第四章 定められた偶然と場違いな来客

――○○月○○日

「なぜ君は本を読んでいるんだい」

 それがUの最初の言葉だった。そのとき僕は珍しく、とはいっても最近は姉貴のせいで機会の増えている外出中で、つまりは本を読んでいなかった。きっと何日か僕のことを観察していたのだろう。

「三日」それはずいぶん長いな。「ほんのちょっとさ」

 小さな感想がぶつかり合う。思えば僕とUとは初めから考えが合わなかった。

 なぜ、について考える。

 本を読むということは、僕にとって完結した事柄だ。

 食べるのはカロリーと栄養の摂取のため、眠るのは効率的に休息をとるため、しかし僕は読んだ本で何をするでもなく、或いは読むことそれ自体が何かをなしているわけではない。

 ただ、読む。完結している。それと似た概念を僕は知っている。

 生きる。それもまた完結している。

「なぜ君は生きているんだい」

 僕のことを見透かしたようにUは言った。つまりそれは初めと同じ質問だった。

 だから答えられず、そして目を背けることもできずに、これまで考え続けてきた疑問と向き合う。

 僕はなぜ生まれてきたのだろう?

 君はどう思う?

「そんなこと知らないよ。尋ねてはみたけど興味はない。というより、質問の趣旨は本のことだよ。熱心に本をむさぼる君を見て、何を考えているのか知りたくなっただけなのさ」

 ただ、とUは続けた。にやにやとした口元とにらみつけるような鋭い目つきがアンバランスに両立していた。彼らの生き生きとした表情は、そう見られるものじゃない。

「君は、ひどく個人に執着しているように思えるね。自分と他者に線引きをして、分けて考えているんじゃないだろうか。君のような特殊な人間にはままありうることではあるよ。個人主義といえば聞こえはいいが、それは単に視野が狭いともいえる」

 客観性を持てというのか? 僕は聞いた。

 社会が作り出す集合的思考幻想に身を委ねろと?

「必ずしもそうではないよ。つまり、一つで完結しているものなどないということさ。君は君個人だが、その影響範囲はもう少し広い。それは例えば僕だ。こうして話している間にも、たくさんのことを君から吸収させてもらっているよ」

 そうは見えないけど。「そうは見えないかもしれないけどね」

 つまり姉貴と同じことを言うんだな。循環、か。君にとっても人生は半円なのか?

「半円? 面白いことをいうな、詳しく聞かせてくれよ」

 僕は答えなかった。

 姉貴が運びこまれたという病院にたどり着いたからだ。――



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「また、突き当りか……」

 立ち止まり、以前にもらった異界の地図をもう一度広げる。何度読み直してみても、幾何学模様の集合体から得られるのは、抽象的で芸術的なデザインに対する感嘆の念だけで、肝心の現在地がどこなのかは見当すらつかなかった。紙切れ以上の価値を失ったそれを結局ポケットに押し込む。

 はぁ、と何度目かのため息を吐いて、立ちはだかるレンガの壁に右手をついた。返ってくるのはざらついた石の感触のみだ。突然ガコッと隠し扉が開き目の前は自室……、そんな儚すぎる希望はもちろん叶わない。

 みかんは道に迷っていた。蒼く薄暗い、異界の真ん中で。

 仕方がないので引き返し、また別の道を探るために歩き出す。同じことの繰り返しだ。すぐにたどり着いた分かれ道は、どれも既視感のある初めての場所だった。

「どれか一つは通ってきたはずなんだけどな……」

 自嘲気味につぶやいて、目印一つ付けなかった過去の自分の浅はかさを後悔する。それももう何度目かのことだ。

「なにをしているの?」

「道に迷ってるんだ。どっちに行ったらいいのかわからなくなっちゃって」

「そうじゃないんだよ。道に迷ったのはどこかに行こうとしていたから、どこかに行こうとしていたのは、なにか目的があったからなんだよ。みかんは人間だもの。なにをしているの?」

「目的……」そういえば、自分はどうしてこんなところまで来てしまったのか。なんとなくここに来るまでの記憶が不鮮明で、思い出せない。

「って、フルート! どうしてここに……」

 あひゃひゃひゃひゃ、と長い黒髪が笑った。

 いつからみかんの横にいたのだろう。存在感を消して後ろを歩いていたのか、それとも異界になじみすぎる灰色の振袖が強烈な個性を隠してしまうのか。

 いずれにしても、この場所では何が起こってもおかしくないような気がした。みかんは異界を何も理解してはいない。

「どうしてというのは、とってもおかしな質問なんだよ。みかんがみかんの自室にいることが自然なように、死神が死神の部屋の前にいても不思議なことはないもの」

 当然ではないけど、とフルートは言葉を添えた。それを強調することにどんな意味があるのかはわからない。

「死神の部屋?」

 反復しただけのみかんの言葉に、答えが返ってくる。「そう、私の部屋」

 フルートの向けた指の先、二人から十メートルほどの距離を開けて、扉があった。

 いや、数瞬前まではなかったはずだ。帰り道を探して注意深くあたりを見回していたみかんが、その存在に気づけないはずはない。

 だからこそ不可解だった。それがフルートの部屋だというのならこれまでもここに、ずっとあったということだろう。今初めてできたものではない。つまり、有限性変動存在率では説明できない事柄だ。腕を振ってコーヒーカップを出すのとはわけが違うのだから。

「また理屈を考えているんだね? それはとても人間らしいけれど、あんまり意味がないんだよ」

 言葉に応じるように、装飾ひとつない扁平な扉が奥に開いた。一切の音を立てず壁にぽっかりと空いた空間は、恒常的な薄暗さのせいで中を見せてはくれない。

「不思議なことだね」

 小さな頭を傾げながら、大して不思議でもなさそうにフルートが言った。

「扉が開いたことが?」

「ううん、みかんがここにたどり着いたこと。異界では何が起こってもおかしくないけれど、まぁそれは言葉の綾なんだよ。起こることの可能性が無限大であることと、絶対に起こらないことがあるということは両立しても矛盾しない。むしろそれが世界の在り方で、それは異界も生界も同じことなんだもの。そのあたり、人間は理解が乏しいけどね」

「それって、要するに僕はここに来るべきじゃなかったってことでしょうか?」

「そうは言ってないんだよ。私は神の意志なんて興味ないもの」

 フルートがふっと前に進む。流れるような、という言葉が全く比喩にならない、静かで違和感のある動作だった。布で構成されたはずの振袖の裾を一切揺らすことなく扉の前で止まる。

「神は知らないけれど、死神は歓迎するんだよ」

 みかんを招くように、フルートが袖をゆらゆらと振った。彼女が声を出さずに笑うのは珍しい。

「おじゃまします」

 そう言って、扉をくぐる。

「―――――!」

 たった一枚壁を隔てた先で、みかんを待っていたのは音の爆撃だった。思わず両手で耳をふさぐ。それでもちっとも防げず、顔をしかめて必死に耐えた。

 低い、そして重い音だ。金属がかち合い、擦れ、ぶつかる音。そして甲高く、地面をも震わす鐘の音。空間が音と振動で飽和して、はじき出されそうになるのをしゃがみこんでじっと耐える。

