サツキトリプルクロス

女良 息子

サツキトリプルクロス

 姉が誘拐されたと知った時、私の中にあった感情は激怒──そして納得だった。

 そりゃそうだろうな。

 自慢ではないが私の姉は美しい。身内贔屓を抜きにしても、そう断言できる。肌一片や爪一枚、髪一本に至るまで美しいその体は、まるでこの世ならぬどこかに存在する物質で作り上げた人形みたいだ。世が世なら一種の神格として崇拝されてもおかしくない美貌である。あんな美少女が、それぞれ別々の不倫相手にぞっこんになり、しまいには全く同じ日に駆け落ちしたロクデナシ共の間に誕生したのは、もはやひとつの奇跡と言えた。鳶が鷹を産むどころか、蚊が竜を産むような話だ。

 犯人はそんな姉の美しさに惹かれて誘拐を決行したのだろう。姉が失踪してから我が家に身代金を要求する電話はかかってこなかったし、そもそも保護者不在の我が家は他所の家と比べてとりわけ裕福ということもないのだ。そんな我が家の美しい姉を攫ったのなら、犯人の目的が姉そのものにあると見て間違いない。

 そのような考察に至った時、私は犯人を強く恨むことが出来なくなった。むしろ親しみを覚えさえした。近親の姉を愛する者同士、親近感を抱いたのである。私にとって姉の美を解する人は全員兄妹弟きょうだいみたいなものだ(姉は実の姉ひとりだけだ)。 

 想像するだけで身の毛がよだつ仮定だが、もしも私が姉の妹ではなく、彼女と何の関係もない他人だったら、その事実に耐えられず、生きる意味を見失っていただろう。アイデンティティクライシスの末に、誘拐に手を染めていた可能性がゼロとは言い切れない。運命や因果がほんの少しでも違っていたら、私と誘拐犯の立場は真逆になっていたかもしれないのだ。

 そんなことを考えている内に、私は自分と誘拐犯が全くの別人だとは思えなくなってしまった。私たちが加害者と被害者家族ではなく、もっと別の関係を築けていたら、共に同じ存在に心酔している同志として、姉の魅力について夜を徹して語り合う道もあっただろう。そう思うと惜しくてならない。

 ──しかし。

 それはそれとして、私から愛しの姉を奪ったことはこの世のどんな罪よりも重い。

 万死に値する。

 故に私は単独捜査で誘拐犯の居場所を突き止めると、そこに単身で乗り込んで殺した。

 どういう風に殺したかについては覚えていない。と言うより、定かでない。何せ誘拐犯は万死に値する罪を犯したのだ。そんな奴に下す罰は一万回の殺害以外ありえない。……いや、さすがに一万回はやや誇張が入っているけども、普通の人間なら百回は死んでいる方法を、多種多様な方法を、当時の私は殺害に用いたので、どのタイミングで誘拐犯が死んだのかについて、正確なことが言えないのである。

 絞殺で息苦しさを感じながら死んだのかもしれないし、刺殺で内臓を貫く刃物の痛みに悶えながら死んだのかもしれない。

 撲殺の衝撃に意識を揺さぶられながら死んだのかもしれないし、圧殺で叩き潰される虫の気分を味わいながら死んだのかもしれない。

 最初の一撃(これは覚えている。動きを封じる為に浴びせた電撃だ)で誘拐犯はとっくに事切れていて、私はそれ以降ただの死体を殺し続けていた可能性だって十分にあり得る。死体蹴りならぬ死体殺しだ。

 確かなことを言うなら下劣な誘拐犯は死んだ、ということであり、そして私の愛しの姉が助かったということだ。私にとってはその事実だけで十分だった。

 姉はかなりショックを受けたようで、家に帰ってからというものの、自室に引き籠るようになってしまった。

 学校の委員会の帰りに誘拐犯に攫われた姉にはきっと、外の世界が恐ろしいものに見えているのだろう。日の光を浴びて煌く彼女の黒髪が大好きだった私としては残念でならないが、今は優しく見守るしかない。

 なあに。

 もしも姉がこのまま引き籠り続けたら、その時は私が一生に渡って面倒を見ればいい。


「「一生に渡って面倒を見ればいい」って、とんでもないことをさらりと言いよるなサツキちゃん。こんなかっこええ妹がいて、君の姉ちゃんは幸せやねえ。ウチも君みたいな人に養われたいわあ」


「別にかっこつけてるわけではないですよ。妹として当然のことです」


 そもそも姉みたいな美少女の世話をしたがる人は、この世にごまんといるはずだ。幸せという評価は、そんな大勢の中のたったひとりになれた私の方に下すべきなのである。そういう意味では、家を飛び出し、私と姉をふたりきりにしてくれたロクデナシ共には感謝しないといけないのかもしれない。

 店員がパフェを運んできた。高々と積まれた大量のクリームの表面にイチゴが隙間なく敷き詰められている。作るのにかなり手間がかかりそうな商品だ。注文者であるギンジさんは、それを見て目を輝かせた


