さよならUちゃん

カレーだいすき!

単話

 アイスコーヒーが嫌いだ。

 苦くて焦げ臭くて、入れた氷が融けて薄まった頃には、口の中にうっすら苦手な部分を振り回し自分勝手な主張だけ残しながらさっさと去っていく胸やけのするあの味が駄目だ。

 でもいつからだろうか。気が付けばアイスコーヒーを平気な顔で飲むようになっていた。

 味に慣れたのだろうか。苦い事に快感を見出せたのか。自分のことなのに分からない。実家を離れ大学に入ると、暑くなれば研究室で先生から出されたインスタントや自販機の缶コーヒーでも澄ました顔で飲んでいた。


 ――僕は本当にアイスコーヒーを嫌いだったのだろうか。


 僕が両腕をテーブルへ静かに置くと、目の前のアイスコーヒーが6分程残ったグラスの中で、氷が小さく音を立てて崩れた。Uちゃんはさっきから変わらず口をとがらせて下を向いている。


「ねぇ、頼むから。言い方は悪かったからさ」


 僕はむくれた顔のUちゃんの機嫌をこれ以上悪化させない様に、優しく謝った。


「僕は別に怒ってる訳じゃないんだ。ただ僕ぁその、理由を聞きたかったんだよ」


 Uちゃんは微動だにしない。

 ふと彼女の前に置かれたスマートフォンが震えた。それはテーブルと擦れながら、独特の低い音を周囲に響かせた。Uちゃんは慌てる様子もなくそれを手に取ると画面のロックを解除し、細くしなやかな人差し指を滑らせる。勿論、その動作の中に、こちらを見る事や席を外す素振りは含まれてはいない。

 画面を見つめるUちゃんの表情は、能面のように冷たく、変わらない。


「あのさ、こっちが話を……」


 言いかけて僕は続けるのをやめた。

 店内には差し障りのない音量でジャズがかかっている。そこに含まれる管楽器の高音が、耳にねっとりと絡みついてくるようで、わずらわしかった。

 Uちゃんはひたすら画面を見つめながら、指を動かしていた。

 僕は彼女の指が止まるまで待とうと思っていたのだが、メールやチャットアプリに返信しているのではなく、彼女の指の動きからいつの間にか無関係な何かのサイトを見ている事に気が付き、待つのをやめた。


「そうやってさ、こっちが折れるまで待とうって考えてる?」


 僕は再び口を開いた。

 彼女の指は止まらない。


「Uちゃん」


「……で?」


 Uちゃんが小さく聞き返してきた。僕は彼女の小さくダルそうに発する声に妙な安心感を持ちながら、小さく緊張を覚えていた。


「だからさ。この前、何で帰っちゃったの? みんな心配してたんだけど」


「だから、ケータイの充電忘れてて、連絡できなかった」


 今日何度目か。定型文のような答えが返ってきた。


「でも、グループメッセージでは既読ついてたよ?」


「……」


 また黙ってしまった。背後から流れてくる店のBGMは僕の神経をそっと撫でた。

 僕が一方的に彼女を連れ、一方的に質問をして、Uちゃんがずっとふくれっ面でこちらを見ずに黙っているというのが始まってもう三十分になる。

 しかし僕は焦らなかった。僕とUちゃんにしてみればいつものことなのだ。

 もうずっと前から続く、繰り返しだ。

 

    *

 

 僕とUちゃんは、学校非公認サークルに所属している。学校から承認を受けた既存のサークルになんとなく馴染めなかったり、どこのグループにも入るタイミングを見出せなかった数人で、同じ趣味を共有するという名目の下、勝手に立ち上げた。

 非公認とはいうが、決して怪しいものではなく、学校側が判子を押していないだけだ。公認されないので予算もサークル棟も割り当てられない。従って活動の場は、仲間の部屋や決まった店に集まり、連載漫画や深夜アニメの感想を喋ったり、なんとなくゲームをしたり、チケットを人海戦術で確保し、イベントに徹夜で並んだりする。