 みかんは異物だった。

 ここは来るべきところではない。来て良い場所ではない。そう、改めて示されたような気がした。威嚇する音が強く、強くみかんを刺す。

 不可侵の領域。

 神の部屋。

 そっと何かが、耳にあてていたみかんの手を覆った。柔らかく、温かいその感触に意識を集中する。

「大丈夫」

 全てを拒絶する爆音の中で、そう聞こえた気がした。いや、実際には音だったのかどうかはよくわからない。けれど言葉が、すとんと胸の奥に落ちた。

 ゆっくりと、瞑っていた目を開く。

 視界は全てフルートで埋まっていた。小さな体が今はとても大きく見える。それだけ自分は委縮しているのかもしれない。

 視線を上げてみても、長髪に埋もれて陰った表情は見えなかった。

 そういう距離だ。まるで抱きしめられているかのような、そんな距離。

「大丈夫」

 もう一度聞こえた。いつの間にか他の音は遠く、小さくなっていた。

「少し忘れていたんだよ。みかんと私は違うということ」

 そう言ってフルートは離れた。

 立ち上がる。そうしてようやく、みかんは部屋の中を伺う。

「これは……、時計?」

 みかんが立っているのは、扉からほんの二メートルほどしかない木製の足場のへりだった。その先は空洞になっていて、光の当たらない底の方には淀んだ暗闇が広がっている。もう数歩前に進んでいたら、まっさかさまに落ちていたのかもしれない。

 広い部屋だ。そうといわれなければ屋外だと勘違いしてしまいそうなほど広い、広い部屋。けれど無造作に反響し、共鳴しあう音が先の見えない闇の向こうに聳えているのであろう確かな壁の存在を証明していた。

 少しずつ、目が慣れてくる。

 向かいでは巨大な歯車が他の様々な金属のパーツとかみ合って廻っていた。これらがきっと音の発生源なのだろう。部屋を横切るように走る太い鉄の軸が、ぎりぎりと空間を削り取るように回り、連動してそれはまた別の部品を動かし力を、エネルギーを伝えていく。

 人間の体に似ていると、みかんは思った。あるいは社会、街に似ている。

 少し目線をあげると、巨大な針があった。

 針。

 まっすぐに下を向いた時計の長針が、心臓を狙う剣の切っ先のようにこちらを睨み付けている。十メートルはあるだろうか。デザイン性の一切ない、時を示すためだけの長大な針だ。それが時折、きしむような音を立ててかすかに振れる。

「これは、『時を計る』なんておしとやかなものではないんだよ」

 フルートの手がみかんの手に触れる。

 温かい。けれど離れてしまえばすぐに思い出せなくなってしまうような気がして、みかんはその温もりを握り返した。

 導かれるように歩き出す。

「だから時計と呼ぶのはおかしな気がするけれど、他のどんな言葉でもそれは同じことだから、つまりそれは一つの答えなんだよ」

 正解ではないけれど、とフルートは笑った。

「不思議な感じがします。初めて見たはずなのに、記憶のどこかにあるような……、それどころか、懐かしいような気までしてきて」

「みかんが混乱しているのは、当然といえば当然なんだよ。当たり前のないこの場所で起こりうる普通のこと。本当なら見るはずのないものだったんだもの。見えるはずのなかったもの。例え特例でもね。人に触れるようにはできていないから、きっともう少しだけおかしな感覚が続くんだよ」

 二人の歩くへりは、道はどこまでも続いていた。先は見えない。

 少し離れて隣に存在している巨大な建造物のせいで、距離に対する感覚が狂わされているようだった。

 歩いているけれど、前に進まない。

 目的は見えない。

 入ってきた扉だけが、振り返ってももう見えなくなっていた。

 圧倒的な存在感を放つその時計のようなものが、この場にある全てだった。

「これ、なんなんですか? 機械には見えるけど……」

 改めて眺めてみても、みかんにはその全体を見渡すことはできなかった。天を衝くほど高く、文字通り底が知れない。明らかに生界には存在しないモノ。

「奇怪に見えるというのは、とてもよくできた皮肉だね」

 自分で言って楽しそうに、けれど面白くはなさそうにフルートはもう一度笑った。

「これは、『理』なんだよ。世界には様々なことが起こる。生界でも、異界でも、そのほかでもね。それらには理屈が必要なんだよ。本来あろうがなかろうが、必要なの。人間は、テレビがどうして動くのか知らなくてもそれを使うことはできる、なんて言うけれど、それはその理屈を誰かが知っていることを前提としているんだよ。誰かが知っているの。例え誰も知らなかったとしても、神様が知っている。だから動く。これはその『理』」

 ががが、と重い響きを立ててあの一番大きな歯車が動きを緩めた。見えないところで、ギアが変わったのかもしれない。

「この機械が世界を動かしている?」

「そうとも言えるし、そうじゃないとも言える。どちらで答えてみてもそれは欺瞞だし、やっぱり意味はないんだよ。それにこれが必要なのは神様だけ」

「神様にも、理屈が必要なんですか?」

「もちろんなんだよ。彼らは全知全能なんだもの。知らないことがあってはならない。だから彼らはこの『理』とともに生まれた。言い訳とともに生まれたんだよ。傍から見れば滑稽だよね。彼らはつまり初めから歪な『全』の冠をかぶっている。世界は歪んだ『全』の礎の上に成り立っている。そして誰もが、それを許容している」

「知らないけれど、きっと理屈がある……。それが世界の在り方なんですね。生きるための土台を、他者に求めているっていうのかな」

 生まれたばかりだからわからない。

 子供だからわからない。

 人間だからわからない。

 わからないだけで、本当のことは誰かが知っているはずだ。どこかにあるはずだ。

 誰でもいいし、どこでもいい。ただ自分にはわからない。

 そうして不確かな世界に誰もが身をおいている。

「そう、神でさえこの機械が何をしているのかほんとはよくわからないんだよ。けれど神の無知に誰も気付かない。神自身でさえもね。知る必要もないもの」

 誰もみんな同じなんだ。わからないことはどうしようもなく前提で、それは人に尋ねても、或いは神に訴えてみても、わからないものはわからない。

「……僕はなぜ、生まれてきたんでしょう?」

 そう、口を衝いた。訪ねることの無意味さを知った今、まるで悪あがきみたいだと他人事のようにみかんは思う。

 フルートは答えない。その代わり、足を止めてじっとみかんを見つめている。

「ここに来てから、ずっと考えていたんです。僕はなぜ生まれてきたのか。そして高倉涼吾という人の日記に少しだけ触れて、失礼かもしれないけれど同じことを思いました。彼はどうして生まれたんだろうって。もしかしたら彼自身も同じことを考えていたのかもしれない。全然違うけど、僕らは少しだけ似ているから」

 考えて、考えて、自分は悩んでいるんだと思っていた。ぼんやりとした感覚に身を任せ、わずかばかりの行動を起こして、がむしゃらでも少しは前に進んでいると。間違っていたとは思わないし、得たものは確かにあった。

 けれど間違いじゃなくても勘違いだったのだ。きっと自分はただ迷っていただけだった。

「少しだけ、僕がしなくちゃいけないことがわかったような気がします」

 知りたいことは誰も知らないのだから。どこにもないのだから。

「正解はね、ないんだよ。あるのは答えだけ」

 フルートは静かにそう言った。その違いが今ならわかる。

 目の前の巨大な機械を、『時計』と呼ぶのがみかんの答えであるように。

 同じものを、『理』と呼ぶのがフルートの答えであるように。

「答えは、僕が選ぶもの……」

 それはきっと、これまでやろうとしていたことよりもずっと難しいことだと思う。あるものを探すのとは違う。どちらかといえば、新しいものを創り出す行為に似ている。

「それは人に与えられた神の力の片鱗なんだよ」

 そう言って、けれどフルートはすぐに嘘だけど、と否定した。

「神はそんなことにもやっぱり興味はないものね」

 あひゃひゃひゃ、と笑い声が鉄の音を割るように響いた。

 なんだかそれが、フルートなりの照れ隠しのように思えてみかんも笑う。

 体が軽くなったような、そんな気がした。質量のないこの体で、きっとそれも勘違いなのだろうけれど。

 不意に、つないだままの手がくくっと引かれる。

「見せたいものがあるんだよ。せっかくここまで来たのだから、というよりこれたのだから、私の宝物を紹介するんだよ」

 宝物、と口にした表情がまるで見た目相応の少女のように輝いて、フルートはくるっと踵を返す。追いすがるようにみかんも足を進めた。

 暗いせいで気付かなかったけれど、道はかすかに湾曲していて、つまり部屋全体は円柱状にできているらしかった。中心の大きな機械を囲う形で道が一周しているのだろう。

 ただ、とみかんは思う。

 たとえ壁があり床があり天井があったとしても、これは個人が生活する部屋ではありえない。そういう類のものでないのは明らかだった。ベッドがないからでも、机がないからでもなく、これは違う。