「このファミレスの春季限定商品なんやって。美味そうやろ? サツキちゃんは他に何か頼まなくて良かったん? 誘ったのウチやし奢るで」


「結構です。被扶養願望がある人の財布に頼るほど腹は空いてませんから」


 私はコーヒーを啜った。本当は何も頼まずにお冷だけで良かったのだけど、それだと流石に店に悪いので頼んだのだ。温泉卵やコーンのようなトッピング類を除けば、この店で一番安い商品である。

 ギンジさんと私が出会ったのは、姉が救出されてから半年が経った時のことだった。学校から出て、愛しの姉が待つ家に一秒でも早く帰ろうと歩道橋を昇りかけた私を待ち受けるように立っていた彼女は「ちょっとお茶でもしながら話さへん?」と下手なナンパみたいな台詞を言ったのだ。

 私は改めて、向かいの席に座る彼女を観察する。丸メガネに紺色のスーツ、白い手袋と黒い革靴で着飾った体は『大人の女性』という感じの格好良さがあるが、イチゴパフェを堪能している口からこれまで放たれていたのは、どれもうさん臭さの極みみたいな発言ばかりだ。

 だいたいなんだろう、あの方言は。まるで関西在住ではないから関西弁に詳しくもないし、調べるつもりもない怠惰な物書きがぼんやりとしたイメージだけで書いたみたいなエセ関西弁だ。

 こんな怪しい人物からの誘いなんて、「君の姉ちゃんの身の安全に関わる話がある」と言われなければ、無視していただろう。


「それにしても災難やったなあ。君の姉ちゃんは」


 まずは本題に入らず、枕から始めるつもりなのだろうか──ギンジさんはパフェの四分の一程度を胃の中に収めた頃、そう言った。


「高校生って人生で一番楽しい時期やろ? なにせ『高』校生やで? 文字通り人生の絶頂期ピークや。なのに誘拐なんかされて、トラウマで外に出られなくなるって……かわいそすぎるやろ」


「そうですね。最近は食事も全然とらなくなってしまいましたし……」


 姉は元から食が細かったが、半年前に精神的ショックを受けてから、その傾向が更に強まっていた。たとえ痩せたところで姉の肉体は美しいことに変わりはないのだけど、それでも彼女という存在が一グラムでも減ってしまうのは、世界にとって大きな損失である。


「まあ無傷だったのは、不幸中の幸いでしたよ」


「え? 誘拐犯に監禁されてたのに? マジで?」


 大マジだ。

 救出された姉の体には傷ひとつ付いていなかった。きっと彼女の美しさを理由に誘拐を実行した犯人としては、その玉体に傷をつけることは躊躇われたのだろう。

 とはいえ、体に傷が付いていないからといって、心まで無傷ではなかったらしく、姉は引き籠りになってしまったのだが……。

 姉の無傷を確認したギンジさんは「ふうん」と頷く。


「でもなあ……それじゃ、君の姉ちゃんは誘拐されている間、暴行を受けることもなく何をされていたんやろうね──何が原因で、引き籠るほどのトラウマができてしまったんやろうね」


「さあ? 知りませんよ」


 想像することさえ躊躇われる。

 誘拐中にあった出来事を聞くなどというデリカシーに欠けた発言で、姉の傷口を抉るような真似を、彼女のただひとりの妹である私がするわけにはいかない。

 ちなみに、私が誘拐犯に対して行った所業を目撃して、それがトラウマになったという線は確実にナシだ。万死の罪に対する万殺は、姉が閉じ込められていた部屋とは別の部屋で執行したのだから。汚らわしい犯罪者が汚らわしく死ぬ光景を姉に見せない気配りは、妹の標準装備である。

 だいたい、拉致監禁なんてそれだけでも十分トラウマになりうる出来事だろう。それ以外に何があったかを執拗に探るのは下衆の勘繰りである。誘拐犯本人に尋ねようにも、あいつはとっくに墓の中だ。


「墓の中、なあ」


「なんですか、その含みのある言い方は」


「……まず聞きたいんやけど、サツキちゃんってニュースとか新聞とか見るタイプ?」


「前は見てましたけど、ここ最近は全然ですね」


 身内が実際に事件に遭遇した身としては、あまり進んで観たいと思える番組ではない。


「そっか、じゃあ知らんかもな」


 ギンジさんの手にあるスプーンの先端は、いつの間にかクリームの下にあるコーンフレークの層に到達していた。


「この街で失踪事件が起きてんねん」


「? 姉が巻き込まれたやつですよね」


「ちゃうちゃう。それより後や──犯人が死体の形で発見され、君の姉ちゃんが救出されたことで、事件は幕を閉じた。やっちゅうに、今になってまた同じような事件が起きてんねん」


 ギンジさんは懐に手を突っ込むと、数枚の紙片を取り出す。新聞の切り抜きだった。

 失踪事件について書かれており、いずれも被害者は町内で消えている。日付を見てみると、ここ半年の間のことだった。中には『蘇る誘拐犯⁉ 人が消える町』という見出しもあった──蘇る誘拐犯。