 傍から見れば、友人数名とだらだらつるんでいるようにしか見えない、最近は多少なりとも取沙汰されている生産的ではない方のオタクサークル――オタサーを自称している。

 1年時の盆前だった。同人イベントを間近に控えた夏休み中盤。Uちゃんは、僕らについてくる様になった。きっかけは何だったのか。どこかの講義で話しかけられたのか、いや話しかけたのか、バイト先にいたのだろうか。今となっては覚えていない。

 Uちゃんがサークルに居つく頃から――いや、もっと前なのかもしれないが――僕は彼女に惚れてたんだと思う。ただでさえ僕を含め、これまで生きてきた中でこれといって輝かしくも爽やかで汗臭い青春があったわけでもなく、寧ろ水底に溜まる土砂の如き目立たない学生生活を送ってきた奴らばかりだ。彼女どころか同年代の女子とまともに会話をしたことがないのが当たり前で、「業務連絡」ですら、楽しく会話した部類に入れてしまう程の男たちだ。

 そんな中にUちゃんが来たのだ。絵に描いたような楽しい学生生活などと諦めていた僕らにとって、彼女の登場は菩薩か聖母といったところだった。むさくるしい集団の中にいて、ちっちゃくて、可愛くて、おしゃれで、キンキンする高さなのにやけに甘ったるく感じる声で笑う彼女は、いつも僕らの中心になっていた。

 最初こそ彼女のいない場所で、自分たちの思う女性の悪い部分を列挙しながら、彼女を警戒していた僕らだったが、いつの間にか彼女が僕らの輪の中に居続けられる様に不可侵条約を結び、互いを監視し、時に牽制しながらそれなりに楽しくやっていた。

 その頃になると、僕を含めた全員が世の女性のことを悪くいうことも、Uちゃんの事を卑屈に避けることもなくなった。

 Uちゃんも知ってか知らずか、いつも僕らの話題に乗ってきたし、何処にでもついてきた。普段持モテない僕らのような人種の集団に、生物学的メスが1人でも入り込むと、途端に結束はゆるみ、がっちり組んでいた肩を振り払い、あっという間に空中分解してしまう。そういったケースで、残念なことになってしまった奴らの話を何度も耳にしていたし、実際僕らの周囲にあるいくつかの集団の崩壊も、断片ではあるが目にしていた。

 だから僕らはそんな過ちを犯さないようにと、誰が言い出したわけでもなく彼女を中心に据え、個人の本音を少し隠したままで、有り余る時間を楽しいと思う事に費やした。

 僕らの経験が足りなかったのもしれないが、Uちゃんは僕らが思っていたのより若干、いや随分と我儘ではあった。ちょっと嫌なことがあると、隅でうずくまってこっちを向こうとしない。自分の欲しいものが手に入らないと公道だろうが自宅だろうがヒステリックな声を発し、ゲームは自分が常に勝たないと拗ね、全員で視聴するアニメの順番にも自分の好きなものからでないとだめ、自分が読んでない漫画の話になると、話を振った人間を、これでもかとなじった。

 最初は僕も含め、すぐに追い出そうと考えていたようだが、ひと暴れした後にUちゃんは必ず大きな瞳を涙でいっぱいにして謝ってきたし、そうされる僕らにも非があると、なんとなく罪悪感にさいなまれ、結局毎回許してしまった。僕らが「大丈夫だよ」と彼女をなだめるとUちゃんはまたいつものUちゃんに戻り、全員に万遍なく甘えてきた。そこで僕らは彼女の甘えた声で発せられる「ちいさなお願い」に応えるまでが、いつものパターンだ。

 リアルで充実している普通の奴等ならそこでフラグが立ち、何かしらエロティックな展開に事が運ぶのだろうが、そこは女性経験、社会経験ともに少ない面々である。特に何も起こらず、いつも通りにみんなで仲良く楽しくやろうという方向に、全員半ば納得のまま普段通りの活動が続けられるのだった。

 Uちゃんの暴走を止めるのは誰もが尻込みし、我先に止めるという事はしなかった。面倒なのもあったが、何より、Uちゃん本人に嫌われたくないというのが、一番だったと思う。けれど誰かがそこに切り込まないと、場の空気も悪化する一方で、彼女も僕らも体力を無駄に削られてしまう。仕方なしに誰かがUちゃんをなだめに入っていた。最初期は全員が暗黙のルールに従って、その役は持ち回りというのが成立していたのだが、いつの間にかその殆どを僕が担当することになり、とうとう僕は、荒ぶるUちゃんを鎮める為の保護者になってしまった。