 海をプールと呼ぶのはまだわかる。

 けれどこれは、まるで空を指さして未来と呼んでしまうように、整合のとれない感覚。

 ここを自分の部屋と呼ぶフルートの気持ちを読み取ることができない自分を少しだけ歯がゆく思いながら、おいて行かれないようにみかんは走る。

 フルートが立ち止まったのは突然だった。

「わわわ、っと……」ぶつかりそうになるのをギリギリで避けて、なんとかバランスを立て直した。

「止まるなら、止まるって――」

「これなんだよ」

 みかんの言葉を意に介する風もなく遮って、フルートの裾が前方を示した。

 柱、だと思った。

 それは背が高く、細く、まっすぐに立っていて、それこそ普通の部屋ならばきっと天井まで届くくらいには大きい。けれどこの特殊な部屋ではもちろんその程度の大きさで支えられるものなど何もなく、間抜けなほど中途半端にそれは天に向かって途切れていた。

 全体にはアンティーク調の装飾が施されていて、時折、内側の方から機械の動く音が聞こえてくる。

「これってもしかして……」

「時計なんだよ。そこにある、似ているだけのモノとは違う、生界で使うのと同じもの。仕掛け時計だからぱっと見ではわからないかもしれないけどね。少しコツがいるんだよ」

 フルートはその柱に近づいて、中央の装飾に手を掛けた。ぎぃ、とかすかな音を立てて、観音開きの形で外のパーツが動く。

 はじめに見えたのは大きな振り子だ。真鍮の棒の先に拳くらいの大きさの重りが付いていてゆっくりと左右に触れている。胴の部分に合わせて振れ幅は小さいらしく、遅い動きに反してせわしなく見えた。その後ろではたくさんの金属でできた部品が噛み合って廻っている。あえて中身を見せる設計なのだろう。磨かれた透明なガラスを隔てて、機械の臓器がそれぞれの役割をはたしているようにみかんには見えた。

 それらの上には文字盤が載っている。白を基調とした円盤にシンプルなローマ数字で十二の文字が均等に配置された普通のもの。

 特殊なのは針だった。中心から伸びる三本の針は全て長針で、どれが何を指しているのかみかんには読み解くことができない。

 そのうちの一本が小さく振れる。

「これって、」気付くのはすぐだった。「この世界のものではないですよね」

 そういうものをみかんはよく知っている。異界の空気になじまない、あの高倉涼吾の日記と同じ雰囲気が、この時計にはあった。

 フルートは肯定も否定もすることなく、その代わりにそっと振り子の裏を指し示す。

「ここに面白いものがあるんだよ。少し見にくいけれどね」

 指の先にあったのは、何の変哲もない小さな歯車だった。目の細かい歯を周囲に向けて、小さな音を立てながら回っている。何が面白いのかはみかんにもすぐにわかった。

「これ、他の部品と噛み合って、ない……」

 それはつまり欠陥だった。歯車は動力を伝えるためのものだ。単体では機能せず、連動して動くことで時計を回す力を送る。そのはずの歯車が、たった一つそれだけ、空転をしているということ。

 みかんはもう一度全体を俯瞰するように見渡した。時計は正常に動いている。振り子も、針も、それらはいくつもの部品を経由して一つの作品として繋がっている。

「場違いなんだよ。なくても時計は動くのにね。それなのにここでずっと、この歯車は廻っている。おかしなことだよ。完成品として存在するこの仕掛け時計に、こんなに無意味で、不必要な歯車があるということはね」

 おかしなことだと思う。けれど、それがあるから完成品でないのか、或いはそれを取り外せば完成するのか、その判断はみかんにはできない。

 ただなんとなく、本当になんとなくそれをいとおしいと思った。

 うまく説明はできないけれど、

 この歯車は自分に似ている。

「これがフルートの宝物?」

 かちっ、と今度はさっきとは違う針が触れた。

「そうなんだよ」

 フルートは歯車から視線を離さずに、そう言った。

「これは、私に似てるから」



 カラカラカラカラカラカラカラカラ……。



                    2

 瞼を開くと、もうすっかり見慣れた無骨な天井が見えた。

 信幸を否定する薄暗い蒼。覚めたはずの両目が、視界一面を埋め尽くすそれを拒絶するように焦点をぼかす。

 どれほどの時間、眠っていたのだろう。

 どうやってこの部屋まで帰ってきたのか、思い出せなかった。フルートを掴みあげて、何か言葉をぶつけたことだけは覚えている。

 怒りだったような気もする。戸惑いだったようにも思う。とにかく全てを吐き出して、それから……。

 信幸は右手を光のない空にかざした。

 ごつごつとしたその掌は決して美しくはないけれど、母から与えられた自慢の手だ。誰かを守ることができる。誰かを支えることもできる。母の言葉はいつしか誇りとなって、信幸に常に寄り添ってきた。

 何かを掴もうとするように、一本ずつ指を閉じる。そして開く。

 この手が拳として振るわれなかったかどうか、今の信幸には自信が持てなかった。

「くそっ」吐き捨てる。

 異界。特例死者。願望特権。

 ここに来てからの全てが眠っている間に見ている夢ならば、どれだけよかっただろう。なにかの拍子に目が覚めて、元通りの生活が待っている。長く苦しい眠りだとしても、その方がずっとずっとやさしい。

 現実は、信幸の予想をはるかに超えて残酷だった。

「俺は……、まだ生きているのか」

 床も天井も壁も真っ白な部屋で、こことは違う守られた空間で、信幸は見知らぬ機械に生かされている。

 それは信幸にとって全てが失敗したことを意味していた。大して賢くもない頭で必死に考えた、たった一つの家族を救う方法が、今、その家族を苦しめているということだ。

 信幸に酸素を送る機械はいったいいくらだろうか。

 栄養を流し込む機械は。

 清潔な患者服や柔らかいベッドは。

 自身にかけていた保険金で賄えるのだろうか。

 母や兄弟の手元には、いくら残るのだろうか。

 息が詰まるように胸が圧迫されて、ため息を吐くことすらできなかった。眠っている間に枯れ果てたのか、涙一つも流れてはくれない。あるいはそれは、この体が生身でないからなのかもしれなかった。

 死んでいるのに、生きている。

 生きているのに、死んでいる。

 認識はできていても理解が及ばない。何もかもがちぐはぐな気がして、自分の存在のすべてがどこか場違いなものに思えてならなかった。

 今ここにいる自分は何者で、今病室で眠っているのは誰なのか。

「どうして殺さなかったんだ」あの部屋で、自分を。

 願えばできたはずだった。ここで手にした特権は、きっとそのためにあったのだ。

 それで全てがうまくいったはずなのに。

 失敗を取り戻せたはずだったのに。

「どうして、」

 ふと、考える。

 遠くから幹村信幸という人間を眺めることができたとしたら、もしかしたら自分でも『特例』なんて呼んでみせるのかもしれなかった。

 

