める。

「お前も来てもいいぞ」

「遠慮するよ」一拍置いて「後でいい」と知良は言った。

 助かったと信幸は思った。正直なところ、何日も眠ってなまった体にはもう十分に重かったからだ。

 だけど、と信幸は自分の世界を眺めながら考える。

 これから信幸が支えていくものはもっと重い。

 信幸を愛してくれた母と。

 信幸を信じてくれた弟と。

 信幸を慕ってくれた弟妹と。

 それから、かけがえのない自分自身。

 大きく息を吸った。肺に空気を取り込んで、それから吐き出す。

 これからのことは、ゆっくり考えていこうと思った。

 お金はすこし少ないけれど、信幸にはここにいる家族が守ってくれた世界がある。

 ちゃんと望めば、なんだってうまくいくはずだ。

 人は誰しも、神様から与えられた特権なんかに頼らなくたって、願いを叶える力を持っているのだから。

「俺がこうして目を覚ますために、背中を押してくれたやつらがいるんだ」

 突拍子もない信幸の言葉に、家族はじっと耳を傾けてくれている。

「そいつらは代わりに、すごく難しい道を選ぶことになって、もしかしたら真っ暗なところで迷子になっているかもしれない。だから俺のために祈ってくれたように、その二人のことを祈ってくれないか。目指している場所へ、たどり着けるように」

「信兄ぃを助けてくれたってこと?」と知良が聞いた。

 信幸が頷く。

「わぁ、がんばれって伝えなきゃ」と久満が言う。

「がんばれー」と豊音が続く。

 違うでしょ、と母が二人を抱きしめて、真っ赤にはらした目で信幸を見つめた。

「そういうときは、ありがとうっていうの。私たちの宝物をここに帰してくれて、ありがとうって」

 照明の強いこの部屋のどこかに、闇色の気配を感じて信幸は振り返る。

 そんなものはない。当然だ。ただ、ありがとうと呟いた。

 今だけは、その声が蒼に届くような気がして。




                  6

 ここへ来るのは何度目かになるけど、錆びた内部をのぞかせるボロッボロの階段を上る度、いつか踏み破るんじゃないかと冷や冷やする。これまでより三千二百グラムも重いのだから、今日こそは危ないかもしれない。

 そんな心配は幸い意味をなさずに、弟が住んでいた部屋の扉にたどり着くことができた。バッグの中から鍵を探して開けると、温度と湿度の高い空気が内側からむわっと押し寄せる。そんなに長いこといるつもりはないので、扉は開け放すことにした。

 靴をぬいで、部屋に上がる。

 本。

 本。

 あと本。

 この部屋にはそれしかない。

 それなのに、あたしの探し物も本。地獄だ。諦めたい。

 そんな風に思っていたけれど、むしゃくしゃしてひっくり返したちゃぶ台の下から目的のものは見つかった。

 弟の誕生日に、あたしが買ってあげた日記帳だ。

 嫌がらせのつもりだったけれど、律義に毎日書いていたようだった。

 表紙から開く。

 初めの頃は書き方に困惑していて、文章も短かくて下手くそ。

 でも慣れてきたのか、途中からは徐々にページが埋まるようになってきた。

 パラパラと、ページを捲る。

 あたしのお産の日の頃には文もずいぶん流暢になってきて、まるで小説でも読まされているような気分だった。本人も多分自分に酔い始めていたんだろう。

 捲ったページが白紙で止まる。

 日付は、涼吾の命日だ。

 抱えた赤ん坊がぐずり始めたので、体を揺らしてみる。結構疲れるし肩も凝るけれど、そのかいもあってすぐに笑顔になった。なーにが楽しいのか。ママにはわかりません。

 弟のことで刑事が聞き取りに来たのは、まだあたしが入院していた時だった。

 褪せた色のコートを来た刑事は、自殺をするような動機に心当たりはありませんか、なんて聞いてきた。あのときは、笑っちゃってすぐに追い返してしまったけれど。

 自殺。自殺ねぇ、と考える。

 それでもいいんじゃないかと思う。

 この子を抱いた弟が、命の重さを知らないはずがないのだから。

 手放していた日記を拾おうとしたところで、開けたままの扉から風が入ってきた。

 そんなに強くはない。

 ただ、うっすいページを一枚捲る程度のぬるい風だ。

 日付は、翌日になっていた。

 拾って、綴られた文章をなぞった。

「へぇ、楽しそうじゃん」

 もう少しだけ、物語は続いている。





                  7

「それで、どうして僕はまだここにいるんでしょう?」

「どうして、というのは幅が広すぎる言葉なんだよ。みかんは特例だから異界にいるのは当然のこと」

「そうじゃなくて。つまり、三つの願いを全て使ったと思うんだけど」

 あひゃひゃひゃひゃと、フルートは笑った。それに合わせて灰色の振袖が揺れる。

「一つ、なんだよ」

 ひしゃげた笑顔で、そう言った。

「みかんが願望特権で叶えた願いは一つ。幹村信幸が生き返るための、その半分だけなんだよ。だからみかんはここにいる」

「僕の願いに、干渉したの?」

「死神には、それが許されているんだもの」

「神様に?」

「それから理に」

「だけど、僕の手元にはもう日記がありません。二つ目の願いは叶ったと思っていたのに」

「少し、勘違いをしているんだよ。みかんの初めの願いは高倉涼吾の日記の所持だった。そして二つ目の願いで日記を所持する権利を放棄した。それは、一つ目の願いを打ち消すということ。だから両方をなかったことにすればよかった」

 簡単なことなんだよ、とフルートは続ける。

「それともみかんが、許せないのかな」

「そんなことは、ありません」

 そう伝えた。

「ただ、僕があの日記を所持していたことがなくなってしまったのなら、もしかして書いた日記も、消えちゃったのかなって」

 くくくく、とフルートは笑った。闇色の髪が跳ねる。

「みかんが書いたという過程はなかったことになるんだよ。だけど結果はそうとは限らないの。きっと」

「きっと?」

「たぶん」

 フルートにしては、人間らしい曖昧な答えだった。

 それがなんだかおかしくて、みかんはそれでいいような気がしてきた。

 思うようにいったかどうかはわからないけれど、伝えたいことは伝わるのだから。

 大きな鏡台に向き合うと、反射した光が彼を映しだしている。

 その顔は、満足そうに笑っていた。

「願いは二つ残っているの。だからみかんは生き返ることもできるんだよ」

 立てていた写真立てを手に取って、それからフルートに向き直る。

「初めから、そのつもりはなかったんです。僕は彼ではないから。そして、涼吾さんはきっと、彼の一生をちゃんと生きたのだと思うから」

「まぁ、ゆっくり考えたらいいんだよ。時間はいくらでもある。特例はどこまでだって自由なんだよ」

 握った写真立ての内側では、笑うフルートの周りに人影が浮かび上がろうとしていた。

 それを見届けることなく立てかけて、大きく伸びをする。

「それじゃあもう少し、世界を眺めてみることにします」


 カラカラカラカラカラカラカラカラ……。

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