 そうなると僕は、役目を押し付けたサークルの男共とトラブルを起こすUちゃんを憎悪し、思い立った時にはいつも「今日限りで、こいつらと縁を切る」とひとり憤慨していた。

 だがそのサークルを抜けたところで、僕に彼ら以外で懇意にしている友人はいなかったし、せっかく作ったその集まりを彼女の世話の拒否という理由で退きでもしたら、それこそ僕が見聞し危惧する、あの分裂したサークルの轍を踏むことになる。そんな屁理屈が僕の中で沸き立った脱退への勢いを削いだ。更に彼らと合流すれば心地よさが包み込む為、僕は結局のところサークルに留まっていた。

 Uちゃんのヒステリーを含んだ暴走は、全員が解散した後も続くことがあった。

 夜も更けて来た頃に鳴る電話は、大抵Uちゃんだった。電話の第一声はその半分くらいが泣いている。もう半分は、口をとがらせているのが分かるくらい不貞腐れた声が届く。僕は眠かろうが何をしていようが、とりあえず彼女の話を聞いた。内容は僕からすれば、どれも他愛もない、若しくは泣いたり憤慨して、電話してくるものなのか判断に困る物ばかりだった。

 ここで「眠いんだけど」と切ってしまえばいいのだが、次の日また会った時に僕だけ標的にされ、冷たい態度を取られるのをちょっとだけ恐れた結果、とりあえず相槌を打つことに決めた。

 2時間程一方的に話したUちゃんは、いつもの元気のある声に戻り、ようやく眠りに就くことを告げる。それは、僕が眠ってもいいと彼女に指示されているのと同じだった。

 しかし電話を切った後僕の意識はいつも眠りに落ちることもなく、彼女と話したという優越から妙な昂揚感が頭を支配し、とうとう夜明け前までテレビやラジオをつけ、深夜番組を流していた。番組の内容は全く頭に残らず、彼女の最後の声だけが僕の周りを幾度となくまわっていた。当然、決まって朝がつらかった。

 このやりとりが毎日ではなかった事が救いだ。疲れるやり取りではあるが、この深夜の電話相談の中身は、僕の口から他のメンバーに話すことはなかった。彼女の……女子の相談にのってるという他の奴らが体験していないであろう出来事を僕だけが味わっている。

 だから僕は、半ば丸投げされたUちゃんのお目付け役に関して、仲間内で愚痴を吐くことをしなくなっていた。

 そして時間が経過するにつれ、「Uちゃんのお悩み相談」は電話とメールの枠を超え、誰にも言わないというUちゃんとの約束を結び、たまの休みには2人だけで会うようになった。

 その最初がいつ頃だったかは、よく覚えていない。Uちゃんの行きたい場所に連れて行き、食べたいものをご馳走した。とはいえ貧相な学生の財布ではどうしても限りがある上に、自分の趣味にも金がいる。何よりサークルの全員で活動する際、他のメンバーに勘付かれない範囲で、時間と財布に気を付けて行動しなければならない。

 必然的に親からの仕送りだけでは生活に支障が出る為、僕自身、短期のバイトを繰り返して資金を得ていた。何も知らない他の奴らは、好き勝手に言っていた様子だった。しかし僕は、Uちゃんと秘密の逢瀬に費やしていると知らず可哀想な奴らだと彼らを蔑み、いつしか気にしなくなっていた。

 そこまで打ち解けたように見えても、Uちゃんは決して僕に手を握らせてくれさえしなかった。街中で、図書館で、漫画喫茶のペアシートでも、彼女は時に身をよじり、時には鞄の持ち手を僕の側に持ち替え、そういう話は悉く話題を逸らされた。

 それでも僕はUちゃんの事が気になっていたわけで、彼女から「恥ずかしいし、他のメンバーに見られて気まずくなるの、嫌だから」と言われた時には、「少しずつ距離を縮めていこう。焦るんじゃない」と自分に言い聞かせ納得することにした。

