第六節 命令に力を宿す者
織田家のトップは織田信長である。
明智光秀は、その信長に最も重く用いられた。
最も広い領地を与えられ、最大の動員兵力を持ち、その実力と地位は大名級だと言える。
家臣の代表として模範を示す立場であり、ある意味ナンバー2であった。
トップである信長の視点から見れば……
ナンバー2である光秀が率先して従うと、人々を従わせる強い圧力を加えることができる。
こうして皆がトップの命令に従って一つになり、結束力が強まる。
ナンバー2が、トップの命令に力を宿したかのようだ。
◇
ところで。
ナンバー2は、絶対に必要なのだろうか?
人々がトップの命令に常に従っているなら何の問題もない。
ただ現実はそう甘くはない。
神にように
一体誰から授けられたものなのか、すべての人間は『自由意志』を持っている。
人間だけが持ち、動物には一切ない、この自由意志ゆえに……
動物と比べて人間は極めて複雑で難解な生き物でもある。
従いたい命令にしか従わない傾向があり、従いたくない命令には逆らおうとする。
要するに。
人々は、トップの命令だから従っているわけではない。
「トップの命令には、何の力もない」
全ての人々が得をする命令を出せるケースなどほとんどない。
一部の人々が損をする命令を出さざるを得ないケースの方がむしろ多い。
そのときこそ、トップの命令に力を宿す存在が必要になる瞬間だろう。
トップがナンバー2を欲する最大の理由。
自分の『命令に力を宿す者』が欲しいからだ。
◇
「信長様の命令には何の力もない?
どういうことです?」
阿国はある例を挙げた。
「およそ3年前……
信長様が、
信長様の命令に何の力もないことが証明されてしまいました」
「それは『比叡山焼き討ち』のことですか?
光秀様が、信長様に最も重く用いられることが決まった戦い……」
「その通りです。
光秀様は、この戦いで信長様から深く感謝されたのです」
「阿国殿。
わたしはずっと疑問に思っていました。
比叡山という敵は、強敵どころかとても弱い敵だったとか。
そんな弱い敵を討って、なぜ深く感謝されるのだろう?
と」
凛は、相変わらず
◇
1571年9月。
ここは
数万人もの大軍が布陣している。
ちょうど、軍議の真っ最中のようだ。
「比叡山を焼き討ちにせよ」
織田信長の命令に、全員が耳を疑っていた。
皆、ひそひそと話し合っている。
「まさか!
冗談だろう……
脅しのために
「比叡山は、
「脅しが通じたのなら、焼き討ちまでする必要はなかろう!」
「ひょっとして……
信長様は、お気が触れられたのではないか?」
気が触れるとは、気が狂うという意味である。
比叡山が莫大なお金を持参して詫びを入れてきたのは事実であり、普通に考えれば焼き討ちまでする必要はない。
気が狂ったと思われても何ら不思議はない。
◇
一方の信長にも言い分はある。
「わしは、
『そちたちのような坊主とは……
それがなぜ、集めた銭[お金]で私腹を肥やし、数千人もの兵を雇って武力を用いることまでする?
俗世から全く離れておらんではないか!』
とな。
奴らは、わしの警告を何度も無視し続けたのじゃ!」
これも間違ってはいない。
宗教である比叡山が、集めたお金で私腹を肥やすことなどあってはならない。
それどころか数千人もの兵士を雇って、
これを放置すれば……
周りが信長を甘く見るだけでなく、宗教が武力を用いても問題ないとの誤解すら与えかねない。
それでも相手が悪すぎた。
比叡山には
一人の男が間に入った。
名前を
「信長様。
比叡山は我らの軍勢を見て恐れ
大軍で脅した成果としては十分でありましょう。
ここは一旦、銭を受け取るのは
比叡山は非常に多くの富を持っていると聞きます。
焼き討ちなどせず残しておけば、何度でも銭を脅し取れるではありませんか」
「確かにそうじゃ!
さすがは佐久間殿」
大勢の者が、その通りだと
頷いた者たちに対して、信長は冷たい視線を向けた。
「比叡山が差し出した銭[お金]が……
どこから出てきたものか、分かった上で頷いておるのか?」
と。
◇
意外な指摘に全員が沈黙する。
信長は、質問を
「どこから出てきた銭[お金]かと聞いておる。
分かるのか、分からぬのかどっちじゃ!
「わ、分かりませぬ」
佐久間信盛が慌てて答える。
「奴らは……
民から
しかも随分と高い利息で民に銭[お金]を貸すらしいのう」
「……」
「利息を払えなくなれば武装した者に踏み込ませ、家の中の物をことごとく奪い、足りなければ家を取り上げ、妻や子供までも奪い取る暴挙に出るのだとか。
奪い取られた妻や子供にどんな運命が待ち受けているか……
そちは知っているか?」
「おおよその
「ほう!
ならばそちは……
比叡山が持つ銭[お金]がどれだけ汚いかを『知った』上で、わしにそれを受け取れと申しているのだな?」
「い、いえ……
そういう意味で申したのではありません」
「それとも。
わしが、汚い銭[お金]をもらって喜ぶような
「い、いえ……
「うぬはわしを
どうなのじゃ、信盛!
答えんかっ!」
「い、いえ……
それは誤解にございます」
「他はどうなのじゃ!
こいつと同じように汚い銭[お金]が欲しいのか?」
当然ながら、欲しいと答える者など誰もいない。
そして信長は……
鬼の
「奴らは腐り切っている!
わしは、腐り果てたどうしようない奴らを絶対に容赦しない」
全員が縮み上がった。
全てが事実かどうかは関係ない。
ある程度でもそういう事実があれば、信長の正義感に火が付いてしまう。
こうなってはもう誰にも止められない。
「比叡山から来た使者には、こう告げて追い返せ!
『首を洗って待っていろ』
とな。
それで……
誰か、先陣を名乗り出る者はおらぬか?」
誰も名乗り出ない。
重苦しい沈黙が訪れた。
しばらく経てば、誰か名乗り出てくるだろう……
信長は辛抱強く待つことにした。
それでも相変わらず、誰も名乗り出る気配がない。
「なぜ黙っている。
比叡山がそれほど怖いのか?」
幾人かの家臣の名前を呼んだが、下を向いたまま誰も返事しない。
これは、まずい……
さすがの信長も『焦り』始めた。
◇
沈黙が続くほど、焦りは大きくなる。
非常にまずい状況であった。
信長はこれまで勝利という実績を積み上げ、尊敬や信頼を獲得して自分の命令に力を宿らせてきた。
織田軍は信長のどんな命令にも従い、一つになることができた。
その強い結束力が今は『危機的』な状態にある。
このまま誰も名乗り出なければどうする?
誰かを指名して無理やり従わせる方法もあるが、逆効果だろう。
いっそのこと自分自身が陣頭に立って攻めるか?
他の者たちも仕方なく付いてくるだろうが、それだと結束力には程遠い。
やはり、『進んで』従ってもらわねば困る。
誰でもいい!
頼むから名乗り出てくれ!
信長はこの瞬間、自分の命令に力を宿す存在を必要としていた。
それは突然現れた。
沈黙が破られた。
「それがしが先陣を務めましょう」
と。
その者は軍議の席でも目立たない端の席にいた。
誰なのかすぐに分からなかったが、
ついに信長は、自分の命令に力を宿した者を見付ける。
明智光秀!
【次節予告 第七節 信長の戦略、電光石火】
数多くの敵を抱えてしまった織田信長は、最も得意な戦法で立ち向かうことを決めます。
各個撃破戦法です。
この戦法で大事なことは2つあり、まさに時間との戦いでした。
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