第37話 ナタリアの奮闘

 緑の匂いが空気に濃く溶け込んでいる。天から注ぐ木漏れ日が木の葉や花々を煌めかせているが、その中をナタリアは鬱屈とした気持ちで歩いていた。

 森を抜けると、そこは大きな草原が広がっていた。風に撫でられてそよそよと葉が揺れるこの大地には、今日も多くの草食動物が草をはんでいる。ここは毎日行き来する狩り場のひとつだ。そこの一角で群れを成す狼達は今、獲物を見定める為にヘラジカの群れを見つめていた。その中にクルスがいることを確認すると、ナタリアは大きく深呼吸をする。

そして次の瞬間には、自身も狼の姿になって前方へ駆け出した。


「あの……! お願いがあります! 私を、もう一度仲間にいれていただけませんか!」


 ハッハッと荒い呼吸をしながら叫ぶ。心臓が痛いくらいに胸を叩くのは、全力で走ったからというだけの理由ではないだろう。ナタリアの声に、目の前にいる灰褐色の狼がゆっくりと振り向いた。


「お前は誰だ」


 ジルバの冷たい声が響く。ただそこにいるだけなのに、威圧感がビリビリと空気を震わせる。ナタリアが萎縮していると、訝しげに眉を潜める彼の背後から、クルスが進み出た。


「長。彼女は僕の妻……だった者です。以前の選別の際に、村を追い出されましたが」

「お前の? 随分と釣り合いの取れない組み合わせだな」


 ジルバの言葉にナタリアの胸がキシリと痛む。自分と彼が釣り合っていないのは自分が一番よくわかっている。それでも誰かにその事実を突きつけられるのは辛い。僅かに唇の端を噛むが、次の瞬間にはシャンと前を向き、ジルバの顔を真正面から見つめた。


「はい。確かに私は一度村を追い出されましたが、それは自分の実力を出しきれていなかった為です。私はやはり夫のことを忘れられません。今一度、わたくしめにチャンスをくださいませ」

「論外だ」


 ナタリアの言葉を間髪入れずにジルバが遮る。彼は金色の目を光らせながら、目の前の黒狼を鋭く睨み付けた。


「我々狼は常に命の取り合いの中で生きている。狩りも、戦いもだ。たった一度の敗北、即ちそれは死だ。あの時殺されなかっただけでも幸運に思え」

「ですが私も諦められません! どうか今一度お考え直しくださいませんか!」

「何度言わせる! とっととここを去れ!」

「いいえ! 私の戻る場所はここです!」

「黙れ!」


 ジルバの毛が逆立つ。彼は苛立ちを露にするかのように前足で乱暴に地面を掻いた。


「貴様らは総じて考え方がぬるすぎるのだ。再戦の機会だと? そんな甘い思考を持つ者を群れにいれるわけにはいかん。今すぐ消えろ」

「ですが私の居場所はここにしかありません! ジルバ様! お願いします!」

「いい加減にその口を閉じないと噛み殺すぞ!」


 ジルバの咆哮にナタリアがビクリと体を震わせる。他の雄狼よりも体格の良い彼は同種の自分から見てもかなりの脅威だ。彼の口端から覗く鋭い牙が、自分の肉体に突き刺さる想像をして体がぶるりと震えたが、その光景を無理やり脳から追い出す。後退あとずさりしたい気持ちをはねのけるかのように、ナタリアは一歩前へ進んだ。


「私は……私は諦めません! 何があろうとも。何と戦おうとも! 彼の元へ戻ることを望みます!」


 なけなしの勇気をかき集めて叫ぶ。ジルバの背後に控えていたクルスの瞳が揺れるのが見えた。ジルバは黙って彼女を見ていたが、やがてゆっくりと前に歩を進めた。


「そうか。ならば──」


 逝ね。と続く彼の言葉は、一迅の風によって掻き消された。ナタリアの背後から赤茶色の狼が風を切るように現れ、ジルバの横に草を踏んで着地する。くるりとこちらを向く彼の目は残忍な色に光っていた。