 男女が付き合うための段階としてそれが普通だと思っていたし、漫画やゲームのような急展開など妄想の産物でしかないのは分かっていた。それでもそういう展開を微塵も期待していなかったといえば嘘になってしまう。

 だから僕はあわよくばという単語を抱えながら、それを喉元から心臓まで押し込み、下心などない風を装い振舞おうと、自分なりの努力をしてみせていた。


     *


 先々月、Uちゃんは僕の部屋のドアを叩いた。

 金曜からの強い雨がそのまま続いていた日曜の明け方。僕が寝起きの不機嫌を拭わぬまま開けたドアの向こうに、Uちゃんはずぶ濡れのまま俯いていた。僕はこの時間、俯いた状態で何も発さない彼女に驚いたものの、彼女から滴る雨の雫とぼろぼろと溢れる大粒の涙、そして濡れて張り付きインナーの透けているシャツの胸元に意識は向けられていた。


「どうしたの、こんな時間に」


「……」


 Uちゃんからは小さな嗚咽しか聞こえず、僕の問いかけに対し、応えはなかった。


「とりあえず、そこにいたら風邪ひいちゃうから、中へ入ったら?」


 僕がUちゃんを部屋に上げドアを閉めると、Uちゃんは後ろから僕の背中に抱きついた。Tシャツ越しに、水気の冷たさに加え、Uちゃんの感触と体温が僕の背中にひしと触れた。

 そのままでいるわけにもいかないので、僕は彼女を風呂へ入れ、濡れた彼女の服を洗濯機へ放り込んだ。代わりのシャツを探し、風呂前に置いた。

 これといったものはなく、僕はたたみ置きしていたTシャツとハーフパンツを風呂場の前に置いた。普段画面や文字で追っている、ごくありふれたシチュエーションが目の前にある今、僕は決して普段着ることない、大きなサイズのYシャツを買っておかなかった自分を責めた。

 風呂から出たUちゃんに、僕はレンジで温めた烏龍茶を出した。Uちゃんは何も言わずカップを受け取り、少しずつ飲むと小さく溜息を吐いた。

 雨が風に煽られて、窓を叩いている音以外は、何の音も聞こえなかった。


「落ち着いた?」


 僕が聞くと、Uちゃんは小さく頷いた。


「びっくりしたよ。こんな朝早くからうちに来るもんだから。何かあったの?」


 彼女は応えなかった。そこから暫くこの沈黙は続くような気がした。僕は俯きがちな彼女の顔を覗きこむように見た。彼女の顔に涙はなく、赤く腫らした目元は力なく悲しそうだった。

ふと彼女が視線を上げたので、僕は慌てて窓の外へ視線を向けた。


「それにしても、よく降るよな。これ明日までに止むのかな」


 心にもない事を誰にいう訳でもなく、つぶやいた。

 自分の部屋に女子が来る。それだけでもう信じられない出来事なのに、Uちゃんと2人きりという事だけで、僕の鼓動は雨の音がなければ彼女にも聞こえていたんじゃないかという位、高鳴っていた。


「……喧嘩したの」


 カップをテーブルの上に置き、Uちゃんがぽつりと言った。


「喧嘩? 誰と?」


「……友達」


「夕べ?」


 Uちゃんは頷いた。


「私の事、何もわかってないバカな奴って言ったから、ちょっと言い返したら部屋を追い出されちゃって……行くとこないし、メールしても返信ないし、電話も出てくれなくて……気が付いたらここの前に来てたから」


 友達とどんな理由で喧嘩になったのか。詳しいことは分からなかった。しかし、普段のUちゃんを見ていると、本当に些細なことで譲れない部分があり、それを突き通すために、暴れたんじゃないのかとは思った。Uちゃんはその『友達』との事をすごく大事な人だと話し、だから今回のその喧嘩で自分の事を悪く言われて実は仲良しでもなんでもないと分かって、裏切られたと言った。