「いや……それはありえませんよ」


「せやろ? 誘拐犯のボケは死んだ。それだけは間違いない。けどな、実際に事件は起きてるし、その手口は──似てんねん」


 死んだはずの誘拐犯に、とギンジさん。


「というかそもそも、ウチはあのボケが死んだなんて、最初は信じられへんかったのやけど」


「? どういう意味ですか」


 まるで犯人がどんな人物だったか知っているかのような口ぶりだ。


「いや、それがな」


 そこでギンジさんは上半身を屈めると、声を潜めて言った。


「君のお姉ちゃんを誘拐した奴って吸血鬼なんよ」


 私はコーヒーを噴き出した。

 茶色い飛沫が机を水玉模様に染める。


「うおうっ、何すんねんボケッ。飲み物噴き出すなんて、いまどき吉本の芸人でもやらんぞ!」


「げほっ……しっ、仕方ないでしょ! 吸血鬼って……! 急に何を」


「しー!」


 ギンジさんは飛び上がるように席を立つと腕を伸ばし、指先で私の唇を挟むことで、それ以上の発言を封じた。痛い痛い痛い!

『吸血鬼』などという非現実的な単語が突然出てきたので、てっきりからかっているのではないかと思ったが、その態度は真剣そのものだった。どうやら彼女は、あまり多くの周囲に吸血鬼の名前が知られるのは避けたいらしい。

 私が落ち着きを取り戻したタイミングを見計らって、ギンジさんは手を離すと、小声で切り出した。


「あんなあ……そもそもおかしいと思わなかったん? 人ひとり殺しといて特に御咎めなく解放されるって、出来の悪いコントかっちゅーの。いくら誘拐犯相手でも、あんな殺し方やと正当防衛では済まされんやろ」


「それは……その、当時は姉を救えた達成感で頭がいっぱいで……」


「……呆れた。どんだけ姉ちゃんのこと大好きやねん、自分」


 つまり、こういうことだろうか? 

 姉を誘拐し、私に殺されたのは人ではなく、吸血鬼だった。吸血鬼なら、人の世に適応される法律の範囲外である。それを殺したところで、罰せられることは無い、と?


「まあ、そんなところや。倫理的な話はともかく、法的な話をするなら、吸血鬼を殺すなんて、蚊を潰したのと変わらんしな」


 ただし──と続ける。


「倫理的な話でなければ、法的な話でもなく、現実的な話をさせてもらうと、吸血鬼を殺すのは、蚊を潰すのと大違いや。なんなら人間の格闘家をタイマンで殺す方がまだ簡単やで」


 次の一口を求めて、スプーンがカップの中に刺さる。底に溜まっていた赤黒いストロベリーソースの層が、蠕動するはらわたのようにぐねりと歪んだ。


「古今東西、様々な物語で書かれているように、吸血鬼ってのは不死身や。致命傷から些細な掠り傷まで、一瞬で元通りになる。おまけに強いし、人間の血が主食や。んなきっしょいバケモンを、ただのパンピーなサツキちゃんがよぉひとりで殺せたものや。巨人が阪神に勝つようなものやで」


「……そもそもあの誘拐犯が吸血鬼だったなんて、未だに信じられないんですけど」


「殺してる最中に違和感とかなかったん? 「あれ? やけにしぶといな」とか」


「いや……あの時は姉を攫った犯人を殺すことで頭がいっぱいで……」


「天丼! ほんま姉ちゃん大好きやな、サツキちゃんは!」


 ギンジさんは吸血鬼は不死身だと言ったが、弱点が無いわけではあるまい。

 たしか……心臓を杭で貫かれたり、銀の武器を使われたりするのが苦手なんだっけ? あの時は殺害手段を思いついたそばから使っていた。その中に対吸血鬼となる方法がひとつくらいあったとしてもおかしくはない。


「多分その考察で合っとるやろな。アイツの死体を見て、ウチの課長も似たようなこと言っとったわ」


「課長?」


「あー……、そういや名前以外に自己紹介を全然しとらんかったな」


 言って、ギンジさんは再び懐に手を入れると、何かを取り出した。警察手帳だ。開かれたそれの、本来なら余白になっている部分には、次のような文字列が並んでいた。

『公安対吸血鬼十字課』。

 公安──見た目からして(見た目だけなら)、それっぽい雰囲気はあったが、どうやら警察関係者だったらしい。その後に続く、見覚えのない名称に、私は首を傾げる。


「遠い昔、開国を境に海外から流入してきたクソ吸血鬼どもに対処すべく、時の政府が設立した秘密組織があってな、ウチら『キュージュー』はその子孫的なヤツや。さっき言った『課長』はそのリーダー。どや? 漫画みたいでかっこええやろ」


「そういうことって一般人にペラペラ喋っていいんですか……?」


 私とギンジさんが出会ってから、まだ一時間も経ってない。


「この程度の情報提供は許されるやろ。いざとなれば君の記憶を消せばええだけやし」


「へえ。対吸血鬼とかいうファンタジーな活動方針を掲げている組織ともなれば、そういうSFみたいな技術を持ってるんですね」


「いや? 単に頭どついて、ここ数日の記憶を飛ばすだけやけど?」


 原始的で暴力的な消去方法だった。吸血鬼よりよっぽど危険な人物である。


「これらの情報を踏まえて話を戻すとな、吸血鬼のボケ共をしばくのが仕事であるウチらとしては、半年前に吸血鬼が起こした事件を彷彿とさせる今回の件は要チェックなわけや──今の所は、どっかからやって来た別の吸血鬼が犯人と見て、調査しとる」


