第27話 想う心

 全速力で村の外を出て森に入る。だが、今回ばかりはレティリエを探すセヴェリオ達が森にいる可能性が高く、慎重に移動しなくてはならない。

 足を急がせながらも時折立ち止まって他の狼の気配を窺い、少しでも別の狼がいた痕跡を発見すると迂回して別の道を探す。そうこうしているうちに闇が濃くなり、野生の獣の息遣いすら感じなくなってきた。感覚的に、そろそろ丑三つ時にさしかかる頃合いだろう。小さな子供に無理はさせられないと、三人は村からある程度距離をとった場所で一夜を明かすことにした。

 背の高い草木が生い茂る場所に座り、小さな焚き火をおこす。夜なので獲物を探すのには少し手間取ったが、なんとか夜行性のイタチを捕まえて食べた。


「ぼく、おかあさんの作ったご飯がたべたい」


 久しぶりに母親に会えた為か、クロエに甘えながらマーシュが言う。八歳程度の男の子がたった一人で母親から引き離されていたのだ。彼にとっては相当な恐怖だったに違いない。興奮の為かマーシュはうまく眠れず、ずっとグズグズしていた。


「マーシュ、あなたは今までどこにいたの?」


 クロエが息子の頭をいとおしそうに撫でながら聞くと、子狼は母親の膝に顔を埋めた。


「わかんない。でもおうちが沢山あって、知らない人がいっぱいいた。白い毛のおねえさんがぼくにご飯をくれたり、やさしくしてくれたんだ」

「その白い人はどんな人?」

「きれいな人だったよ。でも他のこどももいた。ぼくはその子とあそんでたりしたんだ」


 小さい子が話す内容だからか、マーシュの言うことは要領を得ない。だが、話を続けていくうちに、彼が自分達の村とは別の場所にいて、そこで面倒をみてもらっていたことがわかった。


「道理で村中を探しても見つからなかったわけか」

「ええ、そうね。でも、無事で良かった」


 グレイルが呟くと、クロエが涙ぐみながら頷く。見たところマーシュに怪我はなく、暴行を受けたような形跡もないのが救いだった。

 先程からグズグズしていたマーシュが、クロエに抱きついてその胸に顔を埋める。


「おかーさん……ぼくもうおうちに帰りたい」

「今から安全な場所に行くわよ。明るくなったらすぐに向かうから」

「でも今すぐにかえりたいよ。ここ、暗いからいやだ」

「今は大変な時なのよマーシュ。もう少し我慢してちょうだい」


 クロエが注意をするが、マーシュはむすっとした顔で母親を見上げる。


「ぼく、昔のおうちにかえりたい。前のおとうさんがいたおうちがいい。今のおとうさんは嫌い。ぼく、優しいおとうさんの方がすきだもん」


 マーシュの言葉にクロエがハッとする。優しいおとうさんというのは、クロエの昔の夫のことを言っているのだろう。クロエの目がすっと細くなり、マーシュを撫でる手がとまる。


「マーシュ、そんなこと言わないでちょうだい。もう前のおとうさんはいないのよ。あなたもわかってるでしょう」

「やだよ!! だって今のおとうさんになってから嫌なことばっかり起こるんだもん!! ぼく、前のおうちにかえりたい!!」

「前のお家はもうないのよ。お父さんもいないの。悲しいことだけど、お母さん達はもう前を向かないといけないのよ」

「やだやだ!! ぼくおとうさんに会いたい! おうちに帰りたい!!」


 そう言うとマーシュはワッと泣き出してしまった。今までの緊張が解けたのだろう。わぁわぁと泣くマーシュをクロエがぎゅっと抱き締めてその小さな背中をさする。息子を抱くクロエの目にも涙が光っていた。だが、その泣き声はだんだんと小さくなっていき、やがてすすり泣きに変わったと思うと、マーシュはクロエの胸の中で寝息を立てて眠り始めた。クロエが申し訳なさそうにグレイルを見る。


「ごめんなさい。いつもはこんなこと言わないのに……この子も怖い目に遭ってきたから、疲れてるのかもしれないわ」

「そうだろうな。この子もよく頑張ったよ」


 クロエが申し訳なさそうに言うが、グレイルはかぶりを振ってクロエの隣に移動する。そのまま母親の膝の上で眠る小さな頭を優しく撫でた。


「マーシュも緊張の糸が切れて母親に甘えたくなっているんだろうな。存分に泣かせてやれ」

「ありがとう。……子供って、たまに痛いことを言うのよね」


 無垢な寝顔を見つめながらクロエがポツリと言う。


「前の夫はとても優しい人だったわ。マーシュが昔に戻りたいって言うのもわかる。私もできれば昔に戻りたいもの。でも、あんなことを言われてしまうと私も苦しくなるの。今この子は幸せじゃないのかしらって」

「……俺は子供がいないからわからないが、どんな時でも自分を愛してくれる母親がいるだけで十分この子は幸せを感じているんじゃないのか。この子も、多分それをわかっていて、わざと言っているんだろう」

