15、奪われた仮面


 ◇



 エトランジェは今日も仮面をつけた紳士淑女で賑わっている。


 いつも通りのダンスフロアは馴染み客だけでなく、初見の客もちらほら。


 初見客がいるのは別段おかしなことではない。しかし、浮ついた態度で女性を口説きに走る青年とも、どう振る舞っていいかわからずに落ち着きがない青年とも違う。


(…………なにかしら、この違和感……)


 フロアを蝶のように飛び回りながら、リコリスは表現しがたい不安を感じていた。


 あちらこちらから視線も感じる。


 バイオレットをどう誘おうかという色を含んだものではなく、もっと冷静な、「観察している」視線だ。


(この間みたいに、わたしに怪我をさせてやろうと考えている人がいるのかもしれないわ)


 極力、人の目が集まるフロアでダンスに終始した。間違っても一人でバルコニーになど出ない。


 観察者たちは声を掛けてくることも帰る気配もなく、ただ「見られている」という気配は常に感じる。絡みつくような視線は不快だった。


(……この間の一件で過敏になっているだけかもしれないけれど……)


 良くない勘と言うのは当たるものだ。早めに引き上げた方が良いかもしれない。


 なんだかんだで馴染み客にも愛着があったし、この先もう二度とエトランジェに足を踏み入れることがないと思うと名残惜しい気持ちもあったけれど、やはり怖い。


 警戒したリコリスは、この間のように一人でホールを出るのではなく、誰かがホールを出るタイミングで階段に向かった。


 二人組の婦人が連れ立って帰るのに合わせ、その少し後をついて階段を下りる。もちろん、手すりはしっかりと握ったまま。下まで降り切って、突き飛ばされなかったことにほっとした。


 だが、振り返ると――四人組の男が走って階段を駆け下りてくる。何、と思う間もなく、リコリスの身体に男の手が触れた。


 剥き出しの肩を掴まれて、腕を拘束される。男の手がリコリスに伸びた。


「っ、何を……」

「キャーッ!」

 すぐに気づいた二人組の婦人が、リコリスの声をかき消す叫び声を上げた。


「誰か! バイオレットが!」


 暴漢に襲われている。しかし、男たちの目的はリコリスの身体ではなく――


(仮面が!)


 彼らはリコリスの仮面をむしり取って逃げた。咄嗟に手で顔を隠すが、バランスを崩した身体は無様に倒れて片手をつく。


 視界には騒ぎを聞いて駆けつけてくる客たちの姿が見えた。


(っ、そんな! 顔が、見られてしまう!)


 こんな人の多い場所で。

 顔を両手で隠したまま立ち上がるなんて不可能だ。そして、野次馬たちはバイオレットの仮面の下を見たがっている。


「バイオレット!」


 ……だから、正面玄関の方から飛び込んできた声にリコリスは耳を疑った。


 その声の持ち主はここにいるはずもない人物――僅かに開けた指の隙間からは、肩で息をして、頬を上気させて――たった今エトランジェに到着したばかりらしい、銀の仮面をつけたオーランドの姿が見える。


 駆け付けたオーランドは、自分の上着をリコリスの頭に被せた。暗転した視界で、リコリスの身体が宙に浮く。


「失礼」


 有無を言わさず、リコリスを抱いてエトランジェを後にする。


 オーランドは乗ってきたらしい伯爵家の馬車に飛び乗ると、「出してくれ」と命じた。上着を被った真っ暗闇の中で、リコリスはあの場から離れられた安堵に涙が出そうになる。


 オーランドのぬくもりが残る上着の生地を、ぎゅっと握りしめた。


「…………大丈夫、でしたか?」


 沈黙の後にオーランドが口を開いた。


「仮面をとられただけですか? 怪我や、乱暴されたりはしていませんね?」


 リコリスのドレスは破かれたりはしていないし、他の客がいる前でリコリスの身体をどうこうしようとした犯行ではないだろうということはオーランドにもわかったようだ。リコリスは頷く。