 

 気が付けば、信幸は生界にいた。

 どうやってここまで来たのかは思い出せなかった。何かしなければ、という思いだけが自分を突き動かしているような気がして、膨れる焦りを押さえつけるように、胸に手をあてる。

 鼓動の感触はない。それが、ひどく気持ち悪い。

 街は夕方を迎えようとしていた。頭上の空はまだ青いのに、西からは立ち並ぶビルを縫って濃い紅の光が道を焦がしていた。人通りは少なく、不気味さを感じるほど静かに感じられる。

 自然と体は病院へ向かっていた。きっと、『自分』を殺したいのだろうとぼんやり考えながら、まばらな人の波に合わせて足は鈍くも動いている。

 本当はよくわかっているのだ。願望特権で自分の体を殺すのなら、ここからでもできる。なんなら、あの蒼い部屋からでも同じことだった。わざわざ向かう必要なんてなかった。

 願うだけで、叶うのだから。

 ならなぜ、と考えてみるのはひどく無意味な気がして、意識を外に向けようと努力をする。

 家に帰るのであろう制服を着た子供たち。

 スーパーの袋を両手に提げた女性。

 スマートフォンに視線を落とした会社員。

 信号が青に変わり、動き出した人の流れに沿って歩き出す。そうしてから、あぁ、立ち止まる必要はなかったなと信幸は気が付いた。

 今の自分は車道に飛び出してみても車に轢かれるなんてことはないし、誤って人とぶつかることもない。交通ルールを気にする必要なんてないのだ。他の誰もが、信幸のことを気にすることがないのと同じように。

「けど、なぁ」きっと、できないだろう。

 幹村信幸はそういう人間だった。

 例えば、これが車の通りがない深夜の横断歩道だったとして、信号が赤なら止まる。その横を何食わぬ顔で人がすり抜けようと、それは同じことだ。

 融通の利かない頑固な真人間というのとは、少し違うと思っている。ただ、自分の行為を真似して兄弟が同じことをしたとき、つまり信号を無視して歩き始めたその瞬間に、車が本当に来ないという保証はない。

 だから信幸は、誰に見られてもいい生活を送ってきたつもりだった。

 生きている間に、自分に設けたそのルールを破ったのはたったの二回。信幸はその両方を、今では心の底から悔いている。

「おーい、トヨちゃんまってよぅ。もうくたくただよぅ」

「あの電信柱まで、ヒサがんばれ!」

 聞きなれた二人の声が聞こえ始めたのは、病院に続く大通りの一本手前の道だった。母親との面会の帰り道だろうか。両手を大きく振って走る豊音に二十メートルほど遅れて、久満が呼吸を乱しながら駆け足で追っている。

 不意に、乾いていた心を懐かしさがよぎった。

 小さなころの信幸もこんな風に、年の近かった知良とよくかけっこをしていたことを思い出したからだ。知良に似て運動が苦手な久満は、小さな声で「歩いちゃだめだ、歩いちゃだめだ」とつぶやきながら、必至に足を動かしていた。

「も、もうだめだぁ」

「あと三歩! ほら」

 いち、に、さん、と二人の掛け声が重なって、「ゴール」の時には信幸もそれに加わった。少し気恥ずかしくなりながら、同時に誰にも聞こえない自分の声が寂しくもある。

「トヨちゃんはすごいなぁ。僕はもう汗びっしょり」

「ヒサだって、同じことができたじゃない」

 豊音と久満は今年、小学校に上がったばかりだ。生まれた時、信幸は九歳、知良は七歳だったか。

 生きていた間は忙しさにかまけて、二人とはなかなか遊んでやれなかったように思う。

 あまり求められたこともなかった。けれどそれは、子供たちなりに気を使っていたからなのだろう。信幸自身も小さいころ、忙しく働く母の背中に、かけられない言葉がたくさんあったのだから。

 気づいてやってもよかったのに、立ち止まる時間が足りな過ぎたのかもしれない。

 本当はただ、思うように家庭を楽にすることができない自分に焦っていた、それだけのことなのだ。

 貧乏は大切な時間を奪ってゆく。

 お金があることが幸せでなくとも、お金がないことは信幸にとって不幸だった。

「もう大丈夫だよ、歩こ」

 休憩をして呼吸を整えた久満が立ち上がる。

 それに続いて豊音も腰を上げた。

「お腹すいたね」

「お夕飯あてっこしようか!」

「オムライス」

「ハンバーグ」

「クリームシチュー」

「スパゲッティ」

「グラタン」

「ハンバーグ」

「あ、ヒサそれ二回目!」

「だって、食べたかったんだもん」

「いいね、ハンバーグ」

「みんなが帰ってきたら、食べられるかなぁ」

 信幸は幼い兄弟の何気ないやりとりを眺めながら考えていた。

 いや、これは考えていたというよりは『閃いた』に近い感覚だった。どうして今まで気が付かなかったのだろうか。

 今の自分には願望特権がある。

 それはつい先ほどまで、病室に眠る自分の呼吸を止めるはずだった力だ。

「どんな願いでも、叶えることができるんだよな?」

 信幸は虚空に問いかけた。

「どんな願いでも叶えることができるんだよ」

 背後から、闇色の髪の少女が答える。あっひゃっひゃと続いた。

「だけど気を付けたほうがいいんだよ。自分がどんな願いを持っているかなんて、他の誰かにはさっぱりわからないことなのだから。相手が神でも同じこと。できるだけ具体的に願うことだね」

 自分ですらわかっているかは怪しいものだけど、と続けるフルートの言葉を信幸は半分ほど聞き流した。助長な言葉はいつもの癖のようなものだろう。大事なことはシンプルだった。

 どんな願いでも叶えることができる。

 そして、信幸の願いもまたシンプルだった。

 お金だ。

 全ての元凶はお金だったのだ。お金があれば家族を幸せにすることができる。お金さえあれば、家族を守ることができる。母は倒れるほど働かなくてよくなるし、小さな弟や妹が寂しい思いをすることもなくなる。

 そのために死んで、信幸は失敗したのだ。その失敗は今さらに家族をお金で苦しめている。

 全てを取り返すチャンスだった。

 きっとそのために信幸は特例になったのだ。いまやそうとしか考えられない。

 大きく大きく肺に酸素を溜めた。

「豊音と久満に、大金を渡してくれ!」

 信幸の叫びは、フルートのくっくっくという笑いをかき消して街に響き渡った。

 お金だ。それは幸せと同義の言葉。

 数瞬のあと、信幸の願いに呼応するように一筋の光が天から下りて宙で瞬き、歩く豊音と久満の少し上で花火のようにぱっと散った。その軌跡をなぞるようにひらひらと何かが落ちてくる。

 風に揺れるそれが地面に触れたところで、久満が不思議そうにそれを拾った。「わぁ」とつぶやきながら、それを豊音に見せる。

 何かがおかしい、という予感が信幸を襲った。

 フルートはまだ横で笑っている。噛み殺そうとして、失敗したような歪でひしゃげた笑い方だった。それが信幸の不安を助長していた。

「落ちてたの、一万円札」

「わ! 大金だ!」

「大金だね」

 フルートの笑い声が、嵌めていた枷が壊れたように大きくなった。

「一万円って、ハンバーグ食べられるよね」

「きっとみんなでいっぱい食べられるね」

「オムライスも」

「クリームシチューも」

 笑顔で楽しそうに話す豊音と久満を眺めながら、信幸は自分の願いが叶ったことを悟った。

 それは同時に、自分の願いがどれだけ浅いものだったのかを理解したということでもあった。

 豊音と久満は大金を手に入れた。

 けれど目の前の光景は、思い描いていた結果とは程遠いものだ。

「とってもいい勉強になったんだよ」とフルートが言った。

 どういう意味だと言いかけて、けれど声にはならなかった。

「願望特権はあと二つある。まだなんでもできるんだよ。どんな願いも叶えることができる。二つ分の願いを使って、生き返ることもできる。すべての願いを使い切って、消えてなくなることもできる。幹村信幸は恵まれている方」

