1 ロザリオ(4)
「よろしいですかね、総統」
末席にいた若い男が、静まり返っていた部屋に声を投げた。名を、サカキといった。若いが有能な男だ。ナルオミにとって、アキが現れる前はもっとも注意すべき人物だった。
彼は両手を服に突っ込んで、首をかしげるようにして立っていた。
「どうした」
「総統、これはあまりにも危険じゃないですか。ナルオミにとってカイトは育て親も同然。こいつは組織や先代に仕えていたんじゃない、カイトに仕えていたんですよ。それを生かして、ましてやそばに置いておくなどと。さすがに酔狂が過ぎます」
サカキの意見を受けて、何人かが頷いた。そうでない者も、彼の言葉を否定するには至らない。
アキはわかっていたのか、別段慌てる様子はなかった。
「では、どうすればおまえたちは納得する」
「そりゃまあ、ナルオミを殺すのがいちばんいい。あなたへの忠誠と信頼は確固たるものになるでしょう」
「それはできない。ナルオミはもうぼくの部下だ」
頑として譲らないアキを見て、サカキは口元を緩めた。
「ならば、そいつに誓いを立てさせてください」
「誓い?」
「ええ。おれもね、先代に従うときにさせてもらいました。親から受け継いだもの、おれは指輪でしたけど、それを総統へ忠誠の証しとして納めてもらうんです。聞けば土地や、家族を証しにした者もいるそうですよ」
「そうなのか」
アキの問いにハセベが頷いた。
「先々代から続いている、まあ形式ですな」
「くだらない」
総統の椅子に再び腰をおろして、アキはナルオミを見おろした。
「どう思う、ナルオミ」
「誓い、ですか」
「おまえの考えを聞かせろ」
言外にアキが無視をしろと言っているのはわかった。だがそれはこれからのアキの立場を考えると、あまりよい判断とはいえない。できれば目に見える形で誓いは立てたかった。
肩越しにサカキを振り返る。目が合った瞬間に、彼は浅黒い顔を歪めて笑った。口元が、さあと促す。サカキはわかっている。ナルオミが形式に則った誓いを立てることができないと。
なぜなら、ナルオミには何もないからだ。
もしもここでナルオミが出来ないと言えば、二心ありと疑われ、それをかばうアキまで信頼を失ってしまう。それだけはどうしても避けたい。
「誓いを立てることに、異存はありません。むしろおれもそうしたい。ですが、おれには――」
そこまで口にして、ナルオミは痺れの残る冷たい両手を見つめた。
証しなら、ここにある。
「ハセベさん、さっきのナイフを借りてもいいですか」
「これか」
ハセベはホルダーに納めようとしていたナイフを目の高さにあげる。ナルオミは頷いた。
「お借りします」
「こんなもので、一体何をするつもりだ」
ハセベの問いに答えず、ナルオミはナイフを受け取る。ざわめきの中から、ひときわ大きな声がした。
「おいおい、あんたもしかしてハセさんのナイフを証しにする気か。おれぁ、確かに誓いを立てろと言ったが……」
サカキは笑いを挟んで続ける。
「借り物の誓いなんて、意味ないぜ」
「わかっている」
ナルオミは居住まいを正してアキに向き合った。
「おれには、おれしかありません」
ひじ掛けにもたれていたアキは片目を眇めて体を起こした。動きに合わせて、アキの白い首筋に細い鎖が揺れる。クロスのネックレスのようだった。
「おれの命をあなたに預けると言っても、それは見えない。見える形で預けてしまえば、おれはあなたのために働けない。ならば腕や足を切り落とせばいいのでしょうが、それでは全力であなたを支えられない。形式軽視だと言われれば、返す言葉もありません。それでもおれは……」
ナルオミはよれた襟に手をかけて、自らのシャツを破った。
「おれしか持たない」
言い終わらないうちに、ナルオミはナイフの先を鎖骨の間に押し当て、皮膚を裂いた。胸まで縦におろすと、続いて垂直に交わる短い傷をつけた。
皮膚を割っていったナイフが、絶望的な冷たさでナルオミを嘲笑った。つるりとした刃先はまるで歯だ。肌には鮮烈さを持って、にやついた歯茎が浮き上がった。
昨日までナルオミはカイトの盾だった。外敵からカイトを守り、どんなに傷ついても破られない盾だった。だが、最後の敵が盾の内側にいた。それを防ぐすべは、盾であるナルオミにはなかった。
守るばかりでは、いつか何も守れなくなる。
今度こそ、喪うわけにはいかない。
もしなれるならば、アキの剣になりたい。彼を守り、彼を害するすべてのものを貫く剣になりたい。
惜しまない、ためらわない。越えよう。自分の空っぽの殻を越えて、アキの爪の先にまで満ちていきたい。
血がナイフを伝い、床の上に落ちた。きっと、カイトの欠片だ。
部屋の中は静まり返り、物音ひとつすらなかった。
「……誓いを」
掠れた声が、はたしてアキに届いているのか不安になる。息を吸うと、胸が凍みた。
「誓いの証しを、受け取ってくれますか」
ナルオミの首にかけられた十字架は、流れる血で原形を失いかけていた。アキは胸元にかけていたシンボルを手のひらに握りこむ。
「ペアか。悪くない」
そこには確かに情愛があった。ナルオミは慣れない笑みを頬に浮かべた。
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