「大丈夫です。助けてくださって、ありがとうございます」


 仮面をとられただけだ。

 でも、それはつまり、バイオレットの正体を暴こうとしたということ。


 オーランドが現れなければ、リコリスの顔が皆の前に晒されていたかもしれなくて――


 震えるリコリスの肩に熱が触れる。

 上着を被っているせいで前が見えないリコリスは驚いて身体を跳ねさせた。


(ううん。犯人のことよりも、まずは今のこの状況だわ。オーランド様はどうしてエトランジェに……)


 オーランドの手が熱いのは熱が上がっているせいかもしれない。


 具合が悪いのに助けにきてくれたことは嬉しかったが、絶体絶命のピンチなのには変わりがない。


(どうしよう、ここで降ろしてもらうわけにもいかないし、伯爵家に連れて行かれても困るわ)


「オーランド様、行き先はどちらへ?」


 御者から声がかかり、リコリスはますます焦った。


「――メイフィールド通りを真っ直ぐ走ってくれ。……それで構わないか?」


 確認されて頷く。御者が「かしこまりました」と返事をした。


(助かったわ。男爵邸の方向だから、しばらく走ってもらった先で降ろしてもらって……そこから歩いて帰れば……)


 安堵したリコリスに、オーランドが不愉快そうに言い捨てた。


「……そろそろ顔を見せたらどうだ? 家庭教師」



「…………かてい、きょうし?」


 リコリスの息が止まる。


 優しく心配してくれていたオーランドの声は冷めたものに変わっている。


 オーランドが来る前に顔を隠した。

 仮面の下は見られていないはず。なのに、どうして。


 リコリスの頭が真っ白になる。


「なんのことです?」

「とぼけるつもりか。違うと言うのなら顔を見せろ」


 見せられるわけがない。


 リコリスが言葉を紡ぐ前に、オーランドの手が上着にかかった。


 はらり。抵抗できないまま落とされた上着。オーランドは銀の仮面を既に外していた。


 目と目が合う。リコリスは金縛りにあったかのように動けなかった。


「……ど、して、わたしだと……。いつ……」


 いつから、気づいていたのか。


「勘違いするな。気づいたのは今日、お前が茶を届けにきたからだ。お前が笑った顔も、仕草も、バイオレットそっくりだったから……」


 ああ、余計なことをしなければよかった。


「もしもお前がバイオレットなら、俺が絶対に来ないとわかっている今日、エトランジェに行くだろうと思った。来てみれば案の定だ」


 ぎり、とオーランドが奥歯を噛む。

 睨まれてリコリスの身体は竦んだ。


「……面白かったか? 謎の令嬢ごっこは」

「っ……違……」

「いつまでも気が付かない俺を嗤って、馬鹿にして……」

「馬鹿になんて、してな」

「じゃあなぜずっと騙していた!」


 オーランドが声を荒げた。


 びく、とリコリスの肩が跳ねる、けれど負けん気強く言い返してしまう。


「騙していません! わたしは、あなたの気持ちにはお応えできないと申し上げていたでしょう⁉」


 オーランドが、勝手に。


 勝手にバイオレットを好きになって、迫ってきて。


 どうしてこんなことをしているのかと、理由だってきいてくれない。勝手で、自己中心的で。怒っているのに、傷ついた顔をしてリコリスを睨んでいる。


「……ほら、失望したでしょう?」


 リコリスは泣き笑いの顔で力無くそう告げた。


「熱を上げていた相手が、地味でつまらない女だとわかって、がっかりしましたか? ……わたしももう、こんなことは止めるつもりでした。あと数日、バイオレットの役目をこなしたら、エトランジェに行くのは止めようと。あなたともエトランジェで会うことはもう二度とないだろうと思って……あなたに会わなくて済むようにと思ったのに」


「もう、いい」

「……っ、わたしはっ」

「もういいと言っている!」


 再びオーランドが怒鳴る。怒鳴って、後悔したように口を噤んだ。


「……今は何も、聞きたくない」


 オーランドはそっぽを向いて押し黙り、リコリスも唇を噛んでうつむいた。


 カラカラと馬車の車輪の音だけが響く。


 仮面が欲しい。リコリスは切実にそう思った。

 今の自分のこの顔を、オーランドに見られたくない。


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