 耳障りな笑いとどこかで聞いた言葉を残して、フルートは消えた。今思えば、初めからいなかったのかもしれない。

 大きな喪失感だけが、信幸の心を満たしていた。

 どうやらまた、失敗をしたらしい。

「どうしてこう、思い通りにならないんだよ!」

 吐き捨てて、やりきれない気持ちを近くの電信柱にぶつけた。意味などない。何度も何度も殴りつけたのに、痛みがないことへの腹立たしさが増すだけだった。同時にこの姿が兄弟に見えないことに救われたような気がして、それがまた信幸の苛立ちを募らせた。

 今すぐ願望特権を使ってやり直すこともできる。きっと金額を指定すれば思った通りのものが手に入るだろう。一千万か、一億か、だけどうまくいく気がしなかった。

 ここまでのすべてが失敗に終わり、それでも次は大丈夫、とは思えなかった。

 どこかで、二つ分の願いを残しておきたいという気持ちもあるのだろうか。この期に及んで生への未練があるようで、やりきれない思いをもう一度ぶつけた。痛みはなかった。

「ね、でもこのお金は誰かの落し物だよね?」と、久満が言った。

「そうだね、お金が自然に空から降ってくるわけないもんね」と、豊音が返した。

 嫌な予感は続いている。

 信幸の想像していたものとは違っていても、一万円だって決して小さくはないお金だ。しかもそれは、自然に空から降ってきたお金なのだ。自分たちのために使っても、誰かが困るわけじゃない。手放さずに何かの足しにしてほしいと思っていた。祈りに近かった。 

「兄ちゃんたちなら、どうするかな?」どちらからともなく、そう言った。

 それだけで二人の中では通じたらしい。

 久満はお金を豊音に渡し、豊音はそれを肩から掛けたポシェットに大事にしまった。それから手を繋いで二人で歩き出す。方向は家に向かう方角だったけれど、三つ目の角を曲がったところで帰路を外れた。二人の目的地はそこからすぐだった。

「すいませーん」

 商店街の真ん中にひっそりとたたずむ建物の前で豊音が声をかけると、半開きだった扉がガラガラと横にスライドして制服姿の年配の警官が出てくる。信幸からは、存在感のある街の地図が部屋の奥に張られているのが見えた。

「お、どうしたお嬢ちゃん」

「落し物を見つけたんです」

 豊音はポシェットから一万円を取り出して警官に手渡した。

「落し物って、お金? 財布とかじゃなくて」

「道路にそのまま落ちてたんです」

「どこに?」

「えっと、どこだっけ?」

「僕覚えてるよ。二丁目のタバコ屋さんの前の電信柱のところ」

「わ! ヒサすごい! 私はちっとも覚えてなかった」

 警官にも褒められて、久満は少し誇らしげに笑った。大人と堂々と話す二人を見て信幸も誇らしかった。

「よし、ちっとまってな」

 警官は交番の扉に顔だけ入れて、中の仲間と会話をしているようだった。

「お金の落し物の届け出はきてるか? ピン札の一万円だ」

「そりゃあ、山ほど来てますよ。嘘かほんとかわかったもんじゃありませんけどね。試しに検索してみますか。そのお金、名前書いてあります?」

 ばかいえ、と吐き捨てて警官は二人の方に顔を戻した。

「いいかい、お嬢ちゃんたち。このお金は落ちてたもので、それを持ってきてくれたんだよな! 偉い! これはうちで預かって、落とした人が名乗り出るまで保管しておくことになる。ここまでわかるな?」

 こっくり、と二人はうなずいた。シンクロしたように同じ動作だった。

「それで、持ち主が分かったらその人とお話をして、拾ってくれた人にお礼をしてもらうんだ。つまり君たちになんだけど、困ったことにこのお金は手掛かりが少なくて落とし主が見つかりそうにない」

「わぁ、残念だ」久満が言った。「落とした人、困らない?」

「落とした人は困ってるかもしれないな。まぁ、本当に困ってたらここに来るさ。それよりおじちゃんが困るんだ。落とした人が見つからないと、君たちにお礼ができないだろ?」

 警官は返事を待つ風ではなく、自身のポケットから何かを取り出して豊音の手に乗せた。

「だからこれはいつか来る落とした人に代わって、おじちゃんからのお礼だ。本当はこういうやり方はできないんだが、まぁ、ママに黙っておいしいもんでも食べるといい。でも今日はもう遅いから、まっすぐ家に帰るんだぞ」

