第25話 救い

 レティリエは森の中を泣きながら走った。村から逃げ出した以上、真っ先に探索される可能性があるドワーフの所には行けなかった。何より、彼らを危険に曝したくはない。今の自分の役目はひたすら走り、誰にも見つからない場所に身を潜めることだ。


 だが、どこに行けばいいのだろうか。


 行き先はわからない。とにかく逃げなければという一心でレティリエは足を動かし続けた。狼になれない自分は、追っ手がくれば瞬時に捕まるだろう。辛くても苦しくても、その足を止めることは許されなかった。


 どれくらい走り続けたのだろうか。果てしなく長い時間を走った気がする。いつの間にか辺りは血のように真っ赤な夕焼けとなり、またたく間に空は闇を纏った。

 いくら夜目が利くとは言え、夜の移動は危険が多い。レティリエは一先ず腰を落ち着けるために足を止め、近くの木の麓に腰をおろした。

 とっぷりと沈んだ闇のなかに響くフクロウの声。そしてこんな時にも関わらず、生命を維持しようとする体は彼女が空腹であることを告げていた。だが、狩りができない自分は自分で食糧を獲ることができない。レティリエは木に登って木の実や果実を採ってなんとか少しだけお腹にいれた。自分で自分の食べ物の世話もままならない自分に情けなさを感じる。以前も人間に追われて森の中で野宿をしたことがあったが、あの時はグレイルがいてくれたのだ。頼もしく力強い彼の存在は、自分の恐怖を和らげるのに十分だった。

 だが今は闇の中に一人きりだ。レティリエは孤独に耐えきれず、膝を抱えてその中に顔を埋めた。

 自分がこのあとどうなるかという恐怖。村を取り戻せるのかという不安。そして一方的に暴力を奮われ、なすがままになっていたグレイルが心配でたまらない。大切な人を守るどころか、自分の身すらも守れない自分が惨めで、情けなくて、苦しかった。


 先程から頬を濡らす涙はとまることなく溢れ続ける。だが、ガサッと草が動く大きな音にレティリエはビクッと肩を震わせた。大型の獣だろうか。レティリエは緊張で体を強ばらせた。安全な場所にいない今、自分は泣くことすら許されないのだ。

 ガサガサと何かがこちらに近づいてくる音が聞こえ、レティリエの頭は真っ白になる。何か……何かこの事態を切り抜ける策を考えなければ。震える体を叱咤して立ち上がると、耳をピンと立てて全身の神経を研ぎ澄ませた。

 ガサガサ、ガサガサと草を掻き分ける音が耳に響き、緊張感が最高潮に達した時その時だった。


「おや、こんなところに女の子かい?」


 柔らかく響く穏やかな声と共に、白馬を連れた、輝くように美しい男が姿を現した。流れるような金糸の髪に、彫刻の様に整った顔立ち、穏やかな雰囲気ながらも男性的な線を描く体。腰まである長い髪から覗くのは尖った三角の耳だ。レティリエはその特徴に見覚えがあった。