「でも、仲がいいんだろ? 時間が経てば、またすぐに話せるようになるよ」


「うん……」


 Uちゃんの表情はまた泣きそうな顔になった。


「あ、いやごめん。なんか変なこと言った?」


「違うの……大丈夫。ごめんね、朝から押しかけてきて。私迷惑だよね」


「そんなことないよ。Uちゃん、今は喧嘩して雨の中を来たんだもの。疲れてるんだよ。こっちはほらなんていうか、時間ならあるし」


「ごめんね、ほんと……ごめん」


 Uちゃんは顔を両手で塞いで嗚咽を漏らした。

 僕はどうしていいかわからず狼狽えていた。


「ああほら、泣かなくても……いや、今は泣いた方が正解なのか? もうそれで嫌なこと忘れられるなら泣き腫らすのも、ありなんじゃないかな……」


 気まずくなってしまった。他の人はこの場合どうやって乗り切っているのか、抱きしめるのか? 頭をなでてやるのか? テレビで流行ってる御笑いのネタで無理やり笑わせるのか? 歯の浮くようなセリフでも一つくらい言うとか?

 どうしていいかわからなくなり、頭の中に熱を持ち始めた僕はUちゃんの後方、充電機にささっているスマホで検索したい気分だった。


「あ、そうだ。腹減ってない? 俺、何か作るよ」


 いよいよ間が持たなくなった僕は、一旦戦線を離脱し、頭の中身を整理しようとキッチンへ立とうとした。Uちゃんの横に差し掛かった時、僕のズボンの裾をUちゃんが引っ張った。


「どこいくの?」


「え、いや……だから」


「ここにいて。何もしなくていいから」


「あ、うん」


 僕はUちゃんに言われるまま、彼女の隣に座りなおした。


「……私ね、今までも沢山たくさんハブられたり、裏切られたりしてきて、なんかもう疲れちゃった。でも、今は皆がいるし、何より君がいてね……私すごく救われてて」


「あ、ありがとう。俺もUちゃんがいて、楽しいよ」


「でも皆、いなくなっちゃったらどうしようって一人の時に考えちゃって……なんか怖くなって……いつも電話してごめんね。迷惑だよね?」


「そんなことない。そんなこと――」


 次の瞬間、僕は心臓が弾けるかと思った。Uちゃんが僕に抱きついてきたのだ。

 僕は一瞬後ろにのけぞりかけるも、背中にまわされたUちゃんの腕で、バランスを崩すことはなかった。しかし余りにも突然の事だったので、僕は両腕を中空に軽くあげた体勢のまま、硬直していた。


「ねぇ、約束して」


 僕の胸元に顔をうずめながらUちゃんは言った。


「絶対裏切らないって。他の皆がいなくても、君がいれば私は大丈夫だから。裏切らないで。どこかへ行かないで……」


 出会ってから今までで一番、Uちゃんが近い。

 細く白い腕が僕の身体に巻きつき、彼女の重みと柔らかさが全部こちらに委ねられていて未だ乾ききっていない黒髪からは、僕が普段使っているシャンプーとUちゃんの匂いが混ざってそれが心地よく、女の子ってこんな感じなんだと思いながら僕が受け止めなきゃという言葉も脳裏を駆け巡って……。


「うん。いるよ。何処へもいかないし、Uちゃんが望むなら、ずっといるよ」


 宙ぶらりんに上げていた両腕は、Uちゃんの身体を包むように回して抱きしめた。雨はさらに強さを増し、風が窓を破らんばかりにサッシを揺らした。

 ふと頭の熱がひきかけ、僕は気が付いた。

 これはよくあるシチュエーションだが、現実には起こりえないと思っていた『あの場面』そのものじゃないか。あのゲームや、あのアニメや、あの小説で幾度となく繰り返されてて、何となく自分自身に置き換えて妄想していた、あの場面。それが今や僕自身に起きて、その相手がずっと気になってた子で……これは、行くべきなんだろうか。

 僕はUちゃんを抱きしめたまま、少し彼女へ体重をかけなおした。Uちゃんも僕に回した腕に少しだけ力を入れ、小さな吐息をこぼした。

 このまま僕の体重を彼女にすべて預け、押し倒せば――。


 そこで僕は思った。

 これって本当にいいんだろうか。


 確かにUちゃんは僕がすごく気になってる子で、僕を頼ってきて、こうして僕の胸に顔をうずめている。けどこの状況で『アレ』に持ち込んでもいいのか?

 ただでさえ大事な友達と喧嘩して傷ついて疲れているのに、その上僕がそんな下心全開で迫っても大丈夫なものなのか? 