 警官は二人の頭を荒くわしゃっと撫でて、交番の中に戻った。扉は相変わらずの半開きだ。

 豊音は手に乗ったお札を両手でつかんで空に透かした。

「わぁ、千円札、大金だ」

「大金だね」

「ハンバーグ食べられる?」

「きっと食べられるよ」

「スパゲッティも」

「グラタンも」

 きゃははと笑いながら、今度こそ二人は本当に帰路についた。

 微笑ましい光景だった。

 同時に、信幸の胸は痛かった。この子たちは、本当に自分のことを慕ってくれている。

 幹村信幸という人間はどうしようもない人間だ。守りたいものも守れず、救いたいものを救えず、逃げて考えることをやめた人間だ。

 それでも彼らにとっては尊敬する兄だということが、たまらないほど苦しかった。

 こんな兄の背中を見て、まっすぐに育ってくれた兄弟に、自分はいったい何をしてあげられるのだろうか。

「あ! トヨちゃんみてみて、お地蔵さん」

「ちっちゃいね。変な顔」

「お地蔵さんにいいことをすると、願いを叶えてくれるんだって、昔話で読んだことある」

「昔話かぁ、今でもそうなのかな? 試してみよっか」

 豊音は小さな手で握っていた千円札を、地蔵の前に置いた。風で飛んで行ってしまわないように、久満がその上に拳くらいの大きさの石を乗せる。

「お地蔵さんはこれで何を食べるのかな?」

「たっくさんのおにぎりだよきっと、絵本にかいてあったもん」

 二人は両手を合わせた。

「ママと兄ちゃんが早く帰ってきますように」

「みんなでハンバーグを食べられますように」



 カラカラカラカラカラカラカラカラ……。





                    3


 ただただ白いだけの壁は、いつも眺めていた教室の褪せて煤けた壁よりもずっとずっと退屈だった。

 目を背ける。すると、視界に入るのはただただ白いだけの床。

 病室という空間は落ち着かなかった。

 この部屋は、私のために白くて、私のために清潔で、私に何かあれば何人もの医者や看護婦が飛んでくる。守られているという感覚が居心地の悪さの原因なのかもしれない。

 麻木亜美は、今朝から何度目かのため息を吐いた。

 一人でいることには慣れている。なにもない場所で時間をつぶすのも得意なはずだ。

 ただ、本当に一人になったのは亜美にとって、生まれて初めての経験だった。

「……私の中には奈美がいた」

 呟いて、耳を澄ます。

 ほんの少しだけ開けていた窓から、隙間風がひゅうと鳴いた。

 それだけだ。自身の中からは何も聞こえない。

 亜美が起きている間、奈美はいつも眠っていた。集中すると、小さな寝息が聞こえてくる。

 すー、すー、と微かに、けれど確かにそこにいたのだ。

 学校へ行く電車の中や、嫌いな科目の授業中に、亜美はよく奈美の寝息に耳を傾けていた。

 時々、「ガマゾウ」とか「デメスケ」なんて、寝言が混じることもある。

 笑ってしまって、隣のクラスメイトに変な顔をされてしまうこともあった。

「どうしたの?」と聞かれて、けれど誰にも話さなかった。

 信じてもらえないだろう、という理由は建前だ。

 自分だけのものにしたかったのだと、今ならわかる。

 奈美の存在を私だけが知っている。

 私だけが彼女を守ってあげられるのだという醜い愉悦が、孤独と退屈しかない亜美の人生を唯一彩っていたのから。

「奈美」

 どうしようもない。

 どうしようもない人間だ。

 奈美を守っているふりをして、ただ日々を耐える理由が欲しかっただけだった。

 私が苦しいことが、奈美のためになるなんてそんな風に言い聞かせてきた自分が心底憎い。

 私は奈美に、弱いままでいてほしかったのだ。

 守られる存在でいてほしかった。

 事実、それでよかったのだ。

 

 あの日亜美の胸の中で、奈美が目を覚ますまでは。

 

 無機質な白のパーティションの向こうで、扉が微かに音を立てて開いた。

 入ってきた看護師の女性はベッドで佇む亜美を見つけると、作った笑顔を満面に浮かべて窓から見える景色の感想をよそよそしく語る。けれど、すぐにそんなものがこの部屋の空気を換えるのに何の役にも立たないことを悟ると本題に入った。

「先生から、大事なお話があるの。少し歩けるかしら?」

 亜美は数瞬呆けた後、こくんと首を縦に振った。

 看護師に手を取られながら、ベッドから下りる。そこまでしてもらう必要はなかったけれど、抵抗するのもおかしい気がして、従った。体はもうなんともない。左手に傷跡が残っているだけだ。

 亜美は巻いた包帯を眺めながら、悪い知らせだったらいいなと静かに考えた。



                    4

「あ、戻られたんですね」

 割り当てられた個室の扉に手をかけた信幸を呼び止めたのはみかんだった。彼も部屋に戻るところらしい。半分ほど開いた扉の向こうに、信幸の部屋にもある鏡台が覗いている。

「友達を探しているんですけど、見つからなくて。またどこかで寝てるんじゃないかと思うんですけどね」

 そう言って、みかんは笑った。そんな風に笑えるようになったのか、と思った。

「悪かったな、昨日のこと」

「え?」

 返事を聞くつもりはなかったから、きょとんとしているみかんをよそに信幸は自分の部屋に入った。

 バタン、と強い音がして扉が二人のいる空間を分ける。迎えた自室は、いつもより鋭い蒼で信幸を拒絶しているような気がした。

 まるで逃げているようだなと思う。いや、事実自分は逃げたのだ。

 頭の中は生界を出てから強烈な痛みを訴え続けている。もちろん本物の痛みではないのだろうが、小さな信幸の頭で、受け止めなければいけない事実が多すぎた。

 とにかく今は、一人になる時間が必要だ。

 体力とは別の何かを消耗した身体が、支えを失ったようにベッドへ倒れこむ。

 目を瞑り、深い蒼に沈む。

 一人で、考えなくちゃいけない。

 一人で、選ばなくちゃいけない。

 一人で、決めなくちゃいけない。

 ひとり。

 ひと……、

 おかしい、ふたりいる。

「おい、こら!」

 信幸は緩みきった顔で眠っている赤毛の少女を蹴とばした。もちろん手加減――もとい足加減はしているが、小さな体をベッドからはじき出すのには十分だったようで、少女は「おぎゃー」と生まれたての赤ん坊のような声を出して床にごろごろと転がる。

「あいたたた、……て、わ! だだだだだ、誰?」

「だから、普通はそれこっちのセリフだからな! ったく、なんでまたお前はここにいるんだよ」

「あれ? ここ……」

 少女――麻木奈美はようやく自分の置かれた状況に気がついたらしく、きょろきょろと部屋の中を見渡し、扉に書かれた番号に目を留めて固まった。

「……ふぁ、間違っちゃった」

「間違っちゃったじゃねーよ。何がどうしたら二度も部屋を間違えて人の布団に潜り込むことになるんだ」

「どうしたら……」

 奈美は考え込むように人差し指を下唇にあて、視線を宙に彷徨わせる。

「そういえば、昨日眠っているときにお手洗いに行きたくなって部屋を出たような気がしてきた」

「なんで特例のお前がトイレに行きたくなるんだよ」

「だけど廊下を歩いてたらやっぱり夜だから薄暗いし怖くなっちゃって、途中で引き返したような気もしてきた」

「どうしてこの時間の変化のない建物で、夜だから怖いみたいな発想にたどり着くんだよ。薄暗いのはいつもだろ!」

「それで、一番近くの自分の部屋に……」

「どんなに近かろうが、ここはお前の部屋じゃねぇ!」

 信幸の怒声が部屋の空気を強く震わせる。それに合わせて怯える奈美の肩もびくっと上がった。

「ごめんなさい……」

 しまった、と信幸は思った。ここに来てからというもの、ずっとフルートとのおかしな会話に付き合っていたせいで、そのノリの強い語調のまま突っ込みを入れてしまったのだ。消え入りそうなほどか細い奈美の謝罪で、急に胸の内から罪悪感がせりあがってくる。

「ごめんなさい……」もう一度。

「あー、もうわかったよ。俺の方も大声出したりして悪かった。ちょっと面白くないことがあってイライラしてたんだ」

 信幸はベッドから降りて床にへ垂れ込んだままでいる奈美を立たせた。

「わわぁ、ありがとう。よいしょ、っと」

 よくよく考えれば、言葉になったものが本心なのかもしれない。見たくなかった現実を突きつけられてぐちゃぐちゃになった気持ちを、八つ当たりのように目の前の少女にぶつけてしまったのだろう。自分のことながら恥ずかしい。

 信幸にはゆっくりひとりで向き合う時間が必要だった。これまでのこと、そしてこれからのことを考える時間が。

 ひとり。

 ひと……。

 …………。

「で、お前はなんでそこに座ってるんだよ!」

 立たせて扉に向かったと思っていた奈美は、なぜか当然のように踵を返して信幸のベッドに再度腰を掛けていた。いつの間にか薄いピンクのマグカップまで両手で抱えて、くつろぐ準備は万全のようだ。

「あれ? 許してくれたのかと思って……。もしかして私、邪魔?」

「邪魔ってお前、」正直なことを言えば邪魔だった。そう言えなかったのは、先の言葉の反動だったのかもしれない。

 信幸はそこから、言葉を継げなかった。

 奈美はそれをどう受け取ったのだろうか。

「人のいる部屋が落ち着くって、異界にきて初めて知ったの」

 少女の小さな口はそう言った。

「それはあんまりよくないことだって、フルートには言われちゃったよ。この世界になじむのは、同時に向こうの世界とのしんわせいが薄れ始めてるってことだって。言ってることはわからなかったけど、心配してくれてるのはなんとなくわかるの。でも、それでも私はここが落ち着く」

 あなたはどう? と、奈美はまっすぐな視線で信幸に語った。

 この、薄暗い無骨な部屋が好きか? と。

「そんなわけあるか」

 考える間もなく信幸は吐き捨てる。自分を拒絶する蒼を、好きになどなれるはずがない。

「おかしいだろ、この部屋。ベッドがあって、机があって、それは生きてるからこそ必要なものだ。今の俺たちにはなくていいものだろ。この体は疲れたりしない、痛みも感じない、腹も空かない。それなのに、まるで形にすがってるみたいじゃねぇか」