「面白い。この女にやらせろ」


 セヴェリオが口の端を持ち上げながら薄く笑う。長の言葉に、ジルバは冷たい目でチラリと横に視線を投げた。


「セヴェリオ、どういう意味だ。この女はたたの負け犬だ。勝手なことを言うな」

「いや、そこまで言うならやらせてみろよ。一度群れを追い出された腰抜けが、どこまで踏ん張れるのか見てやろう。おい、女!」


 セヴェリオに呼び止められ、ナタリアがビクリと体を震わせる。


「……はい」

「お前、そんなに腕に自信があるなら、今から俺の言う獲物を狩ってこい。それができれば、群れに戻ることを許そう」

「わかりました。何を狩れば良いでしょう」

「そうだな……」


 セヴェリオが背を向け、ぐるりと辺りを見回す。目の前にいるのは、風に揺れる草を食む多くの獣達。草原を見渡していたセヴェリオの目がとある一点に吸い寄せられる。獲物を見つけると、セヴェリオは鼻先でそれを示した。


「あそこにでかいイノシシがいるだろう。あれを狩れ」


 彼の視線の先には、はたして一頭巨の大なイノシシがいた。ナタリアよりも──いや、ジルバやセヴェリオよりも大きい。今大イノシシは餌を探しているのか鼻で地面を掘り起こしていた。のそりと地面から顔をあげるイノシシの口もとには、狼よりも遥かに太くて大きい鋭利な牙。狩でイノシシに追突されて命を落とす狼は少なくない。セヴェリオの言葉に、今まで黙って成り行きを見守っていたクルスがサッと青ざめた。


「長。あれほどの大きなイノシシは、通常であれば複数で狩る獲物です。僕ですら一人でしとめられるかどうか……。それを個人で、しかも女性にさせるのはさすがに無謀な話です」

「ほう。口ごたえをするのか。お前は妻の実力を信じられないのだな」


 ジルバが横から口を挟む。その金色の双眼は残忍そうに光っていた。セヴェリオも、色を失ったクルスとナタリアを見てさも面白いものを見ているかのように口角をあげた。


「妙案だろう? 見事に狩ることができれば群れの戦力になるし、失敗すればこの世から軟弱な狼が一匹消えるだけだ。見世物としては面白い」

「ああ。では、お前の腕前をとくと見せてもらおう」


 二人の言葉に、クルスが悔しそうに唇を噛む。この状況で何も手を打つことができない自分を責めているようだ。ナタリアは、そんな夫の姿をじっと見つめた。

 クルスはグレイルやローウェンのように目立った力を持つ狼ではない。だが最前線には出なくとも、確かな実力で仲間を支えている彼の姿は自分の憧れだった。元々自分と彼は同じチームにいたわけではなかった。彼が東南側で自分は南西側。彼と出会ったのは、たまたま合同で狩りに行った時だったのだが、他の狼のように我先に手柄を取りにいくのではなく、さりげなく自分をサポートしてくれる彼の姿に惹かれた。

 優しくて、明るくて、でも有事の際は男らしく戦う自分の最愛の夫。今後も彼と一緒にいたいのであれば、自分も覚悟を決めるしかない。


「わかりました。──参ります」


 そう言って、ナタリアは大イノシシ目掛けて走り出した。


 

 視界に映る巨体目掛けて一目散に駆ける。イノシシを狩る時は正面から突っ込んではいけない。イノシシに攻撃をされる前に一息にしとめようと、背後に回って飛びかかる。狙うは獲物の首だ。だが、やはり死の恐怖には抗えなかった。イノシシの牙が視界に入った瞬間──今彼が振り向けばあの牙が容赦なく自分に突き刺さると言う想像が──彼女から勇気を奪い取った。本来であれば首を狙わなければならないはずのナタリアの牙はイノシシの尻にぶすりと刺さっただけだった。案の定、痛みに怒ったイノシシがその場でのたうち回り、激しい形相でこちらを向いた。

 慌てて後ろに跳躍して距離をとるが、怒りに狂ったイノシシが自分を目掛けて一直線に突進する。すんでの所で交わし、体勢を整えるが、それよりも早くイノシシが向きを変えて再度自分を目掛けて突進してきた。


 ──避けきれない!