 彼女の事を大事に思うのであれば、ここでこれ以上の事は出来ない。

 それにもし彼女にその気がなくて、跳ねのけられたら、それこそ僕はもう死んでしまうんじゃないか。ここまで近くに来たUちゃんとの距離が離れるだけじゃなく、その話を知った他の皆も、いなくなるんじゃないだろうか。

葛藤と恐怖で身震いしそうになるのをこらえ、僕は同じ体勢のままUちゃんを抱きしめ続けた。


「皆、そう言ってたけど離れていっちゃった。ねぇ、もう一人ぼっちは嫌だよ。一人にならなくて済むなら、私の事好きに扱ってもいいよ」


 Uちゃんの声が下から耳へと滑りこむ。その声はいつも以上に甘さを増していた。

 僕は口の中に溜まった唾をのみこんだ。

 僕は――。


「自分を衝動的に傷つけるなよ。そんな事で無理しなくても、僕は大丈夫だから」


 僕はUちゃんに回した腕を、抱えなおした。

 Uちゃんは、黙ったままだった。


「僕、前からUちゃんが―― 」


 言いかけて僕はやめた。なんだかこの状態で続けると、自分でないような、本当に自分の言葉でないような気がしたからだった。


「――Uちゃんが、笑っててくれるなら多少の事は気にならないし、皆とも楽しくやっていきたい。だからUちゃん、僕でよければ君の力になるよ」


「……うん。でもまた夜中に電話やメールし続けるかもしれないよ?」


「かまわないよ」


「また、我儘いうかもしれないし」


「これまでも皆、大丈夫だったじゃないか」


「うん……」


「だからまたいつも通りさ、ワイワイやろうよ。嫌なことはあっても、僕はUちゃんや皆と、楽しくやれるだけで今は、十分だから」


「……うん」


 Uちゃんは顔を上げた。腫れぼったい目に涙はなかった。こんなに近くで彼女を見てるからか、先ほどから無意識に口からこぼれる言葉のせいなのか、鼓動は収まらず、気持ちの良い脱力感を僕は覚えていた。


「なんか、お父さんみたい」


 Uちゃんが言った


「私ね、小さいころからお父さんいなかったから、良くわかんないけど、お父さんいたらこんな感じだったんだろうなって、なんか今そう思っちゃった」


「んー。お父さん……お父さんかぁ」


「うん、お父さん」


「じゃあお父さんに甘えるといい。どうすればいいのかわからないけど」


 僕がそう言うとUちゃんは少しだけ笑った。


「じゃあ、もうちょっとこうしてて」


 彼女は悪戯っぽい声で言い、再び僕の胸に顔をうずめた。

 そこからどれ位そうしていたのか、あまり覚えてない。

 気が付いたら雨はすっかり上がっており、服が乾いたUちゃんは自宅へ帰り、僕は胸のドキドキと緊張から解放されたせいで、そのまま眠ってしまっていた。

 その後妙な時間に起きてしまい、夜中を超えてもずっと今朝あの時、顔を上げた彼女の少しだけ洩らした笑顔と彼女の体温が、頭の中で繰り返し、繰り返し流れていた。

 やはり何もしないで正解だったんだと、心の片隅で未だ後悔しかけている自分に僕は言い聞かせながら、喜びと恥ずかしさで布団を全身にかぶり、高揚した気持ちを静めようとしていた。


   *


 事件があったのはつい先週の出来事だ。

 「夏の合宿」と銘打った2泊3日の小旅行で、僕たちサークルメンバーは、海の見える観光地を訪れた。合宿だからと言ってなにをするわけでもない。先にも述べたが、僕らは生産的ではない人種だ。しかし全員、今まで合宿なんてしたことも、友人たちや女の子とどこかへ遠出する事なんかなかったのだ。

 だからUちゃんを連れて遊びに行くための口実として「合宿」と銘打ったのだと、企画した仲間の一人が言っていた。夏季休校に入り、三日に一回、昼間にUちゃんと会っていた僕としては、そうまでして妙な方向で必死になってる彼らを心の底で笑うしかなかった。