「エル……フ?」


 思わずポロリとでた言葉に、男は優雅に微笑んだ。


「ああ。僕はこの世で最も美しく、神と叡知に愛された種族さ。見たところお困りのようだね。どうだい、困ったことがあるなら僕に話してごらん?」

「あなたは……?」


 レティリエが問うと、エルフの青年は白馬を一撫でし、ゆっくりと近づいてきた。


「僕はフェルナンド。ウィンディーネの泉で沐浴をしていたらいつの間にか日が落ちてしまってね。今から里に帰るところなのさ」


 フェルナンドはなんとも独特な雰囲気を醸す青年だった。だが、悪い人では無さそうだとレティリエは胸中で安堵する。


「君は道に迷ってしまったのかな? 女の子が夜に一人で森にいるのは危ない。良かったら一晩、僕が一緒にいてあげよう」


 輝くような笑顔でフェルナンドが手を差し出した。初対面の男性に甘えるわけにはいかないと思うものの、他に行き場のないレティリエはひとつ頷くと彼の手を取った。


※※※


 その日はもう遅いからと、二人はその場で休むことにした。フェルナンドはレティリエの手を取るとゆっくりと森の奥へと誘う。

 どこへいくのかわからず、戸惑いの表情を浮かべるレティリエに、彼は美しい笑みで答えた。


「僕が先程まで水浴びをしていた泉に行こう。きっと貴女の心が休まるから」


 歌うように響く声には聞き覚えがあった。だが、どこで聞いたのか思い出せない。いぶかしみながらも手を引かれるがままについていくと、やがて水辺にたどり着いた。

 そこは驚くほどに美しい、幻想的な場所だった。夜にも関わらずキラキラとした小さな光が水面を照らし、泉の周りに生えている草木も青白い発光と共に水辺を形作っている。どこからか鈴を転がすような澄んだ歌声が聞こえ、レティリエはあまりの美しさにため息をついた。


「綺麗だろ。あの水面を飛んでいるのは蛍。周りに生えているのは月光を反射して光るコケだよ。ここはウィンディーネの泉。泉と名がついているが、ここは海と繋がっていて、人魚が遊び場にしているんだ」


 フェルナンドの言葉に、レティリエはコクリと頷いた。確かにここは今まで見たことも無いほどに神秘的で美しい場所だ。静謐な空気がレティリエの心を少しだけ落ち着かせてくれる。


「この聞こえてくる音は何かしら」

「これは人魚の歌声だね。一説によると彼女達はその妖艶な歌声で人間を惑わせて海に引きずり込むと言うが……僕と君はエルフと狼だ。害はない」


 フェルナンドが微笑む。闇夜に煌めく泉と美しい人魚の歌声を聴いているうちに少しずつ緊張が溶けていくのを感じた。と同時にとろとろと微睡み始める。


「さぁ、安心して眠るがいい、美しい狼よ」


 フェルナンドの言葉に頷き、レティリエは尻尾を抱えるようにしてその場に丸まった。

 どこか遠くでパシャンと何かが跳ねる音が微かに聞こえた。




 輝くような朝日が降り注ぎ、レティリエはゆっくりと体を起こした。ぼんやりとして動かない頭をなんとか起こして周囲を見渡すと、こちらを向いて微笑む端正な顔立ちがあった。


「おはよう、よく眠れたかい」

「はい……あの、昨夜はありがとうございました」

「何、大したこと無い」


 言いながらエルフの青年──フェルナンドは手に持った干し肉をパンに挟み、レティリエに渡した。ありがたく受け取ってパクリと一口齧ると、何か香草のような香りがふんわりと口に広がる。見た目は見慣れたサンドイッチだが、故郷のものとは違う新鮮な味に、レティリエは心が少しずつ落ち着いていくのを感じた。


「美味しいかい」

「はい、とても。あの……昨夜はあなたも里に帰る所だったのですよね? 私に付き合うことで帰れなくなってしまってごめんなさい」


 恐縮しながらペコリと頭を下げると、フェルナンドはほんの少し目尻を下げて微笑む。


「お気遣いありがとう。でも、僕も昨日は少しのんびりしすぎたね。水の中で眠っていて、気がついたらあっという間に闇だった。太陽が沈むのは早い。僕らの生涯と比べたら、世界はあまりにも駆け足だ」


 エルフの青年が歌うように言葉を紡ぐ。やはりその響きに思うところがあり、レティリエは首を傾げた。


「あの……おかしなことを言っていたらごめんなさい。もしかして以前にどこかで会ったことがあるでしょうか…?」


 恐る恐る聞くと、フェルナンドはパッと顔を綻ばせて笑った。


「やぁ。やっと気がついてくれたかい? 君はあの時オークション会場にいた狼の女の子だね。その美しい容姿と輝くような銀髪ですぐにわかったよ」

「あ、あの時のエルフ……?」


 その言葉でレティリエもやっと合点した。かつて狼の村で人間に売られ、人間の世界で競りにかけられた時に牢屋の中でエルフの青年と出会ったことがある。あの時の彼がフェルナンドなのだ。かなりの高額で競り落とされていたと記憶しているが、ここにいるということは、買われた場所から逃げてきたのだろう。