「ひとつの街にそう何人も出没するものなんですか、吸血鬼って」


「誰もおらんくなった餌場に他所から流入してくるってのは、別に不自然ではないんやない? 知らんけど──これは君の姉ちゃんの身の安全にも関わる話なんやで」


 私を誘うときに言った台詞を、再度口にするギンジさん。


「なにせ、君の姉ちゃんは半年前に誘拐されとるからな。吸血鬼に好かれやすい体質なのかもしれん。たしか、えらい別嬪さんなんやろ? おまけに助けられた時に無傷だったんなら、その子は吸血されてない新品のままや。今回の誘拐犯が、そんな人間の存在を知ってみい──あっちゅーまに食われるで。ぱっくーって」


「…………」


 私は想像する。姉がまたどこかに連れ去られ、その体に牙を突き立てられる光景を。……頼んだのがコーヒーだけでよかった。もし他の物を胃の中に入れていたら、全て吐いていたに違いない。それほどまでに、悍ましい想像だった。


「前置きが長くなったけど、ウチがしたかったのはそういう注意喚起や。本当は君の姉ちゃんと直接会って話したかったけど、引き籠ってるしなあ……。まあ、家の中におるんなら、吸血鬼と遭遇することもないし、安全やろ」


「そうですね。皮肉な話ですけど」


「ついでに、吸血鬼殺しを知らず知らずの内に成し遂げたサツキちゃんを『キュージュー』にスカウトしたいなあっちゅう心積もりもあったんやけど……どや?」


「すいません。それはちょっと……そんな危ない仕事をしていたら、一生に渡って姉の面倒を見れなくなりそうじゃないですか」


「そっか。残念やけど、しゃあないわな」


 ギンジさんはあっさり引くと、空になったグラスにスプーンを置いた。

 空いた手で卓上にあった紙ナプキンを摘み、そこに電話番号らしき数列を書き込むと、こちらに渡した。


「吸血鬼に『招かれないと他人の家に這入れない』っちゅう特性がある以上、ありえへんと思うけど、もしも吸血鬼が家に押し入ってくるようなことがあったら、連絡するとええ。超特急で駆け付けたる──間違っても、前のようにひとりでぶっ殺そうとしたらあかんで。次も勝てるとは限らんのやから」


「ありがとうございます」


「かまへんかまへん」


 ギンジさんは笑った。「にかっ」というオノマトペが似合うその顔は、人から好かれそうな顔だった。この人は胡散臭いし、奇妙な関西弁を話すけど、きっと良い人なのだろう。そんなことを思いながら、私は受け取ったメモをポケットにしまう。


「あっ、せやせや──なあ、サツキちゃん。最後にひとつ聞いてもええか?」


 会計に向かうべく席を立とうとした時になって、彼女は尋ねた。


「リュースイって奴を知らんか? 顔を含めた体中に刺青が入ってて、一度見たら絶対に忘れられないビジュアルしとる筋肉モリモリのマッチョマンや。ウチの同僚で、一週間前にこの街を訪れとるはずなんやけど」


 私は答える。


「知りませんよ」


 真っ赤な嘘だった。


 ◆


 喫茶店を出て、ギンジさんと分かれると、次こそ私は帰路についた。夜の闇が迫りつつある街並みを歩きながら、先ほどの会話を思い出す。

 まさか姉を攫ったのが吸血鬼で、今また街に現れた誘拐犯も吸血鬼だったなんて。未だに信じがたいけど、思い返してみれば、たしかに私が殺したあの男には、どこかただならぬ雰囲気があった気がする。『人間離れした』と言う表現は、ああいう存在に向けて使われるのだろうか。

 よくもまあ、そんな存在を殺せたものだ。弱点が大量にあるとはいえ。

 先ほど思い浮かんだ弱点の他にも、日光を浴びると灰になったり、十字架や大蒜が苦手だったりするんだっけ? 流水を渡れないと聞いたこともある。思えば、弱点だらけの生物だ。そのうえ人間の血を吸わないと生きていけないなんて、ひょっとすると、人間よりも生きるのが難しいのかもしれない。


「そんなに生きづらかったら、迂闊に外を歩けないだろうな」


 …………。

 なーんて。

 逢魔が時の道に、私の呟きに反応する声はない。最近出没している誘拐犯を恐れてか、人通りが極端に少なくなっている気がする。これでもうら若き十代の少女である私としては、危機感を覚えるべき状況なのかもしれないが、その心配はない。今はまだギリギリ日の出ている時間である。誘拐犯の正体である吸血鬼の、活動可能時間の範囲外だ。

 途中にあるスーパーで夕飯の買い物を済ませ、そこから更に歩いていると、やがて家が見えてきた。外壁がクリーム色のペンキで塗りたくられた、こじんまりとしたアパート。その二階に、私と姉の愛の巣はある。碌に手入れされていない階段に足を乗せると、ぎい、と音が響いた。

