第2話
◇
「へー明子、カフェオレ? メロンフロートじゃないんだ」
私の目の前に座る四角い眼鏡の男性がからかうように言ってくくと笑った。
「ふふ、懐かしいわ、パフェとかこのお店で散々食べさせてあげたの、あなた憶えてる?」
その隣の女性は私と似ているとさっきから会う人会う人に言われる。
「けどよかったわね、智昭くん、やっとお式挙げられて」
「ほんとだよ。散々揉めたもんね。そもそもあいつが『海外で挙げる』って聞かないから」
「あなただって一時期憧れてたじゃないの、海外ウエディング」
ふ、と微笑んで私とそっくりらしいその人は私の前にあるのと同じアイスカフェオレをひと口含む。
「いやあ俺はあそこまでじゃないよ。カッコつけなんだよな、智昭は昔から。ジャズとか聴いちゃってさ、楽器なんかもやってたし」
「ほんと、似てない兄弟」
くく、と口元を押さえて肩を揺らす。そしてその人は細めていた目をらんと開いてアイスカフェオレ越しに私を見つめた。
「ね、そういえば憶えてる? 明子。小さい頃、あなた智昭くんと結婚する! って騒いでたの」
突然話を向けられて戸惑いつつも苦く笑って返す。「……憶えてるよ」
憶えてる、というか、今思い出した、というか。
いつの間にか店内のBGMは知らない歌へと変わっていて、私の前のアイスカフェオレはその周りにたくさんの水滴の粒を光らせていた。グラスに付いた水の粒は周りの粒と繋がって、やがて大きな雫となり、つ、と厚紙のコースターへと流れ落ちる。
ああ、そうだ。
どうして忘れていたのだろう。
あの日、両親に引きずられるようにして嫌々引越しをした私は、同居していた最愛の叔父と引き離された。
今となってはどうしてあんなに惚れ込んでいたのか、心底恥ずかしく思うけれど、当時の私は真剣だった。
──「大人になったら、けっこんしてね」
絶対に叶わない願いを、叶わないとも知らず、願い続けていた。
父と年の離れた兄弟だった叔父は、当時まだ大学生で、幼児のくせにませていた私にはとにかく堪らなく格好良く見えて仕方がなかった。言うまでもなく、初恋だった。
そんないちばん燃え盛っていた時に突然『引越し』という消火剤をぶっかけられた私の恋。あんなにショックでどれだけ泣いたかわからないのに、いざ引越してみると『新たな環境』という魅力に溢れるものを前にあっさりと鎮火した。
そうしてあわあわと日を重ねていくうちに、あんなに燃え盛っていた気持ちそのものをすっかりと忘れてしまっていたのだ。
この喫茶店の名前と同じに。
「さて。そろそろ行こうか、……あれ明子、全然飲んでないじゃないか」
「あらほんと。時間ないわよ、早く飲んじゃいなさい」
「ああ、うん」
両親に急かされて慌ててストローを吸う。氷が溶けて味が薄くなったカフェオレは、シロップのおかげで甘いけど、奥の方ではしっかりとほろ苦い。
「バスの時間は?」
「まあまだ15分はあるよ」
「よかった。なら間に合うわね」
正装をした両親がまだカフェオレを飲んでいる私を残して早くも立ち上がる。「待ってよ」慌てて言いながらほとんど水となったグラスの底部をストローで吸い上げてゴロゴロと音を鳴らした。
今日のために新調した花柄のワンピースの裾をひらりと翻して、精算を済ませる両親を追いかける。
「弟の結婚式なんですよ」
レジを打つ喫茶店のマスターにお父さんが照れくさそうに笑顔で話す。
「ああ、あのジャズ好きの弟さん」
釣銭を渡しながら「それはおめでとうございます」とマスターも嬉しそうに答えていた。
「明子ははじめての結婚式で」
まさか話が飛んでくるとは思っておらず不意打ちをくらいながらぎこちなく会釈をした。
「おお、どこのお嬢さんかと思ったら明子ちゃんか! いやぁ綺麗んなって! お母さんとそっーくり!」
ああ、なるほどそうか。
お母さんとそっくりな私が、お父さんと全然似てない智昭おじさんと結ばれることなんて、最初から有り得なかったのかも知れない。……なんて、その瞬間妙に腑に落ちた。
ま、結ばれるかどうかはそれ以前の問題だけど。
あはは、と苦笑いを返してまた頭を下げて、カランコロンと軽快にドアベルを響かせる両親の後に続いた。
アイスカフェオレの甘味と苦味がまだ口の中に残っている。
大人に近づいた今の私は、それをちゃんと『美味しい』と感じられる。
ふんー、と鼻から息を出して、その風味を愉しんだ。ふいに頭の中を掠めるのは、あの鼻歌。試しにふふんと歌ってみたら、案外に上手く歌えて可笑しかった。
これから、『あの人』の結婚式に向かう。
恋焦がれた気持ち、独占欲の塊のような濃い気持ち。張り裂けそうな苦しい気持ち。そしてあの歌。全てを思い出した。
甘味も、苦味も、全部が私に溶けて、深みとなってゆく。
そうして初恋を越えて、私は、またひとつ大人に近づくんだ。
初夏の陽射しが眩しい。
了
初夏色ブルーノート 小桃 もこ @mococo19n
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