 とはいえ、僕の方もあの雨の日から、進展といえる進展はなく、そういう行為どころか未だ外では手も握らせてもらえていない。けど、Uちゃんがこっそりうちに遊びに来るようにはなっていた。それはそれで僕としては少しずつの進歩の形だと思っていて、別に焦る気持ちはなく、反対に優越感から気持ちに余裕ができていた。

 合宿は非常に貧相だった。何しろ今までそういう事を自分たちでしてこなかった男たちである。皆で旅行といえば修学旅行しかなく、あれこれ好きなことを言っては立ち消え、結果としてUちゃんの行きたい場所、食べたいものを頼りにすべてのスケジュールを組むことになってしまったのだった。だから、旅館に着いたらゲーム機を片手に出発前の夜中にやっていたアニメの話をし、それに飽きたらコミケと夏に行われるライブイベントの話題を続けるという、別に誰の家でやっても変わりないものが日程のほとんどだった。かろうじて昼間、Uちゃん指示の下に外へ出かけることはあったが、それだって気の利かせ方が空回りする連中である。


「おいおい、お前ら合宿だぞ! 夏だぞ! 女子もいるのになーんも起こさないのか? このままでいいのか? もっとこう、エロゲ的な展開になるんじゃないのか普通?」


 とニヤニヤと演説をする奴が出るには出たが、僕も含めそんな気にはあまりなれず、見知らぬ土地で情報も殆どなく、そこまで何か惹きつけられるようなものが、Uちゃん以外にないという状況に、僕は疲れてしまっていた。Uちゃんも笑っていたけれど、僕と同じ気持ちだったのかもしれない。

 最終日の朝、Uちゃんは姿を消した。朝食に現れないのは前日までと同じだから、誰も気に留めていなかった。しかし、いつまでたってもロビーに姿を見せないUちゃんを、皆が心配し始めた。

 保護者役になっていた僕は、皆に言われるがまま彼女の部屋へ向かったが、そこには宿の人間が清掃を行っている姿があった。彼女の荷物はひとつも見当たらなかった。

 フロントに問い合わせて分かった。彼女は朝食の時間よりも前に帰ったらしい。

 またどうせいつもの暴走だろうと、僕たちは慌てなかった。しかしそこからがいつもと違った。彼らは口々にUちゃんへの不満を口に出し始めた。僕は最初こそUちゃんへのフォローを入れていたものの、仲間たちのいう事に気圧され、そのまま黙ってしまった。

 じゃあUちゃんは何で帰ったんだという話は、帰りの車内でも繰り返されていた。僕は聞くに堪えず、運転する傍ら、ステレオの音を自分の耳が痛くなるまで上げてごまかした。 

 その日を境に、Uちゃんはサークルの集まりに来なくなった。僕の部屋に来ることもなく、連絡やSNSにも反応はないまま、あっという間に三週間が過ぎた。


   *


 バイトもなく集まりもない夏季休校後半の空っぽの日に、僕はUちゃんと古書店街で鉢合わせた。

 彼女は旅行で見た時と比べて随分と変わっていた。服装や手に提げたバッグ等の小物は勿論、化粧も変えていた。最初人違いをしたのかと思うほど表情も変わっていた。

 僕も彼女も、気まずそうな表情をしたが、ひとまずこの前の理由だけを聞きたくて、彼女を連れ、入ったこともないような喫茶店に入った。


「もう一度聞くけど、この前の奴。あれ言えない理由でもあったの? せめて僕くらいには言ってくれても、よかったんじゃない?」


 僕はUちゃんに再び聞いた。Uちゃんは相変わらず口をとがらせたまま、不機嫌そうにスマホをいじっている。


「友達としてというか、お父さん的に言うとさ。皆あれでも一生懸命企画してさ、やってくれたわけじゃない。そりゃさ、いつもやってることと変わり映えしなかったから、つまらないって思ったかもしれないけど。やっぱり良くないよ。その後も来辛かったのかもしれないけど、連絡くらいはして欲しかったな。前に言ったじゃん。僕はUちゃんの味方だし、一人にさせないって。だから」