 階段を昇りながら、私は駐車場の隅にある、コンクリートで舗装されていない地面を見つめた。

 数日前に我が家へ侵入してきた男が埋まっているのは、あの辺りだろうか。

 いきなり不法侵入をしておいて、「お前の姉を殺しに来た」などとふざけたことをいいやがったので、とりあえず返り討ちにし、バラバラにして埋めたのだ。筋肉質で大柄な肉体を威圧的な刺青で飾った、彼の風貌は、格闘家みたいで恐ろしかったけど、以前殺した誘拐犯と比べたら、赤子みたいに弱かった。

 複数の岩石を組み合わせて作り上げたような偉丈夫の肉体を解体しながら、当時の私は「こうも連続して不審者を引き寄せてしまうなんて、姉の行き過ぎた美しさは困りものだな」と思っていた。だが、あの男の身体的特徴と、先ほどギンジさんから提供された情報を統合するに、彼は姉の美しさに頭がおかしくなって凶行に走った変態ではなく、警視庁公安部に所属するリュースイだったようだ。謎の人物の正体が明らかになると共に、『キュージュー』などというかなり怪しい組織の実在性も増した。

 それにしても──吸血鬼ハンターが一般市民である我が家を訪れ、姉を殺そうとするなんて。

 何が原因なのだろう?

 二階に到着した私は、いつも通り鍵を取り出し、いつも通りドアを開けた。


「ただいま、姉さん」


「おかっ、おかえりサツキ……」


 リビングの手前にある部屋から声がした。 

 引き籠り生活で声を出す機会が激減したからか、姉の声は以前と比べてややたどたどしくなっている。だが、それでも聞いていて惚れ惚れするくらいの美声であり、寧ろたどたどしさに言葉を覚えたての幼児じみた可愛らしさが漂っているのだから、彼女は筋金入りの美少女だった。

 靴を脱いでフローリングに上がると、私はいそいそと廊下を駆け抜け、姉の部屋の前に立つ。ドアは開けない。本音を言えば、こんな薄っぺらいドア一枚で姉の美貌が隠されているなんて、歯痒いことこの上ない。私は家主の許可が無ければ入室できない吸血鬼ではないのだから、その気になればこの程度の薄板なんて無理やりこじ開けられるのだけど、だからと言って、そんなことを実行してしまえば、己の欲望のままに行動し、姉を傷つけた誘拐犯と同類になってしまう。


「が……学校楽しかった?」


「姉さんがいる我が家と比べたら、他の場所なんてどれも退屈だね。早く帰りたいと思いながら、授業を聞き流してた」


「そ、そそ、そんなこと言っちゃ……駄目だよう……! だめ! ちゃんと勉強しな──ああう」


 年長者として私の学習態度を叱りつけようとした姉だったが、その最中で引き籠りの身で「学校でちゃんと勉強しろ」などと説教することがどれだけツッコミ所のある行いだったかを自覚したらしく、呻きじみた声を漏らして中断してしまった。可愛い。


「帰りにスーパーに寄ったんだけど、美味しそうな筍があってさ。今日はこれで炊き込みごはんを作るつもりなんだけど、姉さんはどう?」


「ああ、えっと……ご、ごめん。今日もいらないかな」


「そっか」


 誘拐犯の元から帰って来てからというものの、元から細かった食が更に細くなってしまった姉は、ご飯を殆ど食べなくなってしまった。

 私が作った食事を断るのも、今日で通算百七十日くらいになる。

 百七十日。人の噂ならふたつと少し忘れられている日数だ。

 常識的に考えて、そんな長い間何も食わずに生きていられるはずがないのだから、こうして姉の声が室内から聞こえる以上、これが私が脳内で生み出した幻聴であるなどというサイコスリラー映画じみた真相でも用意されていない限り、姉は姉で私の手料理以外から栄養を摂取しているのだろう。彼女を心の底から愛している妹としては寂しい気持ちになるけども、姉が生きてくれているのなら、それ以上の要求はただの我儘だ。

 それにしても、引き籠ることで自ら外界との交流を絶っているのに、姉はどうやって食事を確保しているのだろう? 案外、私が学校に行っている間に冷蔵庫を漁っているのか? それとも、私が寝ている夜中? 蒸気を噴き出している炊飯器を横目に家事を片付けている私の頭にあったのは、そのような疑問だった。

 やがて炊き込みご飯が完成し、夕食の時間となる。旬の筍も、姉のいない食卓で食べるとどこか味気ない。いつかまた食事を共にできる日が来ればいいのだけど。歯ごたえのいい筍をポリポリと噛む。……そういえば伝承における吸血鬼の噛みつきって、食事以外にも仲間を増やす繁殖の目的でされることがあるんだっけ。


「それじゃ、私お風呂入るけど……姉さんは? 先? 後?」


「あ、ううん……今日もいいや」


 姉は食事を摂らなくなったのとほぼ同じ時期から、風呂にも入らなくなった。不潔なんじゃないかと不安になったが、入浴をやめてから約半年が経った今、彼女の部屋から不浄な匂いは漂ってこない。姉程の美少女になれば、風呂に入らずとも清潔を維持できるのだろうか? あるいは食事と同様に、私が認知していない時間や手段で入浴を済ませているのだろうか。