「ないよ」

 会話の流れを切るように発せられたその言葉を、一瞬信幸は理解できなかった。

「は?」

「私の個室にはないよ。ベッドも、机も、鏡もなかった。るー君はいたけどね」

 あ、るー君はクマのぬいぐるみ、と少しだけ恥ずかしそうに奈美は言う。

「……なんだよそれ、」それではまるで、信幸自身が生きるということに執着しているみたいではないか。

 そんなはずはないのに。

 そんなはずは、ない。それなのに。

 現にこの部屋は、形を整えたところで信幸を受け入れてはくれないではないか。

「えと、んと、お名前聞いたことあったっけ?」

 言葉に合わせて、赤毛が傾いだ。ベッドのバネで遊ぶように体を揺らしている。

「信幸だ」「ん、じゃあマッキーね!」「なんでだよ!」

 やりずらい、と信幸は思った。フルートとは違う意味で調子の狂う少女だ。みかんはともかくとしても、異界にはこういう人間ばかりが集まってしまうのだろうか。

 はぁ、と一つため息が漏れる。

 どうやら奈美は、このまま完全に居座るようだった。ここまで来て無理に追い出すのもはばかられて、信幸は仕方なく椅子に腰を掛ける。身の丈に合わない、決して心地のいいとは言えない低い椅子だ。

「ね、マッキーはどうして特例になったの?」

「おいおい、マッキーで定着してるのかよ」「だめ?」「だめに……」決まっている、と言おうとして信幸はやめた。それもなんだか、自分の存在に執着しているような気がしたからだ。

「まぁ、いいか」意地を張っているのかもしれない。それでも、信幸にはそう言うことしかできなかった。

「ふふん。それで、どうしてマッキーは特例になったの?」

 奈美はそう問いかけながら、カップを数回ゆすった。ゆすっては中身を確認し、首を傾げてもう一度振る。

「うーん、フルートみたいにはできないや」

「……自分から、死んだんだ」

「ふぇ?」

「走るトラックの前に飛び出して、轢かれて、死んだ。そう思ってた。特例になったのは、自分から命を捨てたことに罰が当たったんだってな。けどそれは大間違いだった。おかしいとは思ってたんだよ。自殺をする人間なんて日本じゃ全然珍しくないだろ」

 確か、みかんの死ぬ前の人間も自殺をしたと聞いた気がする。

「特例なのに特別じゃないわけなかったんだ。俺は死のうと思ったけど、それに失敗した。死にたがってた心だけ死んで、体は死ねなかった。笑っちまうよな。俺は自分に掛けてた保険金で家族を救おうとしてたんだぜ? ばれないようにうまいこと事故に見せかけられたと思ってた。それなのに俺の体は今でも家族の負担になってる」

 植物状態の人間を生かしておくのにどれだけのお金がかかるのか、信幸は想像もできない。

 事故に見立てて飛び込んだことも、今となってはうまくいったのかどうか自信がなかった。

 笑えるよ、と口では言ってみる。表情は変わらない。

「ミッキーは、」「マッキーじゃねえのかよ!」「生きてるの?」

 奈美の目が信幸を見つめる。

「体はな。ヘンテコな機械に無理やり心臓を動かされて、生きてる」

「それって嬉しい?」

「嬉しいわけないだろ。死のうとしたんだぞ。目的が叶わなかったんだ。なにかを失敗して、喜べる人間がいるかよ。お前だって――」


 失敗したんだろ、と言おうとした。


 吐き出そうとした自分の言葉が引っかかる。この少女のことを何も知らないのに、なぜ自分と同じだと思ったのだろうか。

 特例だからは通用しない。死者だからも同じことだった。

 どこか人間性の欠落したように見えるこの少女に、不器用すぎた自分の境遇を重ねたのだろうか。それならまだいい。けれど胸に渦巻く感情はもっと薄暗くドロドロしていて、信幸をぞっとするほど不安にさせた。

 少女の目が、続く言葉を待っている。

「いや……、あー」

 慌てて発した音は意味をなさない。視線も、重ねることができなかった。

 利用、したのだろうか。

 自分の不安定な心を守るために、無理やり少女の価値を落とした。それは何の意味もなさないことだ。わかっている。理解している。それなのに、自分が納得したいだけで、奈美を勝手に汚そうとした。

 ネガティブになっている心が過剰に自分を責め立てているだけなのかもしれない。

 そう思ってみても、胸の真ん中にぽっかりと開いた深い穴のような罪悪感はぬぐえなかった。

「私はね」

 奈美は何かを察した風ではなく、何かを気にする風でもなく、ただじっと何もない壁を見つめて、

「亜美に生きてることを喜んでほしいの」

 そう言った。

「亜美もね、自殺しようとしたの。お風呂場で、手首を切って、そんな痛い思いまでして、きっと本当に死にたかったんだよね。生きてる今は失敗なんだよね。だから、わかってるの。私のわがままなんだって、わかってるんだけど」

 でもね、と奈美は言葉を続ける。

「私が亜美を作ったの。それって、私がお母さんから生まれたのと変わらないよね。お母さんは、苦しい時でもつらい時でも、私を見て笑顔になってくれた。私がいることを喜んでくれるお母さんがいたから、私は生きてこれた」

 ふふ、と笑う。

「嬉しかったの。他の誰から否定されても、疎まれても、お母さんは私が生きてることを喜んでくれる。だからお母さんがいなくなっても、どうすることもできなくて亜美に頼ってでも、生きてきたんだと思う」

 いつの間にか奈美の目は信幸を見つめていた。

「だから亜美にも、私は亜美が生きててくれて嬉しいよって伝えなくちゃいけない。それでどんなにわがままでも、私は亜美に生きてることを喜んでほしいの。まだどうしたら伝わるのかわからないんだけど」

 私ずるいね、と小さく呟いて照れ隠しのようにカップをゆする。

 信幸には、奈美が抱えている事情は分からない。亜美という人物が奈美にとって何なのかも正直なところよくわからなかった。

 ただ、わかったこともある。

 休む間もなく働いて、苦しいことばかりだったはずの生活の中で、信幸の母親がどうしてあんなに笑っていたのか。無理をしていたんだと思っていた。苦労を見せないように、心配をさせないように、自分や兄弟たちには気を使っていたのだと思っていた。そういう強い人なのだと。それが強さなのだと。

 視界がゆがむ。

 ちっとも、わかっていなかった。強いだけで笑顔が続くはずがない。義務や責任だけで働き続けられるはずがない。

 ずっと言われていたじゃないか。

『あんたたちは私の宝物だよ』

 それは、言葉通りの意味だったのだ。今ならわかる。取り返しのつかなくなった、今なら。

「泣いてるの?」と覗き込むように奈美が聞いた。

 信幸が答えられずにいると、小さな手が頭に乗った。「私はこうされて、落ち着いたから」

 こみ上げた感情が堰を切ってあふれる。噛み殺そうとした嗚咽もどうにもできなかった。

 自分は大バカ者だった。何にもわかっていなかった。わかったふりをして、知ったかぶりをして、強がっていただけだ。認めたくなかっただけだ。癪だけど、それはフルートの言うとおりだった。