 今避けようとすれば、あの鋭い牙が間違いなく自分の体を掠めることを瞬時に悟ったナタリアは、思わず正面からイノシシに飛び付いた。


「ナタリアッ!!」


 クルスの悲鳴が耳を刺す。だがナタリアはイノシシの背に牙を立て、体を両手で抱えるように爪を立てた。痛みと恐怖で怒り狂ったイノシシがナタリアを振り落とそうと激しくもがく。今ここで手を離せば、間違いなく追突されるか踏みつけられて圧死するかのどちらかだ。自分は絶対に、この牙を、爪を、離してはならない。

 振り落とされないように必死にしがみつきながら、なんとかよじ登ってイノシシの背に被さるように体勢を変える。そのまま身を乗り出して、イノシシの首筋に一息に牙を立てた。


「ブオオオオオオオオオ!!!」


 猛り狂ったイノシシが激しく身をよじる。全身の筋肉に力を入れないと振り落とされそうだ。四肢を張り、顎に力をこめる。


 ──お願い、届いて!


 他の皆と違って一撃で仕留められない非力な顎。必死に力をいれて牙を立てるが、鋼のように固く、分厚いイノシシの筋肉にはこれ以上牙を押し込むことができない。それでもナタリアは諦めなかった。今ここで踏ん張らなければ、もう彼と一緒にいることはできないから。あたたかくて優しい彼の温もりを感じることができなくなってしまうから。

 いよいよイノシシは猛り狂って暴れまわる。だが、縦横無尽に駆け回るイノシシに、ナタリアは必死に食らいついていた。顎が割れるように痛い。イノシシの体に食い込ませた爪も剥がれてしまうかと思うくらいだ。僅かにして遥かに長い時間──。それでもナタリアの粘りがイノシシの忍耐を上回った。

 イノシシの動きが微かに鈍くなる。僅かだが弱ってきたようだ。その隙を見逃さず、ナタリアは顎に力をこめた。固い。顎が痛い。だが、この勝機を決して無駄にしてはならない。お願い、届いて。


 ──この爪と牙が、折れてもいいから。


 体を奮い立たせて最後の一撃にかける。あらんかぎりの力をこめて顎を引くと、ズプリと牙が肉に沈んでいく感触があった。イノシシはもう暴れまわる力もない。ヨロヨロとそこいらをふらつく足で歩き回り、やがて生命力を使い果たしたイノシシはどうと地面に倒れ伏した。

 イノシシの体に食らいついていた顎と爪を離して身を起こす。イノシシの上に四肢で立つ黒狼の姿は雄々しく、美しい程に輝いていた。


「──ナタリア!!」


 人の姿に戻ったクルスが一目散に駆け寄ってくる。ナタリアも人の姿になって、愛しい夫の体を抱き止めた。


「大丈夫? 怪我はない?」

「うん。クルス……私、やったよ」

「見てたよ。ものすごくカッコ良かった」


 抱擁を解いて彼の姿を見上げると、クルスが頭を優しく撫でてくれた。緊張が解けたのか、彼の両方の目尻には涙が光っていた。

 サクサクと草を踏む音に二人揃ってパッと目を向ける。そこに立つのは赤茶色の狼と、灰褐色の狼。


「長。彼女はやりとげました。どうか彼女を僕らの仲間に」


 ナタリアを抱き締めながらクルスが静かにうと、セヴェリオはふんと鼻を鳴らしてくるりと後ろを向いた。


「──勝手にしろ」


 背を向けて去っていく二匹の狼の後ろ姿を見つめながら、ナタリアは勝利の喜びに、胸が震えるのを感じていた。


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