 浴室のドアを開けると、真っ白な湯気が私を出迎えた。私は体を洗うと、湯船に体を沈めた。お湯を入れ過ぎていたのか、溢れた水が浴室の床を流れていく。春の陽気が訪れて久しいが、この時期になっても風呂の暖かさは心地いい。血流の流れが促進され、頭の働きが普段の1.25倍くらいになった気がする。

 いくらかまともになった脳で思考しながら、私は天井を見上げた。

 

「うーん、まいった」


 張り付いた水滴を見ながら、呟く。


「どうやら姉さんは吸血鬼になってしまったらしい」


 姉が日中外に出なくなったのも、私が作ったご飯を食べなくなったのも、水が流れる浴室に入らなくなったのも、リュースイとかいう大男に命を狙われていたのも。

 全ては彼女が、半年前に自分を攫った吸血鬼の誘拐犯によって、日の光に弱く、血を主食にし、水流を渡れず、『キュージュー』の殲滅対象である吸血鬼にさせられたからだと考えれば、納得がいく。

 アイツの根城から無傷で見つかったのも、当たり前の話だ。姉はその頃にはもう、あらゆる傷がたちまちの内に治るという不死身の吸血鬼になっていたのだから。吸血鬼化の際に突き立てられた牙の痕も、吸血鬼の再生力で消え去れば、後に残るのは無傷の体だけである。

 誘拐犯だと思われていた吸血鬼は、強姦魔でもあったのだ。


「ふざけやがって……」


 姉を拉致監禁するだけでは飽き足らず、その体に噛みつき、吸血鬼へと変えた誘拐犯に強い怒りを抱く。煮えたぎる怒りで、私が浸かってるお湯が更に熱くなりそうだ。誘拐犯改め強姦魔を殺したくなったが、あのゴミクズは既に死んでいた。なんだよ、不死身の吸血鬼なら私の怒りに呼応して復活して、もう一度殺されるくらいのことはしろ、クソが。仕方ないので、脳内で万回殺した。

 ……さて。

 これで、今現在活動しているという第二の誘拐犯の正体が、姉と全く関係ないぽっと出の吸血鬼だったら良かったのだけど、残念ながらそんな都合の良いミスリードはないようだ。姉が幾人もの人間を襲ったという確信的な証拠を掴んでいたからこそ、リュースイは不法侵入してまで、彼女を殺そうとしたのだろう。どうやら私の姉は、自分を襲った吸血鬼と同じ道を歩んでしまったらしい──蘇る誘拐犯。

 いったいどれだけの人間が姉の犠牲になったのだろう。夕方にギンジさんが見せてくれた新聞の切り抜きは、結構な枚数だった。事件の総数は、あれで全部ではないかもしれない。被害者たちは『食糧』になったのか? 『新たな吸血鬼』になったのか? 彼ら彼女らの消息が途絶えている以上、前者である可能性が非常に高いだろう。

 多くの人間が犠牲になり、多くの人間が悲しんだ。被害者家族の中には、私と同じように犯人を見つけ出して殺したいと思っている人だっているかもしれない。

 国家権力に属している吸血鬼ハンターが駆除に動き出しているのも、納得の事態だ。

 ──だが。

 だが、それでも。

 あえて言わせてもらおう。


「知るか、そんなこと」


 姉の危険性は理解出来る。

 姉の異常性を肯定出来る。

 姉の被害者に同情出来る。

 しかし、だからと言って──人間を殺した程度の罪で、姉を殺して良いわけないだろう。

 かつて姉を誘拐した犯人の心理に納得したことがある私でも、今回ばかりは納得できない。許容できない。同意しかねる。吸血鬼と化した美しい姉とそこらの有象無象、どちらの命に価値があるかなんて、私みたいな学校の授業をまともに聞いていない、無学なガキでも分かることだ。ちなみに、そこらの有象無象の代わりに全人類を天秤に乗せたとしても、答えは変わらない。

 こんな簡単なことも分からずに暗殺を仕掛けてきたリュースイは、どうやらかなり馬鹿だったらしい。脳味噌まで筋肉で出来ていたのだろうか。解体する時に確認しておけばよかった。


「ギンジさんは知っているのかな……」


 夕方の邂逅は、こちらに鎌をかけていたのか? 

 ……いや、彼女はそんな回りくどい真似をする人ではあるまい。確信があれば、リュースイのように直接突撃してくるタイプだ。あの大男は我が家に突撃する前に『キュージュー』の仲間に連絡をとっていなかったのだろうか。

 とはいえ、数時間前に知らなかったとはいえ、今も知らないとは限らない。私がギンジさんとの会話をきっかけに姉の正体に気付いたように、向こうも私との会話で、真相に辿り着いているかもしれない。また、彼女がこれから調査を続けていけば、リュースイと同じ答えを見つけるまで、そう時間は掛からないだろう。


