第9話 人殺し

 肘鉄男ひじてつおは、意地汚く笑いながらハバミを睨めつけた。


「和博は便所かぁ?阻……」

「……そ、そうですけど……。」


 カモシカ男が蹄を鳴らす。


「和博が居たから、今までお前に手が出せなかったんだ。」


 鼓動が早くなり、目眩がしてくる。

 俺、人から恨まれるようなことしたっけ?


「前々から気に入らなかったんだよ…」


 なんで?


「偉そうに知識ひけらかして、利口ぶってんじゃねえ!!」


 凄まじいスピードで距離を詰められ、ハバミは壁に叩きつけられる。裾の浮いたズボンから覗くくるぶしも、黒く鉄のように光っていた。


「ぐえっ……!?」


 首を掴まれて、身体が強ばった。

 人間の体の仕組みで、頭を固定されると動けなくなるのだ。こいつらがそれを意図してやっているとは思えないが、非常にまずい。


 こちらを見下ろす男の目が歪んでいた。


「医学科っつうのは全員こうだよな、金持ちじゃねえとなれねえから、全員こうだ。」

「……暴力に訴えるのはやめてください。」


 ハバミは、目の前の男に対し、説得を試みる。しかし、男は聞く耳を持たなかった。


「うるせえ。お前みたいなキチガイの言うこと、誰が聞くか。」


 男は鉄になった拳を振り上げ、容赦なくハバミの顔目がけて振るった。相手の拳が顔面に当たった瞬間、火花が飛び散るような衝撃。強烈な痛みに意識が飛びかける。


「い……っ、いだ……!」


 視界の中心がじわりと赤く染まった。何かとそこを見れば、マスクの鼻頭に血が滲んでいる。

 しかし肘鉄男は尚も拳を振り上げる。


「ま……まって!やめ……」


 思わず目をつぶり、相手の腕を掴んだ。


 パン!


 軽快な破裂音。


 顔に生暖かい何かが飛び散る。

 暖かい雨のような何かが、地面とヨウを打ち付けた。


「ひ……ひぇええぇっ!!!」

「え?」


 目を開ける。

 天井にも床にも白いペンキ塗りの壁にも、スプラッタのごとく血液が飛び散っている。肌色の肉塊が、血の海の中へ沈んでいた。


「へ……」


 自分の手が、人間の手首を掴んでいる。

 その腕は 肘から先が見当たらなかったが、その身体はたった今崩したパズルピースのように、地面へ落ちているという事。

 嫌でも理解出来てしまった。


「あ……あ……?!」


 自分の仕出かしたことの恐ろしさに、腰が抜けてしまった。足に全く力が入らなくなる。

 血の海になった地面へとへたり込んだ。

 水音が響き、自分のズボンへ血液が染み込んでくるのが不快で、不快で堪らなかった。


 廊下へ逃げ出したカモシカ男の悲鳴と、何かを砕こうとするような音が聞こえる。


「キミ……ここで一体全体何やっとんのや。」

「やってない!何も!俺は何もやってないよぉ!」


 いつもの機嫌良さそうな声の弾みは微塵も伺えない、淡々としたコバタの声が、それを押し消すように響いてきた。


「ご丁寧にドアまで壊しおってな。」

「は……離して!離せェエ!!」

「……なんや?あ?わざわざ高校棟までいらっしゃってな!なあ!!ぶっ殺されたいんかワレェ!!」


 コバタは、カモシカ男の頭を掴んで、壁へ思い切り叩き付ける。血飛沫が飛び散り、カモシカ男の身体は力を失って膝から崩れ落ちた。


「ぶげ……ごぽぽ……」

「アァ!?コラァ!!誰の許可得てヨウに近づき腐ッとんねんきさんはァァア!!!」


 砂の塊を崩すような軽快な音が鳴り響く。


「死ねッ!死ねッッ!!死ねやァァー!!」


 コルクボードを爪で撫ぜるようなざらついた音が次いで響き、そこに絶叫が調味料とばかりに被さり、壁に何度も何度も衝撃が加えられる。

 あまりに強い衝撃に、校舎が揺れているのではないかと錯覚するほどだ。


 そして、静かになってドアの影からニコニコと機嫌良さそうに顔を覗かせたのは、白いシャツとツーボタンスーツをインナーと同じ赤色に染めたコバタだ。


「ヨウ〜!無事か……て、ギャーーーーーッ!!ウオイオイオイオーーイ!!血まみれやんけ!!あいつに何されたんや!!立てるか!?どっか痛ないか……あ?」


 喚きながら駆け寄ってくるコバタの上履きが、柔らかな桃色の塊を踏み付ける。


「あれっ?臓物やん」

「うわぁあああぁああ!!!!」


 重ねるように絶叫するハバミ。


「おげげ、どうしたん……」

「あ……あぁ……そ、それをやったのはお、俺だ!俺がそいつに触れた瞬間、は、はれ……うぅううう……!!」


 コバタの細い目が内側にめり込んで、糸のようになってしまった。彼は長い溜息を吐くと、たった今踏み付けた臓物を落ち着かなげに靴で蹴り、教室の隅へ滑らせる。


「あ〜な、ヨウ。何をそんなに焦っとんのか知らんがな、これは殺し合いなんやぞ。人ひとり殺した程度で何を……」

「違う!恐れているんじゃない!!俺は……医者だ、医者が……俺が!人を殺して!!どうする!!クソ!!クソッ!!」

「……ンン~~~?」


 医者でも俺でもないコバタには、その考えは理解できないらしかった。

 血溜まりの中へ、うずくまって叫びながら床を拳で殴り続けるハバミ。貼り付けたような笑顔のまま、コバタは首を身体ごと傾ける。


「せやったらボクが殺したってことにすればええやん。キミはなんもしとらんねんて……」

「……違う……」

「ま゛ァー!何が気に食わんのよ!もう人体自然破裂ってことにしたらええやんか!医学知らんけどなんか多分そゆこともあるて、人破裂することもあるやろ!!言わんどればわからんのやぞ!!」


 コバタは学校机の天板を、手のひらで叩き付けた。

 瓦割りのように天板が真っ二つに割れ、4本の足のうち引き出し側の2本がひしゃげて折れ曲がる。


「違う!違うんだ!!俺は自分の過ちを誰かになすりつけて隠したい訳じゃない!!」


 ハバミは血溜まりに前髪を擦り付けている。


「ァ゛ーーーー!!!じゃなんなん!!乙女オトメかちゅーねん!!ぐけけ、わからん!!ボクにはわからんぞォーーーー!!!」


 コバタは苛立ちそのままに、奇声を発しながら手近にあった教卓を掴んで教室の反対側へぶん投げる。飛距離はさほど伸びず、机と椅子の群れへ突っ込んで一帯を蹴散らしただけだった。

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