 次を言いかけたところで、Uちゃんはテーブルに持っていたスマホを叩き付けるように置いた。店内にその音が響き、奥のカウンターに居た客と店員が、こちらに注目した。


「だからなに? どう言えば納得するの? 自分の判断で帰っちゃダメなの?」


「だから、その理由くらい話してくれてもいいって言ってるんでしょ? 僕は別に問い詰めたくて、ここに連れてきたわけじゃないんだよ」


「はいはい。帰りました。私の金使って帰ってんだから、別にいいでしょ? 理由はあんた達が聞いたら、心臓発作で死んじゃうと思ったから言わなかったの。わかる? 旅行っていうから仕方なくついてきたのに、いつもいつもゲームばっかりで全然楽しくないし、それにあの日、夕方から彼氏と予定あったから早く帰りたかったの」


 僕は言い返すのに時間がかかった。


「えと……彼氏?」


「何?」


「Uちゃん、彼氏って……え?」


「最近できたの。君には関係ないでしょ?」


「いやだって……あ、そう。へー、そうなんだ。いやでも、だからって、連絡くれないのは話がまた別なんじゃないかな」


「あーはいはいごめんね。もう帰っていい?」


「なんだよ、その態度。こっちは心配して」


「心配して彼氏面? 残念だけど、空気読まずに女の子に恥をかかせたり、うまい切り返しやエスコートが出来ない男を彼氏にするつもりないから。だいたい君たち結局自分の事ばかりで、私の事ぜんぜん分かってない。私最近、君たちといるとイライラして仕方なかったの。わかる? もしかして自分たちが楽しいから、私も楽しんでると思ってた?」


 僕は憤りよりも、驚きの方が大きかった。

 Uちゃんが激昂すると、口が悪くなるのは今まで見てきたことだ。だが、彼女が話している事が信じられなかった。


「それじゃあ今まで僕らといる時に、そんな気持ちでいたの?」


「最初はそりゃ楽しかったよ? でも気が付いたの。他と比べたら、君たちといても全然楽しくない。もっと全員垢抜ける努力っていうか、もう少し大人になった方がいいと思う。ってか、私がいてもいなくても同じでしょ? 私は私で楽しくやるから好きにやれば?」


「そんな言い方……」


「言いたいことあるなら、はっきり言えばいいじゃないお父さん? そういうとこ、人によってはうんざりするから、直した方がいいよ。じゃないといつまで経っても童貞のままだよ」


 彼女はまくしたてる。

 僕はそれを黙って聞くしかできなかった。


「そういえば彼もイベサーやってるんだけど、すごく楽しいの。この前も弾丸キャンプしたり、貸切のビアガーデンで花火見たり、私すごく今、充実してるよ。そんな訳だから皆に伝えて。当分会わないけど、寂しがらないでって。皆、三か月ごとに『嫁』が変わるんだから、私がいなくなっても、また新しい『嫁』ができるだろうから頑張れって」


 Uちゃんは言いながらスマートフォンを鞄にしまうと、席を立った。


「Uちゃん。それでも僕は」


「もういいでしょ? いつまでもウジウジしてたら、幸せが逃げちゃうよ」


 それだけ言うと、Uちゃんはミュールの音をカツカツと鳴らして店を出て行った。

 僕は信じられないでいた。あんなに可愛らしいと思っていた女の子は、世間の風にたった数日吹かれただけで、あんなにビッチへと変わってしまうものなのか。それとも、あれが彼女の本来なりたかった姿なのか。

 その場に取り残された僕は、ジャズが小さく流れえるこの空間から飛び出して彼女を追う気力も、この出来事をグループチャットで仲間に愚痴る気も湧いてこず、ただ氷が殆どなくなって褐色の薄まった液体を、ストローでぐるぐるとかき回す事しかできないでいた。


 アイスコーヒーが嫌いだ。

 苦くて焦げ臭くて、入れた氷が解けて薄まった頃には口の中にうっすら苦手な部分を見せて、自分勝手な主張だけ残しながら、さっさと去っていく胸やけのするあの味が駄目だ。

 平気で飲むようになった今だって、アイスコーヒーを飲むと、苦味のせいか、胸の奥で氷の様な何かが小さく割れる音が聞こえる気がする。そんな気にさせるそいつは、僕を無性に寂しくさせた。


 やっぱり好きになったのは、気のせいだったのかもしれないよ。


 さよなら、Uちゃん。





〈了〉

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