「よし」


 私は湯船から立ち上がりながら、決断した。


 ◆


「おお、サツキちゃんやないか。よぅここが分かったな」


「顔も名前も知らない誘拐犯の拠点よりは探しやすかったですよ」


 私はスニーカーにリュックサックといった動きやすい格好で、町内にあるビジネスホテルの一室を訪れていた。

 窓からはすっかり闇に沈んだ街並みが見える。月の無い夜だった。

 ギンジさんはベッドの上で胡坐をかきながら、ドライバーらしき工具を自分の右脚に差し込んでいる。

 彼女の右脚を形作るのは、血肉ではない──銀。

 吸血鬼の弱点として知られる金属が、腰から流線形を作って伸びている。

 いや──よく見ると、右脚だけではない。

 右腕も、左腕も、左脚も、その全てが刃物じみた輝きを湛える義肢だった。


「あ、驚かせてしもた? ごめんなあ、普段は手袋と革靴で隠しとるんやけど、出かける前にメンテしときたくてな」

 

「……こんな時間にどこに出かけるんですか」


「ちょっと君の姉ちゃんを殺しに」


 コンビニに行く、みたいな気軽さで言った。


「ほら? ウチってフィールドワークとか苦手やん? ナイトスクープの探偵とか絶対向いてへんで。やからイチから自分で調べるんやなくて、他人──この場合は、急にいなくなったリュースイやな──がある程度進めた調査を引き継ごうと思ったんよ。んで、さっきサツキちゃんと分かれた後で、リュースイが訪れてそうな場所を漁ってみたんやけどな……なんとびっくり! 君の姉ちゃんが第二の誘拐犯にして吸血鬼って情報が出てきたんや!」


 相変わらず機密情報をペラペラと喋る人だ。


「こんだけの被害者出して、おそらくリュースイも返り討ちにしたっちゅーんなら、こりゃガチでボコらなマズい相手やろ? やけん、こうしてメンテして、ベストコンディションにしとるんや」


 てきぱきとドライバーを動かしながら、ギンジさんは語る。

 ファミレスではあれだけ姉を心配していたのに、今となっては駆除すべき対象として見ている。


「それにしても災難やったなあ、サツキちゃん。せっかく助かった姉ちゃんが、まさか吸血鬼とかいうクッソきしょい怪物になってたなんてな。やけど安心しい、ウチがしっかりぶちのめ──」


「……ない」


「ん?」


「姉さんは気持ち悪くない。たとえ吸血鬼になったとしても、世界で一番美しく、尊いんだ」


 私は静かな、しかし力強い声で、訂正した。

 ギンジさんは暫く黙っていたが、メンテナンスが右脚から左脚に移行すると「ふうん」と呟いた。


「ほんま幸せ者やなあ、サツキちゃんの姉ちゃんは。吸血鬼になってもここまで想ってくれる妹がいるなんて──で、君は何の用があってここに来たん? もしかして君もウチと同じタイミングで姉ちゃんの正体に気が付いて助けを求めに……は違いそうやね。じゃあ、「どうか姉を見逃してください」と許しを請いに来たんか?」


「違いますよ」


 言いながら、私は背負っていたバッグの中から包丁を取り出した。それを見たギンジさんの瞳は、丸メガネの奥で細くなり、批判的な色を帯びる。


「……いくらお姉ちゃんが大好きやからってそれはあかんわ。刃物振り回して自分のやりたいことを押し通そうとするのは一番最低なことやで。ウチとしても、サツキちゃんみたいな良い子と、暴力沙汰になんてなりたくないし」


「あなたはリュースイさんを探していましたよね」


「あん?」


「あの人なら数日前に私が殺しましたよ。吸血鬼の姉ではなく、私がです。私が殺して、バラバラにして、土の下に埋めてやりました。格闘家みたいな人でしたけど、あなたが言っていた通り、吸血鬼よりは殺しやすかったですね」


 瞬間。ギンジさんから剃刀のような鋭い敵意が発せられた。


「……自分、マジで言ってるん?」


「大マジです」


「「冗談でした」じゃすまされんぞ」


 既にメンテナンスは終了したのか、ベッドに工具を置くと、彼女は立ち上がった。

 どうやらやる気を出してくれたらしい。それは助かる。先ほどまでのような大人の余裕たっぷりの態度より、今みたいに感情を出してくれたほうが、殺しやすい。

 ギンジさんは自分の顔面の横で両腕を交差させた。それは相手に十字を見せつけるかのような行為だった。


「『公安対吸血鬼十字課』。第四基、銀器のギンジ──普通はこれからぶっ殺す吸血鬼相手にする名乗りなんやけど、ただの人間でありながらリュースイを殺し、そしてこれからウチに挑もうとする君の心意気に応じて、名乗ったるわ」

 

 銀の四肢はしなやかに駆動し、やがてひとつの構えを取る。先日のリュースイも、格闘家じみた構えをしていたが、彼とギンジさんのそれに大きな違いがあるのは、素人である私の目から見ても明らかだった。リュースイが洪水で荒れ狂う大河みたいだったのに対し、ギンジさんの構えはまるで弾丸を撃ちだす拳じゅ──視界が弾けた。

 床を蹴って距離を一気に詰めてきたギンジさんが、私の腹を殴ったのだ。腹部を襲った衝撃で、意識が暗転しかける。まずい。気絶しそうだ。こんな威力で頭を殴られたに日には、記憶どころか魂まで飛んでしまいかねない。内臓を襲った衝撃に、思わず私は体を折り曲げて、その場に蹲りかける。

