2 斑の雪

2 斑の雪(1)

 寒さに呼ばれて窓の外を見ると、雪がちらついていた。

 ナルオミは資料を揃えてアキの部屋へ向かった。自分の足音を他人事のように聞きながら、人の殻に覆われた空っぽだった部分に、やわらかな土が堆積していることを確認する。満たされている。

 扉を叩こうとすると、思いがけず中から開いた。

「あ」

 アキはナルオミの顔を見上げて、むっと顔を曇らせた。

「なんだ、もう時間か」

「はい。どちらへ」

「便所くらいいいだろう」

「では先に出発の用意を。車へ乗るまでにお願いします」

「はいはい」

 渋々部屋へ戻り、アキは大仰にため息をついた。

「たった五分すら大目に見てくれないなんて、思いもしなかった」

「ならば、今からおれを斬り捨てますか」

 淡いマーブル模様のファーコートに袖を通していたアキは、動きをとめてナルオミを睨みつけた。

「冗談は冗談らしく言え」

「まあ、冗談であればそうしましょう」

「だったらなおさら、そんなことは言うな」

 コートの前を寄せ、長い襟足を払う。細くつやのある黒髪を白雪の指がすべるさまは、少女のようなしなやかさに彩られていた。

 思わず、アキの指先を見つめる。視線が吸いついて離れなくなる。

「なあ、ナルオミ」

 ナルオミの胸元に、アキの拳が押しつけられた。

「この誓いは、ぼくの取るに足りない我儘にも劣るのか」

「おれにとっては、あなたの命令がすべてです。優劣などと」

「違うよ、ナルオミ。それじゃおまえは繰り返すだけだ」

「え」

「おまえは優秀だ。だがこれでは、おまえはいつまでも無力なままだ」

 拳の下には、ナルオミの十字架がある。それを服の上からなぞるようにして、アキは力なく笑った。

「切ないね、おまえは」

「総統……」

「すまない。行こうか」

 一片の未練もなく離れていくアキの手を、扉の向こうに消えていくまで見送って、ナルオミもまた部屋を出た。

 廊下を歩くアキの背中を目で追い、ナルオミは胸の十字架に手を当てる。少し冷えた胸元は、泥のような疲労感に静まり返っていた。

 カイトを喪い、アキの元についてから半月ほどが経っていた。その間、ほとんどの時間をアキと過ごしている。これまで組織と関わりのなかったアキには東龍征ひがしりゅうせい会系灰崎はいざき組の新たな総統として知らなければならないことが山のようにあった。懇意の組織へのあいさつ回りも連日続いていた。出来る限りアキには負担のないよう進めていたが、少なくともナルオミに休んでいる時間はなかった。

 しかしナルオミはそれを苦としない。むしろ心地よいくらいだった。

 アキは勉強らしいことをしたことがないと言ったが、物覚えはよく、一度言ったことはすぐに理解した。また、若いが立ち居振る舞いに臆するところはなく、総統としての風格があり堂々としていた。それは努力で補えるものではない。これこそ血筋、アキが先代から受け継いだものに違いなかった。

 先代は骨太で、獅子のような顔つきをしていた。それに比べてアキはとても線が細い。目鼻立ちも父子かと疑うほどかけ離れている。実際、組織内ではアキの出自を疑う幹部もいた。

 しかし噂などいずれ消える。それはナルオミの観察と感性に基づく確信だ。

 アキは時折、先代にとてもよく似ていた。穏やかで慈悲深い眼差しのなかに、冷たさすら感じさせない氷が宿る。相反するはずの二つの温度が、共鳴してひとつのうねりになる。先代は何かを決断する時に、必ずそういう目をした。アキもまた折に触れてそうだった。

 そう、ついさっきも。

『切ないね、おまえは』

 愁いというには乾いていて、虚無というには美しすぎた。

 あの視線の先にいるのだと思うと、誇らしさで気が狂いそうになる。

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