 死ねなかったことは失敗じゃなかった。

 ただただ、あの笑顔から逃げ出したことが幹村信幸のたった一つの失敗だったのだ。

 家族のためだなんて、とんだ欺瞞だ。

 耳障りがいいだけの言い訳だ。

 死を迎える覚悟なんて本当はどこにもなかった。あったのは自分への嘘と、どうしようもなく愚かな意地だけ。

「……くくっ」

 あまりの情けなさに、笑いがこみ上げる。

「かっこわるいなぁ、俺は」

 気恥ずかしさを紛らわせるように信幸がそういうと、「そうだね」と奈美が答えた。

 少しむっとする。けれどそんな気持ちは、すぐにどうでもよくなった。

「フルート」と声をかけた。

「なにかな」と返事がある。

 ずっとここにいたのかもしれないし、今どこからか現れたのかもしれないが、もうそんなことを気にする人間は誰もいなかった。

「長いこと待たせたな」

「長いこと待っていたんだよ、幹村信幸」

 あひゃひゃひゃひゃ、とフルートが笑う。闇色の長い髪が楽しそうに揺れていた。


「俺は……、生き返るぜ」



 カラカラカラカラカラカラカラカラ……。




                   5

 部屋に誰かが入ってくる気配を感じて、みかんはペンを置いた。

「邪魔だった?」

 そう聞かれて、首を横に振る。「そんなことないよ」

 返事に安心した様子で、奈美はベッドに勢いよく腰を掛けた。常に薄暗さを伴うこの部屋がほんのり明るくなったように感じる。向き合うために、日記を畳んで椅子をそちらにくるりと回した。

「何か飲む? 練習して、少しは上手になったんだけど」

 みかんが手首を返すと、両手の間にはカップがあった。中身はコーヒーだ。反省を生かして、砂糖とミルクを一つずつ入れている。現れたとは違う、今までなかっただけで、そこにあったもの。

「わ、私はちっともできないのに」

 奈美は持ち込んだカップをぶんぶんと振って見せるけれど、中身は空のままだった。みかんはもうその動作自体には意味がないことを知っている。理解しなくてはいけないことは、手首の動きではなく、上手なコーヒーの淹れ方なのだから。

「なにがいい?」

「ミルクティー、とっても甘いやつ!」

 甘いやつ、甘いやつ、とイメージを固めて みかんは自分のカップを奈美のものにコツンとあてた。ミルクティーは知っている。フルートがよく飲んでいるから。

「わ、すごい! これがミルクティーなんだね!」

 どうやら奈美の方はミルクティーを知らなかったらしい。まだ湯気の立ち昇るカップにくちをつけて「あちち、あちち」と苦闘している。少し冷ましたものを用意したほうがよかったかもしれない。

「どう?」

「ふふ、甘い」

 それはおいしい、と同じ意味なのだろうか。奈美の油断しきった笑顔を確認して、みかんはほっと胸をなでおろした。自分のコーヒーはまだ少し大人の味だ。

 お互いに一息ついて、みかんが話題を探し始めたころ、奈美は決心したように深く呼吸をしてゆっくりと話を始めた。

「私ね、ここにきて結構経つんだ」

 なのかくらい、と。それが七日なのだと気が付くのにみかんは少し時間がかかった。

 長いのか短いのかはわからなかったけれど、それはみかんが生きてきた時間よりも長い。

「初めてのことばっかりだった。こんなこと言うとまたフルートに怒られちゃうけど、楽しいことばかりだったんだよ。おかしいよね。死んだのに」

 ほんとにおかしそうに、奈美は笑う。

「ずっと一人だったから。ううん、ずっと一人だと思ってたから、人と話すのがこんなに楽しいなんて知らなかった。誰かといて、落ち着くことがあるなんて気づかなかった。生きてても、楽しいことっていっぱいあったのかな。死ななくても、お友達は作れたのかな。誰かと話して、笑っちゃったりできたのかな。って、考えるの。考えたことなかったんだよ、ここに来るまで。みんなと出会うまで」

「僕はちゃんと友達できてるかな?」

「わかんないよ、初めてだもん」

 笑い合う。そして、

「明日、亜美が退院するの」

 そう奈美は言った。

「伝えたいこと、全然まとまらないの。けど、私は亜美と話したい。緊張してるし、嫌われちゃうかもって思ってるけど、怖いけど」

 けど、それでも、

「亜美と話がしたいの、ついてきて……くれないかな?」

 奈美の目が一瞬だけ赤毛に隠れて、不安そうにみかんを見つめた。

 それがなんだかおかしくて、みかんは笑ってしまう。

 返す言葉は初めから、決まっていたから。

「そばにいるよ」

「へへへ、甘いなぁ」奈美は照れ隠しのようにミルクティーを傾けた。

 誰かのためにできることがある。

 求められて。答えることができる。

 なんてことないことかもしれないけれど、みかんはそう思うだけで救われたような気がした。

 まるで、ここにいてもいいと言われたような、そんな気持ちになった。

 案外答えなんてそんなものなのかもしれない。それを選んでもいいのかもしれない。

「ねねね、私ケーキ食べたい」

「ケーキ?」

「うん、クリームがたくさんのってて、甘いやつ! ……あ、できない?」

「できないというか、」みかんはケーキを食べたことがない。見た目くらいはわかっても、味は想像できなかった。

「いや、やってみようか」

 けれどそういったのは、奈美が勇気を出すための力になれるかもしれないと思ったからだ。

 コーヒーや、ミルクティのようにはいかなくても、できるまでやってみようとみかんは思った。

 手の中のカップはまだ温かい。

 ふと考える。この異界で、痛みも疲れも空腹も感じない自分がカップの温度を感じるのは少し不思議な感じがしたからだ。そもそも、味が分かるのもおかしなことなのかもしれない。

「伝えたいものは伝わるんだって。フルートが言ってたよ。都合がいいけど、そういうものなんだって」

「それって、」

 都合がいい、と奈美は言ったけれど、伝えたいものが全ていいものとは限らないのではないだろうか。

 みかんは昨夜のことを思い出していた。

「何も言わなかったけど、フルート、やっぱり痛かったんじゃないかなぁ……」



 カラカラカラカラカラカラカラカラ……。




                   6

「とぉっても痛かったんだよ」

「いきなりなんの話だよ?」

 ベッド舌をだして、フルートはようやく部屋を出ていくそぶりを見せた。

「時間はいくらでもあるんだよ。何をしてもいいし、何をしなくてもいい。特例は、本当はなにより自由な存在なの。本当は、ね」

 含みのある言葉は、けれどフルートなりに気を使ってくれたのかもしれない。

 今の信幸には、焦らなくてもいいという意味にも聞こえた。それが、自分自身に起きた変化を自覚させる。

「一つやり残したことがある。ここを出ていくのは、それからにするつもりだ」

「私からは、もう何も言うことはないんだよ」

 幹村信幸は人間だから、と残して闇色の少女は漆黒に溶けた。

「悪かったな」

 いなくなって初めて絞り出した謝罪の言葉は、彼女に届いただろうか。酷く歪んだ笑い声が遠くで聞こえたような気もする。

 自分ひとりになった部屋で、ふと思い出して信幸は鏡台に向かった。

 引き出しを開けると、乱雑にしまったままだった写真立てを取り出す。この部屋に初めて入ったときに見つけた思い出を映し出す写真立てだ。あの日、信幸は触れることができなかった。

 今なら、と思った。

 けれど握りしめた額の内側に何かの輪郭が浮かび上がったところで、信幸はもう一度それを引き出しにしまい込む。

 今の信幸は、そこに何が映っても怖くない。ただ安心してしまうのが怖かった。

 自分は、この部屋の住人じゃない。

 拒絶されたまま、ここを出ていくのだ。

 本当に生きるべき世界に戻るために。

 布団にもぐった。

 ほんの少しも、温かくはなかった。


 カラカラカラカラカラカラカラカラ……。

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