「良かった……あの後、無事に帰ってこれたんですね」


 レティリエがほっと胸を撫で下ろしながら言うと、突如フェルナンドは形の良い眉を潜めて嫌悪の表情を作った。


「ああ。やつら人間は僕を男娼のように扱おうとしたんだ。だから僕は床を共にする際に、果物ナイフで相手を刺して逃げてきた。相手の生死は、知らない」


 意外と猟奇的な彼の言葉にレティリエは驚きに目を見張る。見た目の穏やかさに反して意外と好戦的なのかもしれない。だがフェルナンドは「そんな穢れた種族のことなんてどうでもいいじゃないか」と一蹴するとレティリエの方に向き直った。


「君も元気そうで何よりだね。良かったらどうやってまたここに戻ってこれたのか、そして昨日の涙のわけを聞いてもいいかい」


 その優しい響きに絆されて、レティリエはポツポツと語り始めた。自分の生い立ち、境遇、そして人間の世界に行き、長年の想い人と結ばれたこと。グレイルのことを話していると、あの精悍な顔が脳裏に浮かんでレティリエの目から思わずポロリと涙がこぼれ落ちた。

 今回、別の群れが襲ってきたことで自分が足手まといになり、離ればなれになってしまったことを涙ながらに語ると、フェルナンドが側に寄って来て優しく涙を拭ってくれた。


「そうか。君は今行くところがないんだね。どうだろう、良かったらエルフの里に来てみないか。僕たちエルフは美しいものが大好きなんだ。君みたいな綺麗な子は大歓迎さ」


 そう言ってにっこりと微笑むフェルナンドの顔を濡れた目で見上げる。どうせここにいても行くところなどどこにもない。レティリエはきゅっと口を結ぶとコクリと頷いた。



※※※


 泉を後にし、彼が引く白馬に乗る。初めて乗る馬に戸惑っていると、フェルナンドが優しくエスコートをしてくれた。雄々しく、それでいて艶やかな毛並みを触りながらも、やはり思い出すのは温かい黒狼の姿だった。


 馬に乗ってかけていくうちに、景色が変わっていく。天にまで届くかと言うほどの木が生い茂った深い緑の森を通っていくうちに、少しずつ青空が見え始めた。木々が少なくなっているのだろう。遠目にチラチラと建物らしきものが見え始めたと思った途端、馬がザッと森を抜けた。

 谷を切り開くように、エルフの里はあった。目の前に広がるのは美しい白磁の建物郡。狼の住む家よりもずっと精緻で緻密な設計がされている家々は、テオが見たら喜びそうだ。山の斜面から流れ落ちる滝が荘厳な空気を醸しており、滝から出る水しぶきがキラキラと宙を舞っていた。


「ここが……エルフの里」


 初めて見る光景に、レティリエは丸い目を見開いてその光景を瞳におさめる。すると、馬の足音を聞き付けたのか、里の奥から一人の女がこちらに歩いてくるのが見えた。フェルナンドより少し薄い白金の長い髪に切れ長の目。女性にしては背が高いが、組んだ腕に乗る双丘は立派なものだ。

 女は二人の所にたどりつくと、いぶかしげな表情でレティリエを見る。


「フェル、その人狼は何だ。お前はまたやっかいごとに巻き込まれているのか」

「まただなんて人聞きが悪いね、イリス。僕は人助けをしたまでだよ。彼女、行くところがないらしいんだ」


 そう言ってぐっとレティリエの背中を押して彼女と対面させる。レティリエは慌ててペコリと頭を下げて挨拶をした。


「ほう。狼のわりに綺麗な子じゃないか。もっと獰猛で荒々しい種族だと思っていたのだが」


 レティリエの美しい顔立ちを見て、眉間にシワを寄せていたイリスの表情が少しだけ緩む。警戒心を解いたイリスに、フェルナンドが「可愛いだろう?」と得意気な顔をしていた。


「ふむ。事情はわからないが、とりあえずこの子はここにいるしかないのだな? ならば私が面倒を見よう。さぁ、おいで」


 イリスが差しのべてくれる手を取る。そのまま引かれるようにして、レティリエはエルフの里へ足を踏み入れた。

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