「そうね、多分甘えてるんだと思うわ。子供ってたまに鋭いことを言うから」


 クロエが微笑む。困らせると言いながらもその目は慈愛に満ちており、彼女が心から息子を愛しているのがわかる。子を想う美しい母親を眺めながら、グレイルも目を細めた。


「ああ。男の子はやんちゃだからな。母親を困らせるくらいがちょうどいい。孤児院の子供たちもよくワガママを言って──」


 言いながら、グレイルは自分の言葉にハッとする。目の前の小さな子供と、記憶の中の小さな女の子の姿が重なった。


 考えてみれば、自分はレティリエがワガママを言った所を見たことがなかった。孤児院の子供達も、よく他愛もないことに文句を言ってマザーやレティリエを困らせている。だが、記憶の中の彼女はいつも聞き分けの良い「イイ子」だった。喧嘩もしない。文句も言わない。他の子に意地悪をされても、村の人達にひどい言葉を投げつけられても、ただ悲しそうに黙ってうつむくだけだった。

 でも、辛くないはずがないのだ。自分は知っている。悲しいことがあると、彼女が月を眺めながら一人でコッソリと泣いていることを。項垂れる小さな背中になんと声をかけたら良いかわからなくて、いつも黙って隣に座ることしかできなかった自分が情けなくてたまらない。

 本当はもっと言いたいことも、吐き出したいこともたくさんあったのだろう。自分が他の村に行けと言ったとき、彼女が珍しく筋の通らないことを言ったのは──あれは彼女が、生まれてはじめて口にした精一杯のワガママだったのだ。自分を捨てないで、私を見てと言う彼女の魂の悲鳴を、自分は突っぱねてしまったのだ。


──レティ、すまない。俺こそお前に相応しくない夫だったよ。


 自分がここを出ろと告げた時、彼女は何を思ったのだろうか。傷ついた顔でこちらを見た彼女の顔を思い出すと涙が出る。悔しさをこらえるようにグッと拳を握ると、クロエが不思議そうに首をかしげた。


「どうしたの?」

「いや、なんでもない。……こっちの話だ」


 なんでもないように手を振って、夜空を見上げる。その瞳に映るのは、闇を明るく照らす銀の月。誰よりもいとおしい、愛する人の色だ。

 彼女は、今もどこかで泣いているのだろうか。誰にも頼る人がいない中で、孤独にその身を震わせているのだろうか。


 ──レティリエ。今すぐにお前に会いたいよ。


 心の中で独りごちる。今すぐに駆けよって、その小さな体を力一杯抱き締めてやりたかった。



「……あの子のことを、考えているのね」


 無言になってしまったグレイルを見て、クロエが静かに問う。ああ、と短く返事をすると、クロエが少しためらいの表情を見せた後、ゆっくりと寄り添うように近づいてきた。肩と肩が触れあい、彼女の匂いが濃くなる。


「今回のこと、ありがとう。あなたがいなかったら、私は今もマーシュに会えなかったし、セヴェリオから逃げ出せなかったわ。本当に感謝してる」

「……いや、お互い様だ。俺もお前に助けられた。レティリエが無事に逃げられたのも、クロエのおかげだろう? 感謝してるよ」

「ふふ、どういたしまして」


 クロエがニコリと笑う。グレイルもふっと微笑むと、その表情を見たクロエの瞳が切なげに揺れた。そのまま彼女はゆっくりと手を伸ばし、グレイルの頬に手を添える。


「口もと、切ってる」

「あ、ああ。随分力一杯殴られたからな。明日どこかで顔を洗うよ」

「そう」


 そのままクロエがじっとグレイルの瞳を見つめる。彼女は何事か逡巡した後、ゆっくりと口を開いた。


「ねぇ……あなたと私って結構良いコンビだと思わない? 会って日が浅いにしては、なかなか連携がとれてると思うんだけど」


 クロエが囁くように言葉を紡ぐ。そのまま親指をグレイルの口元にあてて、そっと傷口をなぞった。


「一応ダメ元で聞くけど、私にもチャンスがあったりするのかしら?」

「どういう意味だ?」

「そのままの意味よ」


 クロエがグレイルの両肩に手を乗せ、ぐっとその身を寄せた。ふわふわとした髪の毛先がグレイルの首下を撫でる。唇が触れあいそうになった瞬間、グレイルはクロエの両肩に手を置き──ゆっくりと、静かにその身を押し返した。


「悪いが、お前の気持ちには答えられない」


 静かに告げると、クロエは肩から手を離し、ふっと寂しそうに笑った。


「……やっぱり、ダメね。一応、理由を聞いてもいい?」

「そうだな。俺の隣にいてほしいのは、やっぱり彼女しかいないんだ」

「今回の件を踏まえても?」

「いや、それがハッキリとわかった」


 グレイルの言葉に、クロエの耳がピクリと動く。元村長の妻として、彼女もプライドがあるのだろう。形の良い眉を微かに潜めながら、クロエが口を開いた。


「それはどういう意味?」

「そのままの意味だ」

「あの子の方が、私よりも実力があるっていうこと?」


 クロエの声にほんの少しだけ刺が混じる。やはり狼になれない女より下と言うのは、実力者として許せないのだろう。だが、それだけで物事を決めるのは早計すぎる。


「実力で言えばお前の方が上かもしれないが、俺との連携においては彼女の右に出るものはいない」

「どうして? だって彼女……戦えないんでしょう? どうしてそんなことがわかるの?」


 クロエの言葉にすぐには応えず、グレイルは空を見上げた。その瞳に銀色の月を宿しながらふっと微笑む。


「俺達とお前じゃ、年季が違うんだよ」

「……それはあなた達が昔からの関係だからってことかしら? よく意味がわからないわ」


 困惑するクロエに、だが今度こそグレイルは笑って答えなかった。

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