 ギンジさんはそんな私の首根っこを掴むと、壁に向かって放り投げた。私は同年代の女子と比べて特別体重があるわけではないけれど、それでも何十キロもある生きた人間である。そんな肉塊を片手でボールみたいに投げるなんて、どんな力をしてるんだ。壁に思いっきり衝突した私は、そのまま落下し、床に這いつくばる。ここまで派手にやられておきながら、得物である包丁から手を離さなかった自分を褒めてやりたい。


「安心しい。殺しはせん。ウチが殺すのは吸血鬼だけやからな」


「随分と……優しいんですね」


「これでもお巡りさんやからね。まあ、リュースイを殺した君のことをボコボコにしてぶち殺したい気持ちが無いわけではないけど、その気持ちを抑え込むのが大人の女や」


 圧倒的優位の立場にあるからか、ギンジさんは余裕ある態度を取り戻しつつあった。

 優しく、力があり、甘いものが大好きで、胡散臭いけど剽軽な性格で、感情のコントロールが出来て、仲間想いで、強大な敵の為に戦える──世間から見れば正しいのは彼女の方であり、私は間違っているのだろう。

 まあ、知ったことではないけど。姉以外から下される評価に意味はないのだから。

 たとえどれだけ間違っていようと、姉の妹である私は、妹として、妹らしく、妹を遂行するだけだ。


「ぽんぽん殴られてぶん投げられた後やのに、闘争心が一切衰えてないやん。ほんま感服するで。君みたいな子が『キュージュー』にいてくれたらと思うと、惜しくてしゃあないわ──でも、気合だけで殺せるほど、ウチは甘くないで。近距離戦やと勝ち目がないし、そこから包丁を投げつけるんか? それとも背負ってるバッグ? どっちを投擲したところで、簡単に弾き飛ばすから意味ないと思うけど」


 ギンジさんが言い終わるより前に、私は背負っていたバッグを投げつけた──否。

 バッグの中身を投げつけた。

 迫るそれをギンジさんは義手で弾こうとしたが、直前になってその手は止まる。彼女は認識してしまったのだ、メガネで補強された視力で。私が投げつけたのが、生首であることに。

 顔面の隅々まで刺青を入れた男である。


「叩き割ってもいいですよ──頭の中身まで筋肉で出来ているのか、気になりますし」


 まだ個人の見分けがつく段階までしか腐敗が進んでいなくて助かった。

 変わり果てたリュースイの姿に、ギンジさんは動揺する。迫る同胞の頭部を手で弾くことも、躱して背後の壁に衝突させることもできなくなった彼女は、咄嗟に両手でそれを受け止めた。

 その隙に私は起き上がって駆け出す。眼下に銀脚の蹴りが見えたが、それまで両手両脚の四方向から飛んできていた攻撃経路が生首キャッチで二分の一、夕方の邂逅で利き足を知っていれば四分の一まで減らされた状況では、実に予測しやすい攻撃だった。

 限り限りのところで蹴りを躱し、ギンジさんの懐に入ると、私は吸血鬼が牙を立てるように、包丁を突き入れた。

 そのまま一気に引き抜く──ギンジさんは膝から崩れ落ちた。腹部の傷からは血がどくどくと溢れている。そこにどんな内臓があるかは知らないが、刃物が深々と刺されば、まず致命傷だ。リュースイもそうだったのだから、間違いない。


「あなたが仲間想いの優しい人で助かりました」


「クッソ……! おんどれ何者やねん……どうしてただの人間が、吸血鬼や吸血鬼ハンターと戦って、勝てるんや……」


「はあ? そんなの決まってるじゃないですか?」


 こんな当たり前のことをわざわざ口にするくらいなら、さっさと家に帰って、姉妹間の交流というこの世で最も価値のある行為に時間を割きたい。

 しかし、これまで私に色んなことを教えてくれたギンジさんがそんなことさえ知らないというのなら、せめてものお返しとして、教えてあげようではないか──冥途の土産、というやつだ。


「最後には愛が勝つんですよ」


 そして妹が姉を愛するのは、それこそ言うまでもない常識である。


「人間なのに吸血鬼を守るなんて……はは、なんやそれ……こんなん『裏切り者ダブルクロス』どころやない……、『十字架への裏切りトリプルクロス』やで」


「なんですか、その下手な洒落は。死に際になって関西人の血が騒いだんですか」


「ドアホ。ウチはバリバリの名古屋育ちや」


「じゃあなんでそんな訛りをしてるんだよ」


 この日、ひとりの吸血鬼ハンターが死んだ。

 それから──。

 この街には時折、妙な輩が現れるようになった。

 ギンジさんの同僚である『公安対吸血鬼十字課』はもちろんのこと、フリーの吸血鬼ハンター、吸血鬼の存在を禁忌としているどこぞの宗教団体の信者、吸血鬼を解剖して不死の秘密を探ろうとする医療機関、あるいは同胞の噂を聞きつけてやって来た世界各国の吸血鬼、などなど。

 彼らとの戦いはどれも大変だし、時には死にかけることもあるけど、諦めるわけにはいかない。

 だって私は──一生に渡って姉の世話を見ると決めたのだから。


 殺人は終わり、殺人は続く。

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サツキトリプルクロス 女良 息子 @Son_of_Kanade

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